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親子合同礼拝式 主イエス・キリストの降誕

「救い主イエスさまの降誕」 
      2005年12月18日
テキスト マタイによる福音書第1章18節~25節

「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」

今日は、日曜学校の子ども達やご父兄をお迎えして共に礼拝を捧げています。その目的の一つは、大人の礼拝式の様子を子ども達にも知ってもらい、味わってもらいたいと願ってのことです。また、ご父兄をお招きしたいとの願いもあります。そして、日曜学校の教師ではない会員にも、日曜学校の子ども達を知っていただいてなお、祈りに覚えていただきたいからです。

今日ここに一緒に集まることができたことを心から神さまに感謝します。そして、お一人ひとりの上に、主イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。

僕たち私たちのイエスさまがお生まれになった喜びの日、お祝いがクリスマスです。クリスマスがあったから、ここにイエスさまの教会があります。ここでみんなが集まって、礼拝する神の民の祈りの家があります。
今日は、マタイによる福音書の第1章から、今日の聖書の物語から、三つのことを皆で学べたら嬉しいです。

一つは、イエスさまは、神さまの御子で、初めから天のお父様とおられましたが、今から、2000年前に、マリアさんから生まれたということです。そのことは、イザヤさんが700年も前に、預言していたことで、その神さまの約束どおりに、お生まれになったということです。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」神さまの御言葉は決して、言いっぱなしということはありません。先生の言葉は、しばしば、自分でもそんなことを言ったかなぁ、記憶がうろ覚えになることがあります。また、誰かの言葉についても、あのとき、あの人はこう言ったのに、その後、どうなってしまったかなぁ、とうことも決して少なくありません。つまり、人間の言葉は頼りないわけです。しかし、神さまの御言葉は、真実です。必ず、その通りになるわけです。ですから、聖書は3000年も昔から、語り継がれてきましたが、こんなのは嘘だよとか、こんな不思議なことが書いてあるけれど、信じられないよとか、大勢の人が考えたり、言ったりしますが、聖書に書かれている神さまの御言葉は真実ですから、今でも、世界中で読まれ続けているのです。今30億人の人たちが聖書を持っていると言われます。神様の言葉が確かだからです。これからも、僕たち私たちはこの神さまの御言葉を心を込めて聴いてゆきます。

二つ目のことは、ヨセフさんは、神さまを信じ、つまり神さまの御言葉に従っていたので、イエスさまが生まれることができたということです。
マリアさんとヨセフさんは結婚する約束をしていました。まだ結婚していません。それなのに、マリアさんのお腹が膨らんで来たことに気がつきました。どんなに驚いたことでしょう。
「マリアさんは、自分の他に誰かとお付き合いしていたのだろうか。もしも、それが本当なら、もしもそんなことが他の人たちに知られてしまったら、マリアさんは、ユダヤの法律、掟によって石打の刑で殺されてしまう。どうしよう。」
そこで、ヨセフさんは、心のなかで、固く決心しました。
「結婚を解消してしまおう。自分が悪者になれば、マリアさんは少なくとも死なずに済むはずだ。」
ところが、神さまは、天使によって、本当の事実を教えられました。
「ダビデの子ヨセフ、おそれず妻マリアを迎え入れなさい。」神さまは、マリアのことを妻と定めておられるのです。縁を切ってはいけないのです。神さまが二人を夫として、妻として結んでいてくださるのです。」
もしも、ヨセフさんが、この神さまの御言葉を聞いて信じなかった、信じて従わなかったら、聞き逃したとしたら、聞いても、自分のことではないと無視したとしたら、おそらくマリアさんはユダヤの法律で、殺されなければならなかったと思います。
私たちも、小さな子どもかもしれません、けれども、イエスさまに従うと、ヨセフのように神さまに用いられます。

そして最後に、もっとも大切なことを学びたいのです。それは、イエスさまは、どなたかということです。

イエスさまのお名前は、どなたがおつけになられたのでしょうか。それは、ヨセフさんでも、マリアさんでもありません。それは、神さまです。
ここにいるひとり一人には、それぞれ名前があります。今年一年の日曜学校では、お誕生のお祝いのときには、お父さんやお母さんから、自分の名前はどんな考えによってつけられたのか、教えてもらって、皆にも紹介しましたね。

イエスさまのお名前の意味は、「罪からの救い」という意味です。けれどもこのイエスという名前は、イエスさまだけにつけられた名前ではありません。多くのユダヤ人は、自分の長男に、イエスとつけました。罪から救う救い主という意味がある名前は、神さまの祝福に満ち満ちた名前だからです。そんな祝福に満ちた名前を自分の初めて生まれた子どもにつけることは、よくあったといわれています。しかし、イエスさまが、お生まれにあとには、もうイエスとはつけません。本当に罪から救う人は、イエスさま以外におられないからです。

イエスさまがどのようにして僕たちわたしたちの罪から救ってくださるか、それは、罪人の僕たち私たちが本当なら受けなければならない神さまからの罰を身代わりに受けることによってです。罪を犯した人、心の中に罪を持っている人、罪に縛られている人は、どれくらいの罰を受けなければならないのでしょうか。それを見せてくださったのは、イエスさまでした。それは、イエスさまが十字架について神さまからの罰、裁きを受けられましたね。それは、十字架で死ぬことでした。それくらい恐ろしい刑罰を、僕たち私たちのために受けるために、イエスさまはこの地上にお生まれになったのです。イエスさまが、この世界に来てくださったのは、十字架で死なれるためだったのです。けれども、イエスさまは、それでおしまいになったわけではありません。後で、劇を皆さんがしてくださいますけれども、そこで、男の子が、「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。」と聖書の言葉を読んでくれます。どうして、死は勝利者ではなくなったのでしょうか。それは、イエスさまが死と戦って勝利されたからです。イエスさまは、十字架で確かに死なれました。僕のわたしの罪を償うために、身代わりに死んでくださるために、確かに死なれました。けれども、三日目に死人たちのお墓からお甦りになられたのです。だから、「死よ、お前の勝利はどこにあるのか」と大きな声で言えるのです。

イエスさまは、十字架に死なれるために、お生まれになりました。イエスさまは、あなたの罪を赦し、あなたを神さまの子とするために、お生まれになりました。このイエスさまを信じた人は、誰でも、罪が赦され、神さまの子どもです。

この間、日曜学校のお友達が、教会にある小学校の机を前に座っていました。先生は、小学校の先生を真似してその子の名前、上から下までの名前を大きな声で呼んだのです。すると、その子は、いつもと顔つきが違って、ハッとしていました。自分の名前が大きな声で呼ばれると、何だか、本当に学校にいるみたいな、先生の前にいるような感じがしたのだと思います。

自分の名前を大声で呼んで、答えない人、それは、眠っている人か、病気の人か、あるいは、すでに死んでしまった人です。生きていれば、自分の名前を呼ばれたらすぐに返事をします。
イエスさまと呼んでください。イエスさまは死んで終わってしまったのですか。違います。お甦りになられて、天の王座におられます。イエスさまのお名前をお呼びすると、イエスさまは、必ず、返事をしてくださいます。お祈りを聞いてくださるのです。

来週は、降誕祭、クリスマスの礼拝式です。ここにいる皆で、いへ、今日休んだお友達もいっしょに、日曜学校の礼拝を捧げましょう。今週一週間も、イエスさまのお名前をお呼びしましょう。天のお父様とお祈りして、イエスさまのお名前によってアーメンとお祈りして行きましょう。神さまの子どもの一人ひとりが、天のお父様、イエスさまとお呼びすることを神さまは一番、喜んでくださいます。

祈祷
天のお父様、イエスさまは、神さまの御言葉の約束の通りに僕たちわたしたちのためにお生まれくださいましたことを感謝します。
そのとき、ヨセフさんの信仰によって、イエスさまが無事にマリアさんから生まれることができたことを学びました。僕たち私たちもまた、ヨセフさんのように、神さまの御言葉に従う信仰と勇気を与えてください。
そして何よりも、罪から救ってくださったイエスさまの尊いお名前を、信じて、これからもお呼びすることができますように。しかも、自分のためばかりではなく、神さまの栄光のために、友達のためにお祈りできるようにしてください。