過去の投稿2006年2月26日

「神を喜ぶ」

神を喜ぶ」
2006年2月26日

テキスト ローマの信徒への手紙 5章9節~11節②

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、  キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」

先週に引き続いて、同じ箇所を学んでまいります。そして本日は、特に、最後第11節に集中したいと思います。「それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。」これは、なんというすばらしい御言葉でしょうか。まさに、これ以上にない誇らしい言葉です。これにまさる人生の勝利の宣言があるであろうかと思います。これにまさる人間としての幸せがあるであろうかと思います。

ここに、神を誇りとするというすばらしい言葉が出てまいります。これまでにも、この短いテキストのなかで、福音とは何かを証するために、「誇りとする」というこの言葉が何度も用いられてまいりました。「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」「そればかりでなく苦難をも誇りとします。」言わば、この短いテキストの一つの鍵となる言葉であるのです。希望と苦難を誇りとするというわけです。しかも希望だけではなく、苦難をも誇るというところで、既にはっきりとしていることがあります。それは、どこかのご利益宗教のように、キリスト教の神を信じているので、こんなにご利益を与えられています。守られています。平安です。健康です。順調です。つまり、ご利益を誇りにしていることとはまったく違います。

どうしてそうなるのかと申しますと、先週のおさらいをすれば、私どもが神の愛を受けて、聖霊による神の愛を注がれて、弱い自分、不信心な自分、罪人の自分、神の敵である自分が、赦されていることを知っているからなのです。神との間に和解が与えられていること、つまり、救われていることを、確信しているからです。罪人にとって、神の敵である我々にとって、これ以上の幸いはないのです。使徒パウロが、この箇所の最後に、この救いをおあたえくださいました神ご自身こそ、わたしの誇りそのものであると言ったことがよくわかると思います。つまり、神を信じた結果、こんなにご利益が与えられたということでその宗教を誇る、あるいは自分自身を誇るということではなく、神ご自身を誇るところにこそ、キリスト者の誇りは、正しく成り立つからです。その意味で、神を誇りとする、これこそ誇りのなかの誇り、すべての誇りの出発点であり、ゴールでもあります。その意味では、キリスト者とは誰でも、神を誇りとして既に生きている人間なのです。そして同時に、これからもますますこの幸いを噛み締めて生きることができる人間なのです。

さて、ここでは「誇り」という言葉が繰り返されておりますが、しかし一方で実は、誇るということは、大変に危険なことでもあるのではないでしょうか。紙一重のようなところがあると思います。プライドを持つことは人間が生きてゆく上で、ほとんど必須のものであるように思います。誇りを持たなければ、健康に生きてゆくことはできないと思います。しかし、それが間違うと、あるいは持ちすぎると高慢になり、はては傲慢になることもあります。自分勝手な、手前味噌な誇りを持っていると、これは、とても、みっともないということにもなります。逆にまた、重大な犯罪を呼び起こすこともしばしばであります。自分の誇りを傷つけられたという恨みで、どれほどの犯罪が繰り返されてきたことでしょうか。逆に、誇りをくすぐる術を身に着けた人であれば、どんどん立場がよくなるなどということも実際に起こります。その意味でも誇りについては、それを誤ると、大変な問題をもたらすことにもなるわけです。このように、「誇り」とは、実は、危ない言葉なのです。それなら何故、使徒パウロは、この言葉を用いるのでしょうか。それは、やはり人間にとってもっとも重大な問題、核心的な、根本的な問題がそこに、あるからだと思います。

これは、枝葉の知識でありますが、この誇りという言葉は、新約聖書のなかで、60回登場するのですが、実は、パウロの手紙に53回も出てくるのです。その意味では、パウロにとって「誇り」という言葉が、どれほど大切な言葉であるかもわかります。

たとえば、もしも、パウロのことをよく知らない心理学者が、「この手紙を読むと、おそらくこの人はかつて劣等感を抱いて悩んでいたのではないか、だからこそ、今、宗教的救いの感情を受けて、優越感を満たされているのでしょう」などと解釈してみせるなら、これは、まったくの見当違いと言わなければなりません。考えてみますと、パウロほど、かつて誇り高く生きていたユダヤ人はいないのではないかと思います。実に、輝かしい立場を持ったユダヤ人なのです。まさに、エリートです。たとえばフィリピの信徒への手紙第3章にはこう記されています。「わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。とはいえ、肉にも頼ろうとすれば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れる人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」こう言ってのけられるのです。ユダヤ人としてのエリートであると同時に、さらに、ローマの市民権を持っているのですから、この手紙の読者に対してもしかするともっとも関心があるのは、むしろパウロがローマ市民権を持ったユダヤ人、裕福な自由人であるということであったかもしれません。いずれにしろ、わたしのような者からすれば、パウロ先生は、住む世界が違う人間という気がしないわけではありません。

ところが、そこでこそ、使徒パウロは、肉の誇り、人間的な誇りなど自分にとって損失ですらあるのだ、と言います。ちりあくた、とすら言います。しかしそれなら、今や、劣等感にさいなまれているのでしょうか、いいえまったく違います。その正反対です。これ以上にはありえないまことの誇りを与えられて、生きているのです。

使徒パウロは、ここで、和解という重要な言葉を繰り返しています。10節で、「和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」とありますが、もしもこれが、論文のような文章であれば、「和解させていただいた」という言葉は一度記せば良いので、削除されてしまうかもしれません。しかし、パウロはお構いなしです。この和解という言葉は、この段落の最後の11節にも出てまいります。言わば、締めくくりの言葉です。

「わたしたちは神を誇りとしています」というこの「誇り」という文字を印刷された聖書で見ると、和解という文字と和解という文字の間に挟みこまれて記されてあることが分かります。

また、和解の恵みを考えるとき、パウロにしろ、わたしどもにしろ直ちに主イエスへの感謝を思わざるを得ません。なぜなら、和解とは、主イエス・キリストこそが御血を流し、その尊い命をお捨て下さったことによって私どもにもたらされた恵みの賜物だからです。ですから、ここで使徒パウロは、「神を誇りとしています。」と賛美と感謝を言い表すとき、「わたしたちの主イエス・キリストによって」と丁寧に言いたくなるし、言わざるを得ないのです。

私どもは今や、私どもを救う為に、罪を赦すために、神ご自身が、その全存在を注ぎ込むかのようにして、愛する独り子を十字架にお与えくださった事実を知らされました。つまり、それはこういうことでもあります。私どもは、自分自身のことを、それほどまでに、価値ある人間として見ていてくださることを、初めて知ったのです。どれほど、誇り高く生きている人間であっても、まさかそこまで価値のある人間として自分のことを考えていた人間など、ひとりもいなかったはずです。

他ならない神こそが、わたしのことを、あなたのことを誇りとしていてくださるのです。神が、キリスト者を、教会をご自身の誇りとしていてくださるのです。そうであれば、どうしてパウロと同じように私どももまた、「主イエス・キリストによって神を誇りとしています」と歌わないでいられるでしょうか。

これは、先ほども申しましたが、印刷された神の御言葉を目で見ていると、「誇り」という文字が、「和解」に挟み込まれていることに気づきます。わたしはこの文字を目で見ながら、まるで、神を誇りとしている自分自身が、父なる神と主イエス・キリストの間に挟みこまれている姿として立ち上がってまいりました。まるで、父なる神と私どもの主イエス・キリストが、わたしを両側からしっかり支えていてくださるのです。父と御子とが、両側からぴったりと付き添い、支え、私どもの存在が、私どもの誇りが成り立っていると思います。

私ども日本キリスト改革派教会にとってその憲法の一部として重んじているのは、ウエストミンスター信仰基準です。信仰告白と大小教理問答の三部作が、いわゆるウエストミンスター信仰基準です。その一つを、いよいよ、これから祈祷会で学んでまいります。ウエストミンスター大教理問答の問い一には、こうあります。「人間の主な、最高の目的とは何ですか。」答え「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである。」この答えの証拠聖句として挙げられているものの一つは、ローマの信徒への手紙第11章です。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。」なるほど、証拠の聖句としてはぴったりです。しかし、わたしは、ローマの信徒への手紙を引用するのであれば、どの箇所よりも、第5章11節を挙げるべきではないかと思うのです。新共同訳聖書では、この11節を、「神を誇りとする」と訳しました。しかし、口語訳聖書では、「神を喜ぶ」と訳しましたし、その前の文語訳も「喜ぶ」としています。つまり、ここでの誇りとは、喜ぶとも誇るとも訳せるのです。

人生の究極の、最高の目的が、永遠に神を喜ぶことであれば、すでに、私どもはこの最高の目的を達成している、少なくとも達成し始めているのです。

今週も、洗礼入会者との学び会を祈祷会の後に行いました。子どもカテキズムの第三部の最初の問いを学びました。「問い37 神さまが人に求めておられることは何ですか。 答え、神さまがわたしたちに求めておられることは、感謝することです。」そこで、証拠聖句としてテサロニケの信徒への手紙一の第5章18節を読みました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことでも感謝しなさい。」パウロはここで、いつも喜べと命じているということは、キリスト者には、いつも喜んでいることが可能であることを前提として命じているわけです。しかし、実際に、生活のなかで、いつも喜んでいられるわけでは決してありません。悲しいこと、苦しいこと、辛く、ときには憤りに心奪われてしまうこともあります。しょっちゅう楽しいことなどあるわけがないのです。そのようなことは、小さな子どもであっても経験していることでしょう。そこで、あらためて考えれば、ここでの喜びの根拠は、私ども自身にはないということがわかります。つまり、この喜びもまた、神を喜ぶことを意味しているのです。神ご自身を喜ぶとき、いつも喜ぶことが可能なのです。
そこでわたしはこのように申しました。「喜びとは、本来、神さまが持っておられるものです。神ご自身、父と子と聖霊なる神ご自身がお互いに喜びあっておられる、つまり神ご自身が喜びで充満しておられる、喜びで満ち満ちておられるのです。この神の喜びに私どもが触れるとき、私どものうちにも喜びが注がれるのです。だから、この喜びの神に目を注ぎましょう。」

私どもの真の喜びとは、父と御子との喜びのなかに挟み込まれているようなものです。しかも、そこで、喜びに満ち溢れている神は、何と驚くべきことに、私どもの存在をも誇りとし、そして私どもが生きていることを喜びとして下さるのです。なんという光栄でしょうか。なんという幸せでしょうか。神は、ご自身の間に完全な喜びをもっておられます。足らないものはないのです。ところが、今や、その神の喜びの中に私どもの存在が入り込んでいるのです。神の喜びの原因になっているのです。だからこそ、救われた私どもの喜びは揺るがないのです。私どもの喜びがなくなることも、失われることも原理上ありえないのです。

使徒パウロは、どんなに大きな、しかも揺るがない喜びに満ち溢れていたでしょうか。どれほど誇らしい思いで生きていたことでしょうか。しかもこの誇りは、不思議な誇りで、決して誇るものを高慢にならせないのです。誇れば誇るほど、謙遜にならざるを得なくさせられるのです。しかも同時にこの誇りは、揺るぎなき誇りなのです。人間としてまことに見苦しいのは、誇っていた人が自分よりなお立場が上の人に接するとその誇りが揺らぎ、卑屈にさへなることです。誇りが揺らぐのです。上がったり下がったりするのです。比べるからです。しかし、使徒パウロが与えられた誇りは、上がったり下がったりしません。なぜなら、自分にまったく根拠を置いていないからです。

今、受験シーズン真っ最中です。あるいは既に進路が決定している仲間もいます。自分の志望する学校に行けた人は、もとより誇らしい思いを持つでしょう。よくわかります。しかし、また、もしもそうでなかった場合にこそ、キリスト者の誇りは、鮮明になるのではないでしょうか。試験の結果次第で、自分の存在が重たくなったり、軽くなったりする、そこから自由にされる世界がある、それが、パウロが主イエス・キリストによって与えられ、経験したまことの誇りでした。

どなたが描いた絵画であるかも忘れてしまったのですが、わたしの目と心に深い印象を与えた一つの絵があります。それは、今まさに臨終のときを迎えた一人の婦人の病床の絵です。おそらくその方の子、小さな子が一人の遺されているのです。しかし、夫ではなく、おそらく司祭のような男性が付き添っています。司祭が最後を看取ったのでしょう。終油の秘蹟と申しますが、臨終の際に、オリーブ油を垂らすのです。洗礼から始まる人間の生涯に伴うローマ・カトリック教会が施す秘蹟のなかで、最後の秘蹟、儀式です。臨終の床、それは、亡くなる本人にとっても、遺された者たちにとってももっとも悲しい、厳しいときではないでしょうか。そのような状況を描く画家の心は、どのようなものであったのかと思いますが、しかし、何よりもその絵を見ていると、大変、不思議なのです。言いようのないメッセージがその絵からは語りだされています。まさに、絵画でしか十分に表現できないものです。そのようなすばらしい絵画を言葉で説明するのは、まさに不可能への挑戦ですし、基本的にはですから不可能です。しかし、その絵を見た私自身の心は言葉で言い表すことはできます。その絵には、三人の人間が描かれています。亡くなられた本人と子ども、そして司祭です。しかし、その絵をよく見ると、何かそこには、三人の他に誰かがおられるのではないかという気がするのです。その絵は悲劇、悲嘆の中に落とし込まれたという感じが伝わらないのです。なにか、明るさ、あるいは暖かさを覚えさせられるのです。とても不思議な絵です。この暖かさ、明るさの不思議さは、よく考えると、よく見てみると、そこには、この三人の他に誰かが居るからではないかという気がしてまいります。さらによく考えると、よく見てみると、そこに立ち会って、それを見ている人とは、画家の目ではないような気がするのです。いや、確かに画家の目で描かれているのですが、しかし、その画家の眼は、神の眼、神のまなざしではないかとだんだんと思えてくるのです。「ああ、そうだ、この悲しい現実を切り取った絵は、この現実に立会い、この現実を見ている神の御目である」とそのように思えてくる、分かってくるのです。神のまなざしのなかで、映っている現実を、画家は切り取ったと思いました。画家のまなざしは、神によって与えられてたまなざしなのです。

母の死の現実と遺された子どもの現実、それを神が共にいてくださり、神のまなざしのなかで、見てくると、真っ暗やみでも、悲痛でもなくなって、希望の光、暖かな光のなかでこの現実が起こっていると見えてくるのです。
わたしは、この絵を見ながら、一つの小さな神学的な経験を与えられたような気がするのです。難しい表現をしますが、こういうことです。聖書を学び、神の言葉を学ぶ人間とは、このような画家の眼差しを自分のものとすることなのだという、聖書の教え、神のみ言葉の力と目標をそこであらたに悟らされた思いです。聖霊のお働きを覚えたのです。つまり、それは、自分たちがいついかなるときでも、神の救いのなかに入れられているという事実に眼が開かれているということであります。

この画家の眼差しこそは、私自身が神の言葉の説教で、目指している事柄なのです。皆様に、そして自分自身も、この眼差しを開いて下さいと祈ります。つまり、世界のわたしの置かれている状況を、神の眼差しで見ることです。それが、神学することですし、聖書を読み、聖書の教えを身に着けることなのです。それを思想と呼んでもかまわないと思います。使徒たちの考え方と言ってもよいのです。聖書を読み、キリスト者として生きるとは、この使徒たちの考え方を身に着けることなのです。聖書をどれほど暗記しても、実際の生活のなかで、聖書に従って、基づいて決断し、選択することができなければ、神の御心に服すること、従うことはかないません。だから、御言葉によって私どもの考え方が変えられること、そのようにして行動が変えられること、これが、御言葉に生きることなのであります。考え方とは、言葉を変えれば、ものの見方です。人生観とか世界観と申します。英語で、「ビュー」それは、見ることです。なるほど、まさにこの画家は、そのような目で、神の御目で、この不幸と見られる光景を、別の見方で、神の眼差しをもって描いて見せてくれたのだと思いました。

神を喜ぶとは、神の喜びとされている自分自身をも明るく見ることです。神に暖かな眼差しに映る自分を見るのです。そうすると、自分が自分であることがすばらしいことになってまいります。そこに自分自身を喜ぶという驚くべきあり方が出てくるのです。自分自身を正しく誇りとするまったく新しい世界が開かれるのです。自分をそのように見る眼は、私どもから言えば、いつも神を見ることによって開かれ、与えられるのです。神はいついかなるときも、私どもを見ていてくださいますが、私どもも神をいついかなるときも見ていれば、自分を明るく見ることもできるのです。

ただし、自分を喜ぶとは、あるがままの自分は、いつまでもそのあるがままでいてよいということではなくなるのです。あるがままの自分を神が愛し、喜んで見ていてくださることは事実なのですが、しかし、その愛を注がれたとき、私どもは、本来の自分になりたい、本来の自分へと変えられたいと強く願い始めるのです。そこに、信仰の歩み、戦いがあります。主に喜ばれるように生きたいと願う私どもの志が与えられるのです。

神を誇る、神を喜ぶ。実にこれこそ、私どもの生きる究極の目的であり、生きがいであり、喜びです。そのために、何が必要なのでしょうか。それこそは、神を見ることです。神に目を注ぐことです。仰ぎ見ることです。それは、他でもありません。この礼拝式でこそ与えられる経験であります。神が、この私どもの礼拝式を、この場所を、どれほど喜び、どれほど誇らしく見ていて下さることでしょうか。その御神を私どもも今、しっかりと仰ぎ見るのです。そのとき、私どもは歌わずにおれません。「主イエス・キリストのおかげです。父なる神の選びと愛のおかげです。感謝します」と、賛美せずにおれないのです。

祈祷
私どもの主イエス・キリストによって、私どもはあなたを誇りと致します。あなたが、私どもを誇りとし、喜びとしていてくださるからであります。私どもの現実には、なお、悲しみと恥があります。キリスト者としても、一人の人間としても弱さと欠けが目に付く私どもであります。しかし、御神よ、あなたが私どもをどのように見ていてくださるのか、その眼差しを、ひれ伏し仰ぎ見ます。どうぞ、自分の存在を喜び、誇り、自分のおかれた状況を明るく見る眼を開き、大胆にして謙遜に生きることを得させて下さい。 アーメン。