過去の投稿2005年10月22日

名古屋キリスト教社会館 「みどり子どもセンター」開所式礼拝

名古屋キリスト教社会館 「みどり子どもセンター」開所式礼拝
「主イエス・キリストと共に働こう」

テキスト  ヨハネによる福音書 第9章1節~7節
【さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。】

《説教》
名古屋キリスト教社会館の事業の一環として、ここに「みどり子どもセンター」を開所することが許されました。この大切な営みが礼拝を捧げることをもってスタートしたこと、この事を心から感謝する者でございます。私が社会館の評議員であり、何よりもごく近くで牧師をしている故に、聖書の解き明かしをさせていただく事となりました。しかしご奉仕することがなくても、この式典に出席して祝福を祈りたいと考えておりました。名古屋キリスト教社会館は、どこまでも、キリスト教を冠した法人であります。ですから、礼拝をもってスタートすること、神の導きと祝福を祈り求めること、これなしに良く使命を果たすことはできないと思います。その意味で、心から嬉しく思います。

さて、ある日のこと、イエスさまと弟子が歩いていると、一人の生まれながら目の見えない人を見かけました。弟子たちは、イエスさまに尋ねました。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」この時代の人達は、生まれながら障害を持っていたり、あるいは子どもを産めなかったりする人は、その人自身が隠れて悪いことをしたから神さまの罰を受けている、そうでなければ両親が悪いことをしたので罰を受けていると考えておりました。

 このような考え方は、今日でも我々の周りにあります。ある人々は、人間は、死んでは生き、死んでは生き、いつまでもそれを繰り返すのだと仰っいます。輪廻転生と申します。また、因果応報という教えもあります。前世、過去世の因果によって、現世にこのような不幸があると申します。
しかし、聖書は証ししております。真の神は、人間をただ一度「この私」としてお造り下さったのです。何よりも、主イエスはここで仰いました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」イエスさまは、そんな嘘の教え、間違った教えを許されません。生まれる前にどんな悪いことをしたのかなどを考えても、もはやどうすることもできません。もしもこの目の見えない人に、そんなことを言ったりしたら、この人はどんなに悲しい気持ちになるでしょうか。どれほど辛いでしょうか。
さて主イエスは、愛する弟子たちまでこのようなことを言いだしたので、心に決められました。「神の御業をこの人に、そして弟子たちにも見せてあげなければならない。」そして仰いました。「どんな障害をもっていても、神の御業がこの人の上に現われるのです。」

この御言葉はどのような意味を持っているのでしょうか。主イエスは、弟子たちを、そして今ここにおります私どもを、前に、将来に向かわせられます。神に向かわせます。つまり、「神の業が現れることを期待しなさい。信じなさい。」と命じられます。そして、それだけではありません。こう呼びかけられました。これこそ、名古屋キリスト教社会館の働きを支える主イエスの招きであります。「あなたたちも、わたしと一緒に、神さまの栄光のために働くことができます。だから、私と一緒に神のために働きなさい。」

さあそれなら、主イエスはここでどのようにして神の御業、神さまの栄光を現されるのでしょうか。主イエスはすぐに、しゃがみこまれました。そして、地面の土に唾を吐きかけられます。何をしておられるのでしょう。土をこねておられます。泥んこ遊びのようです。しかし、真剣になさっています。
聖書の中の創世記をひも解きますと、最初の人間は、神が土から造られたと記しています。つまり、ここで主イエスはつくられた泥を、この人の目に塗られることによって、「わたしこそ真の神、わたしが治してあげます。」と言っておられるのです。そしてさらにその後すぐにこう仰いました。「シロアムの池に言って目を洗いなさい。」シロアムという名前の意味は、「神さまから遣わされた者」という意味があります。つまり、主イエスのことに他なりません。

この人は、言われたとおり、シロアムの池に行きました。するとどうでしょう。イエスさまが仰った通り、目が見えるようになったのです。イエスさまのところに来て、イエスさまの言葉を信じたとき、神さまの栄光を見ることができたのです。この人だけではありません。誰でもイエスさまを信じれば、神さまの御業を見ることができるのです。

このセンターの働きもまた、主イエス・キリストが既に働いておられる御業のお手伝いであります。主イエス・キリストは、私どもに何が原因で、障害があるのかなどと問わせません。主イエス・キリストと共に働くなら、神の御業が現されると約束しておられるのです。その事を信じる故に、皆様のお働きが豊かに支えられますようにと祈ります。ここは教会ではありませんから、主イエス・キリストを直接に紹介することはないでしょう。しかし、主イエス・キリストがここに出入りする幼子をそのご両親を愛しておられる事、愛の眼差しで見ておられることを信じるなら、そしてわずかでもその愛とその眼差しをもって働くなら、皆様は、神の御業を主イエス・キリストとともに担うこととなっているのであります。

祈祷
主イエス・キリストを遣わされた父なる御神、このセンターの働きを祝福してください。その働きによって、ここに出入りする方々の上にあなたの御業が、その栄光が現われますように導いて下さい。アーメン。