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「神の愛の証拠を見よ」

「神の愛の証拠を見よ」
2006年2月12日

テキスト ローマの信徒への手紙 5章6節~8節

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」

3週間ぶりに、ローマの信徒への手紙の講解説教に戻ります。私どもは、今、ローマの信徒への手紙第5章を学び始めています。先回もご紹介いたしましたが、この箇所を読んで、理解することができたら、その人は、既にキリスト者である、キリスト者にならざるを得ない、それほどに福音の真理があらわにされている箇所である、そのように申しました。

わたしは、本日与えられた御言葉は、ほとんど解説など必要ないのではないか、何度も何度も、この御言葉を声に出して読み、心の中に味わい続けるなら、それで十分ではないかとすら思わされました。
しかし同時に、だからこそ、この箇所から何度でも、何度でも説教ができるし、したいと思わされました。この箇所から、何十回でも、いや何百回でも説教できると思うからです。つまり、この箇所は、結局、旧新約聖書の中心、説教の主題であるからであります。私ども説教者とは、結局、ここで記されている事柄を、どのテキストからでも語り続ける存在ではないかと思います。少なくとも、キリスト者が伝道する、隣人に福音を伝えるとき、要するにここに記されていることを告げたいと思っているのだし、そうするのではないでしょうか。

さて、おさらいになりますが、前回に学んだ御言葉の最後は、第5節でした。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」そして今朝与えられた御言葉は、この神の愛を具体的に言い表す御言葉です。神の愛がその聖霊によって、わたしたちの心に注がれている。この愛の注ぎは、神の愛です。私どもは、この神の愛の確かさについても学びました。それは、人間と人間の間の愛や、あるいは人間と動物でもかまいませんが、愛とは、関係のことです。どこまでも距離があります。自分の愛を注いでも、その人の存在の中に食い込むと申しましょうか。その人の中に宿ると申しましょうか、そのような関係、まるで愛している自分と愛されている対象とが一つになってしまうということは現実では起こりません。どこまでも、そこには距離があります。ところが、神の愛は、そうではありません。神の愛が私どもの心に注がれるなら、私どもはこの愛のなかに包み込まれるのです。それは、主イエス・キリストの愛の中に入るといってもかまいません。さらに言えば、父と子のまさに分かつことができない神の交わりのなかに、入れていただくということです。そして、まさに聖霊なる神こそが、父と御子とを結ぶ絆、神の愛そのものなのです。聖霊は、神の愛そのものなのです。この聖霊を注がれたということは、言ってみれば、愛を注がれたということです。聖霊を注がれることと、神の愛を注がれることとは、二つのことではなく、まったく一つのことであり、同じことです。そして聖霊を注がれたなら、わたしどもは、言わば、左と右に神の愛を受けているようなものです。あたかも、父親と母親の間でしっかりと手をつないでもらっている幼子の姿に似ています。聖霊によって神の愛が注がれるとは、この愛に挟み撃ちにされているようなものです。もはや、いかなる敵といえど、この愛の絆を壊すことはできない、それほどに力強い愛、それほどに確かな愛は、この地上に存在しません。

さて、この愛は、それなら、具体的にはどのような愛であるのでしょうか。愛の性格です。それを一言で申しますと、私どものために、神の御子キリストが死んで下さった、十字架でそのお命を惜しげもなく捧げて下さった、この一点であります。

そして、パウロはこの神の愛を説明するとき、どうしても具体的に語りたいのです。この具体性は、パウロ本人、パウロ自身を、引き合いに出して語っている、そう思います。

これも先回の説教のおさらいですが、最後に、このことを確認したいと思います。ここでパウロは、神の愛は、「わたし」ではなく、「わたしたち」に注がれていると申しました。それは、もとより、ここにいるキリスト者としてのわたしたちということを意味しているはずです。しかし、このわたしたちとは、今教会にいる私どものことだけに限定するものではないと学びました。

そこで、主イエスのマタイによる福音書の中で仰せになられた言葉を紹介いたしました。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」うっかりすると、私どもは、自分を善人の立場、ただしい者の立場に立ってこの御言葉を読んでしまいやすいのです。そのようにして、神の恵みのすばらしさにいよいよ鈍感になってしまうということが実際に起こります。そのような罪を犯すのです。つまり、私どもは、もともと、悪人であり、正しくない者のはずです。罪を犯し、悔い改めてはなお、罪を犯してしまうまことに弱い、罪人のはずであります。何度決心しても、神を愛し、隣人を自分のように愛することにおいて不徹底であり、不十分にしか生きることができないのです。祈りと聖書に親しむ信仰生活の崩れに悩みます。教会に献身して生きるより、この世の楽しさ、この世の価値観にも気を取られて、言わば中途半端なキリスト者、神の御前に見苦しい生き方をしてしまう者です。ところがそのような者にも関わらず、神はなお、天には太陽を昇らせてくださり、私どもを照らし、生かして下さいます。天から雨を降り注いで潤し、生かして下さいます。そこに、神の罪人を愛するこの上ない愛があるのです。この愛を私どもにも注がれているのです。
そうであれば、今なお、主イエスを知らないままに過ごしている大勢の日本人にも、神の愛は注がれているはずであります。それを伝えるのが、教会です。赦された罪人であるキリスト者なのです。このような説教を致しました。

使徒パウロが、本日の箇所で議論していることとは、まさに、この「わたしたち」とは誰であるのか、この「わたしたち」とは、どのような人間を指しているのかということをあらためて説明しているわけです。

正しい人のために死ぬ人がいるか、ほとんどいない。善人のためなら、少しはいるかもしれない。何故、パウロはこのような議論を始めるのか。人間は、誰か他人のために本当に死ねるのかどうか、それを考えているのです。正しい人というのは、たとえば、主イエス・キリストのようなどこからどう見ても立派な人のことでしょうか。ペトロは主イエスのためなら、死にますと訴えたことがあります。なるほど、正しい人のために死ぬ人はまったくいないというわけではないのでしょう。しかし、極めて少ないという事実があります。

それなら、善人とはどういう人のことでしょうか。それは、自分に何か良いことをしてくれた人、恩義のある人ということだと思います。自分のために、一肌脱いでくれた人、それどころか、自分を犠牲にしてまで、この自分のために働いてくれた人。それが善人でしょう。

しかし、何故、そのような議論をここでするのか。たとえば、こんな議論をここでしてみよう。人間は隣人のために死ねるのか、他人のために死ねるのか。それは、ありうる。母が子のために、命をかけて守る。父親が子どもの命を助けるために、海に、火の中に飛び込む。ないわけではない。王のために、家来がその命をかけて守る。それもありうる。しかし、今、このテキストを前にそのような議論は、意味がない。それならあらためて問う。何故、パウロは、最も大切な神の愛、キリストの愛を語ろうとするところで、横道に入るのか。それは、人間の愛を引き合いに出すことによって、神の愛を際立たせることができるからでしょう。

しかし何よりも、ここで、パウロが言いたいことは、のんきなことではない。人間一般のことではない。わたしのこと。わたしのために、誰か死んでくれるか。つまり、わたしは善人か。義人なのかということです。誰からのために、自分を犠牲にしてまで何かをしてあげたことがあるのか。正しい人間として、誰からも尊敬されるような、命を捨てる者が起こるような生き方をしてきたか。

そして、すぐに私どもは、答える以外にないのではないか。わたしはそんな人間ではない。わたしは善人でも、正しい人間でもない。否、わたしは弱い人間でしかないのです。

弱い人間。これは、人間にとって大きな悩みです。キリスト者になる前の私どもは、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むことを知っている」というような信仰にある強さを知りませんでした。まさに、私どもは弱かったのです。自分の生活にある欠点や、欠乏を覚えるとき、自分の弱さに悩み、苦しみ、不安にかられて仕方がなかったのです。

しかし、ここでの弱さとは、何よりも不信心のことを意味しています。神を神としてあがめず、信じないことです。信じないから弱いのです。

ただし、この弱さを、弱さの只中にいたときは、まだ真実には知りませんでした。使徒パウロは、わたしたちがまだ弱かったときと申します。しかしながら、私どもは、使徒言行録を読んで彼のことは、よく知っています。いったい彼は弱い人間であったのでしょうか。主イエスとお会いする前のパウロは、弱弱しい人間であったのでしょうか。少なくとも、聖書を読んで見ますと、そのようなイメージから程遠いのです。彼は、熱心なユダヤ人、信仰者でした。その信仰の熱心さ、純粋さのゆえに、キリスト者の迫害を敢行したのです。男であれ女であれ、縛り上げて逮捕しました。逮捕したキリスト者たちを、律法によって裁き、殺すことも、少なくとも最初の殉教者となったステファノの殺害に加担した指導者でした。それほどまでに、一途に自分の信仰、信念に基づいて生きている人間が、自分のことを弱い人間であると考えるでしょうか。認めるでしょうか。そうは思えません。ところが、彼は、わたしたちが弱かった頃と言うのです。あなたたちが弱かった頃ではなく、自分を含めているのです。

いや、何よりも、このときのパウロ、キリスト者パウロにとってむしろ、自分こそ、弱い人間のトップバッターであるという自覚を持っていたのです。

弱い人間であるというのは、もはや、右往左往する以外にない人間です。何か困ったこと、苦しいこと、挫折、失敗があるともう駄目だ、もう生きて生けないと希望を失う、卑屈になる。諦める人間です。忍耐もできません。まさに、苦難は忍耐を、忍耐は練達をの反対です。練達した人間ではなく、卑屈な人間、根暗、希望を失った後ろ向き、斜に構えた人間ということです。

弱いという言葉は病気という意味にも用いられます。病気は、それが重いものであれば、自分の力で治すことができません。薬や医師の助けが必要です。そのような弱さ、それは、結局、不信心とパウロは言います。不信心であるからこそ、弱いのです。不信心とは、神との関係のことをさします。神を神としてあがめず、信じず、従わなかった、それが弱さなのです。

それならその弱い人間がどうしたら、信じる人間になれるのでしょうか。不信心な人間がどうしたら信仰者になれるのか。

それは、ただ、一つ。悔い改めです。悔い改めは、どうすればできるのでしょうか。犯罪者が更正するには、二つのタイプがあると思います。更正しない犯罪者は、自分が捕まって裁かれたのは、運が悪かっただけだ。もっと上手にしたら良かった。そのような者は、おそらく再犯するのではないか。しかし、二度と犯罪に手を染めないためには、一つには、深い後悔をする人。なんということをしてしまったのか。そのために、被害者の人生、自分に関わる人たちの人生、そして自分の人生をゆがめてしまった、後悔するのです。しかし、後悔は、先ほどの運が悪かった。相手が悪かったと考えることと極めて近いのです。つまり、自分の非を認めない限り、再犯の可能性は起こります。しかし、悔い改めるのは、自分の非を見つめることです。自分の非を見つめて、もはや二度とそうしないと決意すること。

しかし、悔い改めることは、簡単なことでしょうか。そうではありません。人間が、自分が弱い人間であることを認めません。ましてや、自分が不信心な人間であることを認めません。いへ、不信心のどこが悪いのかと、開き直り、逆に信心とか信仰など自分には無意味、どうでもよいことであると反発すらするのではないでしょうか。

いったいどうしたら、人間は自分の非を真実に、心から素直に認めることができ、そこから離れたい。何としても、もう二度とそこに戻りたくないと考えられるのでしょうか。決断できるのでしょうか。

それはただ一点、その弱さ、不信心、つまり、罪を犯している罪人を、そのままで赦し、愛される人と出会うことです。
だからこそ、ここで、パウロの議論が分かるのです。彼の議論は、お遊びの議論ではない、横道にそれているのではないのです。

弱い人間、不信心の人間、罪人とは、自分のことなのです。パウロのことなのです。間違っても、正しい人間ではないのが、パウロであり、私どもに他なりません。間違っても、善人ではないのです。そのような男のために、いったい死んでくれるだろうか。パウロにとって、誰も自分のような人間のために死んでくれる人などいないことは明らかなのです。

パウロの弱さ、不信心、罪は具体的には、誰に向かったのかと申しますと、それは、神ご自身です。パウロは、主イエス・キリストの弟子たちを殺したのです。主の弟子たちを男性のみならず女性までも、縛り上げ、エルサレムに護送し、そこで公の裁判によって死刑にしたのです。つまりは、神の敵、主イエス・キリストの敵なのです。言わば、主イエス・キリストに向かって弓を引いたのです。鉄砲を向けた。まさに、矢を放ち続け、鉄砲を発射し続けたのです。いったいそのような人間に向かって、主イエス・キリストがどうなさるのか、弱い人間、不信心で、罪人で、神の敵のパウロはこのイエス・キリストにどうされたのでしょうか。
彼は、知ったのです。この弓を放ち続けた人間のために、主イエス・キリストが死んで下さったことをです。そこに、彼は、神の愛を見たのです。神の愛を示された。神の愛の証拠を見たのです。はっきりと見たのです。

それは、同時に、自分を見たのです。神を見る、神を知る人は、必ず、同時に自分を見ることができます。自分を知るのです。
自分が弱い人間、不信心な人間、罪人であると見たのです。しかし、それにもかかわらず、その罪人であるわたしを神がその御子の命をもって贖って下さった、キリストがわたしのために死んで下さった。この事実です。難しいことは後でよろしい。この事実がすべての土台なのです。神は、イエス・キリストにおいてご自身の愛を証拠だてて下さいました。見せて下さいました。そこに、既に、私どもの愚かな企ては、続けられないのです。
自分を発見したのです。自分が神に愛されている人間であると発見したのです。

定められた時。そのときは、自分が悔い改めてもう、弱さのなかに閉じこもらない、もはや、不信心をしないと決心し、実行に移した時ではありません。そうではなく、弓を引き続け、刀を振り下ろし、拳銃を発砲し続けているときに、主イエスが死んで下さったのです。そのことを知ったのが、今のときです。そのときパウロは、もはや、その古い時間のなかで生きることがいたたまれなくなったのです。

その時間のなかですごせないのです。生きれないのです。苦しくなるのです。そのときパウロは、新しいパウロになってしまわざるを得ません。それは、キリストの愛を受けて生きる者の立場です。この愛を受け、愛の中で生きるとき、神なしのとき、場所はいたたまれないのです。耐えられない。そこで、パウロは、この方のために、生き始める。このお方に喜ばれるように生きてゆきたい。それが、新たな志になってしまいました。苦難は忍耐を、忍耐は練達を生み出すのです。練達とは純粋になること、幼子のように神に頼ること、ひたすら神を追い求めることだと学びました。つまり、練達とは性格、品性を意味します。新しい性格、品性になるのです。キリストに喜ばれるように生きたい、奉仕したい。これが私どもの性格になる。品性になる。もとより、キリスト者になってすぐ、人格者、高い品性を備えるようになることは例外的なことだと思います。人間の成長には、時間がかかります。しかし、神の愛を注がれると、神の愛を知るとき、私どもは、新しい品性を刻まれます。苦難は忍耐、忍耐は練達を、練達は希望を生み出すことを知っているのです。神に喜ばれるように生きたい、それが、行動の言わば原理となるのです。自分の指針になる。生きる指針になる。神の愛への感謝でしか、自分の人生を考えられなくなるのです。

すべては、神の定めたときに、一方的に、神が御子を与えて下さったことに明らかにされました。まだ、弱さの中に、不信心の中に、罪人であったときに、神は、御子イエス・キリストにおいてご自身の愛を、わたしたちに、パウロに、そしてこのわたしに見せて下さった。示して下さった。証拠を与えて下さったのです。そうであれば、もはや、愛さずには居られない。古い生き方、罪と友達になっている、罪と親しくしているのが、違和感を覚える。不思議です。自分でそうしたというわけではない。タバコを止められた人は、最後には、タバコがまずく感じられるそうです。おいしいのは我慢するのではない、まずくなるそうです。

パウロは、神の愛を知ったとき、自分が神に命がけで愛されている人間であることに目覚めたとき、罪のなかにとどまることが、まずくなったのです。苦くなったのです。居たたまれなくなったのです。それが、キリスト者なのです。自己中心に戻ることがないわけではないのです。罪をまったく犯さなくなってしまったということも偽りです。ただし、こういうことは断言できます。もはや、神なき人生に居たたまれないのです。もはや、この愛を無視し、裏切ることはできなくされてしまっているのです。これが、キリスト者なのです。これからは、自分のために死んで甦った人のために生きてゆきたいと願うのです。この神の愛の証拠をイエス・キリストにおいて見せていただいた人間、愛されている人間、神の愛を聖霊によって注がれた人間のしるし、証拠となるのです。

今、私どもは主を愛する愛が増し加えられています。聖霊が注がれているからです。あたらしい時代が始まっています。神のときが満ち、神の愛が現れたのです。その現われをパウロはテトスの手紙第2章でこのように申しました。「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。」

私どもは、ただ、主イエスに喜ばれることを願って生活する。パウロは、ただただ、自分が、キリスト殺しの張本人のような自分のために、主イエスが怒り、裁き、憎しみをもって、襲い掛かったのではなく。赦しと愛だけをもって、訪ねて下さった。神へと取り戻して下さった。そして、父なる神と呼べる人間にして下さったことを、喜んでいる。誇りにしているのです。この愛が、私どもに注がれています。既に私どもに注がれています。そしてあらためて祈ります。この私どものなかには、ここにいない人々への神の愛の証拠が既にあることです。キリスト・イエスは弱い人間、不信心な人間、罪人のために、十字架で死んでくださった歴史的事実があることをです。これを告げること、ここに教会だけの固有の使命があります。この使命を自覚する教会として今週も歩んでまいりましょう。

祈祷
 私どもがまだ弱かったとき、あなたに無関心であったとき、あなたをあざけり、従うどころか、反抗をかさねていたとき、父なる御神あなたは、御子イエス・キリストにおいて、私どもにあなたの愛を見せて下さいました。愛の証拠を見せて下さり、そして、私どもにこの愛を注いで下さいました。心から感謝申し上げます。どうぞ、この愛にこたえて、生きることができますように。いへ、すでにこの信仰の心が与えられていますから、大胆に、あなたを愛し、愛の戦いに勤しみますと、信仰を明白に言い表します。どうぞ、この小さな信仰を、強め、大きくそだてつづけてくださいますように。アーメン