過去の投稿2005年10月2日

10月2日

☆   「地上を旅する神の民」それは、アブラハムが故郷、父の家を離れたあのとき(創世記第12章)から始まりました。「自分の外に出る」「神へと出発し続ける」そのような旅人として生きる神の民教会は、世捨て人ではありません。地上のすべての氏族を祝福する源としての約束が与えられ、使命が与えられています。ですから、教会は、預言者、祭司、そして王として生きるのです。先週の説教では、名古屋岩の上伝道所の教会形成の上で残されている課題として、王としての奉仕に生きることであると申しました。

 これは、月曜日の姉妹会でも、集会の冒頭、申しました。(これを、ギリシャ語で、ディアコニアと申します。奉仕、仕えるという意味です。そこから、ディーコン(執事)という教会の職務が整えられました。また、社会「福祉」ということも、このディアコニアから誕生したと言われています。)わたしはこれまでも、「伝道所には、職務者としての「執事」がいません。しかし、教会員全員、教会全体が執事の心、執事的な奉仕を担う共同体となるべきです」と、申しました。開拓初期には、正直に申しまして、この視点が欠落していたと自己批判、反省しています。もとより、広く伝道すること、伝道そのものが、究極の社会奉仕であるとの確信は揺るぎませんし、私どもは、まだまだ広く伝道することにおいても十分ではありません。しかし、教会が正しく、健全に形成されるためには、この「キリストの三職」の働きをかけることなく継承すべきことを、常に覚える必要があります。これは、来年度の教会的課題としても良いのではないでしょうか。

地域の子どもへの伝道(日曜学校)も、広い意味で、この執事的奉仕を含んでいます。親の離婚によって、子どもたちが日曜学校に来れなくなってしまった・・・。まことに悲しい事実を最近知りました。それを食い止めることができなかった私の責任も問われます。さまざまな意味で、心押しつぶされるような悲しみを味わっています。そのような現実に向き合うなら、既にそこで、教会のディアコニアは始まっている。始めるべきなのではないでしょうか。「目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈り入れるばかりになっている」(ヨハネ4:35)「収穫は多いが、働き手が少ない・・・、収穫のため」(ルカ12:2)

姉妹会で、既に川島姉への支援がディアコニアであると申しました。また、私個人としては、かねてより心にある、「ホームレス支援」にも言及しました。「外に出る」こと!これなしに「旅人」としての異質性をこの世に見せること、これなしに伝道の基礎、伝道する共同体が成り立ちません。罪人である人間は、あくなき自己実現、自己欲望の達成を追及しています。この内向き志向の外に出たい。出なければならない。これが、 私どもに問われている神からの挑戦ではないでしょうか。一人ひとりは、弱い者です。しかし、力を出し合い、それを束にしてまいりましょう。また、この奉仕は、個人の領域でも担うべき「こと」もあるはずです。既に、祈りのなかで助けを必要とする誰かが、見えてくる、示されてくる経験を、私どもは重ねているのではないでしょうか。(蛇足ですが、個人的、個別的牧会は、その大前提として牧師の指導・判断の下になすべきことです。それが、教会の常識、教会形成の常識です。)人知れず、僕として、特に信仰の仲間たちへの配慮がなされていることを知っております。みなさまの御奉仕に感謝し、その業が実りますようにと祈ります。

★   雀のお宿での、新任・転入教師の集いには、三分の二以上の教師たちが集い、よき研修、懇談の時を与えられました。全体教会形成の要は、「教師間の信頼関係」にあります。とりわけ、長老主義教会では決定的に大切です。そのために、今回のような自由な懇談・交わりのときを中核にした集いは、とても有意義でした。この集会が、中会の一つの転機になればと切に願います。私も、数年前、名古屋圏の牧師たちの早天祈祷会を呼びかけ、数回行いました。しかし忙しさにかまけて、中断していました。無理のない範囲で、復活させたいと考えております。どうぞ、牧師たちのために祈り続けてください。霊的な奉仕、神と御言葉に仕える奉仕は、人間の力で到底担えません。また、ほとんどの牧師たちは、激務(ただ時間の問題だけではありません)の中で疲れている・・・。これが実際の姿でもあります。アメリカからの宣教師は、「休んでください!」と呼び掛けられました。ある教師が、「休むためにはお金が掛かりますし、そのような時間をとることは、現実は無理・・・」実情は、そのとおりです。わが身を振り返り、これまでまがりなりにも継続できたことの、最大の外的要因、それは、この教会の存在です。「礼拝式仲間」「祈祷会仲間」がいたからです。説教によって生きる会員の姿。週日の祈祷会で、皆様の声に耳を傾けることができること。どれほど大きな力になっていることでしょう。教会が「慰めの共同体」である限り、信仰の戦いは現実的に勝利できます。感謝!!