過去の投稿2005年7月10日

7月10日

★  朝の祈祷会で、「教会」についての本質的な質問、議論が出、予定の学びの時間をかなりオーバーしました。一つの議論のために、数時間かけてもよいほどの重要なものでした。このような学びを重ねることができることは、今回のテキストを学ぶ祈祷会の特権です。名古屋岩の上伝道所の教会形成で、この学びが決定的な意味を持つことを、あらためて思わされました。会員は、「教会」を深く、丁寧にお読みください。

☆  「神の救いの約束というのはひとりひとりに与えられているのではなくて、教会に与えられている」この 文章を巡る質問が提出されました。この文章だけを抜書きすれば、誤解を生じかねないことは容易に推測できます。神の約束は、「個人」になされるものではなく、「神の民=教会共同体」に与えられているというのが、旧約、新約聖書の信仰の基本線です。聖書を読めば、徹底して個人主義的な信仰などというものは存在しえないものであることは明らかです。「神の民のために」、主イエス・キリストは十字架へと赴かれ、あがないの御業を成就してくださいました。そして、この神の民の一員となる、そのところで、他の誰でもない、名前を持った、つまり匿名ではない「わたし」がくっきりと際立つのです。十字架は「このわたし」のためであるとの、個人の信仰が生きる場所を持ちます。そして、教会形成のために、自分の持ち場、賜物を捧げる 道が示されて行くのです。

★  教会生活なしに、救いの信仰を全うすることは可能でしょうか。そのような問いも提出されました。わたしは神の憐れみによっては、なお可能であると信じます。さらに申しますと、洗礼を受けなくとも、救いに至る、天国に入ることも可能です。洗礼入会志願をされたばかりの方(!どれだけ喜んだことでしょう!!)に、そのように申し上げました。「それなら、わざわざ、洗礼を受けて教会員にならなくて、天国の切符だけをもらっているのだから、さようなら・・・。」このような理解は、私どもの教会で求道なさる方には、成り立たないことを確信するから、はっきりと言えるのです。洗礼を受ける、それは教会員になることです。そのとき、教会とは何か、教会に生きるとはいかなる生活をつくることなのかを知りたくなるはずです。聖書がそれを教えてくれます。

☆  「教会には肌があわない人もいる・・・」この発言も、正直な発言です。その通りでしょう。しかし、そこで、新しくされたキリスト者とあたらしい人間の共同体が問われているのです。そこで既に「十字架を負って従う道」があります。今、インターネット教会なるものがあります。ネットで、動画の説教者の説教を聴いて、出席は、クリックすること、献金もネット(カード)決済です。そのようなものがキリストの教会であるはずがありません。「肌が合わない・・・」これを聖霊によって克服する道が、主に従う道です。神は、自己愛に縛られる 罪人を訓練するためにも、教会の仲間たちとの交わりのなかにおいて下さるのです。先ず、自分が変わらなければなりません。そのためには、祈ってもらうしかありません。相手のために祈る以外にありません。祈祷会のすばらしさを思います。祈祷会の重みがあるのです。

★  夜の祈祷会では、特別な議論は出ませんでした。契約の子が、仲間たちの「洗礼経験」を見ながら、聴きながら、自分には、そのようなものがないのが・・・。「洗礼を受けたかった」(!?)と発言。しかし、すぐに、「先週の聖餐式がそれにあたることが分かった・・・。」とも。その通りです。聖餐の礼典によって、繰り返し、洗礼の恵みが更新されます。深化されます。私どもの教会が、洗礼「入会」式と、丁寧に表記するこだわりについて、おそらく出席者全員は、深くご理解くださったかと思います。そして、洗礼の礼典がすでに洗礼を 受領している教会(員)をも、あらたに生かし、教会に上よりの力、聖霊を注ぐ通路となっていることも確認しあうことができました。この次は、歩理ちゃんの幼児洗礼入会式となるでしょう・・・。祈り、待ち望みましょう。

☆  いよいよ、次週は日曜学校のキャンプです。家内は、数週間、連日、深夜まで、準備を重ねています。 教会学校教案誌の原稿執筆も重なります。しかし、振り返って、このキャンプが私どもの教会の歩み、形成に果たした役割は大きなものがあります。子どもたちのためであることはもとより、会員相互の交わりを育てる場ともなりました。日曜学校教師たちが、会員を代表して、子どもたちのための奉仕を担いますが、教会をあげて、参加し、奉仕をと願います。今回、初めての奉仕者も起こされました。昨年は、未信者のご主人たちのご奉仕なしに、考えられませんでした。過重な負担にならないようにと案じますが、楽しんで、参加してくださればと思います。今年は、「ワーク」はありません。