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「揺るがぬ信仰」

「揺るがぬ信仰」     
  2005年12月11日
テキスト ローマの信徒への手紙 第4章18節~25節③  

「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。 そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。
彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。 だからまた、それが彼の義と認められたわけです。しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、 わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」

神に愛され、召されて聖なる者となった、皆様の上に、私どもの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和がとこしえまでありますように。

今、ローマの信徒への手紙の冒頭の使徒パウロの祝福の言葉を皆様に告げて、説教を始めます。使徒パウロは、読者に祝福を告げるために、この手紙を書いています。あるいはこうも言い換えられます。読者に与えられている祝福がどれほど重みのあるものであるのか、すばらしいものであるのかを、もっと知って欲しいとの願い、祈りを込めて書いているのです。

 第4章最後の24節と25節も、私どもにとりまして、すでに充分に学び、語ってきたことであると思います。パウロは、すでに第3章21節で、こう語りました。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」これは、ローマの信徒への手紙における決定的な救いの教え、福音そのものです。しかもパウロは、この福音をアブラハムやダビデの実例を挙げて、丁寧に説明し、語りなおし続けたのです。そして遂に、これまでの議論の結語、結論として24節と25節が語られたわけです。同じことをここでも繰り返している、同じことを語っていると読むことができます。

ただし、ここでパウロは、3章21節とは、ややニュアンスが異なる真理を記していることに気づかれるでしょうか。3章では、「イエス・キリストを信じる」とありますが、ここでは、「わたし達の主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば」となっています。つまり、ここでは、主イエス・キリストを信じるのではなく、主イエスの御父なる神を信じる、ということが言われています。

つまり、こういうことです。主イエスを信じることは、主イエスを死者の中から復活させたもうた父なる神を信じることと別のことではないのです。三位一体の神の教理が、このような何気ないとも言える言葉遣いのなかに、しかし、はっきりと記されていることを私どもは認めることができます。その意味でも、アブラハムが神を信じて義とされたということと、私どもが主イエスを信じて、そのようにしてつまり父なる神を信じて義とされたということは、アブラハムとまったく同じ神を信じ、同じように義とされたということであることが分かります。

使徒パウロは、ここで、イエスさまのことを、「わたし達の主イエス」とお呼びします。わたし達の「主」イエス、これは、わたし達のために、神がイエスさまを主とお立てになられ、実際に、イエスさまは、わたし達の主となってくださっているということを明らかにする言葉遣いです。それなら、どうしてイエスさまは主、私どもの主となった、主とされたのでしょうか。それは、父なる御神が、御子イエスを死人の中から甦らされたことに基づいてのことです。 

ですから、ここでパウロは、あらためて、主イエスの復活のことを心を込めて、喜びを込めて語るのです。主イエスの復活、それが、どれほどに大きな事実であるか、私どもの救いの根拠となっているか、私どもの希望の根拠がすえられているのかを、パウロは確信しているから、ここで復活について語るのです。

 わたしは、これまで、アブラハムの物語や、あるいは、パウロが一所懸命に、信仰によって義とされるという救い、福音のもっとも美しい教理を語る言葉を聴きながら絶えず読み続けていましたのは、耐えず心に留めておりましたのは、ヘブライ人への手紙第11章であります。この箇所を、皆様と丁寧に読んだら、どれほどすばらしい祝福にあずかることができるだろうかと思います。

「信仰とは、何か、」ヘブライ人への手紙の著者は、この章で一貫して、「信仰とは何か」を具体的な事例や、人物を上げながら、説き明かしてまいります。第11章の第一節を読んでみたいと思います。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」これは、日曜学校で言えば、まさに暗唱聖句とすべき箇所です。キリスト者であれば、覚えるべき、御言葉の一つでありましょう。

 「信仰とは何か」私どももこれまで、そのことを、つまり信仰とは何かを学んできたのです。信仰とは、神が与えてくださる賜物、神が外から注入してくださる恵みのみ業、人間の能力や可能性ではなく、神の可能性であると学んでまいりました。ですから、徹頭徹尾、私どもは、自分自身の内側を覗き込まずに、ただ外を、神を、天をのみ仰ぎ見て行こうと先週も、教えられたのです。

 ヘブライ人の手紙は、「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」と言います。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙で、はっきりとこう発音しました。「昔の人たち、信仰の先輩たちは、この信仰のゆえに神に義と認められました。」「認められました」とは、義と認められたことであり、つまり、「信仰のゆえに救われました」ということです。同じ真理を言っているのです。

 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」信仰とは、望んでいる事柄を確信するということです。アブラハムは、まさに、「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた」のです。まさに信仰とは何かの実例となったわけです。それなら、私どもの信仰や希望の根拠はどこにあるのでしょうか。それこそが、主イエスのご復活に他なりません。主イエスがお甦りになられたおかげで、私どもの希望は揺ぎ無いものとなったのです。私どもの信仰は、完全なる確かさを持つことになったのです。

 ヘブライ人への手紙の「信仰とは、望んでいる事柄を確信し」とある、ここでの確信という言葉には、大変、面白い言葉が使われています。直訳すれば、「本質」という言葉であります。私どもは、この本質という言葉をニカヤ信条で慣れ親しんでおります。主イエスは「真の神よりの真の神、御父と本質を一つにし」とあります。主イエスと御父とは、同じ神であられるということです。御父と御子のうちには、同じ神としての本質に、ずれとか、微妙なところとか、揺らぎとか、不明瞭なところがまったくないという告白なのです。まったく一つ、完全に一致しているという告白です。ですから、ここで信仰とは、望んでいる事柄と完全に一致させるもの、望みを実現させるものという理解があるのです。しかし、「信仰とは、望んでいる事柄を本質とする。」このように訳してしまえば、ちんぷんかんぷんですから、翻訳者たちはそれぞれ苦労します。新共同訳では、「確信」としました。言葉の学者によれば、この本質という言葉は、もともと、「何かの下にある」という意味があるそうです。不動のもの、揺ぎ無いものが下にあるので、その上に乗っているものは、安心して支えられるというわけです。

 今、日本中をゆるがせているのは、マンションの鉄骨の偽造問題です。これは、信じがたい犯罪、重大な犯罪であると思います。おそらく、日本中のマンションにお住まいの方は、心のどこかに、この家は大丈夫なのだろうかという不信、不安がわずかでも芽生えてしまわれたのではないでしょうか。これは、重大な問題です。しかし、建った後になってしまっては、鉄骨の数や、その太さや、地盤がどれほど確かなものであり、基礎工事がどれほどなされているのかなどは、もはや見て、確かめようがありません。確実に安心したいのなら、専門家によって設計書を再審査していただいて太鼓判を押してもらわなければならないのではないでしょうか。

 ちなみに、この教会堂の建築の折、何度も何度も、覗いておりました。調査によって、ここは、地盤がゆるい場所であることが分かりました。そこで、地盤改良のために、それこそ、電信柱のようなコンクリートの柱を何本も埋め込みました。さらに、基礎工事は、たかだか、二階建てなのに、これほどまで、掘るものかと思えるまで深く掘って、セメントで固めているのです。

また、この建物の躯体は、木造ではなく、鉄骨によって建てられています。今となっては目に見えない内側のことですから、わたしは、地震が起こったら、教会堂のなかにいたほうが安全であろうと思います。それは、目撃者の安心なのです。「本質」とか「確信」というのは、まさに、この基礎工事部分、躯体部分、外側からは決して見れない部分に基づくものなのです。そして、確信するためには、この外から見えない事実を確認することなのです。
さらにまた、こうあります。「信仰は、目に見えない事実を確認すること」であります。確認審査を経て、建築物は登記されるはずです。県庁の職員が、来られたときのこと、問題はないはずですが、どこかやはり緊張しました。しかし、問題なく確認検査を取って、今、この教会堂はここに建っています。目に見えるものを確認するのではありません。信仰の確かさを何か、目に見えるもので証明しようとするキリスト教があれば、私どもは、厳しく斥けます。そのようなものは、信仰とはまったく無縁のものです。

 それなら、私どもの目に見えない事実、望んでいる事柄とは、何でしょうか。私どもの希望は、望みは、何に掛かっているのか、信仰とは、誰を信じることなのでしょうか、それは、いずれも、わたし達の主イエス御自身です。わたし達の主イエスを死者の中から復活させたお方ご自身です。キリストの復活の事実と御子をお甦りにならせたもうた神が、望みの主体、本体です。この神を下において暮らす、「天と地と、目に見えるもの見えざるものすべての創造者にして、すべての主権をもちたもう父なる唯一の神」を下においている生きること、それが信仰であり、そのようにして生きる者それが、信仰者なのです。

つまり、ここでも、明らかになるのは、私どもの信仰は、信念ではないということです。信心ではないということです。自分の外にあるのです。そうでなければ、確信などあるはずがありません。神ご自身が確信そのものなのです。神が下にいてくださるのです。共にいてくださるのです。この神を信じて、この神と一つに結ばれる私どもは、揺ぎ無い存在なのです。キリスト者こそ、まさに、確信して、確かな思いで生きることができる存在です。自分の力、自分自身に基づかないで、根拠を置かないで、ただ、神に根拠を置き始めているからです。しかさらに事柄を明確にパウロは語ります。確信の根拠とどこにあるのか。それが、主イエスの復活なのです。
  
 そこで、創世記の著者の言葉に注目したいことは、アブラハムとイサクそして、薪などを担いで持たせる若者たちと目的の山にたどり着いたときアブラハムが若者に言った言葉です。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」
また戻ってくる。これは、どのような意味なのでしょうか。アブラハムは確実に、イサクを捧げる覚悟、殺す決意は鈍っていません。そうであれば、イサクにことの恐ろしさをこの時点で告げることをはばかった親心が働いたのかとも思われます。しかし、そうではないのです。この大変な矛盾。イサクを殺すけれど、この後、わたしと息子とは、ここに戻ってくるという言葉は何を意味するのでしょうか。創世記の著者は、まったく答えていないのです。明らかにしなかったのです。しかし、それから2000年後、ヘブライ人の手紙の著者は、このアブラハムの言葉の真意を、解説して見せたのです。「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。」

アブラハムは、神が死んでしまったイサクをよみがえらせることもおできになるのだと信じたのです。ローマの信徒への手紙第4章17節には、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたし達の父となったのです。」とパウロは書き記しました。これは、同じことです。
しかし、これは、実に驚くべきことではないでしょうか。全人類がいまだ経験したことのない、死人の甦り、死者の復活を、アブラハムは他人事ではなく、自分の契約の子、神から与えられた約束の独り子を、自分の手で殺してしまわなければならない、イサクを、神が復活させたもうことを信じ、それがおできになると確信したのです。
 私どもは、このときのアブラハムに比べれば、何百倍、何千倍も、いや、何十万倍もこの神を信じることが容易のはずです。なぜなら、すでに、私どもは御子イエス・キリストが私どもの罪の償いのために、私どもに代わって十字架について死んでくださった歴史的事実を知り、また、このお方が三日目に復活されたという知らせを、確実な知らせを何よりも聖書によって、さらには、世々の教会の証言によって、そして決定的には自分自身がこの礼拝式で、聖霊によって復活されて今生きてここに臨在しておられる主イエス・キリストを知らされているからです。ですから、主イエスの復活を信じることは、私どもにとって確実なことです。この主イエスが復活されたことによって、私どもの希望は、揺ぎ無いものとなっているのです。私どももまた死にます。死んでゆきます。私どもの教会も、すでに愛する仲間を天に送り出しています。今、病床を看取っている仲間もおられます。それも実に厳しいことであります。何よりも、死の現実は耐え難いほどの悲しみ、寂しさ、恐怖、様々な感情が交差します。しかし、そこで私どもは、信じることができます。それは、神が死者を復活させたもうお方であることをです。ニカヤ信条の中に「我らは死者の復活と来るべき世の命を待ち望む」とあります。最後の文言です。私どもは、死者、死人の復活を信じることができるのです。その中には、すでに死んだ仲間たち、今、死の床にあるかのような仲間、何よりも自分自身のことも含んでいます。わたしも死にます。しかし、体が復活する、させられるのです。これが、神のお力なのです。神の約束なのです。

どうして、この約束を確かなものとして、自分自身が信じることができるようになるのでしょうか。それは、今、死んでいた人間、罪のなかに、死んでいた自分自身が、その罪を赦されるというとてつもない経験をさせていただいたからです。私どもはすでに死んでいた人間であったはずです。しかも、私どもは自分が死んでいたことに気づきませんでした。少し、元気が足りなくなっていたというのではないのです。少し、生きる力が足りなくなっていたので、教会に来て、神さまによって力を補給していただいたなどということでは、まったくないのです。私どもは罪のなかに死んでいた人間であります。そのような死人が、主イエスを信じることによって、主イエスによって救われたのです。罪が赦され、神の命によって生かされたのです。しかしそこで、はっきりと語らなければならないのは、悔い改めです。信仰は、外から来ますから、必ず悔い改めが必要です。足らないものを補っていただくのであれば、悔い改めは必要ありません。しかし、神に義とされることは、生きる向きを変えない限り、与えられません。目に見えない事実に目を向けることです。「あなたがたはこの世に倣ってはいけません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」とパウロは勧めます。信じることと、悔い改めることとを分けることは決してできません。信じるだけで救われる、それは確かにパウロがここで繰り返して言うことです。しかしその信仰とは、自分の全存在を持って、復活の主イエス・キリストの上で生きることを意味するのです。

 先週の伝道所委員会で、一人の伝道所委員が、葬儀についてのアンケートを作ってくださいました。来年早々には、お配りできるかと思います。正月早々、葬儀について、誰でもない自分自身の葬儀について教会員全員がきちんと向き合って、どのような葬儀を営んで欲しいのか、書き記すのです。自分の死を見つめるのです。それは、愉快なことでもあるはずです。なぜなら、私どもはすでに主イエスを信じ、私どもの主イエスを死人の中から復活させられた父なる神を信じているからです。私どもは復活します。体が甦ります。これが、私どもの希望なのです。この希望は、もとより私自身のなかにその根拠はありません。一切ありません。この希望の根拠は、復活された主イエスに、このお方を復活させたもうた父なる神にのみあるのです。それは、神がご自身の御言葉において約束されたからです。私どもは、このお方の上に、このお方の御言葉の上に人生の土台を据えているのです。

だから、私どもは、キリスト者ではない方からみれば、取るに足らない、小さな存在でしかないかもしれない。力なく、弱弱しく、小さな教会でしかないかもしれない。しかし、ここにどれほど大きな祝福が与えられていることでしょうか。私どもは、ただ、御言葉を信じて、生きるだけです。アブラハムに語られた神の約束の御言葉は、聖書によって、今日の私どもにも語りかけられています。「神を信じてそれによって彼の義と認められた」という神の語りかけは、わたしどものためにも語りかけられているのです。

ですから、私どもの生命は、神の御言葉にあります。信仰とは、聴くことに掛かっているのです。御言葉を聴かなければ、救いも、信仰もありません。伝道所委員会で、常に、問われることは、その日の礼拝式は、充実したものであったかどうか、ということです。「教会の生命は礼拝にある。」という日本キリスト改革派教会創立2周年を生きる第二年目として、いよいよ、礼拝式の充実を求め続けてまいりました。伝道所委員は、礼拝式とその説教に最大の関心を注いでいる、そういってよいのです。主の日の礼拝式を神の民の祈りの家として整える務めが伝道所委員であり、委員会の主要な、本質的な奉仕なのです。

万が一、御言葉を聴かないで、信仰が成り立つと考えることは、死を意味します。しかし、最大の恐ろしさは、死んでいるのに、死んでいることに気づかないことです。霊的に麻痺して、神との交わりが断絶して、御言葉に飢え乾くこともなくなるのです。しかし、もし、私どもが、日常生活で、しばしば動揺し、信仰によって生き抜こう、神の栄光のために生き抜こうと志しながらも、些細なことで、その志がなえてしまうこと、しばしばです。しかし、そこで、私どもが、御言葉を聴こう、御言葉の約束を聞いて、神との交わりへと招いてくださるお方に帰ってゆこうと励むなら、わたしどもの信仰と、救いは揺ぎ無いのです。私どもがどれほど動揺しやすいものであっても、神ご自身が御子を復活させ、私どもを生き返らせてくださった確かさ、確信において、昨日も今日もとこしえにかわらないからです。

今朝、私どもは、この神に、結ばれています。礼拝を捧げるとは、このお方の上に支柱を差し込むようにして、根ざして生きることです。礼拝を捧げることは、目に見えないところで、神が充分すぎるほどの鉄骨を張り巡らして、私どもの人生を覆っていてくださることに目を留めること、確認することです。それを、主の日のたびごとに、水曜日のたびごとに、確かめつつ、旅路を行く、それが、私どもに与えられている揺るがぬ信仰の祝福です。

祈祷
 私どもの主イエス・キリストの父なる御神、主イエス・キリストを信じる私どもは、同時にあなたを信じます。御父と御子とが固く結ばれ、本質を一つにしておられる確かさをもって、私どもの救いを確実なものと定めてくださいました。なんという祝福でありましょうか。私どもはこの確かさの中で、自分自身の将来が体の甦りを経験することになることを信じることができます。私どもの将来が、圧倒的な勝利によって飾られることを信じることができます。どうぞ、このことを望みをもって、この地上の歩みを戦わせてください。そうでなければ、勝つことができません。私どもの信仰こそ、世に勝つ勝利です。アブラハムに連なり、パウロに連なり、信仰によって義とされた、勝利者たちの中に地上にある限り連なり続ける者とさせてください。望みなき者に、間違った望みに生きる多くの人々のために、私どもを用いて、真の望みに、信仰へと招き入れてください。  アーメン