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「出発し続ける民 -アブラハムの模範①-」

「出発し続ける民 -アブラハムの模範①-」  
     2005年9月25日
聖書朗読 ローマの信徒への手紙 第4章7~12節  
テキスト 創世記第12章1節~4節

「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。 更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。」

「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」

本日は、ローマの信徒への手紙の講解説教を一時中断して、創世記のアブラハム物語を皆様と学んでまいります。実は、先週の祈祷会で、この個所を読み、短く奨励しました。そして、次回の祈祷会からアブラハムについての学びをしますと予告いたしました。しかし、その後で、これは、祈祷会で取り上げるよりも、礼拝説教として、取り上げるほうが良いとの判断をいたしました。
しかし、私どもは、今、ローマの信徒への手紙の第4章を学び続けて、毎回、アブラハムについて学んでおります。その意味では、私は今朝、ローマの信徒への手紙の学びを中断したという思いはほとんどないのです。むしろ、これも、ローマの信徒への手紙の学びの連続線上にあるとすら思っております。

今年の私どもの教会の年間目標は、昨年に続いて、創立20周年宣言の言葉「聖霊の力あふれる教会の形成」であります。そしてそれを実現するための4つの柱の最初は、「神の民の祈りの家を築こう」です。私どもは、教会を、「神の民の祈りの家」と呼んでいるわけです。聖書は、教会の呼び方としていくつも挙げております。その中で、おそらく最も大切なのは、「キリストの体」という言葉ではないかと思います。しかしそこで私どもはうっかりすると、教会の誕生を、今から2000年ほど前の、聖霊の降臨の出来事、毎年お祝いする聖霊降臨祭における出来事とだけ結び付けて理解することになってしまいやすいのではないかと思います。もちろんそれは、間違いありません。しかしそれなら、旧約聖書においては、教会はなかったことになるのでしょうか。そうではありません。旧約、新約を貫いて神の民は存在しています。それなら、神の民である教会は、いつから、あるいは、誰から始まるのでしょうか。そのことに対する回答、それが、本日、お読みした個所なのです。神の民は、アブラハムから始まるのです。この創世記第12章は、その意味で、神の民の教会の起源であるとすら呼ぶこともできます。この一人の信仰者から教会、神の民の歴史は始まる、このようにいうことが許されると思います。その意味でも、アブラハムについて学ぶことは、自分自身そのものである神の民の歴史の原点を学ぶこととなります。そればかりか、先週学びましたように、アブラハムは、信仰の模範、信仰に生きるすべての人間がそのたどるべき足跡そのものです。ですから、アブラハムの生涯を学ぶことによって、信仰とは何かをはっきりと学ぶことができるのです。

いへ、さらに申しますと、アブラハムの生涯を学ぶということは、すべての人間にとって、人間とはどのようにして成熟して行くのかということを学ぶモデルを見ることなのです。たとえば、イスラム教の教えにおいても、彼は、モハメッド以前の最も優れた預言者といわれていることからもわかると思います。

今朝は、アブラハムの生涯のなかで、決定的に出来事となる、最初の神との出会いの物語、創世記第12章から学びます。アブラハム、この第12章では、アブラムと呼ばれています。アブラムはテラの息子です。テラとは、どのような人物であったのか、よく分かりません。テラは、カルデアのウル、現在のイラクにあたりますが、ユーフラテス川沿いのおそらく豊かな町に住んでいました。このウルは、月を神と拝む偶像礼拝の盛んな都市であったといわれています。テラは、既にこの偶像礼拝の町を出ていました。彼がどうして、この町を出ようとしたのか、宗教的な、内的な事情であったのか、外的な、人間関係上のやむにやまれない事情があったのか、これは、聖書には一切明らかにされていません。テラは、同じ頃にアブラム、ナホル、ハランを設けたとありますから、当時の一夫多妻の習慣のなかで、彼自身も、その習慣を受け入れていたのかもしれません。すべては推測の域をでません。とにかく、テラは、ユーフラテスの川の上流1000キロも北上したハランという町につき、そこで子どもたち、アブラハムと一緒に暮らしました。

しかし、アブラムは、75歳になって、つまり老人になって、突然、神の御言葉を聴きます。「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
突然、生まれ故郷を出なさい。父の家を出なさいと呼び出されるのです。神は、アブラハムに何の相談もなく、一方的に、命じられたのです。この最初の言葉、これは、決定的に私どもにとって、信仰に生きる人間にとって決定的に重要な真理を告げるものとなります。信じるとは、神の御言葉を聴き、それに従うということ以外のなにものでもないということです。驚くべきことには、信じるとは、自分自身のなかに、何の理由も、持っていないということです。これは、我々にとっては、ほとんど理解できないこと、とても難しいことであろうかと思います。

たとえば、自分自身のことで恐縮ですが、私のように、二十歳になって洗礼を受けた人間にとりまして、信仰への道を丁寧に語ろうとすれば、それだけで、説教の時間のすべてを費やしてもまだ足らないと思います。わたしの心の内側には、やはり宗教を、救いを求める気持ちが確かにあったと思います。洗礼までの歩みのなかで、いったい何十冊、百冊は優にくだらない数の小説や哲学、宗教の本を読んで来ました。教会に通い始める前から、聖書の注解書を自分なりに既に読んでいたわけです。ところが、アブラハムの物語を記す聖書は、アブラハムがどのような、言わば心の旅、心の遍歴を重ねてきたのか、一言も記していません。これは、とても不思議なことではないでしょうか。私どもで言えば、信仰の証をするとき、どのような状況で、神に出会ったのかを伝えようとしますし、聞かれる方も、そこが知りたい、そこが一つの興味になると思うのではないでしょうか。ところが、聖書はそれを告げないのです。聖書は、神がいきなり、突然、アブラハムに向かって語られたと記すのです。そして、アブラハムはそれを聴いたのです。聴いてそのとおりに従ったのです。記されていることは、ただそれだけです。つまり、聖書は、「信仰とは、この神の要求に基づいて始まるのだ、この神の働きかけによって始まるものなのだ」ということを、ここで鮮やかに示しているのです。

神は、「故郷の町、父の家を離れよ。」とお命じになられました。わたしは、「離れよ」という御言葉を読んですぐに、人類の祖であるアダムとエバの物語を思い起こします。彼らは結婚しました。聖書はそこで、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と記しました。結婚する男女は、父母を離れる、父母の家から出ることが、つまり親から独立するべきことが聖書に言われている夫婦生活、結婚生活の基本の形であります。しかし、夫婦は、父母から離れると言っても、それは独立するためであって、何も遠く1000キロも距離的に離れることが言われているわけではないと思います。しかも、この男女は、父母から離れるのは、それだけ二人の絆を強めるためのものなのです。二人が強く結ばれるためにこそ、離れるのです。
それなら、故郷を離れ、父の家を離れるアブラハムの場合はどうなのでしょうか。何との絆、どなたとの絆を深めるためなのでしょうか。それは、御言葉をもって語りかけてくださる主なる神ご自身へと深く結ばれるために、離れるのです。故郷から出るのです。旅立つのです。出発するのです。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」このとき、信仰者アブラムは誕生するのです。

さて、「故郷の町、父の家を離れよ。」という神の命令は、キリスト者になれば、親と暮らしてはいけませんとか、伴侶と別れなければなりませんとか、そのような類のことでしょうか。まったく違います。そのようなことを教会で学んだ人は一人もおられないはずです。むしろ、「父と母を敬え」と命じられ、「家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。」とすら、パウロは若いテモテに教えていることを知っています。

それなら故郷とは何でしょうか。それは、私ども自身のことです。私どもの自己中心的な考え、自分のことにしがみつき、自分を中心に考える考え方、生き方のことです。そこから外に出ることであります。それなら、外とは何でしょうか。それは、神ご自身のことです。神に結ばれるために出発すること、これこそ、信仰なのです。しかもそこで決定的に重要なのは、御言葉であります。御言葉を聴いて従うということです。信仰は、気分や、気持ちの問題ではないのです。宗教心とか、厳かな気分というものが、即、信仰なのではありません。信仰とは、神の御心に従うことです。しかも、その御心は、神の御声、御言葉によってはっきりと示されています。今日、それは、聖書という文書によって固定化され、くっきりとなっているのです。説教者は、この聖書から今ここで、神の御声を語る、御言葉を解き明かすのです。そしてこの御声がここで響くのです。この御言葉に従うこと、それが故郷を出るということです。自分という故郷を出て、神へと、外へと心を開いている人は誰でも、アブラハムの子、神の民、信仰者なのです。このことは、生涯ただ一度の経験ではありません。アブラハムもこの後、繰り返し、御言葉の主なる神の御声、御言葉を聴き続けるのです。私どもも、主の日の礼拝式で、祈祷会で、自分の家で、聖書を開くたびに、故郷を出るのです。自分の殻のなかで、神についてあれこれ考え、信仰についてあれこれ考えるのではないのです。外へと、神へと、出てゆくのです。その意味で、私どもの生涯は、出発し続ける生涯です。旅立ちは続くのです。立ち止まってはならないのです。旅はやまないのです。

神へと出ることは、言い換えますと、自分に死ぬことです。先週も、読みましたが、コリントの信徒への手紙二、第5章17節にこうあります。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」キリストに結ばれた人とは、何年何月に一度、主イエス・キリストを信じたという一回限りの体験で終わりません。信仰は、毎日のことです。新しいことです。日々、キリストとの交わりがなければ、この新しさに生きること、神へと旅をすることにならないということです。
先週の信徒研修会の主題講演でも、有名な改革者ルターの、教会改革のまさに歴史的なスタートとなった95か条の命題が紹介されました。これは、私どもがそらんじるべき言葉の一つであると思います。それほど重大な言葉です。主イエス・キリストが悔い改めよと叫ばれた時、それは、キリスト者の全生涯が悔い改めであるべきことをお求めになられたのだ、そう主張しました。まったくそのとおりです。ここには、改革派教会のこれもまた私どもがそらんじるべき言葉、「改革された教会は、常に御言葉によって改革される教会」というモットーとまさに一つになります。
回心という言葉があります。これは、心を改めるという改心という漢字ではありません。心が回る、転回するという文字です。回心は、日々、心を神に向けることなのです。これが私どもの旅です。
しかもこの旅の目的地は、故郷であると聖書は告げます。考えて見ますと、これも大変不思議な表現です。故郷とは、見て、知っている、生まれ育った、慣れ親しんだ場所のことです。ところが、聖書は、見たことのない場所を、故郷と呼ぶのです。こんなにおかしい表現はありません。しかし、確かにこの故郷は見たことがありません。しかし、はっきり分かっていることがあります。そこに神がおられるということです。神こそ、私どもの命の故郷、私どもの存在の源です。ですから、神がおられる場所こそ、故郷です。ですから、天こそ、私どもの故郷なのです。

見たことのない故郷を持ち、そこへと旅すること、このこともまた、信仰なき人々には、分かりません。躓きです。つまり、現代人は、ますます旅をしなくなっているのです。先週の金曜日、ひとりの教会員と、打ち合わせをするために、メールしました。その日は、祝日でした。しかし、わたしにとりましては、まったくいつもの金曜日でした。そしてその方も、研究室に閉じこもっておられたのです。メールに、「こもり仲間ですね」と書いてありました。「引きこもり」という言葉があります。これも、現代社会の様相を映し出す一つの言葉でしょう。これは、ただいわゆる、青少年の世代で、社会生活から逃れて、自分の個室に引きこもってしまっている状況を指すだけではないと思います。多くの現代人はますます、引きこもっているのではないでしょうか。それは、自分の個室の部屋、書斎や研究室という場所にこもるという、場所の問題であるより、自分自身の内側だけを安住地とすることです。現代社会の強烈なストレス、生きることの不安にどのように対処するのか、それが、現代人のニーズを満たす宗教に求められるものであるように思います。さらに最近では、宗教以下、ほとんど、古代人のような呪術、占い、オカルトのようなものに、屈服しているかのようです。経済的な損得、成功の道を星占い、風水などで、解決しようとする、これが、読み書きを学び、それどころか多くの日本人が高等教育を受けているはずなのに、コンピュータをはじめ、最先端の科学技術を使いこなしているはずなのに、その実態は、精神的な次元においては、ほとんど古代人の次元にもどっているのではないでしょうか。それは、まさに、4000年前の月を拝んでいたウルの人々、メソポタミア地方の人々と変わらないのではないでしょうか。

これは、単に個人のレベルの問題だけではありません。日本という国家のレベルでも、ますます加速度をあげて、引きこもり現象が強まっています。つまり、自分本位の価値観、世界観の殻のなかに閉じこもる傾向を強めてしまっているのではないでしょうか。日本の社会は、かつての計り知れないほど重い戦争責任を忘れてしまっています。その証拠に、今や、少なくない若い人々が、アジアの人々の靖国神社への首相の公式参拝に対して抗議する怒りと悲しみの声に耳を覆い、目を背けています。逆に、「内政干渉だ」と、日本人だけの論理のなかに閉じこもって恥じることがありません。
端的に申しまして、日本の社会は、日本人は、今なお、「ひきこもり」を克服していません。いへ、現実は、ますます危険な状態へと後退しているのではないかと思います。

天地を創造された神を、聖書の生ける、真の神を知らなければ、この方と人間が出会うことがなければ、人間は、日本人は、いつまでたっても自分の中に、まさに引きこもる以外にないのです。たとえどれほど、外の明るい日差しを浴びて、元気に楽しく過ごしたとしても、それは、引きこもった姿でしかありません。どれほど、世界の富を集めることに成功しても、それは、引きこもった姿でしかないのです。

逆に、たとい牢屋にいても、書斎に一日中座っていても、神へと出発しているなら、旅を続けているなら、それは、ますます人間が、人間らしくなる道を前進しているのです。それは、決して、自分を失う旅、自分が縛られてしまう歩みではないのです。むしろ、自分を発見する旅なのです。自由に生きる旅です。人間の尊厳に生きる旅です。新しく創造された自分自身に出会い続ける旅です。アブラハムとは、まさに、自分が新しい自分、もっと深みのある人間、人生を極めるような歩みへと導かれた人間なのです。彼の名前が、アブラムからアブラハムという名前に変えられたことにも、それが暗示されています。信仰に生きるとは、自分自身を完全に生きようとする道のりなのです。

さて、最後に、「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように」を見ましょう。こうして、アブラハムは全人類を祝福する使命を与えられました。彼は、全人類の祝福の源なのです。これは、確かにアブラハムに与えられた約束です。しかし、アブラハムとは私どもの父です。私どもはアブラハムの子といわれています。彼は、神の民、教会の原点なのです。そうであれば、この神の約束は、ひとりアブラハムだけの物ではありません。この御言葉は、私ども教会に与えられた約束なのです。このことを今日、私どもが、真剣に信じているのか、聴き取っているのか、それが問われているのではないでしょうか。
マタイによる福音書第5章に地の塩、世の光のたとえがあります。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

主イエスは、弟子たち、神の民を、このように見ておられます。世の光。それは、言い換えれば、祝福の基、源ということです。この祝福の輝き、祝福の光が世界を照らす。そのために、出発するのです。これが、信仰者、旅人の使命です。旅人は世捨て人ではないのです。天の故郷を目指しているのですが、この地上を旅するのです。この地上にあって、神の祝福を、私どもが受け継ぎ、分かち与えて行くのです。「地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る」私どももまた、この使命を受けているのです。一人アブラハムが主の言葉に従って出発したとき、やがてこの祝福が、日本人にも及びました。私どもにも、及びました。この教会もまた、その実りに他なりません。名古屋岩の上伝道所が、ここで真実に、キリストを主と告白し、時が良くても悪くても、礼拝をやめない。説教し続け、神の言葉を語り続ける。これが、祝福を地上にもたらすことになるのです。さらにまた、祭司として祈り続ける。とりなしの祈りをやめない。そのために、祈祷会の奉仕を担うのです。これも、祝福の源である教会に与えられた特権であり、務めなのです。さらにまた、王として生きることによって、教会はこの地上を祝福します。仕える王です。僕となる王です。これは、私どもの教会がいまだなしえていない、最大の課題がここにあります。言わば、執事的な奉仕に生きることです。

明日は、姉妹会が開催されます。バザーをされるそうです。バザーは、むしろ教会以外のところでしばしばなされます。しかし、私どものバザーは、その収益を外部献金として捧げるのです。これも王の行為なのです。収益は、もちろん何十万、何百万円という金額ではないでしょう。しかし、自分たちの捧げものをお金に換えて、神の働きと働き人のために捧げるのです。もっともっと、教会をあげてこのような執事的な活動を担うことが、神から求められているはずです。たとえわずかなお金であっても、しかし、世界的にみれば、それで、どれだけ氏族、人々が助けられ、命をも助けられるかを、私どもは知らないわけではないはずです。

すべての要は、この故郷、自分自身、自己中心、日本人の常識、世間の風潮、そこからきっぱりと出ることです。旅人として生き続ける事です。人々が、教会は自分たちと生きる向きが違うのだと、分からせることができなければ、日本伝道は、進展しません。ですから日々、悔い改め、日々神へと転回しながら歩むのです。そしてこの福音だけが、日本と日本人を変えるのです。福音がすべて信じる人を救う神の力なのです。この福音なしにどうして、この国が真実に立つことができるでしょうか。旅をする教会は、世捨て人ではないのです。この国が滅びて行くのを黙って見過ごすわけにはまいりません。

皆で、旅をしてまいりましょう。旅の仲間はわずかであっても、主イエス・キリストが共に歩いておられます。しかも既に、この先頭の主は、故郷に到達しておられます。父なる神の右におられます。今、主イエス・キリストは、聖霊によって、私どものこの礼拝堂のただ中にもおられます。私どもは、今、皆で、主イエス・キリストと結ばれた神の民として、足並みをそろえて、まことの故郷を目指して行進しているのです。

祈祷
アブラハムの神、それゆえに私どもの神、主イエス・キリストの父なる御神、私どもも今、あなたへと旅を続けております。主の日のたびごとに心新たに、体勢を整えさせられ、出発いたします。この神の民の旅路を祝福し続けてください。そして、この旅路に加えられる仲間を与えてください。そのために、私どもがいよいよ、はっきりと父の家、自分自身、地上の不信仰の思想、習慣から出て、違いをはっきりと見せることができますように。また、何よりも、目的を過つことがないように、私どもの教会の説教を、すべての営みを真理の御霊が正しく導いてください。               アーメン