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「神の約束を実現する信仰」

「神の約束を成就する信仰」       
2005年11月20日
テキスト ローマの信徒への手紙 第4章13節~17節  

「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。
律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。
実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。
従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。
 「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。」

ローマの信徒への手紙を中断して、アブラハムの生涯を七回渡って学び続けました。9月の18日から、2ヶ月間もの間、ローマの信徒への手紙から離れてしまいました。しかし、説教者の心の中には、いつもこのローマの信徒への手紙第4章が意識されていました。ただ、わたしじしん、最初は、2回ほど創世記からアブラハムの生涯を学べば、それで、戻るものとばかり予想していました。しかし、この学びは、少なくとも私自身にとっては、実に豊かな恵みを受けました。
皆様のなかには、もしかすると、何故、これほどアブラハムに飛んでいってしまい、不思議に思われる方が、もしかしたらおられるでしょうか。

先週、説教の分かち合いを行いました。最近は、まったくわたしは皆様の分団に入っていません。それは残念なことでもあります。娘との会話のなかで、先週の説教を短く、おそらく一、二分で要約して見せました。ざっとそのときのわたしの話を、これは初めての試みですが、再現してみたいと思います。

「結局、今日の説教で大切なことは、アブラハムが神さまを畏れていたことだよね。アブラハムは、神さまがイサクを捧げるように命じられたことを、どうして受け入れることができたのかって言うと、神さまの御言葉を信じて従ったからだよね。つまり、それが、神さまを畏れ敬うってことなんで、畏れ敬うっていうことは、恐ろしいなぁとか、怖いなぁと考えたからではないんだよね。それじゃあ、何で、神さまを畏れ敬うことができたのか、それは、これまで、アブラハムの人生を神さまがどれほど恵み深く、導いてくださったのか、アブラハムがよく分かっていたからだよね。イサクという大切な独り子を与えてくださったのも神さまだったし、すべての祝福は神さまから恵んでいただいたもの、神さまの贈り物、神さまのものだって分かっていたのでしょう。しかも、神さまが、アブラハムが成功したときだけではなくて、失敗したときも、憐れんで、それこそ尻拭いまでしてくださったから、畏れ敬うことができたんだ。神さまが、どれほど愛に満ちて、恵みに満ちたお方であるか、それは、アブラハムの生涯が証しているよね。アブラハムの生涯を学び終えるってことは、神さまが、一方的に恵みをもって、わたしたちを選んでくださり、恵んでくださり、愛しておられることを知るってことでしょう。ただ恵みのみによってアブラハムの人生は成り立っているわけだ」

娘は、「そんな話なら、もっと単純に言えば、よく分かるのに。」とこう切り返されました。それには、うなずくしかありませんでした。

なぜ、こんな話からローマの信徒への手紙の第4章13節からの説教を始めるのでしょうか。「そんな話なら、もっと単純に言ってくれれば、よく分かるのに」これは、実は、本人には分かっていないと思いますが、実はとても深い問題提起です。そもそも、このローマの信徒への手紙とは、どのような書物、手紙なのでしょうか。難しいといえば、これほど読んでもよく分からない、難しいと批判されてしまう書物も珍しいかもしれません。その逆に、まさに教会の歴史のなかで、このローマの信徒への手紙以上に、世界の歴史を変革し、新しい時代を切り拓くことになった聖書の書物もまたありません。

それは、あまりにも解釈が難しい書物であって、歴史のなかで、わずかの人だけが、この書物を真実に解明できないのだ、などというのではありません。むしろ、私どもはその難しいという先入観をとることが大切でしょう。
もとより、日本人である私どもにとりまして、律法だとか、割礼だとか、アブラハムだとか、まさに教会来て、旧約聖書を読まなければ、話題にもならない事柄ですし、普通の学校では学びませんから、遠い世界のお話のように最初は誰でも思います。おそらくキリスト者の子どもや、日曜学校の生徒、キリスト教主義の学校で学ぶような背景がなければ、誰でも、同じところを通ります。とにかく、旧約聖書を読んで見なければならないでしょう。
しかし、ローマの信徒への手紙とは何が書かれているのでしょうか。乱暴からもしれませんが、第1章から第8章までは、そしてそれがこの手紙のなかで、もっとも重要な部分なのですが、それは、結局、一つのことを繰り返しているのです。

それは、神さまは人間を、ただ恵みによって、信仰によって、罪を赦し、義と認めてくださるのだ。この一点です。入り組んだ議論があるのは、確かです。今朝、与えられているテキストも、パウロならではの込み入った議論のように思えます。娘ではないですが、パウロ先生、要するにいったい何がここで言いたいの?と尋ねれば、使徒パウロはどのような顔をするでしょうか。これは、何もパウロが論理的な語り方が上手ではないということではありません。むしろ、人間の罪がこんがらがっていて、それを解きほぐすために、一生懸命になると、ローマの信徒への手紙が必要となるということなのです。パウロ先生ならそのような質問になんとこたえるのでしょうか。わたしが想像するのに、第1章の16節で、「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」この御言葉を教えられるのではないかと思います。

パウロがこの第4章でしてみせたこと、それはこの信仰の真理、福音の真理、つまり救いの恵みをアブラハムというひとりの人間、信じる者すべての父である実例を挙げて、証拠だてているのです。アブラハムを正しく思い出せば、救われることは、ただ信仰によるのだ、ただ恵みのみによるのだ、よく分かるでしょう、と訴えているのです。

そのために、私どもは、先週まで、7回にわたってアブラハムの生涯を学んだわけです。本日は、あらためて使徒パウロからの言わばアブラハムを用いてなした説教の要約から学びます。

パウロは、キリスト者として、言わば旧約聖書の最重要人物のひとりであるアブラハムの生涯を一言で言って見せようとする、そうすれば、この手紙で明らかにしたいことを見事に言い表すことができる、そう信じているのです。それが、ここでのパウロの議論なのです。つまり、信仰によって、恵みによって、アブラハムはアブラハムという人間になったということです。それは、世界を受け継がせるほどの祝福を受けることでした。いわば全人類、全民族の信仰の父となることができた人間ということです。

そもそも、アブラハムが聖書に登場するのは、第12章でした。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」ここで明らかにされたのは、神がまさに一方的に、アブラハムを選ばれた。アブラハムを祝福し、大いなる国民とするという約束でした。その約束を受けるためにはしかし、神の御言葉に従って、父の家を離れることが必要でした。そして、アブラハムは、そこで、主の言葉に従って旅立ったのです。これこそ、決定的なアブラハムの信仰の旅たちであり、祝福への決定的な第一歩となりました。

そこから進んで第15章です。そこで、アブラハムは、子どもがいない自分たちの現実をもって、神に、家を継ぐのは、自分のもっとも信頼している奴隷であるダマスコのエリエゼルに決めていますと、神に申し上げます。ところが、神は、夜、アブラハムを外に連れ出し、満天の星、おそらく我々現代人が見たこともないようなきらめく星ぼしを見上げさせながら、アブラハムの子孫は、まるで天から零れ落ちるようなあまたの星の数になると約束されました。そして、このとき、6節の有名な御言葉、パウロがそっくりそのまま第4章3節に引用した言葉が記されるのです。「アブラハムは、主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」

そしてそこからさらに進んで、第18章では、イサク誕生の約束が与えられました。第18章18節以下にこう記されています。「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」

ここでは、さらにアブラハムの子孫は、世界中の国民、全人類の祝福の源となるというとてつもない祝福、約束が交わされるのです。一方的な、選びの恵み、祝福の約束が交わされ、神はそれを成就することを自らに誓い、率先してその約束を成就してくださるとのご意思が明らかにされたのです。神は、アブラハムに約束された祝福を成就したくてならない、そのような神の恵みがこの御言葉からあふれ出ています。たったひとりの人間を全人類の祝福の根源とするという、ほとんど言葉であらわせないような、恐ろしいばかりに巨大な祝福を、一方的に約束してくださったのです。

さらにさらに、そこから進んで、先週の物語であります。第22章では、アブラハムが神の命令に従って、その独り子のイサクを神に捧げなさい、全焼のいけにえとして、ほふりなさいと命じられます。おそろしいばかりの祝福の後に、おそろしいばかりに巨大な試練を与えられました。しかし、彼は、即座に主の言葉に従いました。自分のこれまでの全人生、過去も現在も将来の祝福も一切合切、ただ神の恵みのみに基づくのだとわきまえたからです。ですから、イサクはそもそも主が与えてくださったものであり、主のものですから主にお返しするのです。そこに、心が破れてしまうような苦悩があったことは、容易に想像できますがしかし、彼は、神を畏れ敬って、御言葉に従ったのです。ところが、神は、ご自身の命令をご自身で留められました。そして、さらに確かにさらに大きな祝福の約束をもって、アブラハムに望まれたのです。第22章16節以下にこのように、記されています。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。」

ここでは、天の星を越えて、海辺の砂です。まさに、数えられません。ほんの一握りの砂であってもその粒を数えることは困難です。神の恵みがアブラハムを追い続けるのです。アブラハムは、神のその一方的な恐ろしいまでに大きな祝福を、ただ、信仰によっていただいた人間なのです。アブラハムという人間のどこに優れた才能、全人類を救いに導く、神の祝福に導くに足りるだけのいわば天才があったのでしょうか。能力、人格、業績があったのでしょうか。考えてみれば、何もないのです。ただ、彼は、神の言葉を信じただけです。神の約束を信じただけです。しかし、そこに神が全人類の祝福の根拠を置かれたのです。

使徒パウロが言わんとしたことは、そこです。アブラハムが偉大なのは、アブラハム自身が偉大であるからではないのです。ユダヤ人は、アブラハムを誇るのです。しかし、それは、アブラハムが偉大な人間であり、自分たちがその偉大なアブラハムの子孫であるということを誇るのです。自分たちは、アブラハムの子孫、その後で、モーセによって神の言葉、契約の言葉、神の律法、十戒を与えられます。その律法を誇るのです。確かに、律法はすばらしいものです。それは、使徒パウロ自身が、どれほど強調しているか、ローマの信徒への手紙第7章では、律法は霊的なもの、聖なるものであるとはっきり言い表しています。ところが、ここで第15節では、「実に律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません」と言うのです。まるで、パウロは矛盾している、どちらが本当のこと、どちらが本音なのか、分からないという批判の声も聞こえてくるかもしれません。あなたは言うことが、その場で違っているということでしょう。しかし、パウロは、一貫しています。ここで律法が、怒りを招くものであるといわれてしまうのですが、律法自らは聖なるものでありながら、それを守れない人間の姿、その事実のゆえに律法と人間との本来の関係が壊れてしまっているのです。

ユダヤ人の誇りは、自分たちは異邦人のように、律法を持っていない人間ではない、律法を知らない人間ではない、善悪の規準をきちんとわきまえている、何よりも、神の祝福をアブラハムによって受け継いでいる人間である。この事実のゆえに、自分たちが神の祝福にあずかっていることは間違いないと豪語するわけです。
しかし、パウロはそれを木っ端微塵に吹き飛ばそうとここで議論しているのです。アブラハムの偉さ、偉大さ、約束は、彼が律法に頼っているからなのか、律法を生きているからなのか、神がアブラハムに御目を留められたのは、アブラハムが律法を守って生きているからなのか、どうかです。

アブラハムの人生からはっきりと見えるのは、神は、恵みによって選び、人間はそれを信仰によって受け取ることです。そこに、祝福したくてならない神の約束が成就するのです。

キリスト者とは、血筋の問題ではありません。親が、肉親がキリスト者であるから自動的に祝福が受け継がれるのではないのです。この点で、私ども日本キリスト改革派教会は、幼児洗礼を重んじるだけに、この点を誤解してはならないと思います。洗礼を施せば、もう安心。神の祝福は、洗礼によって自動的に注がれてゆく。それは、違います。実際に、幼児洗礼を受けながら、教会生活をしていない方々は、少なくないのです。そこで何が問われるのでしょうか。たとい自分の親が牧師であるとか、立派な信仰者であるとか、それで子どもが自動的に信仰の祝福にあずかるということは言えません。ユダヤ人は、アブラハムの子孫である、だから自動的に神の祝福にあずかっていると考えました。けれども、パウロはそのような誇りやうぬぼれには、まったく根拠がないと言うのです。

もしも、私どもがどこかで、神の祝福を約束されているのは、自分がなにほどのものであるかなどといううぬぼれを抱いているのなら、それはなんとも愚かなことです。勘違いもはなはだしいのです。私どもキリスト者は、ただ罪人でしかないはずです。主イエス・キリストによって贖っていただける資格だとか、才能だとか、いわんや血統、血筋などありません。ただ、主に拾っていただいただけです。御言葉をかけていただいただけです。私どもに今、ここで説教が聴こえる、神の言葉が聴こえる、それが、どれほどの恵みであるのか、聖書が分かる、この御言葉がわたしを捉え、わたしを生かし、わたしに永遠の命を保証していてくださる。この御言葉が生きておられる主イエス・キリストと深く結び合わせてくださる。それを経験することができるのです。

アブラハムの子孫とは、ただ、約束を信じる人のことなのです。アブラハムがただ信仰によって、神の約束を体験し、そのとおりになったことを、私どももまた、7回の説教でわきまえたはずです。アブラハムとは、全人類、しかし、神を信じるすべての国民、民族の父なのです。

昨日、日曜学校の降誕祭の準備、練習のために、小学生の女の子10名が、先生と一緒に、教会堂に来られました。わたしは牧師室におりましたが、一人の子が、お祈りをされました。祈っている内容は、よく聞こえません。しかし、大きな声で、しかも、執り成しの祈りをしていることは分かりました。まさに涙が出るほど嬉しく思いました。後で、先生から伺いました。その子は、「明日も皆が神さまが呼んでくださる声を聴いて、教会にこれますように」と祈られたということです。先生も、びっくりしたというのです。わたしもさらに、嬉しくなりました。そして厳かな思いが致しました。おそらく毎週の日曜学校の礼拝式で司式者の言葉や、分級での先生が祈った祈りを聞いていてそれを真似したのでしょう。すでに身についていた信仰の言葉、理解であったのかもしれません。そうであれば、その女の子が、自分もまた神さまに招かれて、呼ばれて日曜学校に来ているという現実を信仰によって受け止めることができているとしたら、まさに、それが信仰なのです。小学生の子であろうがなかろうが、洗礼を施されていなくても、彼女もまたアブラハムの子孫であるのです。私どもの小さな兄弟であり姉妹であるのです。

律法を守って生きているから自分は、アブラハムの子孫であり、アブラハムの祝福を継承していると考えるのは、まったくの勘違いなのです。ユダヤ人は、そのような間違った誇りを捨てるべきなのです。捨ててよいのです。ただ、神の一方的な約束をユダヤ人も、そして私ども日本人も、大人も子どもも、男性も女性も、健康な人も病を患っている人も、社会的な立場のあるなしなど、それら一切に関係なく、神は祝福を約束していてくださるのです。それを、私どもは信仰によって受け入れてよいのですし、受け入れるべきなのです。そして信仰をもって受け入れる人に、神の救いが成就するのです。

そうであれば、私どもが、実際の信仰生活においてどれほど挫折を経験したとしても、それが私どもの決定的な、あるいは致命的な失敗とはならないことも明らかではないでしょうか。実勢の信仰生活、それは、もとより、私どもは神が与えてくださった律法を生きること、神の掟、十戒を守ることに全力を注ぎます。律法は聖なるものなのです。しかし、もしも、律法を守ることができたから、自分はアブラハムの子孫であるとうぬぼれ、誤解するなら、それこそ、神から遮断されるのです。たとい、倫理的には人に後ろ指を差されることはないと考えられるような生き方をしておられても、しかし、神に赦される必要がないと考えるなら、それこそ、神のみ前に、完全な罪人である。罪人のままに留め置かれてしまいます。ところが、自分の実生活で、悲しいことに、失敗をしてしまった信仰者が、しかし、もしも、ただ自分に約束された祝福、救い、罪の赦しを信じるなら、悔い改めて信じるなら、神はただその信仰によってその罪を赦し、それを清めてくださることもおできになるのです。
それは、人間の世界では決してありえないことです。そのようなことは、人間の世界では許されないことです。あるいは起こりえないことであります。

しかし、それを起こしたもうのが私どもの主イエス・キリストの父なる御神、それゆえに私どもの天の父なのです。パウロは、17節で、このように申しました、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。」これは、どういう意味なのでしょうか。アブラハムの生涯にとって、死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神とは、どこでどのように経験したのでしょうか。

実に、この御言葉もまた、アブラハムの全生涯、信仰の生涯を要約することのできる体験であったのです。自分が高齢者となり、妻のサラはもともと子どもが生めない体であり、しかも高齢者となっていました。ところが、神は、この二人に約束どおり、イサクという男の子をお与えくださったのです。それは、肉体的には、出産するという意味では死んでいた二人ではないでしょうか。90歳にもなろうとする子を宿したことのないサラのお腹に、約束どおり男の子が与えられるというのは、死んでいた人間に命を与えることではないでしょうか。存在していない命を、その可能性のない、命を呼び出されるのが、神なのです。

だから人間の世界では許されないような罪であっても、神のみ前でその人が、罪を悔い改め、罪を憎んで、神にすがりつけば、神の御言葉の約束にすがりつけば、神がその罪によって死んでいる人間に命すら、新しい命すら与えてくださることがどうしておできにならないでしょう。

私どもは、だから、伝道できるのではないでしょうか。あるいは、未信者のことだけではありません。自分自身が、なお、キリスト者として生きることができるのは、この死者に命を与える神がおられること、その神が私どもの御父であってくださることを知っているからではないでしょうか。だから、私どもの教会生活、信仰生活は安心であり、揺ぎ無いものとなるのです。罪と戦う力も、この罪深い自分自身がこの死者に命を与えてくださる神に愛され、守られ、おどろくべき祝福、おそろしいまでの確かな救いの約束を受けていることを信じているからなのであります。

祈祷
死者に命をあたえ、存在していないものを呼び出して存在させる神、主イエス・キリストの父なる御神にして、それゆえに私どもを神の子とし、神の子と呼び続けてくださる恵みの神よ。私どもは、信仰によってのみ、一方的な恵みによってのみ、キリスト者、神の子としていただきました。どうぞ、この事実を忘れることがありませんように。律法を守ることによって愛され、選ばれたのではありません。ただ、約束を受けたからであります。そして今朝、あらためてその約束を信じ、感謝申し上げます。そして、その約束は、自分のためだけではなく、世界の救いのためであることをも、私どもの使命をも伴うものであることを、どうぞさやかに示してください。志を新たにして、赦された者として、罪と戦う信仰の日々として、今週も主と共に、神の民の祈りの家と共に天国への歩みを支えてくださいますように。アーメン。