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「絶望に絶望する、希望」

「絶望に絶望する、希望」 
      2005年11月27日
テキスト ローマの信徒への手紙 第4章18節~22節  

「「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。
死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。
彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。 そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。
彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。 だからまた、それが彼の義と認められたわけです。」  

 先週は、中部中会教育委員会主催の教会学校教師研修会が開催されました。数年ぶりにわたしが講演させていただきました。出席者は、この数年間でもっとも多くの方々が与えられました。そのことも大きな喜びでした。しかしながら、何よりもわたしにとりまして、嬉しいこと、励まされたことがありました。それは、午後のシンポジュームの折に一人の日曜学校教師の姉妹のまことにすばらしい発題を伺ったからでありました。この方の発題は、「教会学校教案誌」にぜひ、掲載させていただきたいと考えるほどのものでした。
実はわたしは、講演のなかで、このようなことを申しました。「教会学校教案誌」を発行してすでに4年余りが経った。しかし、発行者として、日本キリスト改革派教会の日曜学校と伝道について大変厳しい現状認識を持っている。そして、この講演のほとんど一つの狙いは、この厳しい現状認識、危機感を共有して、これを誰かの責任にして批判するのではなく、いわんや諦めるのではなく、ここから志あらたに日曜学校の奉仕のために、献身しよう。日曜学校伝道のために、教会をあげて取り組んで行こう、そのための運動を起こし続けようというアッピールをしたかったのです。

しかし、わたしのこのアッピールは、何よりも午後の一人の姉妹の発言によって、恵み深く修正されたのです。それは、一言で申しますと大変手前味噌なのですが、「教会学校教案誌」を丁寧に読んでくだされば、このような教師へと育つのだ、変えられてゆくのだということでした。その方だけではなく、他の信徒の発題やフロアーからの質問、意見などを伺って、中部中会の日曜学校教師が、実力を蓄え、問題意識を向上させていることを肌で実感させられたのです。「教会学校教案誌」のために、どれほどの時間を捧げてきたことかと振り返るのですが、しかし、それは、この名古屋岩の上伝道所の日曜学校だけではなく、確かに、中部中会に影響を与えていること、そうであれば、採用してくださる他中会の方にも、よき影響を、教育効果をもたらしていることを認めることができると考えたのです。これは、大きな主からの励ましでありました。 

しかし、同時に、問われました。それは、私どもが捧げている小さな貧しい奉仕ではありますが、神がこれを大きく用いてくださっていることをもっと信じて、なすべきではなかったか、自分がしている神のみ業に対してもっと信仰をもって取り組んでしかるべきではないかというものでした。

 信仰が小さいこと、これは、私どもにとって、実に深刻な問題であります。信仰が小さいとき、私どもは自分自身の奉仕に対してもっと力を注ぐことができるのに、それをしなくなる危険性があるのではないでしょうか。
 日曜学校の教師の方と学びながら、子ども達に深い牧会が必要なこと、神が子どもに深く届いてくださるし、今の子ども達にとってもっとも必要なのは、福音であることを教える者たち自身が深く確信していなければ、よい奉仕を捧げることはできないと思います。

 私どもの人生も、また同じでしょう。自分の人生が神の御前でどれほどかけがえのないものであるのか、どれほど大切なものであるのか、どれほど自分自身が愛され、期待され、神のために生きるように召されているのかが分からなければ、自分の人生、自分自身を粗末に扱ったり、神の栄光のために生き損ねてしまうのだと思います。私どもは、キリスト者として救われ、救われたということは同時に召されたこと、新しい使命に生きるために救われたのである以上、自分で自分を考える以上に大きな、豊かな神奉仕が実現できるのです。そこで必要なのは、信仰、神への信仰です。
 

 さて、有名なヘブライ人の手紙第11章によれば、信仰とは望んでいる事柄を確信することであると言われます。そこにすでに、信仰と希望とは切っても切れない関係にあることが分かります。パウロは今、信仰と希望について考える最適な実例として、アブラハムを引用してここで語り続けています。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、」とあるとおりです。アブラハムは、希望するすべがなかった、つまりひらたく申しますと絶望する状況にあったということです。絶望しても仕方ないそのとき、その只中で、望みを持ったというわけです。言うならば、今日の説教の題にしましたように、絶望することに絶望したのです。絶望に絶望することこそ、真の希望であるということになるのです。

 それなら、このときのアブラハムにとっての絶望状況とはいったいどのようなものであったのでしょうか。それは、100歳になってしまっていた、とういことです。100歳になっていることがどうして絶望状況なのかと申しますと、神が、このアブラハムに、90歳になって、一度も出産したことのないサラとの間に子どもを設ける、子どもが与えられるという約束を受けていたことにあります。神がこのような約束をおあたえにならなければ、むしろ、アブラハムには、悩みとか、苦しみはなかったはずです。自分の跡取りを、かつては、自分のもっとも信頼している奴隷であるダマスコのエリエゼルに決めていたからです。さらにその後には、女奴隷との間にイシマエルという血のつながった子どもを設けているのです。もうそれで、充分であったのです。神が約束してくださらないほうが、楽に生き、平安のうちに死んでゆけたはずです。神がご自身の約束にこだわっておられるから、アブラハムの中に、厳しい信仰の戦いが与えられたわけです。

 神は、アブラハムが九十九歳になったとき、このように言われました。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」彼は、神に命じられた通り、この直後に割礼を自分自身と自分に関わるすべての男子に施しました。創世記第17章です。アブラハムは、神の御言葉に従うことにおいて、まさに毅然とし、きっぱりと決断し、服従するのです。見事であります。しかし、それが、自分のことにかかわるとき、この見事さはなかったのです。それは、こういうことです。神は、アブラハムに、あなたの妻サラによって、あなたに男の子を与えると約束されたのです。

 しかし、そのとき、創世記ははっきりとこう告げています。17節、「アブラハムはひれ伏した。」礼拝したのです。ところが、心の中で笑ってしまったのというのです。「百歳の男に子どもが生まれるだろうか。90歳のさらに子どもが生めるだろうか。」そして、神に願い出るのです。神を説得しようとするのです。お祈りしたのです。「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように。」アブラハムは、自分の体を客観的に見ています。この物語は何も、アブラハムという人の性格とか、古代人は信心深いとか、そのような理由で片付けさせてはもらえないのです。アブラハムは、心の中で笑ったのです。「ばかばかしいことだ。ありえないことだ。」イシュマエルが跡取りになれば、それで充分です、こう申し上げたのです。これはまた、サラ自身も同じことをしまたし。第18章です。アブラハムと神の使いとのこのような会話を耳にしました。わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、その頃には、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」聖書は言います。「アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものとうになくなっていた。」これは、言うまでもない現実であったはずです。ですから、サラもまたこの話を聞いてひそかに「笑った」のです。ところが、ここで、神は、この笑いを放っておかれません。見過ごしになさらないのです。神は仰せになられました。「何故、サラは笑ったのか。何故、年をとった自分に子どもが生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。」サラは恐ろしくなり、「わたしは笑いませんでした」と打ち消します。しかし神は、さらにたたみかけて「いや、あなたは確かに笑った」こう仰せになられました。神は、不信仰のアブラハムとサラとを恵みをもって追いかけるのです。それは、決して、不信仰の二人を裁き、見捨てるのではありません。彼らに本当に信仰に立たせるために、御言葉の真実を、その確かさを信じることへと成長させ、踏み立たせるのです。そのようにして神の恵みの取り扱いが彼らを取り囲むわけです。

 神は、彼らに与えるかけがえのない息子にイサクと命名するように命じられました。「彼は笑う」という意味を込めた名前なのです。神が笑うのです。しかもこの笑いは、アブラハムたちがあざ笑う意味ではなく、喜びの笑いなのです。そのようにして、神の祝福によって彼らは、覆われてしまうのです。神は、アブラハムとサラの家庭に健康な笑いを日々与えてくださったのです。
 

 パウロはここでこのアブラハムの生涯を何度も思い起こさせようとしています。それは何のためなのでしょうか。
先週も申しましたが、私どもが創世記に記されています、アブラハムの生涯を見つめていると、何が見えてくるのでしょうか。確かに、アブラハムが信仰の父と呼ばれるに足りる人物であることがよく分かるかと思います。まさにその通りであって、彼は神の約束を、その御言葉を信じて、従う人間でした。驚くばかりに、信仰の従順へと進んで行きました。成長して行ったのです。しかし、はたしてそれだけで、アブラハムを学んだことになるのでしょうか。ならないのではないでしょうか。アブラハムが、信仰の父となったのは、一朝一夕でなったわけではありません。つまり、アブラハムを信仰者として育ててくださったお方、恵みの神こそが主人公なのです。彼らは、不信仰によって、約束を笑ったことがあるのです。しかし、神がそのような二人を信仰によって立つように、イサクを与えてくださいました。真の笑い、幸福をもって彼らを信仰者として祝福してくださったのであります。そうであれば、そこで何がはっきりするのでしょうか。それは、アブラハムが神を信じたということの前に、神がアブラハムを信じてくださったということであります。神がアブラハムを信じ続けてくださったということであります。これが、アブラハムを選ばれた神のみ業なのです。信仰とは、まさに神のみ業なのです。それを別の角度から申しますと選びなのです。神が救いのうちに私どもを選んでくださったがゆえに、わたしどもは信じることができたのです。

それはまた、このように言い換えることができます。私どもが望みをもって生きることができる、この世界を、この人間の世界を、地上をなお希望を抱いて、生きることができるのは、神ご自身が、この人間の世界、地上に希望をもっておられるからなのであります。神は、人間に絶望しておられないのです。 

この世界は、今まさに、危機的な状況です。日本の社会そのものも、明るい展望を描くことはできません。日本という国の将来も、非常に危ういものとなっています。社会保障の面でも、外交の面でも、政治、経済、暮らしの面で何一つ明るい展望を開くことはできないのではないでしょうか。
それなら教会はどうでしょうか。教会だけは別でしょうか。いえ、そうではないと思われます。冒頭で、日本キリスト改革派教会の日曜学校の現状への厳しい認識を申しました。来年は、創立60周年を迎えます。そしていよいよ70周年を目指して出発するわけです。今から10年前、50周年のときに、日本キリスト改革派教会は「伝道の宣言」を表明しました。実に立派な宣言です。ところがこの10年間、伝道においては、まったく停滞してしまっている、これが現状です。停滞と申しましたが、それはしかし日本が長寿社会となっているからであると思います。もしも、高齢の会員が召されれば、これは、停滞どころではなく、減少になるのではないかと思います。新しい人が増えていないのです。そして、明らかにこのままで行けば、減少することはほぼ避けられないであろうと思われます。これが、現実であると思います。

横道にそれますが、高齢者のキリスト者がなお活躍する。これは、すばらしいことです。その代表は、年を重ねれば重ねるほど有名になって、大きな仕事をなさっておられる日野原重明医師でしょうか。もとより、健康でなければならないということもない。誰もが、あの方のように、心も体も健やかに生きてゆけるわけではないでしょう。むしろ、プレッシャーをかけられるということもあるかもしれない。しかし、アブラハムは、日野原先生より高齢者であったということを忘れてはならない。八歳年上で、イサクを設けたのです。

さて、しかしこの極めて厳しい現状の只中で、なおそこで希望を持つとはいかなることを意味するのでしょうか。それは、何よりもまず、牧師たちが、約束を信じることではないでしょうか。使徒言行録第18章に、「この町にはわたしの民が大勢いる」という神の言葉が記されています。「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」確かに、これはパウロに語りかけられた言葉です。しかしそれなら、このときのコリントの町にだけ、主の民が大勢いたのでしょうか。あるいはこれは、パウロにだけ語られ、約束された事実なのでしょうか。そうではないと思います。「思う」のではない。そうなのです。私どもは、この御言葉をこの時代の、この名古屋の緑区の現実として聴き取るのでなければならないのです。もしそれを信じないのであれば、真実の意味で、福音伝道の使命を教会は果たしえないでしょう。

確かに、聖書の言葉を、そのとき場面だけの言葉と普遍的な言葉ときちんと分けて受け止めることが、信仰の初歩であると思います。湖の上を歩いて来なさいとは、今日、主イエスは決して言われません。主がこの地上をお歩きになってはおられないからです。しかし、「子ども達をわたしのところに来させなさい。」と主イエスがおられるときの弟子たちへの命令は、主が肉体をもってこの地上におられない今は、命じられていないのでしょうか。そうではありません。主は、聖霊によって私ども教会と共にいてくださいます。そうであれば、この命令を信じる人は、主イエスが、必ず子ども達をご自身へと招いておられるゆえに、子ども達は主のもとに行かせるべきであって、それが可能であると信じることができるのではないでしょうか。その時には、私どもは伝道するのではないでしょうか。少なくとも、伝道のために祈り、奉仕を始めるのではないでしょうか。自分ができる伝道奉仕とは何かを問うのではいでしょうか。

この町にはわたしの民がたくさんいる、とこの御言葉を信じる私どもは、伝道し、信じて伝道するときには必ず、神が成就してくださるのであります。あるいは、伝道しても主の民が大勢来ない、しかしそれでも、私どもは、めげないのです。主がともに働いてくださることをそこで、味わうことができるからです。

アブラハムは信じました。神を信じました。それは、具体的には、御言葉を信じることです。御言葉の約束を信じることです。そして、神の約束の御言葉であるゆえに、私どもは、信じるのです。神の約束は、神が私ども人間に望みを失っておられない、絶望しておられないということです。私どもの現実には、これこれこのような条件で、教会の将来はあかるいのですと言えません。しかし、そこで、私どもは、自分の可能性によって立たないのです。そもそも、教会の内部、教会を造っているキリスト者ひとり一人の可能性に、教会の土台はすえられているわけではありません。主イエス・キリストの上に、教会は土台を据え、生きているのです。教会、それは、現実には、問題を抱え、悩みを抱え、欠点と弱さを抱えています。その教会をつぶさに検証すれば、しみがあり、汚れがあり、主イエスの花嫁としてのふさわしさなどいったいどこにあるのであろうかと、疑う以外にない存在です。一人ひとりのキリスト者の生活を点検すれば、いったい聖なる栄光の主の御前に、全き者としてまかりでることなど到底できないような不信仰で、弱い存在ではないでしょうか。ところが、私どもは、望みをもっているのです。確信しているのです。それが、神が人間に絶望しておられないから、このことです。私どもの希望の根拠は、神に、神のみにあるのです。神が、アブラハムを見つめられたとき、そこに全人類の祝福、救いの源となる存在として信じられたのです。そして、そのようになったのです。アブラハムは、100歳で何をどのようにひっくり返しても、子どもを設けることなどできなかったのです。しかし、まるで死んでいた体、衰えた体をそのように訳している例もありますが、死んでいる人間に命を与えてくださったのです。存在していないイサクを、呼び出して存在させてくださったのです。

最後に、パウロはここで何を言いたいのでしょうか。神は奇跡を起こすお方であると信じなさいということなのでしょうか。そうではありません。パウロは、パウロ自身が救われるということの可能性、いへ、不可能性、絶望といってよいでしょう。しかし、この絶望的な状況にある罪人の自分を神が押す食いくださったことの驚くべき出来事を、アブラハムを例にして証言しているのです。

いったい私どもは、自分の罪の救い、罪が赦され義とされるということが、アブラハムとサラに子どもが生まれるという不可能性以上に困難なことであると本当に知っているのでしょうか。わきまえているのでしょうか。もしも、キリスト者が救いとは、悔い改めて、福音において与えられている主イエス・キリストを信じることであると認識していることでとどまっているなら、これは、重大な問題が残ってしまいます。

 私どもの救い、これは、ただ神の恵み、徹底的に神が私どもに望みをもって、信じ抜いてくださる限りにおいて可能なのです。神のご好意を受けることができなければ、私どもは決して、悔い改めることも信じることもできません。しばしば、未信者の方から言われることがあります。「今はとても充実し、忙しい。老後になって、そろそろ死後のことを考えるときにお世話になる。」これは、未信者の方のはなはだしい思い違いであります。仮に、何方かが、「自分の生活のなかで、どの程度までが、十戒に違犯することになるのだろうか。誰か教えてほしい。そのぎりぎりの線まで、自分の楽しみとか、自分の自己主張、自己実現を果たしたい。」そのように考える人がいれば、すでにそれが罪なのであることを悟らなければなりません。

 神は、死んでいた人間、罪の中に死んでいた人間である私どもを、救ってくださいました。新しく生かしてくださいました。パウロがここで語ろうとすることは、この喜びと驚きについてです。アブラハムの不可能に勝利し、アブラハムの将来を望みをもって信じ、約束を成就したもうた神のみ業は、今パウロに起こったのです。いへ、パウロだけではありません。私どもにも起こったみ業なのです。だから、私どもは今朝、ここで皆さんと共に、礼拝を捧げているのです。神を礼拝する。これ以上に驚くべきこと、不思議なことはないのです。これも人間の不可能性です。人間にはできないことなのです。それをさせてくださっているのは、神の私どもへの信頼の力なのです。
 ですから私どもも、絶望を捨てるのです。絶望を絶望して、まことの望みに生きるのです。信仰によって神の約束、祝福を受け継いだアブラハムに連なって進むのです。アブラハムは、「神はその約束されたことを、成就することができると確信した。」とあります。確信するとは、「一杯になる」という意味から生じた言葉です。神が約束されたことは、必ず成就されるという心で満たされるのです。定まるのです。安心するのです。安定することです。私どもも、今、礼拝式で、一杯になる。心あふれる。神に信じられている自分として、自分を受け取りなおすのです。「主に不可能なことがあろうか」本当にその通りになりました。罪人である私どもが今、罪赦されて礼拝者、キリスト者にされているのです。そうであれば、なお御言葉に従って、なお信じ続けて、与えられていない約束を得るまで、なお忍耐しながら、礼拝の旅を、共にしてまいりたく願います。

祈祷
 罪の中に死んでいた私どもをキリストによって新たな命に生かしてくださるばかりか、生ける真の望みを与えてくださいました父なる御神、あなたの大いなる御力を心からほめたたえます。どうぞ、恵みの選びによって私どもに信仰を与えてくださいましたあなたが、これをさらに富ましめてください。私どもは今なお、自分の目の前にある壁や、困難を見つめて立ちすくむものであります。ときに、絶望し、もう結構です。この程度の祝福でかまいませんと、開き直ってしまうこともあります。自分を見ているのです。どうぞ、あなたを見つめさせて下さい。そしてそこで私どもを信頼するあなたの力強いまなざしに捉えられることができますように。心満たされ、約束を確信し、全力を注いで、約束の実現に向かって励む意欲と志をみなぎらせてください。年を重ねた者も、年若い者も、肉体の力に頼って生きるのではなく、信仰の力によって、あなたのみに御頼りして励むことができますように。アーメン。