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「真の誇りに生きる」

「真の誇りに生きる」
       2005年8月7日
テキスト ローマの信徒への手紙 第3章27~31節① 27節を中心に  

「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」

人間は、誰でも誇りを持たなければならない。この言葉は、おそらく大方に受け入れられるかと思います。誇りを失った人間は惨めなものとなると思うからです。ただしかし、そのようにあえて言う必要もないとも思います。なぜなら、人間誰しも、それなりの誇りを持って生きていると思います。人間であるということは、誇りを持って生きているということができると思います。自分には、何のプライドもない、誇りもないと、言う人にお会いしたことはありません。いや、「わたしには、そのような誇りなどない」と言うなら、その人の前で、その人自身の人格、その人にかかわる大切な人やものについて、一分でも二分でも、徹底してけなしてみれば、すぐ分かると思います。平然としてはいられないと思います。

本日は、27節を中心に学んでまいります。その意味では、いつもと少し違って、主題説教のような形になろうかと思います。その主題とは、「誇り」であります。「真の誇りに生きる」という説教題をつけました。私どもは、ローマの信徒への手紙の第3章21節から26節までを4回にわたって学び終えました。たとえ、この後の文章がたとえ失われても、この手紙の価値は失われないという学者もいるほど、ここには、この手紙のまさにもっとも大切なメッセージが集中的に記されています。そして、それに続くこの27節、「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。」ここで、「誇り」という言葉が登場します。人間の誇りは取り除かれたというのです。

 この27節と、21節から26節までの真理とはどのような関係にあるのでしょうか。先週までのおさらいをする暇はありません。しかし、パウロ自身が、21節から26節までの真理をあらためて言い直し、要約している御言葉があります。それが28節であります。パウロと言う人は、この福音を何度語っても飽きないのです。結局、ローマの信徒への手紙はこの後、この真理の調べをリフレイン、繰り返して行くのです。つまり、ここで語られた真理、教理とは、イエス・キリストを信じることにより、信じるすべてに与えられる神の義という教えでした。パウロは、28節で、こう言い直したのです。「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」かつて、私どもの教会改革の出発点に立って改革者、マルチン・ルターは、この御言葉を、翻訳しました。どれほど、私どもの教会は、大きな力を受けたことでしょうか。それは、御言葉に補足した小さな一つのことばでした。「ただ」あるいは「のみ」という言葉です。「ただ信仰のみ」(ソラ フィデ)によって、この神の義を受ける、と訳しました。

この信仰によって神の義を受け、神に罪を赦され、神との正しい関係を受けた者は、27節に至る、つまり、この人間的な誇りから解放されるというのです。それが、神の力であり、これは、パウロ自身が経験し、この読者達も経験していることと、彼は信じているのです。そして、この教理を本当に信じ、この神の力を本当に、受けている人かどうかを判定する、いわば、リトマス試験紙のようなものが、27節なのです。

確かに、キリスト者とは誰か、あるいは、主イエス・キリストを知っている人と知らない人の違いはどこに現れてくるのか、神の義を受けている者とそうでないものとの差はどこに見えてくるのかという事は、最後の審判においてしか究極的には分かりません。しかし、それでも、その生活の中で見えてくることも少なくないと信じます。それが、パウロがここでこだわる誇りの問題なのです。端的に申しまして、神を誇りとすること、信仰のみによって、自分は生きれる、生かされる、そのことを誇りとすること、これこそ、キリスト者の姿なのです。そしてそれは、まさに、福音の力の証以外のなにものでもありません。ローマの信徒への手紙の鍵の御言葉は、第1章16節と17節であると、申しました。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」この神の力が、まさにこの27節の「人間の誇りは取り除かれる」ことにおいて試される、現れ出るのです。

私どもの公的聖書であります、新共同訳聖書の新約聖書の中で、「誇り」という言葉は、71回出てまいります。旧約聖書にもほぼ同じくらい出てまいります。その意味では、新約聖書において比較的「誇り」という言葉が多く使用されていると思います。しかし、驚くべきことに、新約聖書の中で、この言葉を用いるのは、実は、ほとんどが使徒パウロの手紙においてなのです。67回です。どれほど、パウロは、この「誇り」と言う言葉に、言わば思い入れともいうべき強いこだわりがあったのかが推測できます。

それは、彼の生まれ育ち、彼の経歴を見れば、なるほどとも思います。フィリピの信徒への手紙の第3章にこのような有名な言葉があります。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」

この御言葉を読むだけで、彼がその血統において、まさにユダヤ人の中のユダや人、ヘブライ人のなかのヘブライ人と表現するのは、まさに彼らの誇りがみなぎっているのです。しかも、ファリサイ派に属するような、徹底した律法遵守を心がけていたまじめな、宗教的な人間であったことが分かります。さらに、使徒言行録のなかで明らかにされていますが、彼は、その律法を独学で身につけたというのではなく、当時のユダや人ならおそらく誰しもが知っていたであろうガマリエルという学者から直々に学んだのです。

ただし、それだけなら、ユダヤ人社会の中では、圧倒的なエリートであることは誰しも認められますが、時は、ローマ帝国全盛の時代です。ユダヤ人は、むしろ言わばマイナーな民族でしかありません。ところが、使徒パウロは、ローマ帝国の市民権を持っていたのです。これは、世間的に見れば、決定的に優位な立場、特権階級に属していたことを意味するのです。使徒パウロという人間は、言わば、ユダヤ人のなかで、これ以上望めないというエリートの中のエリートであったわけです。ですから、誇り、プライドという言葉は、彼にとって、特別な響きを立てていたであろうと思います。
 
 そのようなユダヤ人パウロであればこそ、これまで、特に第2章において、ユダヤ人の間違った誇りを粉砕したのです。「あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。~あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。」と書いたのです。しかもそのように書いたとき、決して、自分を棚に上げたのではなかったはずです。自分こそ、その最たる者として、生きてきたからです。

 私どもは、このパウロの悔改めの心をよく知りたいと思います。この説教を聴き、聖書を読みながら、これは、自分とは関係がないのだと高をくくっているなら、災いであります。自分はユダヤ人ではない、そんな不信仰、思いあがり、偽善とは関係ないと、簡単に読み飛ばしてはならないのです。

 
さて、しかし、間違った誇り、倒錯した誇りの問題は、ユダヤ人の専売特許では、もちろんありません。コリントの信徒への手紙一第1章にこうあります。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探します」ユダヤ人は、宗教的な上位性を誇りました。しかし、ギリシア人、つまり異邦人は、何を自分たちの誇りとしたのでしょうか。それは、知恵でした。自分たちの精神的な深さ、文化的な優秀さです。確かに、ギリシアの人々は、当時の世界のなかで、際立っていたのです。ですから、十字架につけられたキリストを信じるなどは、ユダヤ人には、躓きであり、異邦人には愚かなものと、一笑されたのです。

さて、我々、日本人は広く言って、このギリシア人、異邦人のなかに含まれております。この異邦人の誇りの特徴は、神にではなく、自分自身にあります。まさに、現代社会は、この誇りをどれだけ、持つことができるのかということを競い合っている世界ではないでしょうか。そこでは、自分のさまざまな能力が問題とされます。とても分かりやすく申しますと、テレビなどのマスコミに登場する人が、最高の栄誉なのです。テレビで取り上げられないようなことでは、だめなのです。逆に、どんなことでも目立てばよいということでもあります。まことに愚かなことですが、結局、自分の存在を支えるのは、他人の評価でしかなく、その評価を手っ取り早く確かめるのが、このようなメディアにとりあげられるかどうかということです。自分の能力、自分の価値を磨く、そのことを追求するのが、ギリシャ人、異邦人です。わたしは、あえて造語ですが、このような言葉が浮かびました。「テレビ教」です。今日、広く世間の人の注目を浴びること、それが、生きる証のように考える、現代の価値観の特徴ではないでしょうか。まさに宗教のようになっているのです。あるいは、マスコミ病と呼んでもよいのかもしれないと思います。

先週、横浜にご夫婦であわせて200何歳という方が、世界最高齢の夫婦となったというニュースがありました。とてもすばらしいことです。そこで、ご主人の方が、自分は何でも良いから世界一になりたかった、遂に、世界一になれてとても嬉しいというコメントを発表されとのことでした。わたしは、100歳を越えたご老人が、世界一になりたかったという声を聞いて、正直、驚かされました。つくづく、人間とは、自分は特別な人間である、自分の名前を後の世に名を残したいと思うものだと思ったのです。100歳の方でも、小さな子どもでも、自分と自分にかかわる人やものに対する誇りにあふれ、生きているものです。小さな子が、もしも自分の親のことをけなされたら、どれほど傷つくかと思います。誇りに生きていない人間は一人もいないと思います。

 テレビやマスコミの価値観でどっぷりと絡めとられてしまった現代人は、ますます、神を誇りに生きることができません。今日も、我々の周りにいる方々の多くは、神に頼ることを潔しとしません。主イエス・キリストを信じて生きることを、愚かしいことと思います。それを何かの宗教、どこかの宗教と同じように考えています。一方で認めて尊敬する思いがあります。しかし他方、自分はそのような他力本願ではない、自分の努力、自分のあるがままの能力で、生きてゆけるし、なにもいつも神さまに頼って生きるなどというのは、弱い人間のすることだ、自分は大丈夫だ、そう思っているのです。そうやって、そこで何をしているのでしょうか。それは、神の御前で誇って見せているのです。何も、神さまを邪険に扱うつもりはない、しかし、神さまに頼り切らなければ生きてゆけないような惨めな者ではない。人間は、できる限り自分で頑張るべきだ、頑張って頑張って、どうしても人間の努力では手が出せないそのぎりぎりのところで、神さまに頼るなら、それは、人間にとって、悪いことではないでしょう。このような考え、このような思いが実は、多くの日本人の心の、言わば本音なのです。

そうなれば、私どものように、どんな小さなことをなすにしろ、祈ってなさなければならない、どんな小さな生活のことでも、神を中心にし、神の御言葉にたって生きなければならないなどという信仰の道を理解することはできないでしょう。頑張って頑張って、ぎりぎりまでする。しかし、もう限界ですから、神さまあとは宜しく。万一、主イエス・キリストを信じるとは、信仰とはそのようなものだと考えるなら、それは、私どもの信仰とは異質のもの、異なると言わなければなりません。

 先ほど、フィリピの信徒の手紙の第三章の御言葉を引用しました。パウロはそこで、自分自身の経歴をあきらかにしました。なぜそのようにしたのでしょうか。それは、自分自身をさらけ出してでも、信仰に生きるとはどのようなものか、主キリストを信じる生き方とはいかなるものかを明らかにしてみせたかったからです。フィリピの教会には、実は、パウロが「あの犬ども」と呼んだキリスト者、伝道者がいたからです。つまり、自称キリスト者、自称伝道者です。彼らが既に大勢いたのです。そうなれば、単にこれは、現代だけの問題ではないということがわかります。むしろ、2000年の昔からの、しかも、単に名目上のキリスト者であるとかないとか、教会員であるかないかだけでは、識別、色分けすることもできないほどのものなのだということが分かります。他人事ではないのです。

 フィリピの信徒の手紙の第3章18節に、心打つ御言葉があります。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行くつくところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。」腹を神とする、つまり、自分の欲望が神なのです。恥ずべきものを誇りとする、彼らは、その誇りを恥ずべきものと考えていません。自分の努力で、今の地位がある、わが人生に悔いなしと言います。しかし、神の御目に、その努力をも、神の祝福と憐れみ、恵みによることを忘れるなら、十字架の敵として歩むことです。「テレビ教」は、いつの時代にもあるのです。

 教会に毎月送ってくださる、キリスト改革派教会のラジオ伝道の機関紙、「ふくいんのなみ」の今月号に小澤さんという、ひとりの大学の助教授の救いの証が掲載されていました。未だ数年前に国立の教会で洗礼をお受けになられたばかりの方のようです。証の文章、この方の雰囲気もそのまま伝わるような文章ですから、そのまま、引用いたします。

「私は、2000年の3月に博士号を取得しました。研究室にシュラフを持ち込んで寝泊りしたりして、大変だったけれどなんとか取得できました。あとはもうバンバン稼いで、有名になってやろうと、当時は本気で思っていました。人生、順風満帆、何もかもオレのおかげ、自分が頑張ったからここまで来たのだとね。それで、大学から一年間、ニュージーランドに留学させてもらえることになりました。そこで出会った一家を通して、わたしが変えられる大きなきっかけになったのです。
2000年8月から一年余り、家族4人でニュージーランドで生活しました。隣に住んでいたのが、マーティン・ミネーさん一家でした。やけに子どもが多いと思っていたら、9人全員が養子でした。彼は開業医でした。私だったら自分のためにもっと贅沢な生活をするのに、この夫婦はなぜこんな苦労を買ってでもするのか、へんな人たちと不思議でした。今までに出会ったことがないような考えの人たちだったんです。ある時、聞いたら彼は、「満たされているから」と言うんです。彼は、わたしに伝道したわけではないけれど、彼の生活を見て、わたしも聖書をもう一度読み始め、教会に行くようにもなりました。
 クリスチャンになる前は、何でもオレが一番、オレが中心、オレがやったことは全部うまく行くんだと、あまりに傲慢で、感謝の気持ちはありませんでした。感謝する必要なんかないとおもっていました。でも、そうではなかった。神さまがいつも共にいて、後押ししてくださり、色々な人のおかげで、ここまで来ることができたのです。」

この方のそれまでの生涯は、まさに、この世の人の典型、自分の力で、一生懸命努力されました。農学や畜産の研究者として、40歳にして、博士号を取得して、大学の地位も得たのです。さあ、いよいよ順風満帆、バンバン稼いで有名になってやろうと明るい未来を描いておられたのです。まさに、自分の誇り、人に羨ましがられるような立場に立つことを追求する「テレビ教」の信者のようではないでしょうか。

しかし、そこで、一人の真実なキリスト者の生き方を見たのです。特に、この一人のキリスト者の姿に、私どももまた、心深く動かされます。このキリスト者は、自ら、伝道したというのではないようです。しかし、生き方がこの世と異なっていたのです。この人の誇りは、ただ神、キリストにだけあったように思います。キリストの恵みによって、満たされていた、そのように生きた、そこで、一人の典型的な日本人の心が打たれたのです。そこに聖霊の御働き、神の選びがあったことを思います。

 これからすぐに、共に聖餐を祝います。毎月のことです。しかし、決してこれに慣れてしまうことは許されません。今朝も心新たに、聖餐を受けることの意味を問いたいと思います。人間の誇りに生きる生き方を引っさげたままで、この聖餐の食卓に連なることができるであろうかと思います。
 キリスト・イエスの贖いの業を通して、私どもは義とされた者たちであります。父なる神は、御子を贖い場所とされた、祭壇とされたのです。十字架の上で、御子の罪ではなく、私どもの罪を償わせるために、ほふられたのです。それは、神の義を現すためでした。そして今や、私どもは、神の義を受けているのです。言い換えれば、こういうことです。神に義とされること、それは、神御自身が、このわたしを誇りとさへしていてくださるということです。神の誇り、それが、キリスト者であり、教会なのです。だから、私どもは決して、福音を恥としないのです。できないのです。福音は、主イエス・キリストは、確かに、この世の価値観からすれば、愚かな生き方です。

 それは、開業医のマーチンさんどころではないのです。天の御子が、人間となられ、この世のどん底の苦しみをなめられ、十字架で恥のきわみを受けられ、愛する神に裁かれ、見捨てられたのです。愚かな生き方、まことに愚かしいことです。しかし、この愚かさによってのみ、私どもは赦され、生かされたのです。聖餐を祝うことも、まことに受動的なことです。キリストの御業を受けること、神の義をただ、受けることです。ただ、この御業を信じるのみです。しかし、同時に、そこでは、激しく私どもの心は動きます。あの小澤さんが、自分の生き方を激しく揺さぶられたように、私どもも、揺さぶられます。主イエス御自身の犠牲に揺さぶられます。父なる神の忍耐に心揺さぶられます。

 そして、心新たに、自分を捧げるのです。子どもたちの献金の祈りのなかで、必ず、祈る言葉があります。「この献金と僕たち私たちをお用い下さい。」これが、聖餐のパンとを杯を受領する私どもの激しい心の思いです。積極的、能動的です。

 誘惑の声を斥けてくださるのも、それに打ち勝たせてくださるのも、あのイエスさまです。十字架への道行きを歩まれたナザレのイエスさまだけです。しかもこのお方は、お甦りになられました。私どもの教会の頭として、私どもを支配してくださいます。天の父の右に座して、私どもを悪から守っておられます。父なる神は、ご自身の義の故に、私どもを誇りとしてくださる、私どもを喜びとしてくださいます。ですから、私どもも、神を喜ぶのです。神の栄光を求めて生きるのです。誇りという言葉は、ギリシャ語では、喜びと関係が深い言葉です。第5章11節には、「わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。」とありますが、他の翻訳では、「神を喜んでいます」と訳しました。
 今、聖餐を祝いましょう。神を誇りとする者にとって、この聖餐の礼典を祝うことにまさる誇りがあるかと思います。

祈祷
 わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。使徒パウロの言葉が、響きます。神の義を受けた私どもには、もはや、人間の誇りは、ありえません。自分の能力を自分の誇りのために磨く生き方から、それをもって自分の存在価値にする誘惑から守ってください。どうぞ、この世の価値観に絡めとられて、あなたの愛と忍耐とを無視している多くの人々に、私どもの存在、生き方そのものをもって、立ち止まらせ、神の義へと導くことができますように。この聖餐の食卓を祝福し、私どもに、神の力を新たに注いで信仰を富ましめてくださいますように。     アーメン