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「神の友の勝利 -アブラハムの模範⑦-」

「神の友の勝利 -アブラハムの模範⑦/7-」
       2005年11月6日

テキスト 創世記 第22章1節~19節

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」
アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。

「アブラハムよ」、私どもに今朝、与えられたこの物語は、この神の呼びかけによって始まります。アブラハムとは、私ども神の民である教会の父祖、信仰の父に他なりません。つまり、私どもキリスト者とは、アブラハムの子孫、アブラハムの子らなのです。そして、アブラハムの神は、私どもにとっても、今生きておられる神です。その神を今ここで私どもはともに礼拝しているわけですから、この「アブラハムよ」との呼びかけは、この物語の読者である私ども自身への語りかけでもあることを確認したいいと思います。そのような態度を決定して、この物語を学びながら、ともに礼拝をささげてまいります。

すでに、聖書朗読を聴いたとおり、この物語は、まさに信仰の究極の試練の物語です。最初に、「神はアブラハムを試された」と教えられています。神はアブラハムに試練を与える、試験するといってもよいでしょう。試すのです。その信仰が本物かどうかを試すわけです。

その内容は、にわかには信じがたいものです。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物として捧げなさい。」
信仰のない方が、この物語の、この部分だけを読んだ場合、どれほど憤慨なさるだろうかと思います。ほとんど誰でも、納得いかない、躓くのではないかと思います。そもそも神が人間の命を、しかも自分の子どもを殺して、自分へのいけにえとしろ、などと要求する宗教や教えがあるなら、少なくとも法治国家であれば、その活動を禁止すべきであると考えるのではないでしょうか。

いや、未信者の方よりむしろこの物語を今日まで6回にわたって学んでまいりました私どもこそ、納得行かないのではないでしょうか。それより何より、この命令を受けた当事者となったアブラハム自身は、どうでしょうか。彼は、誰よりもよくイサクとは誰なのかを知っています。それは、自分の子、しかも直系の子、愛する独り子に他なりません。またそれは神ご自身こそ、よく理解していてくださるはずなのです。神が、こう呼びかけておられます。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサク」

しかもここでの恐ろしいほどに問題なのは、ただ愛する独り子を殺し、捧げるということの人間として、父親としての苦しみ、悲しみにとどまるものではないのです。つまり、このイサクとは、神の約束のしるしそのものを意味することです。ヘブライ人の手紙第11章に「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。」とあります。

イサクとは、神がアブラハムに約束してくださった目に見える証拠であり、彼の信仰への応答なのです。イサクこそは、彼の子孫として、天にきらめく星のように増え広がるべき子孫なのです。その子孫を与えてくださることは、神ご自身の約束のまさに中心でした。

そもそも、アブラハムが、自分の生まれ故郷のカルデアのウルを捨て去って、信仰へと、神へと旅立ったのは、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」この、神の呼びかけを聴いたからでした。しかもその呼びかけのなかに、アブラハムへの祝福、大いなる国民にするということが約束されていたのです。

このとき以来、彼には、様々な信仰の戦いがありました。実に、75歳から100歳になるまでの25年の月日とは、神が約束されたとおり、妻サラとの間に、子どもが与えられるというこの神の御言葉は本当に成就するのか、本当に実現するのかという一点にありました。そこで、待つことができずに、服従し、委ねることができずに、奴隷のハガルとの間に子を設けて罪を犯したことがありました。しかも神は、このアブラハムの罪、不信仰、不従順の一つ一つに、ご自身の御言葉をもって介入し、導き、励まし、尻拭いすらしてくださいました。そしてとうとう100歳にまでなったのです。しかついに、遂にサラが身ごもったのです。そして、イサクを産んだのです。つまり、イサクこそ、神と共に生きたアブラハムにとって、イサクこそ、神が生きておられことの証拠なのです。イサクこそ、信じ、従って生きたことがどれほど大きな祝福であったかを証明する証拠なのです。イサクこそ、自分の全存在、自分の人生、自分の信仰、自分のすべてのすべてなのです。

イサクを失うということは、アブラハムの過去のすべてを失うことを意味します。そもそもアブラハムが生まれ故郷を捨てたことは、自分の過去と断絶する、遮断する、自分の過去を葬りさったことを意味します。すでに75歳になっている人間が、自分の過去を放棄したのです。これは、大変な決断であったはずです。しかし、それは、一方で、輝かしい新しい人生、まことの将来を望み見てのことであったでしょう。

ところが、今、よりによってその神が、そのイサクを殺しなさいとお命じになられるのです。それは、生まれ故郷ばかりか、神の友として、新しく出発して経験させていただいた信仰の生涯、大切な宝物のすべてを、もう一度、自分で葬り去れということを意味するのです。カルデアのウルでの古い生活だけではなく、これまでのおそらく40年余りの信仰の生活、経験、宝をも放棄させ、断絶させられるのです。

しかも、すでにアブラハムは高齢者です。イサクを失うことは過去ばかりか、未来、将来を捨てることをも意味します。自分の子孫が満天の星のように多くなるどころか、独り子を失うのです。つまり、過去も未来も、そこにかかわる神の祝福も、そこに一切をかけてきた自分自身の生涯をも、そのことごとくをを失うこと、捨て去らせることを意味するのです。いったい、これほどの試練があるかと思えるような、まさに空前絶後のような試みです。

さらに、恐ろしいことがあります。そのようなことを命じる神ご自身が、自己矛盾を起こすことになると考えられるのです。神ご自身の側にたっても、そんなでたらめな話はない。ご自分がどれほど、イサクを与えるために、アブラハムを訓練し、アブラハムを養い、やさしく導き、その約束の真実を貫いて、ついに100歳のアブラハム、90歳の不妊の女性サラから、まさに奇跡を起こして与えたイサクを、ご自身で亡き者とするのです。イサクを通して人類を救いと祝福に導こうとされたご自身の計画を、今、ご自身で壊してしまわれるわけであります。

さて、この神の命令を、アブラハムはどのように受け止めたのでしょうか。「次の朝早く」と御言葉は告げます。これは、かつて「割礼」を施すことを命じられたとき、男子を皆集めて「すぐその日に」、命じられたとおりに実行したことを思い起こさせられます。つまり、アブラハムは、ここで、幾日も思い悩んで、決断を渋ったのではありません。

次の朝はやく、アブラハムとイサク、そして二人の若者の四人は、さっそく信仰の旅を始めます。三日の道のりを歩きます。イサクと二人の若者にとっては、楽しい旅であったのではないでしょうか。しかし、一人アブラハムだけは、息子がたくましく、素直に育っているのを喜びながら、しかし、それだけに、言うに言えない悲しみと苦しみのなかで、歩き続けたと思います。

そして、遂に、目的の山が見えます。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」アブラハムは、若者たちを連れて行けば、この二人に邪魔されてしまうかもしれないと考えたのかもしれません。

これまでの4人の旅路は、おそらくイサクにとって若い二人の仲間もいて楽しい旅路であったでしょう。しかし今、父アブラハムの顔つきを見れば、声をかけることもはばかられるような、険しい面持ちであったのではないかと想像します。今、沈黙だけが、この二人の足取りを支えています。しかし、とうとうこの沈黙に耐え切れずにイサクは言います。「わたしのお父さん」これは、信頼と誇り何よりも愛情と親しみを込めた呼び方です。アブラハムも、「ここにいる。わたしの子よ」と答えます。何気ない会話ですが、この親子の絆の深さがよく読み取れます。

そこでイサクは、おそらくずっと尋ねたかった質問を、正直に申します。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす捧げ物にする子羊はどこにいるのですか。」「きっと、神が備えてくださる。」こういうのが精一杯であったでしょう。まだ、ここでは、わたしの愛する独り子よ、神はあなたを捧げなさい、焼き尽くす献げ物にしなさいとお命じになられた」とは告げません。ためらいがあったのではないでしょうか。そして、ここでのアブラハムは、神が、焼き尽くす献げ物を備えてくださると答えたとき、彼は、わが子を殺さないで済む方法があると考えていたのでしょうか。私どもはこの後の出来事を知ってしまっているのですが、あらためて、何故、彼がここでこのように言ったのか、言えたのか、これは実に深い問題であると思います。イサクを騙す意味でしょうか。イサクにここで本当のことを告げたら、イサクが逃げると思ったからでしょうか。分かりません。しかし、イサクはすでに、幼児ではありません。動物を焼き尽くすにたりるだけの薪を背負っているのです。二人の青年たちが運んだであろう、薪を背負えるだけのすでに充分に育っている、青少年です。驚くべきことに、イサクは、ここで「お父さん、何をするのだ、やめてください。」なとと、父アブラハムと争ってはいません。少なくとも、逃げ出せたとはずです。アブラハムはイサクを縛りましたが、そのためには、普通に考えれば、イサクが協力したと思います。つまり、イサク自身も、この神のみ業に積極的に応答しているのです。自分の命を父アブラハムに差し出し、もって神に自らを差し出し、積極的に捧げるのです。これが若い息子、イサクの信仰なのです。

アブラハムは、演技とかパフォーマンスではなく、本気で、今、刃物をとり、ほふるために、振りかざします。しかしまさにそこで、神のみ声が、最初のときは、「アブラハムよ」と一回の呼びかけでしたが、ここでは、早口で、「アブラハム、アブラハム」と二度、呼びかけられます。そして、「その子に手を下すな。何もしてはならない。」と神がお命じになられたのです。そしてその直後に、何よりも、この物語を紐解く鍵となる御言葉がここで語られます。

「あなたは神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。」つまり、ここでの試練、この神からの試みは、アブラハムが本当に神を畏れる人間であるかどうか、言葉を変えれば、信仰が本物かどうかを問うためのものであることが分かります。そして、聖書の言う、信仰とは、神を畏れることであるということがここで明らかにされたのです。信仰とは、言わば名詞ではなく、動詞、信じるという動き、神の御言葉に従うという動きのことなのです。行いの伴わない信仰ということは、聖書がもともと知らない信仰の理解といって構いません。信じることは、従うことなのです。そして、アブラハムはまさに神に従ったのです。アブラハムは、自分の理性、自分の計画、自分の判断に従いません。神の御言葉に従うのです。神の正義、神のご意思に委ねて、従うのです。

神を畏れる信仰とは、このように言うこともできます。自分の人生のすべてを、神から受けた祝福、賜物、贈り物と認める信仰ということです。彼は、自分の幸福、成功、祝福を、決して、自分の努力で獲得したものだと考えなかったのです。この地位、この幸いに至ったのは、自分の健康、自分の才能、何よりも自分の努力、才覚のお陰である。このような思い、考えを、ことごとく放棄することを迫られたのです。そして、アブラハムは、そのとおり放棄したのです。イサクは、まさに神がお与えくださった宝物であって、つまり、神のものなのです。いへ、アブラハムという人間、自分自身が神のものなのです。彼は、神なしに、自分の存在を考えていないのです。これが神を信じること、神を畏れることなのです。

使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一第15章で、「今あるのはただ神の恵みのみ」と言いました。それは、まさにこのアブラハムの信仰そのものに通じます。アブラハムも、神の御前に、文句も言わず、不平を言わず、自分が今ここにあるのは、ただ神の恵みのみなのだ、だから、イサクに対して、自分は権利がない、神に権利を主張し、そんなことには従えないと言えない。だから、従うのです。その意味では、神の御言葉に降伏すること、負けることです。しかし、御言葉に負けること、委ねて、従うところに、実は、アブラハムの大勝利があるのです。神の友と呼ばれるアブラハムは、神に降参し、神に従うところで、まさに人類の祝福の源となったのです。
自分の過去も未来も、自分で確保しない。自分で完成させない。すべては、神に委ねる。自分の現在の幸せ、安定も決して自分のものではないと認めること、これが、アブラハムの信仰なのです。神を畏れる信仰なのであります。

そうであれば、結局、ここで問われることは、私どもの教会の信仰の志であり、ウエストミンスター大小教理問答の問い一が明らかにしている真理に他ならないと思います。「人間の主な、最高の目的は何であるか。答え、人間のおもな、最高の目的は、神の栄光を現し、永遠に神をまったく喜ぶことである。」神の栄光のために存在させられているのが、人間であるということです。この度、私どもは、この教会堂の正面に「Soli Deo Gloria!」という文字を刻みつけました。これをもって、私どもの教会の信仰の心を神に表明している、したいのです。信仰告白です。そして、アブラハムが、イサクをささげる、その行為こそ、ただ神の栄光のために、という心と態度に他ならないのであります。

神の友アブラハムに、神は、この試みを通して、やがて、ご自身の御子、独り子を、ご自身の御手によって、裁き、殺し、ご自身へのいけにえとされることを、予告しておられることを、新約聖書を与えられた私どもは、はっきりと読み取ることができます。私どもの主イエス・キリストが、私どもの罪を償う贖いの代価として、モリヤの山、おそらくそれは、エルサレムをさしているのでしょうが、このエルサレムの神殿の外で、十字架の上でほふられたことを知っています。その神の犠牲によって、私どもを今、真実に神の子、救われていることを確信しているのです。おそらくアブラハム自身もまた同じように、受け止めたのではないかと想像します。

ここでも、そのような神の御心を読者に伝えることができるのは、アブラハムが神に従ったからです。神に従うことが、その人自身だけではなく、彼に続く者たちにとってどれだけ生命的に重要であるかがわかります。
今日の日本の教会も、日本のキリスト者も、今、ここで神に従うことがなければ、明日の教会を殺すことになるのです。その意味で、私どもが、戦前戦後の日本の教会の過ち、不服従、神を畏れず、日本とその権力者、この世に迎合し、なびいた罪を認め、悔い改めて、新しく今ここで、神の栄光のために、御言葉に従わなければ、本人の問題だけではなく、後の者たちを祝福することができないのです。家庭のなかで、ただ一人のキリスト者であれば、自分がまさに祝福の基として、従うことが、子孫の祝福につながるのです。

アブラハムは、ここで神を畏れる者として、イサクを祝福していただき、さらに、イサクを通して、ヤコブへ、ヨセフへと、そしてここにいる私どもへと祝福は受け継がれて行くことになったのです。心からアブラハムの信仰に感謝したいと思います。しかし何よりも、決定的な祝福こそは、主イエス・キリストの信仰です。御子は、ご自身を喜んで、十字架の上に犠牲としてささげてくださいました。御父は、御子を私どもの罪の贖いの代価として、ほふってくださったのです。この方のおかげで、私どもは、あるいは日本の教会は、なお赦されて、ここに存在しているのです。戦前、戦中、そして戦後に至るまで。神と人に罪を犯し続ける日本の教会であっても、なお、この主イエス・キリストのみ業のおかげで、祝福を受け継ぐことが赦されるのです。悔い改めて、主イエス・キリストと結ばれれば、私どもは、この主と一つになることができるからです。

キリスト者とは、また、ここで神にささげられ、言わば死から戻された、イサクその人と重なっていることを思います。十字架の上で一度死んだ人間。主イエスとひとつに結ばれた洗礼を受けた人間であれば、まさに主イエスとともに一度死んだ人間であって、今は、主とともに甦らされて生きている人間であります。そうであれば、今生きているのは、ただ恵みによるのみのはずです。ですから私どもは、もはやこれからは信仰によってのみ生きる以外に生きる道はないはずです。しかも生かされている目的、使命は、イサクを通して、救いが全世界に波及し、人類を救う源となったように、私どももまた、神の栄光のため生き、隣人を救いと神の祝福に招き入れるために生かされている、死人のなかから取り戻された人間なのです。イサクと同じように、人類の祝福の源となるのが、アブラハムの子孫、イサクの子孫なのです。それが、キリストの教会であり、その務めなのです。

神は今日、自分の子を焼き尽くす献げ物としなさいとは、決してお命じにはなられません。何よりも、神ご自身がそれを、真実に、ご経験くださって、私どもの救いを完成し、揺るぎなく確かなものとしてくださったからです。ただし、私どもにも、信仰を試されることは、今日も続いています。私どもは今日、ここで、神の民として、また個人個人としても、問われています。

職業生活のなかで、家庭生活、子育ての中で、学業のなかで、あなたは、それを神のためにしているのか、神を畏れて、それをなしているのかと問うてくださいます。あなたは何のために生きているのか。人生の目的を、信仰とは何かを、はっきりわきまえて旅をし続けているのかと問われています。そして、私どもは、ただ、この教会堂の正面にSoli Deo Gloria!と単なる飾りとして刻んだのではなく、私どもの教会の信仰として、告白するのです。一人ひとりが、わたしの生きる目的は、ただ神の栄光のためにですと感謝をもって信仰を告白し、これを生きるのです。これが、私どもの礼拝生活です。ここでなしている礼拝式での行為です。賛美、祈り、説教聴聞、献金、聖餐と、ここでする一つ一つのプログラムに全霊を傾けるのです。そして、それによって、日々の生活においても、神から「あなたが神を畏れる者であることが分かる」と、究極のお褒めの言葉を頂くように励むのです。どんなにつたない歩みであっても、社会生活で、家庭生活で、人々からうらやまれるようなことは何一つなくても、そのようなことが問題になるのではありません。ただ、神の栄光のために、精一杯、御言葉に生きる、自分に求められている使命を意識し、ここで、繰り返し、神のみ声を聴いて、自分のなすべき奉仕をこつこつとなし続けてまいりたいのです。

そして、たとえ私どもがその信仰の生活に倦み、疲れてしまい、アブラハムのこの大勝利ではなく、失敗の歴史を重ねてしまっても、そこで、あきらめたり、開き直らないのです。私どものために、父なる神が、その独り子を十字架で犠牲にしてくださったそのまことの勝利、この勝利に飛び込んでゆく、逃げ帰るのです。そこで、私どもは、赦しを受け、聖霊を注がれ、立ち上がることができます。自分をあらためて、神のものと認め、今あるのは、ただ恵みによるのです。わたしの生活は、ただあなたから与えられ、支えられ、いつでも、あなたのものですと信仰を新しくするのです。

祈祷
アブラハムの神、イサクの神、それゆえに私どもの神よ、アブラハムの服従の業を通して、あなたは御自身の計り知れない救いの御心を、十字架の御苦しみ、苦難を私どもに見せてくださいました。御子をほふられた十字架の愛のみ業、主イエス・キリストの十字架と復活のみ業のお陰で、恵みによって、信仰が与えられ、罪赦され、神の子として生きる祝福の生活に導きいれてくださいましたことを心から感謝申し上げます。主イエス・キリストの父なる御神よ、どうぞ、私どもにもアブラハムのように、またイサクのように自分のすべてはあなたから受けた恵み、贈り物、幸いであると、神を畏れるまことの信仰へと養い続けてください。自分の幸福のために、神を利用し、自分の正しさを証明するために、信仰を利用するようなおそるべき罪から守ってください。信仰の従順こそ、あなたに喜ばれ、神の栄光を現すことであると確かな思いで信じ、生きることができますように。アーメン。