過去の投稿2006年3月19日

3月19日

★  先週の祈祷会でも、三川牧師の聖書日課に基づいて、出エジプト記第24章を読みました。イスラエルが神の民とされたことは、律法を付与され、その律法を「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います。」と信仰の応答、誓約、告白をしたからでした。ここに神の契約の締結が実現し、荒れ野を旅した民が、契約の民となったことを意味しました。神の民は、契約の言葉を与えられ、それを感謝、喜びをもって受け入れることによって誕生したわけです。神の民は、御言葉を聞いて、信じて、行う民です。聖書の信仰とは、神の言葉に根ざすものです。その意味では、「厳密」なものです。言葉、とりわけ、契約の言葉は、「ぼんやり」したものではありません。人間同士の契約であっても、お互いにきちんと説明し、納得して、共通理解に基づかなければ成り立ちません。神と人間との間の契約もまた、共通理解が求められます。聖書の信仰は、「ムード」で信じたり、「雰囲気」で従ったりできるものではありません。そのために、御言葉を正しく聴き取る事が私どもの真剣な課題です。

☆  神は、長老や預言者モーセを選び、民の指導者として立てられました。旧約でも新約でも神の民を導く仕方は同じです。出エジプト記において、民がモーセに言い逆らうことは、即、神への反抗そのものを意味しました。そして、そのようなモーセへの反抗を、神は見逃すことはなさいませんでした。私どもの教会は、長老主義政治をもって、キリストの支配を教会に貫こうとする教会です。これは、遠く、旧約聖書にまでさかのぼることも許される、教会政治の方法であります。皆様が、今日の預言者である牧師や、治会長老を重んじることがどれほど重要であるかも、出エジプト記から教えられる一つの真理でありましょう。

★ 古(いにしへ)の神の民は、 「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います。」と信仰の応答、誓約、告白を致しました。今日の神の民も当然、この信仰が求められています。説教を聴くキリスト者の態度決定もたま、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います。」以外にありません。説教は、従おうとする態度決定なしに、聴いたことになりませんし、そのような態度で立ち上がって始めて、説教が聴かれたことになるのです。主日の礼拝式で確かに聴かれるのですが、週日の日々の生活において、従われることなしに、本当の意味で、説教を聴いたことにならないことを思います。

☆  先週の説教でも申しました。仏教学者が「プロテスタントの牧師はキリスト教が分かっていない」と批判されないように・・・。つまり、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います。」との信仰告白は、自分の宗教的能力、信仰の熱心、決断に基づいてのものではありません。契約の対象としていただいた自分自身と、契約の言葉を与えて下さった神の恵みを信じるから、恵みへの応答としてのみ、「行います」と断言できるのです。信仰は徹底的に、神の恵みによるのです。ここでも、それを誤解したら、キリスト教が分かっていないという批判を、受けなければなりません。律法主義者とは、まさに、自分の力で御言葉を行い、その行いによって、自分の救いを確かめることができると間違ったあり方をした者のことなのです。

★  「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います。」と告白した民のために、モーセは、ただちに、雄牛を屠(ほふ)り、その血を神と民に捧げました。まさに、行うことにおいて失敗し、罪を犯すことを予想して、贖いのための血でした。この血が流されてこそ、信仰の応答を大胆に言い表すことができるのです。私どものためには、言うまでもなく、永遠の贖い主、永遠の羊の大牧者主イエス・キリストがおられます。このお方の流して下さった御血のゆえに、わたしどもも、信仰を言い表し、神の民の前で誓約することができました。従うことにおいて中途半端な自分をなお、自分で正真正銘のキリスト者、完全なキリスト者として認めることができるのは、まさに、ただ、主イエス・キリストの流された御血を信じているからです。ここに、私どもの救いの確かさがあります。大胆に信仰を言い表してよいのです。そして、そうすべきなのです。

☆  三川先生の文章に、「祈りとは死ぬことです。」とありました。すばらしい言葉です。神に近づき、祈りをする、礼拝を捧げることが、どうして罪人である私どもに可能なのでしょうか。神を見たものは、死ぬはずです。神の聖さのまえに、汚(けが)れた人間は、立てません。つまり、祈りも、礼拝も、罪人には不可能ですし、死に値するのです。ところが、私どもは、毎日、神を父とお呼びし、今日も礼拝式を捧げることができています。この一点に、私どもの感激は尽きるのではないでしょうか。ただ、御子の贖いによって、私どもは、神に近づけるのです。近づくべきなのです。今朝、ともに祈れる者とされていることの喜びを深く味わうことができますように。