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「キリストとわたしたちの復活」4月16日復活祭

「キリストとわたしたちの復活」
2006年4月16日復活祭
聖書朗読 マルコによる福音書  第16章1節~8節 
 テキスト ローマの信徒への手紙 第6章3節~5節 ②

「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
死んだ者は、罪から解放されています。
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。」

本日は、主イエス・キリストの復活を祝う特別の主の日、復活祭礼拝式を捧げております。ただ今、わたしは「特別の」と申しました、なぜ、特別かと申しますと、もともと、私どもの主の日の礼拝式は、毎週、毎回、主イエス・キリストの復活を祝う日、キリストの復活記念の日を意味しているからです。いわば、毎主日が、復活記念日なのです。

金曜日の午後3時、主イエス・キリストは十字架の上で死に給いました。日曜日の早朝の薄明かりの中を、待ちかねたかのように婦人の弟子たちは、主イエスが葬られた墓のもとへと走りました。ユダヤ教で言う土曜日の安息日が終わらなければ、葬りの行為をすることが許されていなかったからです。彼女たちは、土曜の安息日が終わった今、主イエスを丁重に葬るために墓に急いだのです。それは、十字架の日を第一日と数えて、三日目の日曜日の早朝のことでした。主イエスを納めた墓は、洞穴でした。墓は、大きな石でいわば封印されていました。彼女たちの心配は、女手だけでは、その石を転がせないのではないか、誰か男の人に頼まなければならないのではないかというものでした。つまり、誰一人として、主イエスが復活し給うことを予想してはおりませんでした。

しかし彼女たちは、目撃するのです、墓石が転がしてあったこと、中に入ると納めてあった主のご遺体はなかったこと。一人の若者、つまり天使が、「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」そこでマルコは告げるのです。彼女たちは、震え上がった。正気を失っていた。つまり、喜んではいないのです。弟子たちはペトロに告げなさいと天使に命じられていたのに、彼女たちは何も言わなかったと言うのです。それは、ただたが、この事実が恐ろしかったからだと言うのです。これが、2000年前に起こった、主イエス・キリストの復活の出来事に基づく物語、事実の報告です。主イエスのお甦りがどれほど、恐るべきこと、驚くべきことであったのか、それは、言葉を失わせるほどのものなのです。しかし、この女性たちも、やがて、復活のイエスさまにお目にかかって、語り始めます。喜びにあふれて、キリストの復活を知らせるのです。実に、教会の存在とは、この復活の事実に基づくものに他なりません。キリストの復活が歴史的な出来事として起こらなければ、キリスト教という宗教、その根底をつくったキリストの教会は、地上にありません。また、その教会が今日まで2000年間、存在し続けたという歴史的事実もまた、キリストがお甦りになられた事実、キリストが生きておられる事実なしには、説明がつかないのです。

この朝も、世界中で、いつものように復活のキリストを礼拝する礼拝式が捧げられ、しかしまた特別に復活を記念する復活祭を祝っています。私どもも、今朝、この生きておられる、愛する主イエス・キリストの復活を祝い、霊的なお祭りをするのです。それが、礼拝式です。そして、キリストの復活の勝利を祝うことは、同時に、私どもの勝利と復活を祝うことでもあるのです。その意味では、礼拝とは、自分たちのお祝い、自分たちの救いの祭り、祝祭でもあるのです。

先月の26日主日の午後、読書会を終えて、わたしと家内は、津ルーテル教会の礼拝堂に急ぎました。一人の兄弟の前夜式に列席するためでした。週報にも記しましたが、とても感動的な葬儀でありました。それは、一つには、召された兄弟が、信仰の道を誠実に歩みぬかれたというその生き方に支えられたものとなっていたからであります。よい葬儀は、牧師の説教によってあるいは、その礼拝式によって成り立つというより、まさに、召されたご本人の生き方が葬儀を決するのであると思わされました。その意味で、自分自身の今のキリスト者としての歩みをあらためてよき葬儀となるようにと正さなければならないと思わされました。とても励ましを受けた忘れがたい葬儀、前夜式となりました。

しかし、わたしは同時に思いました。確信していることがあるのです。確かにキリストにあってどのように地上で生きたのかが、葬儀のあり方を決める面があります。ですから、地上の歩みが問われています。しかし、同時に、確認したいのです。キリスト者の葬儀のすばらしさとは、どのように地上で生きたかということが決定的なことではないということです。キリスト者がどのように歩んだのかは、福音の飾り、すばらしい装飾にはなっても、それは、あくまでも飾りなのです。キリスト者の葬儀のすばらしさの中身は、その根源は、ただ、キリストの人生のすばらしさにのみあるということであります。主イエス・キリストの人生がすばらしいものであるから、キリスト者の葬儀は光り輝くものとなるのです。

私の母は、私が神学校を卒業し、結婚してから教会に導かれました。そしてその後、洗礼を受けて教会員となりました。しかし母は、もともとは、わたしの洗礼に対して、いわんや神学校入学に対して反対していました。それなら、なぜ、キリスト者になったのか、その一つの引き金になったのは、葬儀に出席したことにありました。神学生のとき、わたしの母教会のひとりの会員が亡くなられました。まだ20代の方で、しかも交通事故によるものでした。その意味では、極めて悲しい死であります。わたしは、学校の関係で、出席できず、代わりに母に出席するようにと頼んだのです。その葬儀に出席して、キリスト教の葬式はよいと、言いました。その後、なお、しばらくのときが過ぎましたが、信仰に導かれました。今回、教会員に配り、提出を求めました、「葬儀に関する依頼書」にある方がこのように記載されました。「伝道的な葬儀、礼拝を希望します。」葬儀において、福音の真理がもっとも鮮やかに示されうるから、きちんと葬儀を営むなら、それは、必然的に伝道的になる、もとより葬儀は伝道集会ではありません。しかし、必然的に伝道、福音の証しになるのです。

使徒パウロはこの直前の第5章で、死について集中して議論しました。「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。」罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」そこでは、死は、罪のもたらしたものでした。「死のとげは罪」とコリントの信徒への手紙一第15章にもありますように、死は、忌避すべきものでした。死こそ、人間の敵なのです。罪を犯したから、人間の世界の中に死が入り込んでしまいました。本来、死ぬべき人間ではないのに、罪のせいで、アダムが罪をおかしたせいで、アダムに連なるすべて人間、罪人は死ななければならなくなったわけです。しかもその死とは、恐ろしい死です。神の裁きとしての死です。罪の支払う報酬としての永遠の刑罰としての死なのです。ですから、死ほど人間にとって恐るべき敵はないのです。しかもこの死は誰にでも襲ってきて、これを逃れることのできる人間は一人もいないのです。ですから、死は、私どもの究極の敵、課題、問題です。しかし、使徒パウロがここでもっとも明らかにしたいことは、死をもたらしたのは神の前に犯した人間の罪の問題ですから、死という敵のとげ、武器は罪であるということです。つまり、人間の究極の敵は、罪に他ならないのです。罪こそが私どもが逃げなければならない敵、人類の最大の敵、究極の問題なのです。しかもまさに第5章12節にあるように、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。」つまりすべての人間は例外なしに罪人になっているので、ここから逃げ出させる人は一人もいないわけです。罪の問題を傍観者としてやり過ごせる人は誰もいません。

ところがこの第6章に入りますと、様相が一変します。この究極の敵である死の意味が激変してしまうのです。いったい「死」に何が起こったのでしょうか。いったい死はどうなってしまったのでしょうか。ここからは、使徒パウロはまさに勝利者として死について語り始めます。死をはるかに見下ろしながら、語り始めるのです。このように語ります。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。」パウロはローマにいるキリスト者たちに、「あなたがたは皆、洗礼を受けられたはずです。その洗礼とは、キリスト・イエスと結ばれるためのものでした。キリスト・イエスと一つになる、合体するということです。洗礼とは、主イエス・キリストとの結合、交わりの方法であり手段なのです。その消すことのできない目印でもあります。」さらにパウロは言います。

「主イエス・キリストが死なれたことを、あなたがたは誰も皆ご存知でしょう。そうであれば、キリスト・イエスと一つにされるために洗礼を受けたあなた方は誰一人の例外もなく、みな、キリストの死にあずかるために洗礼を受けたことになりますね。そうであれば、皆、洗礼式のとき、主イエスと一緒に死んで葬られたはずですね。つまり、自分の葬式を済ませてしまっているわけですね。」
ここでは、私どもキリスト者に死の意味が逆転していることに気づかれるでしょうか。死が、キリストの死のおかげで、キリストと一つにされるための、言わば門となってしまったということです。洗礼によって、一度死んだ人間は、肉体においては死を経験しますが、罪の支払う報酬としての神の刑罰としての死をもはや死ぬことがなくなっているのです。そのおそるべき死、人類の究極の敵の死は、キリストと一つにされた洗礼の礼典において経験したのです。

この礼拝堂で洗礼を受けられた方は、皆様の前にある洗礼盤から頭に水を垂らされるだけです。ただ、わたしは手のひらに水をすくいますから、いわゆる滴礼のように、頭に水がつくだけではありません。しかしそれにしてもただ、水を注ぐだけです。それだけで、いったいどうして死を死ぬことになるのでしょうか。痛くもないのです。苦しくもないのです。まったく苦しまないで、痛まないで死ぬということは通常はありえないことではないでしょうか。

先週は、受難週でした。特別の集会として早天祈祷会をもって過ごしました。主イエスが十字架につけられた最後の一週間を思いつつ、過ごしました。そこで、特に覚えることが大切であったのは、間違いなく主イエスの苦難のご生涯の頂点に位置する十字架上の御苦しみであります。その御苦しみの激しさは、わき腹をやりで刺されたときに、血と水とが流れ出たという記事にも明らかのように、それは、通常の十字架刑ではありえない仕方であったことによって分かります。昨年は、パッションという映画が話題を呼びました。その映画をご覧になられた方は、あまりのむごたらしさにまさに目を背けずにはおれないほどのものでした。十字架刑の前の鞭打ちの刑の激しさは、十字架刑のものよりもなおいっそう痛ましいこととして表現されていたかのように思いました。しかし、十字架の死の恐ろしさは、主イエスのまわりにいたローマの兵隊や律法学者、ファリサイ派の人々の処刑の恐ろしさでは、言い足らないのです。その意味では、人類史上、もっとも痛ましい方法で主イエスが死なれたということは、できないと思います。もっとおそるべき死に方というものがあったかもしれません。しかし、主イエスの死の恐ろしさの特別さ、ユニークさは、その死が単に肉体上の死ではなかったということにあります。それは、神の怒りとしての裁き、神の刑罰としての死なのです。父なる神が、御子に手をかけられたのです。その神の怒りがまさに下されたのが、午後3時、最後のとき、大声を出されたときです。それによって御子は死なれたのです。神の御手が、御子を死に至らしめたのです。

その意味で、人類のなかで、このまことの死、神の刑罰の死を死なれたのは、ただイエス・キリストお一人です。このお方が、神の刑罰としての永遠の死を味わわれた歴史上唯一の人間なのです。歴史上唯一と申しましたが、この後、歴史の終わりのとき、この永遠の死を受けるべき定めにあるのが、まさに罪人なのです。罪人とは、この十字架の死を死ななければならない人間ということを意味するのです。
しかし、私どもキリスト者、洗礼を受けた人間は、実に、このキリスト・イエスの十字架の死にあずからせられたのです。ところが、この死にあわせられるための洗礼を受けたとき、受けるとき、私どもは何の痛みも苦しみも肉体に覚えていません。洗礼を受けられたとき、大声をあげられた方はおられないのです。何故でしょうか。もしも、この死にあわせられるなら、苦しみもがくはずではないでしょうか。しかし私どもは経験していません。何故でしょうか。それは、この死を本当に死なれたお方が、私どもの死の身代わりになられたからなのです。だから、私どもは、洗礼によってキリストと一つと結ばれても、苦しまないのです。しかし事実、死にあわせられるのです。

そして、この死を主イエス・キリストと一緒に死ぬことは、それがゴールではありません。人生は死が到達点ではないのです。多くの人々が誤解しているのです。死んで終わると誤解するのです。しかし、聖書は、新約聖書は言います。死は究極ではないのです。罪の支払う報酬を支払っていただいた人間、イエスさまに肩代わりしていただいた人間の人生は、誕生から死ではありません。人生とは、誕生から復活なのです。なぜなら、主イエス・キリストの人生がそうだからです。ご降誕、クリスマスから十字架で終わる、のではないのです。クリスマスから復活、イースターなのです。このキリストの生涯の勝利は、洗礼によってそのまま、キリスト者の生涯となるのです。

使徒パウロは叫んでいます。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」

パウロは、言います。もしあなたがキリストの体なる教会によって、キリストの体なる教会に加わる洗礼を受けたのなら、あなたはキリストとともに葬られ、その死にあずかり、あやかっている。それは、ゴールに至るためである。新しい命に生きるため、復活の命にいたるためである。私どもは、今、この復活の命を生きているのです。永遠の命に今ここで到達し、導かれているのです。そして、私どもに与えられ、始まっている永遠の命は、私どもの肉体の死の後、主イエス・キリストがもう一度、この地上に来られる日、再臨の日に、朽ちない体、復活の体に甦らされるのです。これが、私どもの定めなのです。定めになったのです。その証拠がキリストの復活なのです。このお方の人生が、そっくりそのまま私どもの人生になりました。ですから、死、肉体の死の葬儀が勝利によって彩られるのです。

かつて、東京神学大学の学長をされた日本を代表する神学者の一人の牧師の説教のなかで、一人女性の医師の言葉が紹介されていました。その方は韓国の方なのですが、その牧師に尋ねたのだそうです。「先生は神学者ですから、お尋ねしたい。先生、復活ってなんでしょうか。」駅のプラットホームで、突然たずねられて、その先生は、すぐに答えられなかったそうです。するとその医師がこう仰ったのだそうです。「わたしは麻酔をしていて、復活が分かりました。」この医師は、麻酔から覚めてくる患者をみていて、復活についての理解、そのイメージ、インスピレーションを受けたというのです。

麻酔、特に全身麻酔は、手術のときに、やはり生命にかかわることでしょう。手術の際には家族は同意を求められます。しかし、どうしても手術をしなければならない状況では、していただく以外にないわけです。全身麻酔を施すということは、まさにその人にとっては、死に限りなく近づくことになるのではないでしょうか。しかし、死に限りなく近づくことによって、命にかかわる病に打ち勝つことができるのです。命の危険を冒しますが、しかし命へと生還することができる通路、門ともなるわけのです。
この説教者は、洗礼の効力を、手術の前の全身麻酔を例として紹介してみせたわけです。もちろん、これは、復活や洗礼の理解を、分かりやすくするための一つの方法にしか過ぎません。確かに、たとい熟練した麻酔科の医師であっても、成功するかどうか、完全なことは、正直に申せばなおやって見なければわからないのではないでしょうか。しかし、成功すれば、限りなく死に近づきながら、病気が治り、生還できるわけです。退院できるのです。

神の裁きとしての永遠の死を死ななければらない罪、死の病に冒された罪人は、キリストの死によってキリストとともに死ぬことによって、実は、生き返ってくるのです。生還するのです。新しい命へと導かれるのです。新しい命に生きることができるのです。しかし、そのためには、罪人は、どうしても、麻酔を打ってもらわなければならない。死に肉薄する、いや、本当に死ななければならないのです。そして本当に死ぬということは、キリストとともに死ぬということなのです。そしてそれをもたらすものが、洗礼なのです。その効力なのです。
たとい熟練した麻酔科の医師であっても、成功するかどうか、完全なことは、正直に申せばなおやって見なければわからない、と申しました。ですから、手術の前には同意書を書かせられる必要が生じるわけです。医師はミスをする可能性を否定できないのです。しかし、主イエス・キリストはミスをなさいません。やってみなければ分からないなどという不確かなところはまったくないのです。なぜでしょうか。それは、主イエスは、すでに死んで、そしてお甦りになられたからです。のるかそるか、とにかく他に方法がないからやってみましょうなどという、たよりないことではありません。主イエスはすでに2000年前に、十字架に死んでくださり、そしてお甦りになられたのです。つまり、100パーセントの世界、確実なことなのです。

私どもは、罪を悔い改めて主イエス・キリストを信じました。そして洗礼を受けたのです。だから、私どもの人生は、誰一人の例外もなく、パウロが言うように「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちは皆」復活まで行くのです。これが私どもの定めになったのです。

ここには、未だ洗礼を受けていない方もおられます。どうぞ、洗礼入会を志願してください。来年の復活祭、いや、今年の降誕祭に洗礼を受けられるように、今から、祈り求めてください。また、ここには、子どものときに洗礼を受けている神さまからの救いの約束を与えられている皆さんもいます。ぜひ、一日も早く、その約束を自分のものとしてください。信仰を言い表してください。そのための準備の学びを始めたいのです。

今、聖餐の食卓が整えられています。この聖餐の礼典は、洗礼の恵みを繰り返し新しくする恵みの手段です。この聖餐を祝うことは、自分がすでに主とともに死んだ人間であることを認めことです。また、新しい命、永遠の命を受けていることを感謝することです。さらに、この聖餐を祝うことは、この罪人のわたしのために主イエス・キリストが御血を流し、死んでくださったことへの信仰の応答、服従なのです。最高の服従の行為なのです。ですから、信じている人は、必ず洗礼をお受けになり、この恵みにあずかっていただきたいし、あずかるべきであります。さらにまた、この聖餐にあずかる人間は、自分を捧げること、献身を表明するのです。つまり、これからの自分の命の使い道とは、ただ神に向かって生きること、使うということを表明するのです。聖餐にあずかった人間は、もはや、自分のために生きることはできません。自分のために死んで甦った方のために、生きる。これこそが、キリスト者の新しい人生なのです。私どもは、キリストの人生と一つにされているからです。誕生から復活までの人生です。私どももまた、キリストの復活によって新しい命に生かされ、私どももまた復活させられることが100パーセント保証されたのです。新しい命をもって具体的に地上を生きるために、今、聖霊を祈り求めましょう。説教を、信仰をもって聴いた私どもには聖霊が注がれています。父なる神は、さらにこの聖餐のパンとぶどう酒によっても、聖霊を豊かに注いでいただくのです。

そしてこの聖霊の恵みを受けて、新しい命を受けて、神へと生きるのが、キリスト者であります。それは、新しい生き方になります。神の栄光のために生きる新しい人生、教会のため、隣人のために生きる新しい人生が私どもに始まっているのです。

祈祷
 御子の苦難と死にあずかる洗礼を施してくださいました、父と子と聖霊にていましたもう全能の神、唯一の神よ。私どもは御子の身代わりの死のおかげで、罪の裁きを受けずに、永遠の死を死ぬことなしに、死ぬことができました。死に与らせていただきました。心から感謝いたします。どうぞ、この死を死ぬことも、復活することも私どもにはできません。しかし、主イエス・キリストがなしてくださいました。私どもは信仰によって、洗礼を通して、このキリストと一つにされています。心から感謝いたします。この徹底的に、一方的にあながたなしてくださったみ業を信じ、感謝して、地上を歩ませて下さい。死に打ち勝った勝利の主は、私どもの主であり、私どもの勝利であることを深く悟らせてください。そのようにして、存分に主のために生きる、幸いな地上の歩みを生き抜かせてください。                   アーメン