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「神の栄光にあずかる希望を誇る」

「神の栄光にあずかる希望を誇る」
2006年1月8日

テキスト ローマの信徒への手紙 5章1節~2節
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」

 昨年の降誕祭におきまして、すでに、第5章1節を学びました。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」これは、ほとんど、使徒パウロの喜びの叫び、雄叫びのような響きを持っています。リングの上で、真剣勝負をして、勝利した者が、思わず叫びだしてしまうような勝利の、喜びの叫びです。ローマの信徒への手紙をしばしば山にたとえることがありますが、その頂上は、なんと言っても第8章であります。しかし、その勝利の前に、すでにこの第5章においても、第8章に負けないくらいの喜びの感動がすでにパウロは抑えきれないのでしょう。喜びが炸裂するような感じが致します。

先回もご紹介しましたが、ある説教者は、この第5章の1節から11節までを理解し、信じてアーメンと言えるなら、キリストの救いについて学ぶべきことは十分に学び取ることができるのだと申しました。洗礼入会を志願する十分な資格が与えられているということでしょう。いや、洗礼入会を志願しなければならないと言ったほうが正しいでしょう。そのような救いの教えについて、2006年の最初に学び始めることができますことは、これも私どもの大きな感謝であります。

私どもは今年も、何よりも祈り願っておりますことは、昨年の岡地姉のように、共に聖餐にあずかる兄弟姉妹が与えられることに他なりません。岡地姉は、昨年の1月には、この礼拝式に出席しておられませんでしたが、神がみ業をなして下さいました。すでに、ここに座っておられる方々であれば、なおさらのこと、今年、共に聖餐にあずかっていただきたいと心から願っています。伴侶の救いのために、祈り続けておられる仲間たちの、その祈りがきかれるように、私自身も、心から祈っています。また、そのために何とか用いられたいと切なる願いを抱き続けております。わたしは、わたしどもは、どうしても、ここで明らかにされているパウロの喜びの叫びを一緒に挙げたいのです。つまり、人生の真の勝利者になっていただきたいと言うことです。すでに、仕事が始まり、学校も今週から始まります。それぞれの通常の生活が始まってまいります。それぞれに目標があるでしょう。しかし、人間が真実に目標とすべきその目当てに向かうことがなければ、空しいはずです。いかに努力し、いかに成功したとしても、空しいはずです。人間の人生、一生、生きる道は、神によって与えられるものだからです。命の創り主なる神が定めて下さった道を走らない限り、人生の勝利はありません。

 先週の夜の祈祷会で、すでに今年の主題聖句としてわたしが考えております、テモテの手紙Ⅱ第2章を学びました。その第5節にこうあります。「競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができません。」私どもは、キリスト者はもとより、そうでない方も、人生という競技、人生というレースにすでに参加させられています。気がついたら、この競技の補欠選手などではなく、正選手にされていたわけです。そして、今、戦っているわけです。栄冠を受けるべくゴールを目指して走っているわけです。そこで、要になるのは、規則に従うことです。競技には、必ず、規則があります。ルールがあります。規則を破れば、即座に、失格となります。敗者になるのです。この規則は、自分で決めることは許されていません。自分がルールブックだ、自分が規則だなどとは言えないのです。この規則は、競技の主催者、この協議を作られた神ご自身なのです。神の御言葉が規則の中身といってよいのです。その規則に従って、競技に参加するなら、私どもは、驚くなかれ、誰でも栄冠を受けることができるというのです。なんという気前の良い、主催者であろうかと思います。地域の運動会のように誰でも参加するだけで貰えるような参加賞のようなものではありません。栄冠なのです。栄光の冠です。
 
その栄光の冠とは、使徒パウロが今、第5章2節で、叫んだ、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」という御言葉においてあらわされているもの、神の栄光にあずかるというみ業に他なりません。神の栄光にあずかる、これこそ、神の栄光の冠であります。
しかも、これは、とても不思議なことではないでしょうか。先ほども申しましたが、我々人間は、気が着けば、物心がつくようになるとすでに、競技に参加しているわけであります。つまり、今、競技中の身です。走っている最中なのです。

わたしはほとんど分からないのですが、たとえば「競馬」などでは、競争馬が走っているときに、馬券を買った方々は、それが、まず間違いなく、勝つであろうと言われている馬であっても、はらはら、どきどきしながら、手に汗をにぎりながら、ゴールの瞬間まで馬に釘付けになるものではないでしょうか。最後まで、目を離せない。どれほど、絶対勝つに違いないと言われていても、おそらくそうだと思います。それなら、使徒パウロのこの喜び、勝利の雄叫びは、先走っているのではないでしょうか。

「人生一寸先は闇」と言う言葉もあります。誰も、自分の将来、明日のことは分からないわけです。どのような占い師であっても、自分自身の明日のことは、どうなるのか、分かっているわけはないのです。余計なことかもしれませんが、それで、ひと様の明日を占うというのは、いかがなものなのかと思います。しかし明日のことが分からないということは、使徒パウロであってもまた例外ではないはずです。いったい、パウロの人生はまだ終わってもいないのに、競技が終わってもいないのに、なぜ、これほどの確信をもって、希望について、将来について断言するのでしょうか。

その根拠こそが、第1節に記された真理に他なりません。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」つまり、すでに、信仰によって義とされ、わたしたちの主イエス・キリストのおかげで、神との間に平和を得ている、からです。つまり、平和は、競技中に与えられているのです。そうなりますと、現実の競技では、いわゆる八百長のような不正がなければ、戦い終わるまで、結果は分かりません。しかし、これは信仰の真理のたとえであります。信仰の競技とは、すでに戦いの最中に、結果を知っているということなのです。結果が始まっているわけです。

神との間に平和が樹立され、もはや神が私どもの敵ではない。神との間にあった戦争状態は、神ご自身が、私どもではなく、神ご自身が、この戦争状態を平和の状態へと、たったお一人で、ただ神お一人によって、神の側で、解決してくださったのであります。それこそが、これまで、使徒パウロが丁寧に語り続けた福音の真理でありました。パウロは、第3章23節で、「私どもは、皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」と言いました。罪を犯して、神の敵になっていたのです。神に宣戦布告をし、徹底した交戦状態にあったのです。神を無視するようにして神を殺し、さらには、思い上がって神を否定し、神をさげすみ、神を亡き者にして、しかも恥じるところがなかったのです。「神などいない、人間は自分の責任で、何をしても良いのだ、自分が責任をとるのだから、神さまにあれこれ指図されるような、自立しない人間ではいけないのだ。自分は、神などに頼らなくても、人間らしく、人間として生きて行けるのだ」と、まさに、神との断絶、むしろ神との戦いの真っ最中にあったのです。実に、これこそ、かつての私自身の姿に他なりませんでした。

「皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」これこそ、私どもの宿命、定めであったのです。これこそ、私どもがこれまで確定されていたこと、いわば競技に参加する前に、完敗、完全な敗北が決定しているということでありましょう。それほどに、惨めな人生、罪とその結果の神の裁きと怒り、生まれながら神の怒りを受けるべき呪われた人間と成り下がっていたのです。それが、罪人ということの意味であります。

ところがどうでしょうか。驚くべきこと、私どもは、自分の犯した罪、自分の神への反抗、背きの責任を取らなくてよくなっているのです。それこそ、パウロがこれまで語り続けた主イエス・キリストの御業でした。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」そしてその結果、このお方のこの恵みのみ業によって、神との間に平和を得ている、与えられているのです。だから、すでに勝利者とされているのです。

しかもこの与えられている神との平和は、それだけで終わらないのです。さらにすぐれた約束がある。さらに驚くべき契約、約束が交わされているのです。それこそ、神の栄光にあずかる希望であります。

「神の栄光にあずかる」これは、自分が、神ご自身の似た者となるということです。私どもには、聖書を通して、終わりのとき、神と顔と顔とをあわせて合い見えるという約束が与えられています。私どもの教会の改革者カルバンは、この箇所を解説したそこで、二ペトロ第1章を読むようにと勧めます。「主イエスは、ご自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えて下さいました。それは、わたしたちをご自身の栄光と力ある業とで召し出して下さった方を認識させることによるのです。この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。」ペトロはここで、「神の本性にあずかる約束」と言います。それが、神の栄光にあずかることなのです。さらにカルバンは一ヨハネ第3章も見るように勧めます。「御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき、御子をありのままに見るからです。」御子主イエス・キリストが再臨なさるとき、主イエス・キリストと似た者とされる、なぜなら、「御子イエス・キリストをありのままに見ることができるから」これが、「神の栄光にあずかる」ことです。

パウロはここで、この希望を「誇りにしています。」と言います。これは、きわめて重要な言葉、発言です。このことをめぐって深く考えたいのです。私どもはすでに、第1章16節で、「わたしは福音を恥としない」という御言葉を学びました。「恥としない。」という表現は、消極的といえば、確かに消極的なものと思います。これを積極的に申せば、まさに福音を誇りとするということでしょう。使徒パウロ自身も、恥としないという表現を用いて、福音がどれほどすばらしいものであるのかを言い表したかったのですが、しかし同時にこの福音をそのまま宣教するとき、人間の思い、この社会の優れた知識人、教養人などを前にするときに、自分自身のなかに、確かに、恥じる思いとの戦いがあったからなのでしょう。

しかし、ここでは違います。パウロは、喜びの叫びを上げているのです。「誇り」という言葉は、実は、「喜び」と訳すこともできます。実際にこれまでの日本語の翻訳では、「喜んでいる」と訳してまいりました。「神の栄光にあずかる希望を喜びとしている」のです。「神の栄光にあずかる希望」、これが、「誇り」の内容です。

私どもが人間として生きていく上で、やはり大切になるのは、まさにこの問題であります。誇りの問題です。キリスト者として、きわめて重要な問いです。私どもは何を誇りにして生きているのか、誇りをもって生きているのか。

説教を準備するなかで、加藤常昭先生の説教集を読みながら、思わされたことがあります。どこかの教会に招かれたとき、その牧師から、「先生のことを、加藤さんと紹介したいのだけれど、それでよいでしょうか。」と問われたのだそうです。わたしも、もしも、そのように問われたら、驚くと思います。先生も驚かれて、「やはり説教者を紹介するのに、加藤さんではまずいでしょう。加藤牧師と呼んで下さったら」と答えられたそうです。さらに質問されました。

「どうして、わざわざ牧師を「さん」と呼ぶのですか。」すると、その牧師は、「地方にあるその教会には、大学の先生、お医者さんがおられて、そのような教会員が先生と呼ばれている、それが、実は、教会の交わりを真実につくることを阻害しているから、自分は一人の牧師として、断固ここで戦っているのだ」ということでした。わたしは、この話を読みながら、かつての教会での牧会のことを、あらためて思い起こしました。先生と呼ばれる人が牧師のほかに教会にいる。もとより、大きな教会では、何人もおられるでしょう。都会の教会では、何のこともないことでしょう。しかし、地方の教会では、ことは簡単ではないようなのです。教会で、先生と呼ばれないと、そのキリスト者がそわそわする。これは、おかしなことではないでしょうか。誇りを持って生きる。誇り高く生きる。これは、キリスト者にとってまさに生命線です。しかし、万一、その誇り、プライドが間違ったものに根拠を置くと、つまり、自分の内側にあるプライドに立脚するのであれば、しばしば、そのプライドが教会の交わりを損なうのです。

いや、それは教会員だけのことではありません。わたしは、開拓伝道の初期の頃、「牧師のことをなんと呼んだらよいのか」という青年たちの問いに答えたことがあります。一つには、「牧師先生」という呼び名が日本の教会にはあります。どこから始まったのか分かりません。教会にはいろいろな先生がいるから、この世にもいろいろな先生がいるから、教会の先生だから、牧師先生なのでしょうか。そこで、わたしは、すぐに申しました。「牧師先生と呼ぶのは違和感がある。相馬牧師と呼べばよい。あるいは、相馬先生とだけ呼べば事足りるはず。教会では、様々な職務がある、しかしそのなかで最も大切な職務は牧師、説教者の職務である、だから、この職務は、重んじられなければならない。その重んじる度合いによって、教会は生きることもゆがむことも起こる。だから、相馬牧師と、その重みをもって呼んでくれることを期待する。」そのような意味のことを、個人的にも、集会の折にも申したことがあるのです。しかし、このプライドということは、教会員だけではなく、私自身の問題でもあるのです。牧師の職務が軽んじられることは、断じて、許しておいてはいけないのですが、相馬伸郎という個人、一人の人間が軽んじられるなら、それは、耐えなければならないことです。しかし、そこでこそ、私自身のなかにも、厳しい戦いがあるのは事実であります。これは、皆様ひとり一人も、同じことだろうと思います。誰でも知っていることではないでしょうか。

先週の週報でも書きました。わたしも牧師としての誇りは、やはり持っているのです。一言で言えば、苦しみにあったことです。牧師としての艱難、苦難をわたしは受けたと思っています。それは、多くの牧師には理解できないことだと思うほどです。ですから、それを口にしたこともほとんどないのです。ただしかし、牧師が人間的な誇りをもって生きるなら、先ほどの、教会員との戦い云々を言うより、もっと、教会の交わりを損なうに違いありません。そうです。いずれにしろ、教会のなかで、正しい誇りに生きることができなければ、教会は、実に、人間臭い交わり、鼻持ちならない集団に成り下がるのです。そのような集団に、神ご自身がその真ん中に臨在したもうことはありえないと思います。

それなら、ここで、パウロが満を持したように、「わたしは、誇りとしています」と言うのでしょうか。いへ、わたしは間違って申しました。ここで一人の伝道者パウロは、決して、「わたしは」などとは言っておりません。「わたしたちは、誇りとしています。」と言ったのであります。つまり、この誇りとは、使徒のような特別の職務に召された、特別に選ばれた人にだけ当てはまるようなものではないということです。誰でも、主イエス・キリストを信じれば、義とされ、罪赦され、神との間に平和を得ているのです。そして、そればかりか、やがてのときには、地上の歴史の終わりのときには、神の栄光にあずかる、神の本質にあずかる、神と似た者となれるのです。これは、キリスト者であれば、誰でも受けている恵みの約束であり、受ける恵みなのです。それを、誇りとするのだと、喜びとするとパウロは叫んだのです。

そうであれば、この誇りは、ここにいる全員がしっかりと持たなければならない。教会員全員が、信仰が浅かろうが深かろうが、まったく関係がありません。牧師であるか、伝道所委員であるか、まったく関係がありません。主イエス・キリストを信じているものであれば、誰にでも与えられている恵みであり、約束されている恵みなのです。

この誇りに生きる交わりが、教会なのです。これが、教会の、神の教会だけにある聖なる交わりです。そこには、皆が一つのことを誇りとして生きているのです。誰もが、この一つの誇りを共有して生きているのです。
もしもキリスト者がこの誇りを見失えば、おそらく聖書を読むこともつまらなくなります。祈ることも、伝道することも、奉仕することも、おそらく力がはいらなくなるのです。それほどのことが、この誇りに生きること、これが、私どもの恵みなのです。

ですから時に、「あなたはこの誇り、この喜びがかすんで見えていませんか、だから、この世の栄光に、引っ張られて、喜びなく、勝利なく、教会生活を送っていませんか」と、諭されることもあるのではないでしょうか。時に、私どもは、まさにこの誇りを見失って、罪を犯すのではないでしょうか。だからこそ、そのように諭す人、諭してくれる仲間がどれほど大切でしょうか。いずれにしろ、この誇りこそ、私どもの生きる力、霊的に生きる原動力なのです。

そうであれば、この神の栄光にあずかるリアリティーはどこで培われ、養われ、その幻はどこで見ることができるのでしょうか。それが、主の日の礼拝式、説教と聖餐を頂点とするこの礼拝式であります。私どもが、毎年、毎年、、20周年宣言の実現のための4本柱の第一として「神の民の祈りの家を築こう」と教会の目標を掲げているのはそのためです。これに終わりはありません。
これは、わたしだけの責任ではありません。しかし、わたしは誰よりも、神に裁かれる人間です。そのもっとも重い責任は、説教者にあります。しかし、もう一度申しますが、教会は、説教者だけで成り立つわけではありません。私どもひとり一人の責任です。

今年から、試験的に、聖書日課として稲毛海岸教会の三川牧師のものを皆様に配ります。聖書に慣れ親しむことは、この神の栄光にあずかるという希望を、毎日、毎日、手ごたえとして受けることです。しかも、皆で同じテキストを読むことは、すばらしいことです。

最後にこれまで触れていない、「今の恵み」について学びます。実は、この翻訳は、大切な御言葉を省略しています。これまでの日本語の翻訳では、「いま私たちの立っているこの恵み」「立っている」と言う言葉がありました。

私どもの教会では、あまり使わない表現ですが、「信仰に立つ」という言い方があります。わたしが学んだ神学校では、そのような表現を大変重んじていたと思います。「信仰に立って今年、あれこれをする。信仰に立って、このような決断をした。」しばしば、そのような会話をしたものです。わたしは、一方で、この表現は丁寧にしなければ、危険であると考えますが、しかし、他方で、危険だからと言って、信仰に立つこと、信仰に立って決断することまで、ふたをする、強調しないなどということはあってはなりません。

これは、言い換えますと、信仰の確信のことです。実は、わたしども改革教会にとってこそ、重要な教理なのです。私どもの改革派信仰こそ、この確信を重んじてきたのです。ウエストミンスター信仰告白第18章の主題は、「恵みと救いの確信について」です。このように高らかに宣言されています。「主イエスを真実に信じ、誠実に愛し、全くよい良心をもって御前に歩くように努める人々には、自分が恵みの状態にあることを、(つまり神との平和を受けていることです。)この世において確実に確信させられ、また神の栄光にあずかる希望をもって喜ぶことができる。この希望は決して彼らを失望に終わらせない。」ここには、私どもが今学んでいる使徒パウロの御言葉が言い直されている、いや、ほとんどそのまま引用されていることに気づかれると思います。

私どもは、どこに立つのか。立つべきなのでしょうか。いや、肝心なことは、何も立つべき場所を、「どこだどこだ」などときょろきょろ探す必要などまったくないということを知ることです。なぜなら、私どもは、すでにこの今の恵みによって導き入れられているからです。使徒パウロが言うとおりです。すでに洗礼を受けたのです。すでに聖餐にあずかったのです。すでに、恵みの支配する場所に立たせていただいているのです。洗礼をお受けになっておられない方も、この恵みの場所にすでに招かれておられるのですから、この場所、ここで私どもと共に立っていてくださればよいのです。

祈祷
私どもをこの揺ぎ無い平和、救い、恵みの支配のなかに導きいれて下さいました、主イエス・キリストの父なる御神、この恵みのなかにしっかり立たせて下さい。そして、与えられている神の栄光にあずかる約束、この希望しっかりと今見つめ、あなたを見上げ続けることができますように。この主の日の礼拝式を祝福してください。この誇りに生き続け、この喜びの輪を広げさせて下さい。