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「キリスト者のすがた」2月5日

「キリスト者のすがた」
2006年2月5日
テキスト  テモテの手紙Ⅱ 第2章1-7節②

そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。
そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。
キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。
兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を召集した者の気に入ろうとします。
また、競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができません。
労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。
わたしの言うことをよく考えてみなさい。主は、あなたがすべてのことを理解できるようにしてくださるからです。

「わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスの恵みによって強くなりなさい。」この御言葉は、私どもの教会の今年の主題聖句とすることを、先週の恵まれた会員総会で決議いたしました。今年、おそらく何度でも、この御言葉を皆様と深く味わいながら、教会に仕え、信仰の旅路を進んでまいることになるかと思います。若き伝道者テモテは、父親のように愛され、また同労者として伝道の前線で共に戦ってきた、使徒パウロが鎖につながれていることを知っています。遂に、自分が、パウロ先生に代わって諸教会を指導する最前線に立たなくてはならないことを思い見ながら、しかし、その立っている足が、よく見てみるとわなわな震えているのです。これが、テモテが置かされた状況であります。それを聞きつけたパウロは、獄中にありながら、この手紙を書き記しました。それを、伝令の手によって、どのような思いで読み始めたことでしょうか。そして、この2章の1節をどのような思いで読んだのでしょうか。

「わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスの恵みによって強くなりなさい。」この御言葉によって、キリスト・イエスの恵みによってのみ自分は強くされるのだと受け止めたと思います。自分の力に頼ってはならないのだ、自分がこの信仰の戦い、伝道の戦いを担うのではなく、キリスト・イエスの恵み、その全能の力の中に入れられて、その恵みの力に押し出されてのみ担える、生きれるのだと信仰の原点、恵みの原点に立ち戻らされたかと想像いたします。

さらに、パウロが畳み掛けるように、「愛するテモテよ、自分ひとりが伝道の戦いを担っているのではないぞ、周りを見て御覧なさい、あなたの働きを一緒に担える人、担ってくれる信仰の友、兄弟姉妹がたくさんいるではないか。彼らに、自分の重荷を共に担ってもらいなさい。それが、教会に生きることではないか。今までも、そうではなかったか。」このようなパウロの実に愛情に満ち溢れた励ましの言葉を彼は、涙ながらに読んだのではなかったかと思うのです。そして、この極めて個人的な手紙を、テモテは、教会の仲間たちにも紹介したはずです。パウロ先生から、わたしにこのような手紙が送られてきました。そして、それを読んだ教会の仲間たちも、「テモテ先生、そうです。使徒パウロ先生が捕らえられてしまいましたが、テモテ先生は、神さまによって今、自由です。わたしたちもテモテ先生を支えますから、パウロ先生が勧めてくださったように、先生のお働きをわたしたちにも担わせて下さい。」このように、語ったのではないか、わたしはそのような交わりの姿を想像するのです。

本日与えられた聖書の箇所は、先週に引き続きまして、テモテの手紙Ⅱ第2章1節~7節までです。しかしとくに、3節から6節までを中心に致します。

三節、「キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。」ここに最初に兵士という言葉が出てまいります。ここでパウロは、キリスト者の姿を三つのすがたになぞらえて示しています。兵士、競技者、そして農夫であります。パウロは、何よりも先ず兵士としてキリスト者の有様を描き出しました。
テモテはそれをおそらくさっと飲み込んだとわたしは考えております。テモテにとって、この兵士という言葉はまったく違和感がなかったかと思います。しかし、現代の私どもキリスト者はどうでしょうか。何よりも日本人キリスト者である私どもはこの兵士という言葉を、違和感なく受け容れることができるでしょうか。

1月のある祈祷会で、この箇所を読みましたとき、熱心に求道しておられる一人の仲間がこのような意味のことを仰いました。「わたしは、兵士という言葉に恐怖を感じます。何か宗教戦争を勧めているようで」正直に申しますと、わたしは、とてもびっくりしたのです。後で、ゆっくりとお話するときが与えられて誤解は解けましたが、なるほど、そのような読み取り方の可能性もあるのかと思いました。

しかし、なぜこのような例をご紹介したのかと申しますと、問題は、私どもキリスト者にとっても実は、他人事ではないと思うからです。それは、ここで、パウロがテモテに語ったこと、その言葉を、私どもとかけ離れたところで聴いている、聞き逃してしまっているのではないかということです。

今日の日本、世界のなかで、まことに誇りうることは、日本国憲法であるとわたしは考えております。私どもの国には、徴兵制度がありません。憲法で、自衛軍を認めていないのです。しかし、今後、憲法の改悪次第では、その道が開かれる可能性は、十分にあるでしょう。韓国のキリスト者、青年たちは、一度、兵士の経験を持ちます。徴兵されるからです。そうなりますと、ここで、パウロが描き出した兵士のイメージは、とても分かりやすいと思います。しかし、少なくとも私どもの世代にとって、兵士といわれても、ぴんと来ません。そうなりますと、ますます、キリスト者とは「キリスト・イエスの兵士」なのだと言われてみても、なんだか、他人事のように思えてしまうのかもしれません。そもそも、このテモテの手紙とは、歴史上の一人の人物、まさにテモテという固有の人へ送った極めて個人的、個別の書簡、手紙ですから、何か、21世紀を生きている一人の日本のキリスト者として、主婦として会社員として生きている自分とは無関係のように思えてしまう誘惑にさらされているかもしれません。

先週、一つの小さな仕事が突然入ってまいりました。「改革派中部」に「信仰への糸口」の原稿を急いで書いて欲しいという依頼です。わたしも編集の責任を担っておりますから、裏の事情はすぐに察することができます。そこで、すべてを中断して、数時間で書きました。ざっとこのような内容です。

牧師は、神の言葉の説教を一生懸命する。しかし、これは、もともと罪深い人間に過ぎない者が生ける神の言葉を語るという、不可能への挑戦をするようなものだ、しかし、それは、不可能ではなく、神の約束があり、神がその聖霊によって、説教者を神の道具、神の口としてくださり、神の御声を語らせ、実際、神の御業がその説教を通してなされることを説教者は目撃できると書きました。そして、そのような務めに召されているので、いつも求道者や新来者に、この説教が分かってほしい、この説教によって生ける神と出会ってほしい、信仰が与えられるようにと必死に祈り、準備します。そして、おそらく求道者の方も、そしてキリスト者お互いも、何とかして、この説教から神の御言葉を聴き取り、御声を聞いて、生ける神に出会い、信仰を与えられたいと願っているのです。

そこでしかし、不可能への挑戦ですから、上手にことを担うことなどはできません。そのとき、大きな誘惑が説教者自身と会衆に迫ります。説教者が神の言葉の正しい解き明かしを止めて、自分の考えを語り始めることです。あるいは、会衆は、礼拝式や説教以外の他のなにかに、信仰のリアリティー、確かさを求めようとするということです。わたしは、「それは教会の自殺行為です」と、書きました。そして、世々の教会は、神の言葉の説教、礼拝式によって神との出会い、信仰の糸口、信仰への扉、門として来たと書きました。そして結論としてこう結びました。「聖書が分からない、説教が分からない、信仰に進めない、洗礼への決心がつかない、神との深い交わりがなかなかもてない。」これらの問題、悩みは、結局、唯一つの問題に行き着く。それは、神の御言葉に従うこと、生きようと踏み出さないこと、御言葉を実行しようとしないことにある、そう書きました。

もとより、それで、説教者の責任を回避し、説教者より会衆の側に、問題、責任があるとしたわけではありません。ただ、説教者も会衆も、同じように、書かれてある神の御言葉を自分の生活のなかで確かめようとしない限り、おそらくいつまでも聖書が分からない、遠いままで終わってしまうと思います。これは、すでに皆様、キリスト者であれば、経験を何度も重ねて、知っておられることだと思います。

キリストの兵士、この自分自身がキリストの兵士であると、言われても、ぴんと来ないという問題です。なるほどそうかもしれません。しかし、パウロやテモテにとってあ、この兵士のイメージは、まさにぴったりしたものだったと思います。

英国国教会から始まったのだと思いますが、日本にも明治の時代から一つの特徴ある教会があります。それは、救世軍と申します。多くの方が、すでにお聞きになったことがあると思います。名古屋ではあまり盛んではないのかもしれませんが、関東、東京などでは、救世軍と申しますと、クリスマスの社会鍋といって、道行く人に大きな鉄なべを設置して、義捐金を募るのです。テレビなどで冬の風物詩のように紹介されます。この救世軍は、ウイリアム・ブースという方が始められた運動です。日本では有名な山室軍平という方が指導者でした。救世軍では、教会のことを小隊と呼んでおられます。牧師のようなものを少将と呼びます。少将を束ねるのが中将です。そして世界の救世軍の司令官を大将と呼ぶのです。山室軍平は、日本人として大将になられた実に優れた説教者でした。救世軍のキリスト者は、兵士と呼ばれるそうです。町に立って人々に伝道することを野戦と言うと伺ったことがあります。救世軍の方にとって、まさにキリスト者とは、兵士になることをそのままイメージできるのだろうと思います。救世軍の軍旗の前で誓約をする儀式があるとも伺いました。わたしは、このようなあり方を、正直に申しますと、好ましいとは思えません。ただしです。もしも私どもの教会のなかで、キリスト者とは、キリストの兵士を意味すること、キリストとともに戦う者、そのような集団であるのだという理解をするこの兄弟姉妹たちの姿勢が分からない、兵士として自分を考えたことなど一度もないというのなら、むしろ、私ども自身の姿勢が根本的に問われることになるのではないかと思います。伝道のことは救世軍に任せて、改革派教会は、教会のなかで大人しく集会を持つ、それでよろしい。そんなことは考えることもできません。

どうしてキリスト者とは、兵士なのか。わたしは、パウロやテモテにとって、この手紙を読んでいる教会の仲間たちにとって、このようなのんきな問いは出ないと思います。なぜなら、皆、戦っていたからです。キリストの福音を宣教することが、どれほど厳しいことであったか、悪魔との戦いがどれほど意識されていたかを思います。

先週、ある同労者からメールを頂きました。「先生と一緒に教会について話し合いたい。一緒に祈りたい」という内容です。「日々霊的な戦いがあるので、先生から祈っていただきたいと思います。」わたしは、すぐに返信しました。日々霊的な戦いがある。これは、本当のことだと思ったのです。そして、この日本で、真実に牧師として生きようとするなら、この日々の霊的な戦いの局面を知らないで済ませる牧師など一人もいないと思います。そして、これは、牧師だけの問題では決してありません。主婦として、会社員として、家庭の中で、職場のなかで、キリスト者として、神の言葉に従って生きようとすれば、誰でも戦いの真っ最中でしょう。それが、兵士です。そこに兵士のすがたがあります。

神の兵士パウロは愛するテモテに向かって、励まし、求めているのです。「あなたも兵士だが、立派な兵士となってほしい、そして、わたしと共に苦しみを忍んで欲しい。忍耐してほしい」こう、求めているのです。
わたしは、このように呼びかけあうこの牧師同士の交わりのすばらしさに心を打たれます。これは、よほどの信頼関係がなければ言えない言葉ではないでしょうか。「共に楽しもう。」「一緒に幸せになろう」このような言葉なら、我々の周りでもしばしば耳にすると思います。しかし、「わたしと共に苦しみを忍びなさい」これは、愛と信頼の呼びかけです。そして、その苦しみを忍ぶことのなかに、勝利があり、喜びがあり、希望があり、キリスト者の戦いに必須の祝福が込められているから、こう呼びかけているのです。

また、このパウロの招きの言葉は、ただ単に、パウロの招きとして聴き取ることはテモテもそして私どももできないと思います。つまり、この招きとは、結局、主キリスト・イエスからの招きなのではないでしょうか。主御自身が、なお、この地上での戦いを聖霊によって継続しておられる。それは、具体的には、キリストの体なる教会の形成のために、その苦しみがなお必要である。なお、主イエス・キリスト御自身が苦しみを耐え忍ぶ形でしか、この教会形成、そしてそのための福音の伝道は実現、担えないからなのです。そうなりますと、キリスト者、キリストの兵士とは、誰でもない、主イエス・キリスト御自身が招集者であり、司令官であり、大将しかも総大将であることが分かります。それが、4節に記されているのです。この主が、私どもを兵士として招集してくださったのです。そして、このお方が、「わたしと共に苦しみを忍びなさい。」と招いておられるのです。なんと光栄なことではないでしょうか。赤紙一枚で、我々の先輩たちは、戦争に狩り出され、自分と他人の命を落としたのです。天皇の名の下に、召集されました。しかし、天皇は、一人ひとりの兵士のことなど知る由もないでしょう。しかし、私どもの主キリストは、わたしのことをご存知です。わたしの存在、わたしの名、わたしのすべてをご存知で召しだして下さいました。救って下さいました。何よりも、このわたしを神の子、神の兵士として、永遠の命のために働く新しい人間に造り変えてくださいました。そのために、総大将が、御血を流し、命を捨ててくださったのです。そして、死人の中からお甦りになられたのです。この神の御子が、今や、私どもを兵士として神の御心、御国の完成、教会の形成のために用いて下さるのです。ここに私どもの光栄があります。

私どもが信仰の確かさ、聖書の世界が遠く感じてしまうことのもう一つの問題はどこにあるのか。それは、この基本を履き違えるところにあります。誰のために生きているのか、誰のために信仰生活があるのか、ということです。これは、キリスト者であれば、即答を求められるべきものです。そしてその答えは一つです。主イエス・キリストのためです。それが、パウロがテモテに、言ったことでした。「兵役に服している者は生計を立てるための仕事にわずらわされず、自分を招集した者の気に入ろうとします。」招集者であられるキリスト・イエスの気に入ろう、キリストに入れられよう、イエスさまに喜んでいただこうということ、これが、私どもキリスト者の信仰生活の原点であり目標なのです。これが、わからないと、信仰は空転します。いつも文句と不平が出ます。信じてもちっとも幸せにならない、自分の望んでいる通りに事がうまく進まない。そうなりますと、ついには教会生活をやめるということも現実には出てまいります。そして、それは例外的なことではないのが事実です。

私どもは、神さまにあれして欲しい、こうなって欲しいと、そのような願いごとばかりをもって接し続ける限り、神との真の出会いに至らないのです。神の御前に、自分がどう生きるべきか、キリスト・イエスにおけるあの恵み、救いの恵みにどのように応えて生きるべきか、この姿勢なしには、信仰生活は難破する。道を失う。

 
次に、競技者のイメージです。競技者には、参加することに意義があるというより、そこで勝たなければならないのです。勝つか負けるかということです。勝負にこだわらない競技者は、訓練に身が入らないのではないでしょうか。厳しい訓練などに耐えられないと思います。何とか勝ちたい。一勝したい。あるいは優勝したいという目標なしに、どうして練習できるでしょうか。

競技者は、一瞬のために、何年も鍛えます。しかもパウロがここで言いたいことは、規則に従うことです。この規則とは何か。それを考えるとき何よりも要となることは、この競技の主催者は主なる神ご自身であられるという事実です。そうであれば、その規則を定めたもうのも神ご自身です。そして、その規則はどこに示されているのでしょうか。それは、聖書です。聖書を読まずして、知らずして、そもそもこの競技に参加できません。ですから、キリスト者になった者は誰でも、聖書の学びに生きます。学生になるのです。いや、主イエスは天の国のことを学んだものは学者であると仰せになられました。それほどの者とされたのであれば、信仰の競技のルールブックである聖書に慣れ親しむことは当然のことです。しかもこれは、規則だけではなく、そこでどのように練習したらよいのか、どうすれば勝てるのか、競技に勝利する道の一切が記されているのです。この聖書に慣れ親しむ習慣を作ること、この聖書の御言葉なしには、自分の存在がなりたたないこと、自分の人生が成立しないことを心からわきまえたいと思います。ですから、私どもの教会は会員一人ひとりが当たり前のことですが、自分の聖書を持っているのです。契約の子もそうです。この自分の聖書を遠慮せず、赤線を引いて、書き込みを入れて毎日親しむことが大切です。

わたしどもはすでにこの競技に参加させていただいています。このまま、参加しているなら、必ず勝利が与えられます。そのように断言できる教会、これこそ、私どもがまさに命をかけて整えなければならない課題なのです。改革派教会とは、まさに、そのような教会なのです。この教会に来れば、礼拝式に来れば、必ず主イエス・キリストにお会いできる。これこそ、私どもの自負であり、当然のことなのです。そうであれば、逆に、私どもキリスト者が、今ここで、まさに主イエス・キリストにお会いしている、このお方の御前で、パウロからテモテに書き送られた手紙の中で、時代を越えてこの教会に語っておられる神の御声を聴いて、神を礼拝しているのです。

 
最後に農夫のたとえです。これまでは、兵士と言い、競技者と言い非日常的な立場に立っている者にキリスト者がなぞらえられていました。しかし農夫は、実に、平和な感じがします。荒々しいイメージではありません。。それなら、農夫になぞらえるキリスト者の生活の局面とは何でしょうか。パウロはここで、農夫の仕事、あり方については、何も言及していません。ただし、この仕事から、このような黙想、イメージがわくことも避けられないし、良いことかと思います。それは、農夫は、何も、瞬発力をもって、集中力をもって、ある事柄に対処するということではないでしょう。毎日、それこそ、平凡とも言える仕事をこつこつこなすのではないでしょうか。

正直に申しまして、わたしは兵士、競技者、農夫の経験を持っておりませんから、正しくはわからないのかもしれませんが、農夫は毎朝、畑に行って手を加え、水遣りをなすのではないでしょうか。農夫には、休みがないのではないかと思います。つまり、教会の生活、信仰の生活のなかには、この実に平凡で、実に変わり映えのない日ごとの務めをこなすという側面が圧倒的に多いと思います。しかし、そのように毎日、毎日、自分のなすべき務めをなしているなかで、キリスト者として神に仕える人こそ、その収穫に真っ先にあずかれるのです。このことが、ここでパウロが告げようとしたことであります。そしてそれは、神がそのように私どもにふるまいたいと願っておられるからではないでしょうか。

主イエスは、私どもを農夫として召されたのです。しかも、私どもの実りは、霊的な実りで、永遠の実りです。永遠の命にいたる実りなのです。私どもの周りでも、私どもにも勝るとも劣らないで、毎日、朝から深夜まで働く大勢の人々がおられます。わたしも、「負けてはなるまじ」と、思っています。しかし、私どもの働きは、実るものです。しかもそれは、神の実りです。永遠に古びない神に喜ばれる実りなのです。そのような実りのために農夫とされたのが、キリスト者です。なんという光栄でしょうか。特権でしょうか。このような喜び、手ごたえを味あわせようと主イエスが、私どもを召しだして下さったのですから、私どもはこの務めを誠実に担いたい。こつこつと励むことです。怠らないことです。

それならそこで、何に励むのでしょうか。もとより、会社員は仕事を、主婦は、家事、そして育児に励むことは当然です。また、それは尊いことです。しかし、それで終わってはならないでしょう。この手紙は、テモテのような伝道者のためにのみあると解釈すれば、結局、この手紙は、他人事です。そのときには、神との交わりは遠くなるのです。しかし、これは、主イエス・キリストがパウロを通して、テモテとそしてこのわたしに語りこんで下さる御言葉であると信じるなら、そこで、私どもは、生き生きとした信仰の生活へと踏み出すことができます。

今から、聖餐を祝います。ここでもなお考えてみたいと思います。私どもに聖餐は必要でしょうか。「これは、教会の儀式であるから、まぁ、拒むことは聖書や主イエスを否定することになるから、受けよう。」そのようなことであれば、まさに、聖餐を受ける必然性、必要性などは感じられないでしょう。その程度のものなら、教会はこの聖餐を重んじ続けることなどなかったはずです。

あの有名なマザー・テレサさんは、毎日、早朝にミサ、私どもで言う聖餐にあずかられました。そして、その早朝のミサこそ、自分自身とその働きを支えている力なのです」と証されました。
教会は、聖餐によって、キリスト者が強められることを自ら知っている、知り続けてまいりました。「キリスト・イエスにおける恵みによって強くされよ。」それは、説教とこの聖餐によってもっとも受けることができるものなのです。キリスト・イエスご自身を指し示す御言葉、そして目に見える神の言葉である聖餐は、結局、信じる私どもに生ける主イエス・キリストとの交わりを与え、更新する手段として備えられたのです。聖餐を祝うとき、私どもは、主イエス・キリストの中に入ります。父と子と聖霊の交わりの中に入れられます。そこで、強くされるのです。強められるのです。強められなければ戦えないのです。それをご存知の神が、この恵みの食卓を私どもに惜しげもなくふるまって下さいます。この主の振る舞いを今、受けましょう。それが、強くされる道なのです。今、私どもはこの聖餐を受けることによって、恵みの中で強くされるのです。

祈祷
あなたの兵士として私どもは召しだされました。あなたにある競技者として召しだされました。あなたの農夫として召しだされました。心から感謝いたします。その召しは、すべて、あなたの栄光のためであり、私どもの救いと喜びのためです。私どもは永遠に実る収穫のために、今、戦います。そしてこつこつと日々の業に勤しみます。この私どもの務めを支えて下さい。あなたの恵みのなかで強くされ、私どもをあなたに喜ばれる業へと導いて下さい。私どもの戦いが、愛の戦いであり、望みの戦いであり、平和を作り出す戦いでありますように。何よりも自分の罪と戦い、悪魔の誘惑を受けるとき、即座にわたしどもの真の大将であられる主イエス・キリストに逃げ込ませて下さい。アーメン。