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「日曜学校の歴史と日曜学校像」

「日曜学校の歴史と日曜学校像」
2005年9月19日 
中部中会信徒研修会分科会② 小講演
 (「分科会⑦教育基本法改悪の問題点)のための配布資料)

教育委員会(長)・教会学校教案誌(長) 相馬伸郎

拙稿は、「教会学校教案誌」に連載中の「日曜学校教師会のために」の第4回の原稿に手を加えたものです。
また、「世と教会の委員会」の委員として、分科会⑦の出席者にも、お配りいたします。戦前の日曜学校の状況(日曜学校教育における罪、戦争責任)にも触れているからです。また、教育基本法改悪の問題を議論することは、教会が子どもたちに教える福音の内容そのものの再検討を抜きにしては、正しい教会的実りを結ぶことはできないと考えるからです。 
             Soli Deo Gloria!

まえおき
私どもは、各教会・伝道所においてすでにそれぞれに個性的な日曜学校の奉仕に励んでいると思います。実に尊く、すばらしいことです。しかし、その実践を絶えず、このような視点で問うこと、点検することも不可欠のことです。それは、
第一に、私どもの実践が、聖書に即しているか、とういことです。-これは単に順序のことではなく、すべての前提・土台としての意味です-
第二に、教理(改革派信仰)に即しているか、ということです。
第三に、子どもたちの現実に即しているか、とうことです。
もとより、その他にも、丁寧に考えるべきことはたくさんありますが、ここでは、扱いません。

日本キリスト改革派教会の日曜学校像とは?

拙論を支配する問題意識とは、日本キリスト改革派教会の何よりも一人の 教師として、また中会・大会の教育委員会の委員、教会学校教案誌の責任者としても、どうしても考えなければならないことにあります。すなわち、「日本キリスト改革派教会としての日曜学校像の確立のために」という一点です。そのためには、そもそも、「日曜学校」という名称そのものから問い直さなければならないと真剣に、考えています。

何よりもまず、日本キリスト改革派教会の「日曜学校」を考える共通の土俵として、「礼拝指針」第28条(教会学校の目的)をあらためて確認しておきましょう。「教会学校とは、教会の教育事業が主として行われる組織を言う。それには、日曜学校・週日学校・休暇中の聖書学校・その他がある。その目標は、キリスト者の成長と完成であって~」とあります。教会学校は、教会につらなる全年齢の神の民に、学びのプログラムが提供される組織を指します。その意味で、「教会即教会学校」であると考えても良いと思います。教会は、会員(神の民)の全てに「教理教育」を施す場所なのです。この「教理教育」には、当然、信仰生活の実際的な霊的修練をも含んでいます。教理は「体得」すべきものだからです。現実の日本キリスト改革派教会で呼ばれている日曜学校とは、教会教育における「乳幼児から小中学生まで」の子どもたち(契約の子と地域の子)に教育伝道する場をさす、それが、ほぼ共通の理解であろうと思います。

「日曜学校」運動の歴史
いわゆる「日曜学校」の歴史を考えるとき、大抵は、1780年、イギリスの印刷業者、ロバート・レイクスの働きから語り始められると思います。
レイクスはグロスターの出身で、21歳で、父親の事業を引き継ぎます。時あたかも、産業革命が進展していました。彼は、45歳のときに、教育の機会を与えられことなく、労働力として狩り出される幼少年の者たちの現実を目の当たりにしました。彼らは、そこで道を迷って、不道徳、退廃的な生活へ誘われてゆくのでした。レイクスは、そのような彼らの健全な成長を願い、毎日曜日に、4つの学校を開きました。その学校に、女性教師を雇い、6歳から12・3歳の子どもたちに、いわゆる読み書きを教え、あわせてカテキズム教育を施したのです。日曜日の朝10時から夕刻5時半までの、この「日曜学校」が、急速に支持を集め、イギリス中に広まり、やがてアメリカに渡り、世界的な運動へと展開されて行きました。

このように、日曜学校運動とは、当初、伝道的、福祉的な動機、加えて、より良い労働者の確保という実利的な側面をもあわせ持ちつつ進展して行きます。そしてこれを主体的に担ったのは、信徒でした。ひとつの「信徒運動」とも呼びうるものです。アメリカにおいては、政教分離の原則のなかで、宗教教育のみを扱う場所として、教会の中に設置されて行ったようです。

そのおよそ百年後の、1889年には、「日曜学校世界大会」がロンドンで開催されます。ローマにおける第5回大会では、「世界日曜学校協会」Sunday School Association)が組織されます。つまり、日曜学校運動はその最初から、「超教派運動」であったのです。1907年には、世界キリスト教教育協議会と改称されます。
この運動の特徴や意義を下記のように挙げる研究者がおられます。
① いかにして子どもたちを回心に導くか(魂の救い)に焦点をあてるというもの。
② 女性キリスト者が教会のなかで公的な働き場を見出すことに寄与したこと。
③ 信徒のボランティアによって担われたことによって、エキュメニカル(世界教会)運動として展開されたこと。

わたしは、そこで見逃せない歴史的背景として、19世紀のリバイリズム(「信仰復興運動」)があると思います。つまり、神学的に教会の教育を考えた上での働きであるというより、むしろ伝道(回心・救霊)最優先の空気のなかで、信徒を中心とした熱意に支えられ、超教派的に急速に拡大されていたわけです。
ここで簡単に整理すれば、日曜学校運動とは、

①「子どもたちを回心に導く救霊運動」
②「信徒中心の運動」
③「超教派運動」
④「慈善運動」という性格を帯びたものであったかと思います。特に④は、日曜学校運動の成り立ちの動機の主要部であり、全体の通奏低音として流れていると思われます。

日本における「日曜学校運動」の歴史
日本の日曜学校を神学的に検討するためには、簡略でも歴史を振り返ることは不可欠な作業です。(弊誌所収の木下教師による成人科をご参照下さい。)
日本における日曜学校の歴史は、1872年、つまり、その最初の教会(日本基督公会・横浜基督公会)にまでさかのぼります。つまり、日本にとって教会のスタートと日曜学校のスタートとは同じになされているのです。それほどまでに、教会の働きに不可欠のものであるという理解があったと言ってよいのではないでしょうか。しかし、日曜学校伝道の先駆的働きを担った、田村直臣牧師(日本基督教会)は、その頃の日曜学校の状況を「教会の付録のごときもの」であり、「宣教師が外国の教会に日曜学校というものがあるということを教えてくれたから、子供の好きなキリスト者が物好きに子供に手を出し始めた。」と批判的に述べています。しかし、たとい思い思いに聖書の話をし、聖画を見せ、カードを配る程度のものであっても、子どもへの伝道の熱い思いにあふれたこの働きは大変な勢いで進展して行きます。

1882年の東京宣教師会議録によれば、日曜学校49校、教師156名、生徒4,060名。1888年は、267校、教師360名、生徒16,820名、つまり、生徒数は6年間で4倍です。驚くべきことに、当時の教会数は206教会ですから教会より多いのです。つまり、60校は、教会の外で、分校として開設されたのです。日曜学校は、子どもへの伝道であることはもとより、開拓伝道の拠点でもあったわけです。

日本における日曜学校運動と「教育勅語」にすりよる教育
私どもの教会の歴史において必ず取り上げられなければならない植村正久という日本基督教会の最大の指導者がおります。彼の「日曜学校像」の一端をうかがい知ることのできる言葉にこのようなものがあります。「【日曜学校を】宗教教育及び徳育をしくのに有力な機関たらしめなば、国家の利益、教会の勢力、キリスト教の声価いかにたかめらるべきか」ここに「徳育教育」という言葉が記されています。簡略な紹介で、かえって誤解を生じやすいかもしれませんが、当時の社会状況(内村鑑三の不敬事件によって、国家権力からの厳しい批判がキリスト教になされた)から判断するとき、この徳育教育が、個人主義的な人格の修養を目指すような日本の日曜学校教育の素地をつくってしまったのではないか、さらに言えば、国家権力への対決姿勢を緩和させる信仰姿勢を教会に植えつけたのではないかとも考えられると思います。

生い立ちが既にそうであるように、実に日本教会史と日本日曜学校史とは、そのまま一つの線で結ばれてゆきます。前述した、「日曜学校世界大会」は、日本でも、1920年(大正9・第8回)と1958年(昭和33・第14回)、東京で開催されました。1920年の東京における大会では、海外32カ国から1800人を迎え、開国以来最大の国際会議であったと言われます。財閥の渋沢栄一が募金委員を務めたように、日本の財界、政界から積極的な協力がありました。さらに、後日、日曜学校会館建築の際には、宮内省から千円が寄付され、キリスト教界は、歓喜しました。徳育教育が国家体制の中にすでに絡めとられている現実を、当時の関係者は気づくことができませんでした。

そして、ついに1930年代に至り、37年には、日曜学校協会理事長が、日中戦争支持の姿勢を表明し、加盟校宛に「質素を旨とし、反戦思想ありと誤解されるごときなきよう」と、主事名で通告します。38年には、雑誌「日曜学校」で、神社参拝に理解を示すように訴えています。さらに40年には、皇紀2600年記念日曜学校大会を各地で開催しました。諸教会が、日本基督教団に統合された際には、雑誌「教師の友」では、繰り返し、天皇の赤子としての使命、つまり天皇のため、お国のために従軍することこそ神の御心であるとし、これを鼓舞する説教がなされ続けます。
このように戦前の日曜学校は、伝道的な側面が確かに強くありました。しかしそれは、真の福音の伝道というより、内実は、福音による「徳育教育」であり、その結実によって地域社会における教会の声価を高めることが第一でした。それによって、子どもたちを将来の成人会員として獲得し、その周りにいる大人を会員として獲得する手段としての色彩が強くあったように思います。

日本キリスト改革派教会創立宣言と田中剛二牧師の悔い改め
日本キリスト改革派教会は、このような状況を、「我等は之を神の御前に恥ぢ」たと告白しました。これは、客観的、厳密に言えば、教会の戦争責任、罪責告白とまではならないという批判はありますし、その批判について、弁明することはほとんど意味がないと思います。しかし、私は、「創立宣言」を、神港教会の田中剛二牧師の教団脱退届の線で理解していますし、するべきではないかと考えております。

「一、教団成立は日本にある教会の信仰的妥協であったことを確信すること(悔改のためには教団を解体すべきである。)
一、教団があった故に、日本の教会が迫害と弾圧より守られ、今日の宣教の自由を得ることができたのだといふ考えのまったく誤っていること (今日の伝道の不振は寧ろ迫害を回避して信仰的妥協をしたことに就    いて、日本の教会が徹底的悔改めをなさないことに起因すると確信する)。
一、私の教団脱退は私の悔改である。」
わたしは、田中先生の、悔改めに生きようとのこの志こそが、日本キリスト改革派教会の創立者たちの志であると理解しております。何よりも、先輩たちの戦いを継承する今日の私どもの志であらねばならないと強く考えております。

戦後の日曜学校
さて、戦後になり、GHQの指令によって、公教育においては、皇国史観による教科書の墨塗りがなされました。教師の中には、戦前、戦中の自らの歩みを省み、教師を自ら辞職した者たちもおりました。(たとえばあの三浦綾子氏)
反対に、GHQのマッカーサー総司令官は、キリスト教に対しては、積極的な好意を示し、アメリカ占領軍がキリスト者の諸活動を直接間接に応援しました。日本の支配層も、支配者であるアメリカの好意を得るために、教会に好意的に対処しました。このような状況のもとで、敗戦後5、6年の間は、空前のキリスト教ブームの時期を迎えます。来日したアメリカからの宣教師たちもまた、日本基督教団の存在を日本伝道の便宜上、利用することが得策と考えたと思われます。諸教派のミッション団体は、教団への資金援助を惜しみませんでした。

そして、空前のキリスト教ブームが到来しました。大勢の子どもたちをも日曜学校に招き入れることになりました。しかしそのとき、ほとんどの教会は、自分たちの罪責について、社会に言明せず、子どもたちにも謝罪しませんでした。ここでもはや、疑うこともできないほど明らかな事実は、日本キリスト教史に顕在化するのは、日本の教会が、支配者への迎合、すりよりによって存続、発展しようとする傾向性です。この背後にある問題は、今回は、取り上げる暇はありません。ただし、弊誌第19号所収「日本教会史第9課」を是非、お読み下さい。「教会がこれ(戦前に施行された宗教団体法のことです。これによって、諸教派は日本基督教団に統合されました=相馬補足)を受け入れるとは、まさにキリストの主権を国家に売り渡すことにほかならなかったのです。」(木下教師)とあります。

元に戻り、三浦綾子氏は、辞職しましたが、当時の日曜学校の教師が説いた「ほかの福音」(ガラテヤの信徒への手紙第1章6節)に対して、教会は、牧師は、教師はどのような責任をとったのでしょうか。寡聞であり、不勉強であるので断言できませんが、聞いたことがありません。そうであれば、この罪は神の御前に残り続けているのではないでしょうか。そして、あらためてこの罪をわきまえ、悔い改め、克服することなしに、本当の意味での日本の教会の再生の道も、日曜学校伝道再建の道もないのではないでしょうか。

日曜学校か教会学校か
しかし、戦後、このあり方が深く問い直されるようになります。それは、「日曜学校」の呼称の変更すら求めるほどのものとなりました。それが「教会学校」という名称の導入となりました。これは、明らかにこれまでの日曜学校の営みを神学的に再検討する試みに基づいてなされたものです。1947年にGHQ宗教顧問として来日したP・H・ヴィースは、翌年「キリスト教教育の定義と目標」を発表します。そしてカリキュラムを整備して行きます。これは、それまでの「自由主義神学」への反省、つまりこの世の知恵、教育哲学を安易にキリスト教教育に導入したことへの自己批判に基づきます。具体的には、「神の言葉の神学」の影響を受けたことの実りでした。この点は、確かに、「日曜学校運動」への批判と克服として評価することができると思います。

神港教会の「聖書学校」という名称が問いかけるもの
ちなみに日本キリスト改革派教会も、「教会学校」という名称を重んじています。はじめに確認したとおり、礼拝指針第四章に明らかです。それなら、それは、戦後の「教会学校」運動の影響によるものなのでしょうか。そうではないと思いますし、そうであってはならないはずです。つまり、聖書に即するなら、教会そのものがすでに神の学校、御言葉を聴き学ぶ家、使徒たちに学ぶ学校、「学びの家」なのです。教会は、18世紀の日曜学校運動によって、子どもたちへの伝道、教育をはじめて開始したわけでは、もちろんないのです。

このような問題意識を持つ者にとりまして、神港教会の実践は、大変、興味深いものがあります。神港教会は、今日まで一貫して、日曜学校とは呼ばずに、「聖書学校」と呼んでおられます。実は、この点につきまして私は、先々代の牧師、田中剛二先生の自覚的、神学的な主張が込められているのではないかと推測しておりました。つまり、日曜学校運動にもとづく日曜学校ではなく、聖書と改革派教理に即した教育と伝道こそが、日本キリスト改革派教会の実践であるべきとの主張です。

先月、お伺いした折に、講演でも触れ、長老や前牧師の安田吉三郎先生にも質問させていただきました。先週、この点さらに、安田先生からは、文書でも貴重な事実とご教示をお受けすることができました。以下、先生の文章から抜粋します。

「1930年代から用いられ、(灘区)徳井と(中央区)上筒井の二個所の家庭で行われていた子ども集会が「聖書学校」として報告されています。この名称は日曜日ではなく週日の集会であったことに由来しているようです。戦災により会堂が焼失して後,六甲の田中剛二牧師宅で礼拝が行われるようになりました。子供集会も再開されましたが,手狭であったために日曜日ではなく土曜日であったので「聖書学校」と呼ばれました。つまり「聖書学校」という名称は,日曜でなく週日に行われた集会にたいして伝統的に用いられたものを踏襲したわけです。1952年に会堂が出来て子供集会も日曜に行われるようになりますが,「聖書学校」という名称はそのまま残りました。このときに名称を変えなかった理由は公的には明らかにされていません。恐らくこのころからアメリカの教会の影響で「CS」という名称が用いられるようになりそれにたいする対抗意識から「聖書学校」という独自の名称を用いつづけたのではないかとおもいます。古い日曜学校に対する批判もあったかも知れませんが、はっきりしたことはわかりません。」

旧日本基督教会時代、日曜学校や幼稚園に熱心な教師と神学に熱心な教師が別れていたことはよく知られている事実と思います。田中先生は、もとより、後者でした。しかし、「田中先生の児童説教は忘れがたく、そのときの生徒がわたしです」と、嬉しそうに教えてくださった長老がおられました。つまり、単なる机上の神学好きなどということではない、本物の神学的な牧師、説教者であったことはこの事実によっても雄弁に立証されるでしょう。

ここに、私ども日本キリスト改革派教会の日曜学校像のヒントがある、そう思います。確かに、私どもも、あのレイクスの日曜学校運動に影響されて、現在、営んでいるのは紛れもない事実です。日本伝道のたとえわずかではあったとしてもその結実の相対的な大きさを客観的に評価すれば、どれほど日曜学校運動が貢献したかは明らか過ぎる事実です。感謝しないわけにはまいりません。

ただし、私どもの実践は、あくまでも日本キリスト改革派教会の「教会理解」に沿って営まれるべきなのです。ただしそこでも、「くどすぎ」ますが、付言しておきます。「聖書学校」の歴史は、実に伝道的なものでした。教会の外つまり家庭においてしかも週日に行われていたのです。つまり、伝道の熱心なしに、私どもの実践は考えられません。伝道する志、使命、実践を失った日曜学校像が、どれほど立派な日曜学校像であったとしても、空しいでしょう。

結語
いずれにしろ、私どもの「教会の自己理解=教会論」即、日曜学校像です。私どもの日曜学校像やその実践も、どこまでもブームや運動に影響されるものではなく、聖書に即し、教理(とりわけ教会論)に即し、現実の子どもたちに即しつつ営むところにこそ求めるべきであり、そこでのみ具現化すべきものです。

主要参考文献
・ 「キリスト教教育を考える」奥田和弘1990日本基督教団出版局 
・ 「教会教育ガイド」1982日本基督教団教育委員会編
・ 「キリスト教教育講座」1958新教出版社
・ 「キリスト教教育の現代的展開」1987 ジャック・シーモア 新教出版社
・ 「教会教育の神学」1968 R・ヘンダーライト 日本基督教団出版局