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「栄光を神に!真の信仰」

「栄光を神に!真の信仰」  
     2005年12月4日
テキスト ローマの信徒への手紙 第4章18節~22節②  

「「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。
死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。
彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。 そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。
彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。 だからまた、それが彼の義と認められたわけです。」  

降誕祭を迎えるこの季節を、私どもは待降節と呼びます。主イエス・キリストのご降誕のお祝いの準備、そして何よりもやがて再び来られる主イエス・キリストをお迎えする準備、信仰の準備を整えるための季節です。待降節は、その意味で、私どもの心をいよいよ高く天に上げさせてくれる季節であろうと思います。主がこの地上に来られるのは、天から、父なる神の右の座からです。このお方を待っている人間、信仰者のまなざしはそれゆえに、天に向けられるのです。すぐる一週間、私どもの信仰の眼が天にどれだけ長く、いへ、何よりも深く注ぐことができたであろうかと思います。そのことが、私どもの毎週の悔い改めの中核にある罪だと思います。しかし、そのような私どものためにこそ、父なる神は今朝も、私どもをこの礼拝式の恵みへと招いてくださいました。ここで、私どもは心を一つに集めて、父なる神とその右に座しておられる御子キリストを仰ぎ見ることが赦されているのです。ですから、この場所で、私どもは皆で心を高く上げ、天に目を注ぐのです。

私どもはかつて、このように礼拝する人間ではありませんでした。礼拝する喜びと重要性を知らずに、違ったものを礼拝していました。お金や、もの、名誉、快楽、自分自身を満たすものに心を奪われて来ました。しかし、その暗闇から、今は、この光よりの光なるキリストの暖かな、命の光を天から降り注いでいただいています。私どもは、かつては、生きる目的を知りませんでした。自分勝手に人生の目標を設定して、時に落ち込み、時に高慢になりました。しかし、今は、人生の目的は、神を礼拝することであると教えられました。そこで、今すでに、私どもは人生の勝利者とされ、すでにここで死に打ち勝つ者とされました。ですから、地上にあって、この主の日の礼拝式にまさって私どもがなすべき重要な業は他にありません。この礼拝式と比べれば、地上のいかなる重要な働き、尊い働きも、究極の一歩手前までの価値しか持ちません。私どもは今朝、人生のなかで、もっとも大切な1時間ばかりをここで過ごし、祝うのです。しかも、今朝は第一主日、地上を旅する神の民である教会にとって最大の祝いである聖餐の礼典を祝います。

 それなら、ここで今捧げております礼拝という行為は、私どもに何を与えてくれるものなのでしょうか。私どもは何を求めて、この礼拝の時間を過ごしているのでしょうか。私どもにとって最高の恵みとは何でしょうか。それは、主イエス・キリストに救われることです。救いとは何かと申しますと、それは、神に私どもの罪を赦されて、義と認めていただくことです。罪とは、神によって命が与えられ、神を礼拝するために生まれてきたのに、その神を礼拝しないで、自分中心になって、むしろ自分の欲望、自分の願望を神にしてそれを追求して生きることです。神の掟に背いて羞じない生き方をすることです。すでに犯してしまったどうすることもできない神の御前に犯した罪、隣人に犯してしまった数々の罪深い行い。もはや取り返しのつかない罪が、赦されること以上にすばらしいことはありません。赦された人間は、神との関係を取り戻していただけます。神の子とすらしていただいて、神との愛の交わりが回復されるのです。そのことを誰が、どのようにして成し遂げてくださったのでしょうか。それが、神の独り子主イエス・キリストの十字架と復活のみ業です。この主イエス・キリストを信じるだけで、私どもは、救われるのです。罪が赦され、神の子とされた人間は、初めて、もともとあるべき人間にしていだけます。義とされるということです。礼拝する人間に変えていただけるのです。礼拝する人間こそ、まさに、人間らしい人間なのです。

さて、この朝もローマの信徒への手紙を学んで礼拝を捧げてまいります。私どもは、これまで創世記のアブラハム物語りを七回にわたって学びました。そしてあらためてローマの信徒への手紙第4章の今日の箇所に戻ってまいりました。皆様は、この箇所のパウロの言葉を、どのように読まれるのでしょうか。ごく素直に、素朴に申しまして、ここでの使徒パウロの言葉をそのまま飲み込めないのではないでしょうか。アブラハムの物語を知らないときには、読み飛ばせても、もうできないと思います。それは、どういうことかと申しますと、パウロは、このように断言します。「そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。」

はたしてこれは、旧約聖書、創世記からの正しい引用と言えるのでしょうか。学校の試験であれば、これでは点数をもらえないのではないでしょうか。論文であれば、明らかに基本的な文献の引証ミス、文献の誤用ではないでしょうか。創世記には、はっきりと、アブラハムもサラもともに、にわかには信じなかったと書いてあります。誰が読んでも明らかであります。その意味でははっきりと申して不信仰に陥ったわけです。アブラハムは、「百歳の男に子どもが生まれるだろうか。90歳のさらに子どもが生めるだろうか。」と申しました。その上で、神を説得して、「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように。」と言ったのです。アブラハムは、自分の体を客観的に見ています。アブラハムは、心の中で笑ったのです。「ばかばかしいことだ。ありえないことだ。イシュマエルが跡取りになれば、それで充分です」こう申し上げたのです。サラも同じでした。アブラハムと神の使いとの、このような会話を耳にしました。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、その頃には、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」そして、サラもまたこの話を聞いてひそかに「笑った」のです。
いったい使徒パウロは、創世記を読んだことがないのでしょうか、決してそうではありません。それなら、何故、パウロは、アブラハムのことを「その信仰が弱まりはしませんでした」などと言い切ったのでしょうか。」全能の神に向かって、笑ってしまったアブラハムの正直な姿を隠し立てるのでしょうか。

いいえ、パウロは隠し立てているわけではもちろんありません。聖書に記されている公然とした事実を捻じ曲げることなどできるわけがありません。まさに私どもは、ここであらためて信仰とは何かを問い直させられるのです。パウロはここで、信仰とは何かをあやふやにせず、きちんと明らかにするのです。
いったい信仰とはどのようなものなのでしょうか。私どもは、このパウロの手紙の記述を、簡単に分かってしまってはならないように思います。簡単に分かるものではないはずです。

ここで使徒パウロは、「信仰が弱まりはしませんでした。」とか、「信仰によって強められ」とか書きます。明らかにアブラハムは、信仰が弱くなった時期があったのです。信仰があるから、困ってしまったはずなのです。途方にくれたのです。うろたえたのです。むしろ、信仰によって弱くなった、という側面もあったはずです。信じていなければ、もっと平坦な生涯を送っていたはずです。そもそも、故郷のカルデアのウルから、何も知らない土地に旅立つことなどしなかったはずです。信仰があるから苦しんだ、戦わなければならなくなったということだと思います。

ここで、パウロが信仰と記したもの、それは、何でしょうか。それは、アブラハムの内側にある信仰心のことなのでしょうか。そうではありません。アブラハムであっても、その信仰心は、確かにぐらついたのです。信仰の確信にあふれて、揺ぎ無い一筋の生涯、御言葉を生き抜くことにおいて何の欠けも、間違いも、欠点も、弱さもない、完璧な、完全な生涯を全うしたわけではないのです。アブラハムはときに、少し大胆な言い方ですが、わたしよりも情けないとしか思えないような、自分の立場、命を守るために妻を王に手渡したこともあったのです。そのとき、私どもの素朴な目から見ると、信仰が弱まっていたとしか思えません。ところがパウロは、断定するのです。「その信仰は弱まりませんでした。不信仰に陥って髪の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。確信していました。」

ここでいよいよ信仰とは何かを明らかにしなければなりません。ここで明らかになること、ここでのアブラハムの信仰とは、アブラハムの外にあるものということです。アブラハムがもしも、自分の信仰心の強さによって立って生きようとする、言い換えれば自分の信仰の強さ、自分の信仰の力によって立って、それを拠り所として生きるのであれば、彼の人生は、信仰の模範、信仰の父と呼ぶことなど到底できなかったはずです。アブラハムの物語、人生から見えてくるものは、この信仰の力です。それは、自分の内側にある信仰心の力ではありません。自分の外から与えられる信仰の力なのです。外から注入される信仰なのです。

彼は、神の約束の御言葉を聴いたとき、自分の現実を見るのをやめました。ただ、神とその約束の言葉のみによって立つのです。つまり、信仰とは、ただ神にのみ目を向けることなのです。そのとき、この信仰によって見つめている神が、ご自身の約束を成就したもうのです。この信仰によって見つめている神が、アブラハムを神の御前に正しい人間、神との交わり、交流、神の子とする関係をつくってくださるのです。すべては、自分の力ではなく、神が与えてくださった信仰の力なのです。これこそが、「信仰によって強められる」ということの意味であります。信仰とは、神からの贈り物なのです。

ですから私どもは、私どもの信仰を自分の性格とか性質を根拠にして安定した信仰、確信を持つというようなことは言えません。あるいはまた自分は、洗礼を受け、忠実に教会生活をしているから自動的に、神との正しい関係をつくることが出来ているなどとも言えなくなります。つまり、自分で神との正しい関係を作り出すことなど、まったく不可能なのです。信仰とは、約束の言葉を与えてくださる神に目を注ぐことです。自分の信仰心のあるなし、信仰の強い弱い、信仰の調子が良い悪いなどには目もくれずに、目を外に、神に向けることです。そのとき、神が力を与えてくださるのです。これが、信仰であります。この信仰、神の賜物としての信仰がアブラハムを強めました。望み得ないのに、絶望なのに、神は死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させるお方であることを信じることができるのです。神がそのように自己紹介してくださったからです。神が約束の御言葉によって自ら誓われたからです。アブラハムは自分自身の内側に約束を実現する力を認めません。それは、ありえないのです。しかし、神の内側に、神ご自身にその力を認めたのです。

信仰とは、神の贈り物です。私どもへの、私への最高の贈り物です。信仰が与えられたことにまさる特権、光栄はないのです。これは、確かにあの人この人の信仰ではありません。間違いなくこのわたしの、自分の信仰であります。しかしこれは、神が与えてくださった信仰なのです。その意味では、自分の信仰と呼ぶことすらためらいを覚えるほどです。

神の義を、私どもは自分の力、修行、努力で獲得できません。する必要もありません。わたしのために、すでに、父なる神はその御子主イエス・キリストの十字架によって、わたしどものために完全に罪を償っていただきました。完全に罪の刑罰を支払っていただきました。もはや、わたしが救われるために、罪を償う必要はまったくないのです。御子が身代わりに十字架で死んでくださったからです。真に御血を流してくださったからです。そして、三日目に死人のうちよりお甦りになられました。ここに私どもが義とされる道が確立し、不動のものとなったのです。この約束をただ信じるだけ、ただ受け容れるだけ、この約束、この事実によって生きるだけでよいのです。

新共同訳聖書は、このような信仰の特質を言い表す最後の言葉として、こう記しました。「神を賛美しました。」私どもは、今朝も、ここで賛美を歌いました。説教の後、ただちに起立して賛美歌を歌います。私どもの教会の礼拝式のなかで、賛美歌を歌わないときは、考えられません。およそ、キリストの教会の礼拝のなかで、何の歌も歌わないということはないのです。オルガンを使わない伝統を持つ教会は確かにあるのです。しかし、歌わない教会はありません。歌うということは、自分の心を満足させるためではありません。礼拝賛美とは、聞いてくださるお方に向かって「捧げる」ものです。ですからそこで礼拝式にふさわしい賛美歌とそうでない賛美歌が選ばれることにもなるのです。自分の個人的な信仰の心を歌う歌は、私どもの教会の礼拝式にふさわしくありません。それなら賛美するということは、どういうことなのでしょうか。

実は、この「神を賛美しました」という御言葉は他の翻訳では、「栄光を神に帰し」と記します。むしろ、こちらの方が、よりふさわしいと思います。もとの言葉には、はっきり「栄光」という言葉が記されているからです。
結局のところ、アブラハムの信仰、そして私どもの信仰とは何でしょうか。それは、ただ栄光を神に帰すことであります。栄光は神にあれ!と歌うことです。なぜなら、私どもが救われ、神の子とされ、永遠の命を受けることが出来ているのは、ただ神さまのおかげだからです。一方的に、信仰を与え、恵みを与え、良いことだけ、良いものだけを神は与えてくださいました。そのために、神ご自身がどれほどの犠牲を、御苦しみ、痛みをお受けになられたのかは、十字架によって明らかです。ですから、私どもは自分が救われることも、生きていることも、すべてを神の恵みとして受け止めるのです。ですから、栄光は神にのみあれ!と賛美するのです。これが、私どもの信仰の本質です。信仰とは、これ以下でもこれ以上でもありません。

栄光を神に帰す人間は、この神から義と宣言していただけます。義を受ける、注入していただくことができます。この義は、自分で獲得したものではありませんから、確実なのです。揺ぎ無いのです。ですから、私どもの救いは確かなのです。私どもが義とされ、神の子とされ、救われることは、間違いないのです。これ以上に地上に確かなものはないほど、確かな事実なのです。神がそれを定められたからです。

ですから、私どもは、心から「栄光神にあれ」と歌いたいのです。この揺るがない確かさのなかにいつも、いつまでもとどまっていたいと心から願います。そのためには、私どものまなざしを徹底して外に向けなければなりません。神に向けなければなりません。そのための手段こそ祈りです。しかもこの祈りもまた、個人的に祈ることがその中核にあるのではありません。むしろ、この神の民の公の祈りとしての主日礼拝式を守ること、これこそが祈りの中の祈りの行為です。

今朝、ここに30数名の大人が集っています。職業も違う。性別も、育った環境も、教養も、そこに違いがある。ひとり一人の祈りがある。もしも、その一人ひとりの願いや祈りを、全員が素直に神に申し上げる、そうすると、ときに対立すら生じるかもしれません。もっと、大きく言えば、ここに1000人の信仰者が集うとする。1000人の祈りを聞くと、明らかに対立があるのではないか。商売敵とか、受験生で言えばライバルとか、教会は、1000人の願いを均等にかなえ、神は均等にかなえるのでしょうか。違います。

教会は、1000人の願い、祈りを主イエス・キリストに一つに集めるために努力する、し続けるのです。キリストへの一致です。キリストとの一致、結合です。主イエス・キリストと一つに結ばれることが救いですから、私どもの信仰もまた、このキリストに結ばれ、キリストに与えられているので、一つしかないのです。ですから、何千何万にのキリスト者がいて、集まっても一致するのです。一致せざるを得ないのです。信仰の一致、祈りの一致です。それを一言で言えば、まさにこれです。Soli Deo Gloria!ただ神の栄光のために、です。神に栄光を帰す信仰。これが、神がおあたえくださった信仰の目印になるのです。ここにおいて私どもは一つです。いかなる教派、教会でも、この神に栄光を帰すために励んでいるなら、一致点があるのです。同じ信仰の仲間のはずです。

横道にそれたお話になるかもしれませんが、ローマの信徒への手紙を学ぶとき、わたしがやはり必ず調べるのは、私どもの教会の改革の源となった神学者カルバンのローマの信徒への手紙の注解書です。カルバンは、18節の「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」と新共同訳聖書は翻訳した箇所をはこのように訳しました。「このアブラハムは、望みにさからって、なお望みにおいて信じた」横道にそれるというのは、このようなことをお話すると返ってこんがらがることを案じたからです。「望みに逆らって望みを持った」とはどういうことでしょうか。このはじめの望み、これは、アブラハム自身がもっていたいわば人間的な望みです。それは、自分の女奴隷との間に設けたイシマエルが、跡継ぎになればそれでかまいませんというものです。低い望み、願いです。しかし、神はその望みを否定なさったのです。「あなたの妻の90歳のサラから生まれる子が跡継ぎである」これが、神の望みです。アブラハムがしたことは、カルバンに言わせれば、いわば、人間の望みに逆らう、そのようにして、神の望みに従うということでしょう。これが信仰なのです。実にカルバンらしい、信仰理解です。そして、まさに、これこそ、栄光を神に帰す信仰の実例に他なりません。自分の栄光を求めているのではない。神の栄光を求めているのです。それが、信仰に生きることなのです。カルバンのこの信仰理解は、言うまでもなく、パウロの信仰理解そのものです。パウロは、アブラハムの生涯もまた、この一言でまとめられると考えたのです。「神を賛美しました。」「栄光を神に帰しました」

私どもは今、聖餐を祝います。これは、キリストと一つに結ばれるための主イエス・キリストが制定してくださった礼典です。主イエスは、あるがままの罪人である私どもを、その恵み、救い、信仰による義、罪の赦し、神の子とされる幸い、永遠の命へと招かれています。私どもは、何の努力もせずに、難行苦行もせず、一滴の血を流すこともなしに、ただ信じてこれを受けるだけで、救われるのです。これもまた、まことに信じがたいほどの恵みの約束です。この小さなパンを食べ、わずかのぶどうジュースを飲むだけで、キリストとの交わりが更新され、天国が私どもに開かれ、私ども同士がキリストにおいて一つの民、教会員とされ、神の子としての喜びが新にされます。それは、私ども教会がかってに考え出した儀式などではまったくないのです。そのような儀式であれば、聖餐の礼典には何の意味もありません。聖餐の恵みは、ただ、主イエス・キリストの御言葉の約束の中にこそあります。主イエスの一方的なご契約のなかにあります。つまり自分のなかに、教会のなかに、いわんや司式する私の力、霊的な能力にあるわけではありません。ただ、主イエス・キリストが制定されたから、この聖餐の礼典に聖霊のお働きがあるのです。

信仰の弱さを嘆く私どもであります。しかし、その弱さを引っさげて、しかし、この聖餐にあずかります。ここであらためて、真の信仰とは何か、その信仰を注がれるからです。そのように主が私どもを招いておられるのです。主が、私どもを強くしてくださるためです。
私どもは、今、主イエスが整えてくださいました、この聖餐を受けます。受けるだけです。しかし、これ以上の能動的な応答はないのです。服従もないのです。これ以上に、神に栄光を帰す仕方を教会は知りません。私どもが、この聖餐における主のご契約を信じて受けるなら、私どもは事実、ここで主イエス・キリストと一つにされ、救いを更新していただき、お互いをキリストにある兄弟姉妹としていただけるのです。何よりも、栄光を神に帰すことができるのです。

祈祷
私どもは信じる能力がありません。しかし、あなたは信仰を与えてくださいました。そして、あなたに目を注ぎ、あなたの御言葉に目をとめ、耳を傾けるとき、私どもは信仰によって強められます。あなたによって強められるのです。全能の御神、死人に命を与える御神、私どもの信仰を富ましめてください。私どもは信仰によって、御子イエス・キリストと一つにされ、罪赦され、義とされ、神の子とされました。どうぞ、いよいよ、あなたの栄光のために生きる信仰を与えてください。栄光をあなたに帰しながら、自分らしく生きる信仰の恵みにいよいよ富ましめてください。