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「まことの平和が来た日」降誕祭礼拝式

「まことの平和が来た日」  
     2005年12月25日
聖書朗読 イザヤ書第9章5節

 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。 
イザヤ書第53章4節-5節
彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

テキスト ローマの信徒への手紙 第4章24節b~5章1節
「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、」

 クリスマスおめでとうございます。今年は、このように主の日にご挨拶することができる幸いにあずかりました。12月25日、降誕日が主の日と重なったからです。そしてこの記念すべき喜びの日に何よりも嬉しいことは、洗礼入会者を迎え入れ、共に聖餐の食卓を祝うことができることであります。

 クリスマス、主イエス・キリストがお生まれになられたのは、先ほどご一緒に唱えたニカヤ信条によれば、「主は我ら人類のため、また我らの救いのために天よりくだり、聖霊によりて処女マリヤより肉体を受けて人となり」とあるとおりです。私どもの救いのためです。そうであれば、本日、受洗者は、まさに、キリストが肉体を受けられたことの実りそのものであることが分かります。そうであれば、どれほど神がこの出来事を喜んでいてくださるのかもよく分かると思います。そして、このことが分かれば、「クリスマスおめでとうございます」という祝福の挨拶は、まさに、お互いに向かっての挨拶であること、イエスさまに向かっておめでとうと言うのではなく、主イエス・キリストの御降誕によって救っていただいたわたし、わたしども、あなたはなんと幸いなのでしょう!あなたはなんと祝福されているのでしょう!という思いを込めているのです。クリスマス、おめでとうございます。

 礼拝式が終わってすぐに、岡地姉は、「洗礼入会おめでとうございます。」という祝福の言葉をお受けになられると思います。「受洗、おめでとう」という祝いの言葉もまた、毎週の礼拝式も、主イエス・キリストの復活のお祝いです。祭りです。しかし、それは、「イエスさまお甦りになられてよかったですね。」というものではありません。そうではなく、「主イエスがお甦りくださったおかげで、私どもが罪赦され、体の甦りが保証され、永遠の命にあずかることができた、よかった、嬉しい」という私どもの祝いなのです。
 説教の後、直ちに、○○姉とともに祝う初めての聖餐にあずかります。聖餐を祝うこともまた、私どもの救いの祝い、祭りです。私どもは、毎週日曜日、主の日のたびごとに、私どもの救いの喜び、救いの祝い、命の祭りをここで行っているのです。そして、主イエス・キリストの御復活も、主が御降誕くださったからです。

 今朝も、いつものように、ローマの信徒への手紙を学んで主を礼拝してまいります。遂に第5章に入りました。昨年の9月から始まりましたので、ここまでに一年余り掛かりました。今朝は、第5章1節だけを学びます。聖書朗読では、第4章24節から読みましたが、時間の関係で、この一節に集中してまいります。しかし、もとより、私どもの聖書の解釈、学びとは、前後関係、文脈の流れを重んじます。この5章の1節から11節、この箇所は、私どもの救いの教え、神がその独り子イエス・キリストにおいて、どれほどすばらしいみ業をなしてくださったのか、つまり、主イエス・キリストの福音にとって、まさに、最大級に重要な箇所といっても過言ではありません。この部分を、すべてそらんじるまで、心に刻み付けることができましたなら、どれほど大きな力を私どもは受けることができるかと思います。
 ある説教者は、この箇所について、このように申しております。「わたしどもが、いったいキリストの救いとは何だろうかと問いますときに、他のところを学ばなくても、この部分を丁寧に読むことができ、理解することができ、信ずることができれば、それで十分だといって良いのです。したがって、自分は一度信仰が分かったつもりになっても、疑いを抱いたり、動揺したりした時に、この御言葉に戻ってくることができる、このパウロの言葉にアーメンと言うことができるならば、それで充分なのであります。」これは、かなり、大胆な発言です。しかし、確かに、私どもの救いのまさに中心、核心についてパウロが語っていることは、事実であります。

 使徒パウロは、これまで罪について、信仰による義についての議論を繰り返しながら、深めてまいりました。いささか入り組んだ議論もありましたが、しかし私どもは、丁寧に学んだのです。そこでわたしは申しました。「なぜ、複雑な議論になってしまうのか、それは、私どもの罪があまりにも重く、そのあまりにも悲惨になった罪、入り組んで、解決できない、紐解けないような罪の現実に、神がみ業を行ってくださったことを語るからだ」

しかし、5章に入ると使徒パウロは、これまでの議論で明らかになった福音の恵みの真理、福音のすばらしさを歌い始めていると読むことができると思います。ある人は、「叫びを上げている」と言います。そうかもしれません、しかしその叫びとは、喜びの叫びです。賛美となっているのです。もしかすると、この叫び、賛美を言い表す新しい言葉をパウロはこれまで、大切にこの部分のためにとっておいたのかもしれません。しかし今、その大切な言葉をここで用います。実は、この言葉は、ユダヤ人の日常生活にとって慣れ親しんでいる言葉でもあります。そして、何より、聖書のなかでも、信仰の真理を表現する、きわめて重要な語句であります。それは、何でしょうか。「平和」であります。ギリシャ語では、「エイレネー」と申します。しかしこの手紙は、もともとギリシャ語で記されておりますが、パウロが慣れ親しんでいる言葉はもちろん、ヘブライ語であります。そのヘブライ語で、平和は、「シャローム」と申します。
 この「シャローム」は挨拶の言葉と言われております。朝も昼も、そして夕べも、ユダヤの人たちが挨拶することば、それが、シャロームです。そしてその言葉の意味は平和なのです。「平和があるように」という挨拶は、すばらしい挨拶です。どれだけ、その意味をわきまえて挨拶しているのか、それは、わたしには分かりませんが、今日も、シャロームと挨拶するようです。

 しかし、もともと、この平和とは、ユダヤの人々にとっては、日常の挨拶ではありますが、究極の祝福、究極の幸せ、究極の光栄を意味しました。それは、神との間、神との関係について言い表すものなのです。政治的な平和、戦争がないという状態の平和ということより、神と人間との間に争いがない、戦争がない状態なのです。これが神に造られた人間、しかも、よく造られたままのすばらしい人間にではなく、罪を犯して、神との正常の関係を破壊し、神の怒りを受けることだけがはっきりと定められている私ども罪人に与えられるとうのです。そうであれば、まさに、これこそ究極の祝福でなくてなんでしょう。

 思えば、これまで使徒パウロ自身が一生懸命語ってきた、主イエス・キリストを信じる信仰による義とは、一言で言えば、この平和のことなのです。そして、この平和、シャロームは誰によって実現するのか、実現されたのか、それこそ、このローマの信徒への手紙が語りたいこと、告げたいことなのです。信仰とは、この主イエス・キリストのみ業を理解することです。そして、信じることです。そのときに、神との間に平和が樹立させていただけるのです。
 

 一昨日の晩、燭火礼拝式で、東方の三博士の物語を学びました。そこで、これまで、教会の歴史のなかで、いったい何枚、何十万枚、この物語が絵画に描かれてきたことであろうかと申しました。今年の待降節でも、その絵の一つ、二つをあらためて観ました。降誕の絵画は、美しいものが多いのです。十字架の処刑の絵は、直視するに忍びないものが少なくありませんが、しかし、降誕の絵は違います。美しい母マリアに抱かれる絵画は、しばし見とれるようなものが多いかと思います。ところが、そのような絵であっても、ときどき、幼子イエスさまが眠っておられる馬小屋の飼い葉おけが、よく見ると、棺になっているような絵を見ることもあります。もちろん、主イエスは、聖書によれば、飼い葉おけにねむらされたわけです。しかし、画家は、主の降誕の出来事にすでに、主イエスが私どもの救いのために、来てくださったこと、十字架につけられて墓に葬られるために、お生まれになったことを告げているのです。

 それは、使徒パウロが第8節で、「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたし達のために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」まことに、美しい御言葉でありますが、この言葉が事実、出来事となって、起こったのです。そして、そのために、主イエス・キリストはこの地上に人間となって、肉体を受けて人となってくださったのです。お生まれ下さったのです。そして死んでくださったのです。この出来事のおかげで、このみ業のゆえに、私どもは、神との間に今、平和を得ているのです。

 間違ってはならないのは、かつては、戦争状態であったことです。私どもは神との関係を自分で正しく持つことなど決してできない神の敵であったのです。10節でパウロ自身がはっきりと発音しました。罪人とは、神の敵なのです。敵対関係にあるのです。ところが、私どもが実に罪人であり、敵であったとき、すでに、神は私どもの間に平和の道を作り出してくださったのです。

 礼拝式の最初の言葉、神が私どもをご自身の礼拝へとお招きくださる御言葉として、イザヤ書の第9章を読みました。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。」主イエスは、「平和の君」と「平和の王」と唱えられると預言者イザヤは、予告しました。神の御子は、平和の王様となるひとりの赤ちゃんが生まれたそれは、わたしたちのためなのだと告げたのです。

 しかもそのイザヤは、第53章で、「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」とも預言しました。まるで誰よりも、近くで、十字架のイエスさまのお姿を見たのではないかと思われるほど、リアルに、主イエスの十字架の処刑の場面を描き出しました。主イエスが、ローマの兵隊に槍で、わき腹を刺し貫かれたとき、それは、罪人、敵である私どものためなのです。私どもの咎のためなのです。しかし、その受けられた神からの懲らしめのゆえに、イザヤは、パウロに勝るとも劣らず、喜び叫ぶのです。賛美を歌うのです。「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられた」この御言葉を読めば、主イエスがお生まれになる700年以上も前に、パウロがローマの信徒への手紙を書く、700年以上前に、もうすでに、パウロの福音、パウロの喜びは、イザヤには、見えていた、パウロの福音の喜びの叫びを聴いていたということであります。

 
 さて私どもも今、イザヤから2700年後、パウロの時代から2000年後、ここで愛する皆様とともに降誕の礼拝を捧げております。クリスマスの礼拝、それは、この私たちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ていると、喜びの叫びを上げることに他なりません。賛美の歌を歌うことなのです。

 パウロは、ここで、「得ている」と言います。平和を獲得しているといいました。パウロは、今、平和を確保していると言うのです。これほどの力強い宣言があるかと思います。もう、この平和は誰のものでもない、私どものもの、わたしのものとされているのです。それは、ただ信仰によってのみです。信じることとは、平和を得ることを意味するのです。信じるだけで、平和が与えられ、このような確信に満ち溢れた宣言を自分のものとすることができるのです。それは、単にパウロだけではない、イザヤだけではない、誰でもキリストを信じていれば、主イエスを信じる者であれば、すべての人が、「わたし達の主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」こう断言し、こう叫び、このように歌えるのです。
 

この平和は、神との間の究極の平和です。政治的な平和を直接に、意味するわけではありません。しかし、それなら、聖書の信仰は、政治的な平和とは関係ないのでしょうか。まったく違います。神は、約束どおり、この地上に完全な平和を実現してくださいます。それは、主イエス・キリストが再び、天から、俄然、王の王、主の主、裁き主として再臨してくださるときに完全にもたらされます。しかし、この神との間に平和を獲得した者たちは、人間同士の間にも平和を実現するように働き始めます。それが、教会のこの世における使命なのです。キリスト者の使命なのです。人と人との間に、平和を実現する人の特徴は、あらためて確認する必要もありませんが、主イエス・キリストの十字架の死によって神との間に平和を獲得している人ですが、その人は、また、自分と自分との間にも平和を獲得し始めている人を意味します。おかしな表現をしましたが、自分と自分との間に平和があるとは何でしょうか。自分を愛するということです。自分を重んじるということです。自分をあるがままで受け容れるということです。

 神との平和は、必ず、ここまで実を結びます。それは、心が落ち着いてくるとか、安心立命の境地に至るとか、何事が起こっても心は平静を保ち、動じない、大人物になるということを意味しているのではありません。心の平和とは、端的に申しまして、感情の次元のことではないのです。もとより、感情の次元で、心に常に、落ち着きがある人、平常心をいかなるときでも、地震が起こっても、火事にあっても、災害にあっても、危険や、困難にあっても、いつでも平常心でいられる人はうらやましいことです。キリスト者になった人は、即座に、そのような大人物になるのか、これは、断言できません。いや、おそらく違うでしょう。一年、二年なら、そのような平安な気持ちが保てるかもしれませんが、数年後、何か、深刻な困難、試練に出会って、平和な心持が吹っ飛ばされることもあるのです。しかし、そのときこそ、わきまえていなければなりません。平和な心持ちが吹き飛ばされても、この平和、神との平和は、決して吹き飛んでいないということをです。この事実は、揺るがないのです。ですから、これは、感情に基づくのではなく、キリストの事実、十字架、復活、降誕という私ではなく、主イエス・キリストの事実、み業に、外の働きに基づくことに目を留めるのです。そこで、いよいよ、私どもに与えられている、平和の威力を知ることができるはずです。

 この平和は、自分と仲良くさせます。自分の境遇を、自分の環境を、自分の能力を、受け容れることができるようになるのです。あれが、足らない、これが足らない、これがなければ、あれがなければ、良かったのにと、つぶやく心から解放され始めるのです。自分と仲良くなるのは、神と仲良くなれるからです。神によって、愛されている自分、重んじられている自分を、自分で発見するからです。そのとき、私どもに、力はわくのです。神につぶやく人は、隣人につぶやきます。教会員であれば、顕著なのは、牧師につぶやくようになるでしょう。そこで、神との関係が、自分自身との関係に反映します。ですから、私どもは、主イエス・キリストに徹底的に注目するのです。

幼子イエスさま、飼い葉おけに眠っておられ、それが、まさにすでに棺おけをも意味するような、主イエス・キリストのご生涯に目を向けるのです。そうすると、もう一度、パウロの歌を、自分の歌とすることができます。たとえ、誰がなんと言おうと、私どもは、神との間に平和を得ている。獲得している。

 この一年、私どもは何を獲得することができたのでしょうか。一年最後の礼拝式で、あらためて問うも良いでしょう。問うことができると信じています。愛する肉親を喪った、健康を損ねたそのような方もおられますし、あらたな立場につくことができた方もおられます。しかし、この一年、結局、この神との間に平和を獲得することができたこと以上の宝物があるのでしょうか。決してありません。

 ○○姉は、まさに本日、この宝物を、クリスマスプレゼントとして洗礼を通し、聖霊によって、獲得させていただいたのです。得たのです。歩理ちゃんは、そこへと保証されたのです。これから、現実のものとするべく、親の信仰の教育を受けてゆくのです。教会の教育を受けていくのです。それは、私どももまた、同じでしょう。得ているのですが、丁寧に言えば、得始めているのです。完全には、得ていません。だから、試行錯誤や、とまどい、後退することすらあるのです。しかし、私どもは、大胆に歌えるのです。なぜなら、主なる神は、教会に、聖餐の礼典を与えていてくださるからです。

 この聖餐によって、私どもは、繰り返し、神との平和の絆を深めさせていただき、更新させていただけるのです。苦しみや、悲しみ、困難にあっても、自分と仲良くなれるのです。自分自身を愛し、重んじられるのです。
 そして、そのような者が、この地上に平和を構築する使命に生きることもできるのです。名古屋岩の上伝道所が、この平和に生きる拠点となり、平和をもたらすとりでとなりますように。
 

祈祷
 真の神よりのまことの神、御子を私どもの救いのため、あなたとの平和実現のため、お遣わしくださいました父なる御神、新しい信仰の友を加えられました。この友のために、主イエスが十字架についてくださいました。そのようにして平和という最大の究極の祝福、宝を与えてくださいました。今、この宝を喜び、自分がこの祝福にあずかっていることをお互いに喜ぶ礼拝を捧げることができております。願わくは、この言い尽くしがたい福音の恵みを、ここに集められたすべての一人ひとりに与えてください。信仰を与えてください。そして、この平和をもって、あなたの御前で生き、隣人とともに生きることができますように。                        アーメン