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「キリストと共に生きる」4月23日

「キリストと共に生きる」
2006年4月23日
 テキスト ローマの信徒への手紙 第6章1節~11節 ③

「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
死んだ者は、罪から解放されています。
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。」

この箇所を学んで、本日で、三回目になります。使徒パウロは、冒頭の第6章1節にこのように主張する者の声を取り上げました。「恵みがますようにと、罪の中に留まろう」つまり、こういう考えを公言して生きたキリスト者が、いるのです。「たとえ、罪を犯しても、キリストの十字架を信じさへすれば、赦されるのだったら、罪を犯しても、悔い改めればよいだけではないか。あまり、堅苦しいことは言わないで、この世の中を楽しみながら、生きて行きましょう。罪の深みにははまらず、しかし一方で、その罪を楽しみつつ生きてゆけば良いではないか。それでも、神の恵みを受けられるし、いや、罪の深みを知れば知るほど、恵みを深く知れるのだから、一石二鳥ではないか。」

今、使徒パウロはこのようなまったく愚かしい議論を取り上げることによって、あらためてキリスト者お互いにに与えられている恵み、救いとは何か、キリスト信仰とはいかなるものなのかを、逆に、はっきりさせることができると考えて、記しているのです。

パウロは、「決してそうではない」と一蹴します。相手にしないのです。キリスト者であれば、同じように考えるでしょう。ただ同時に、パウロがここで言うような、つまり「罪に対して死んだわたしたちがどうして、なおも罪のなかに生きることができるでしょう。」ということに対して、何か後ろめたい思いを持ってしまうことも起こるのではないでしょうか。「パウロ先生が言うように、わたしは、罪の中に留まってよいとなど、開き直ることは決してしない。けれども、そうだからといって、同時にパウロ先生が言うように、罪の中に生きていないかと言えば、自分の一週間を振り返ってみれば、そうも言えない。」つまりこういうことです。「確かに、善き生活をもって主の御前に生きてゆきたいと願っているけれど、結局中途半端なものでしかない。自分は、キリスト者としては、いわば、すれすれの線、ぎりぎりの線で生きている。けれども、今もっとも忙しい世代であるし、あるいは、自分は社会の第一線で生きているのだから、聖書に言われているように御言葉を実践して生きることは土台無理なのだ。ただし、第一線を退いたら、少しは良くなると思う。もう少し時間がたてば、余裕も出てくると思うので、それまでは、神さまも少し多めに見ておいてほしいし、そうしてくださるのではないか。」あるいは、さらに危機的な思いもあるかもしれません。それはおそらくこのような思いでしょう。「わたしは、信仰を始めるその最初から、すでにある程度、キリスト者らしい生活の姿勢を作れていると思います。ただなお足らない部分を神さまに補い、助けていただく必要があると思います。それが、わたしの教会生活です。わたしという人間にとって、生活の何から何までを教会や聖書によって教えられ、導かれる必要は、ないと思います。」二つのある意味では極端な例かもしれませんが、だれにも起こりうる誘惑ではないかと思うのです。もとより、これらは、間違いです。

それなら、一体、キリスト者とは誰のことなのでしょうか。いったい、キリスト者とは、どのような人のことを指すのでしょうか。もし、使徒パウロに問うなら、まさにここで語られたことを指し示してくださると思います。一言で申しますと、洗礼を受けた人間。こうなります。実に、この洗礼という聖礼典が決定的なのです。どうしてそうなのか、それは、洗礼とは、「キリスト・イエスに結ばれる」ことを意味するからです。キリスト・イエスに結ばれている、結びつく、浸される人間になったということを意味するからです。つまり、キリスト者とは、キリストを教祖、模範にする人ということではなく、キリストと合体した、浸された、結び付けられた、結合してしまった人間ということなのです。これも大雑把な表現になりますが、大切なことは、キリスト者にとってもっとも大切なこととは主イエスの教えではなく、この出来事、主イエス・キリストのみ業、ご生涯のことなのです。つまり、このお方の人格とご生涯、主の出来事なくして、主イエスの教えに生きることはできないのです。この出来事を「知る」ことが、教えに生きる土台になるのです。

教会では、私どもはいつも学んでいます。教会のことを、いにしえより、学びの家と呼ばれてまいりました。ある人はまたそこで、早とちりをなさるかもしれません。「なんだ、やはり教会は、学ぶところではないか。集会では、教えを学んでいるのでしょう。説教でも、最初に、今日はこの御言葉から学ぶと言ったではないか。だから、教会は、学ぶ、勉強するところでしょう。」

教会は、学ぶところ、それは、まったくその通りであります。確かに今日も、この神の御言葉を学んで、礼拝を捧げているのです。しかし、そこで、丁寧に考えなければなりません。私どもが学ぶのは、いったい何かでしょうか。何をここで知ることが求められているのでしょうか。使徒パウロが、私たちが皆、何を知っているのか、しるべきかと語ったとき、それは、キリストの死と生に他ならなかったのです。キリストの教えというより、キリストのなしたもうたみ業なのです。出来事です。そして何よりも、この出来事の意味についてです。同時に、このお方の出来事が私どもにもたらしている出来事をもあわせて学ぶのです。同時に知るのです。そして、パウロがここで何度も語るように、重要なことは、それを認めることです。それを、知ることです。この事実を考えることなのです。

実に、キリストと一つにされて生きること、これなくして、キリスト者は生きれません。このお方の教えを守ることもできないのです。たとえば、詩篇第119編にこれは、口語訳ですが、こうあります。「若い人はどうしておのが道を/清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません。」清く生きる、自分の歩む道を、神とともにまっすぐに歩むためには、御言葉に従って、道を守ることです。これは、ただ若い人の問題だけではありません。キリスト者なら、青年も老年も、男性も女性も、誰でも同じ課題が与えられています。しかし、そこで、神の言葉を守ることによると、詩篇は歌います。私どもキリスト者ももちろん、まったくこの御言葉を受け入れています。しかし、キリスト者にとって、この詩篇の詩人の言葉をさらに奥深くまで立ち入って、理解し、感謝することができるはずです。つまり、この御言葉を守る生き方がどうしてできるようになったかということです。それは、キリストに結びつく洗礼を受けているということです。キリストによって、この御言葉と新しく出会うとき、この御言葉がさらに甘く、慕わしくなるのです。

御言葉に従う道、これが、信仰の道なのです。その通りです。しかし、これをいわば、素手で、受け止めているなら、怪我をする。硬式野球のボールを素手で受け止める人は誰もおりません。グローブを使います。そうすると、硬いボールでも受け止められます。上達すればするほど楽しいものになります。

私どもは、キリストと結ばれて初めて、キリストの言葉を聴き、神の言葉を学び、十戒を学び唱えることが嬉しくてならなくなったはずです。私どもは、キリストの生涯、人生と一つに結ばれて初めて、新しくさせられたのです。信じるとは、このキリストとの結合を意味する恵みの出来事にあずかったということです。そして、この事実について深く学ぶ、知る、考えることが、私どもキリスト者の命、力、強さそれらのすべての源なのです。この力によって、この命によってあたらしく神の言葉を守って生きようとする志が与えられ、それを守ることもできるようにされるのです。

私どもの救いも、力も、喜びも、すべては、自分の道徳心でもなく、自分の倫理的能力にでもなく、ただこのキリストというお方にかかっています。このキリストの力と事実、生きておられるキリストと結ばれることよってだけ、神の御心に生きることができるのです。

そしてそれは、ただ洗礼の恵みによってのみもたらされるものなのです。ところが、そこで私どもに、深刻な問題、悩み、疑いも生じるかもしれません。その問題を、短い時間にすべて語ることはできませんが、一つのことは、はっきりさせることができるし、したいと思います。教会に長く生きている者にとって、どうしても味あわなければならない悲しみは、洗礼を受けた人が教会から離れて行くという現実です。いったい洗礼の効力、力はどれほどのものであるかという疑いです。ただし、同時に、洗礼の恵みの力に豊かに生きている人も大勢いるわけです。人それぞれであると、言うべきでしょうか。それなら、唯一の洗礼を受けたはずなのに、何がどう違うというのでしょうか。それは、洗礼は、信仰が問われるということです。

5節に、「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」とあります。ここで、「一体になって」という言葉は、聖書のなかでここだけに用いられるのですが、これは、極めて、重要なパウロの神学、パウロのメッセージが込められています。「洗礼を受ける」という一つの言葉には、ただこの一語だけで、「キリストにあずかる、一つになる、結ばれる、浸される」という意味があります。しかしここでは、「一体となる」という一つの言葉が用いらているのです。それは、「結びついて」「接ぎあわされて」「一体になって」と訳されます。しかし、この言葉は、それだけではなく、もともとの意味には、「共に成長する」という意味があるのです。このように翻訳していませんが、これは覚えておいてよい意味であります。

それなら、キリスト・イエスと共に成長するとは、どういうことでしょうか。私どもが洗礼を受けるということは、いったいどういうことなのか。それを考えるとき、忘れてならないことは、私どもに先立って、まず、キリスト・イエスさま御自身が洗礼をお受けになられたという事実です。洗礼者ヨハネからヨルダン川で、洗礼をお受けになられたのです。ヨハネ自身は、イエスさまに、わたしなどは、この方の靴を脱がすこともできない人間であって、むしろ、わたしこそ、イエスさまから洗礼を受けなければならないのですと、押しとどめられたのです。このようなヨハネの驚きは良くわかります。神の御子であられるお方が何故、罪人が受けるべき洗礼を受けなければならなかったのか、そこに神秘があります。しかし、御子なる神は人となられ、私どもの仲間となられたのです。罪は犯されませんでしたが、あらゆることを経験されました。私どもの低きに降りてこられたのです。

洗礼を受けてキリスト・イエスと結ばれる、一体となると何度も何度も学んでまいりましたが、その前に、主イエス・キリスト御自身が、私どもと一体となるために人間となられ、罪人が受ける洗礼をお受けくださったという決定的な事実があるのです。

共に成長する、これは、主イエスの側から申しますと、私どもに近づいてくださることでした。さらには、私どものために十字架で死んでくださるということでした。主イエスさまが私どもに、しかもその低さにおいて近づいてくださったからこそ、私どももまた、主イエスに近づけるのです。主の死の姿は、その苦難は、まことに悲惨なものでした。何をどう飾り立てようと、十字架の処刑ほど、無残で、悲惨な、惨めな姿はありません。それは、本当は、わたしがならなければいけなかった姿なのです。しかし、主イエスは、そのような姿になってくださいました。私どもが落ちるべき極限の底の底まで落ちられたのです。それは、罪人と一つになろうと欲したもうた、それを熱望された御子イエスさまの激しい思いの表れでした。だからこそ、私どもは、この御子に、近づき、一つとなれるのです。それが、「共に成長する」ということです。主イエスさまは下られました。それがいわば主イエスの成長です。それに対応するのは、私どもにとっては、いわば、上昇することです。復活の命によって、立ち上がって成長することです。主と共に死んだ私どもは、あとは、ただ復活された主イエスさまと共に成長するしかないのです。それしか残っていません。共に成長するとき、キリストの死はわたしの死になり、キリストの復活はわたしの復活となるのです。つまり、キリストと共に生きることです。

使徒パウロが言いたいのは、あなた方は誰なのか、それは、洗礼を受けた人間であるということです。洗礼を受けた人間というのは、キリストと共に成長する人間でしかなくなった、キリストと一体とされた人間でしかない、今からはキリストとともに生きる以外に生きる道がないということなのです。すでに古い人間、つまりアダムにあって、死んだ人間であるということです。アダムと結ばれたわたしという存在はすでに死んでいるのです。洗礼を受けた者がなすべきことは、ただ一つ、これを知ることです。この事実を認めることなのです。

しかし、もしかすると、そこで私どもは、なおこのように、抵抗するかもしれません。「いや、まだまだ、私の中に、アダムは残っています。自分のなかに、罪に振り回され、主イエスを選び取る生活より、主イエスと共に自分のしたいこと、自分を楽しませること、世間の人が楽しそうに追求していることを自分もまた味わわなければ損だと思ってしまいます。あれをしてはいけない、これも我慢しなければならないなどということは、こんなに豊かな日本にあっては、もったいないと思います。こんなわたしは中途半端なキリスト者です。正直に言うと、今の楽しみを手放したくない。」このような場所を、なお、うろうろするのです。

そのような私どもに向かって、使徒パウロはここで何度もたった一つの福音の真理を提示し、そこへと私どもを連れ出そう、解き放とうと語っているのです。ただ一つのことを語るのです。「あなたは、罪から解放されている」ということです。この「解放される」という言葉は、実は、「義とされる」という言葉が用いられています。つまり、あなたの罪は義とされているということです。義としてくださるのは、他ならない神ご自身です。そのような神のみ業を信仰義認と申します。信仰によって、神が義と認めておられるのです。神は、私どもが罪人であることを、ご存知の上で、主イエス・キリストのゆえにまったく正しい人間と認め、みなしてくださるのです。これは、ただ神の行為なのです。実に、この神の行為を、人間が、キリスト者が認めることこそ、ここで徹底的に要求されていることなのです。「知らないのですか。」3節。「知っています」6節「知っています」9節。そして、この箇所の結論の部分である11節にも、「考えなさい」とあります。

これは、命令です。神からの命令なのです。なぜなら、神が、私どもを正真正銘、古い人間、アダムにあっては、キリストによって、キリストの死によって、一緒に死んでしまった人間と知っていてくださるからです。認めていてくださるからです。そのように考えていてくださるからです。

神がそのようにお考えになっていてくださるのに、どうして私どものほうで、もたもた、もたもたして、「いいえ、わたしはそれでも、中途半端です。わたしは、まだ死んでいません。」そのように言えるでしょうか。
先々週のニュースによれば、アメリカでは、移民の扱いをめぐって大きなデモが起こっているそうです。中南米からの移民が、国籍を取得しやすいように、合法的に働けるようにと求めているのだそうです。アメリカ国籍を取得できるか、できないか、これは、大変大きな問題です。アメリカ人になる、国籍を得たなら、たといその人が、英語を話せようが話せまいがかまいません。国籍を得たら過去は問われません。中国から来られた方は、中国文化を重んじていてもかまいません。日本人がアメリカ人になっても、日本人の伝統を振り払うことを求められません。国籍を取得すれば、アメリカ人としての義務と権利を享受できるのだと思います。

これと洗礼を受けた私どもを比べることはできませんが、似ているところもあるのです。洗礼を受けた人は、昔のくせとか、昔の習慣とか、何よりもそれらの基になる昔の考え方がまったく消えてなくなったというわけではありません。消えてなくなったのを待って、洗礼を受けた人は一人もいないはずです。しかし、洗礼を受けたなら、神が、その人を、「あなたを古い人間ではない、キリストと共に成長する人間だ」と、このようにお認めてくださるのです。キリスト・イエスと一つに結ばれた人間、罪から解放され、罪の責任を取らなくてもよい人間、恵みの支配の中に入れてしまっている人間として、他ならない神がお認めてくださるのです。どうして、認めたもうお方に言い逆らって、「神さま、そう仰っても、わたしの実生活は、だめです。まだ、死んでいません」と、私どもが言い張ることがゆるされるでしょうか。それには、意味がないのではないでしょうか。

使徒パウロは、10節で、極めて重要なことをたったの一言、短い一言で記しました。「ただ一度」という言葉です。主イエスは十字架でただ一度死なれたという事実です。主イエスは、何度も死ぬ必要はないのです。あの十字架のただ一度の死で、私どもが罪に死ぬのに十分すぎするのです。私どもをキリスト者として、新しい人間につくりかえてしまうのに、神の御子が「ただ一度」十字架で死んでくだされば、もう、決着がついてしまったのです。大勝利なのです。完全なのです。だから、私どももまた、あのときの洗礼は、まだまだ、信仰が足りなかったので、改めて受けなおすとか、二度も三度も受ける必要などないのです。やり直す必要はないのです。ただ、信じることだけです。今、信じるだけで良いのです。この事実を受け入れるだけで良いのです。認めるのです。

それなら、認めた人はどうなるのでしょうか。それは、このキリストと共に生きる以外にありません。キリストと共に生きることこそ、死んだ人間の特徴なのです。死んだのは、生きるためです。主ととともに死んだのですから、主と共に生きる以外に道はないのです。

私どもは、今、キリストと共に生きている人間です。それを認めること、信じることです。ローマの信徒への手紙の鍵の言葉は、第1章17節でした。「正しいものは信仰によって生きる。」キリスト者の地上の生涯は、信仰の生涯です。信仰によって、キリストの力に接続し、キリストの恵みにつながるのです。私どもに与えられた信仰こそは、勝利です。ヨハネの手紙Ⅰ第5章でこういいます。「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それは、わたしたちの信仰です。誰が、世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」
私どもの勝利は信仰です。信仰は、キリスト・イエスと自分とが洗礼によって共に成長することを認めることです。そのようにして、このキリストの復活の命が私どもに流れ込んでくるから、勝利するのです。キリストの復活の勝利が、信仰によって、私どものものとなるのです。神がそう、すでに決めておられるのです。ただ一度、御子のみ業で決着がついてしまっているのです。もう一度、勝負をやり直す必要はないのです。だから、私どももまた罪のなかにとどまっていない。支配されていないのです。騙されてはなりません。

罪と死に騙されてはなりません。罪は、キリスト者の失敗、罪に付込みます。「お前は、中途半端である」と断定します。そして、中途半端で生きることをよしとする、仕方がないとそそのかすのです。少なくとも、今は、中途半端でいても仕方がないとそそのかすのです。

私どもの戦いは、信仰の戦いです。私どもは、神によって認められた。罪から解放されたのです。自分が自分で認めることはむなしいのです。国籍を認めるか認めないか、それは、その権威を持つ者が判定するのです。そしてその判定だけがものを言うのです。私どもは、この教会で洗礼を受けたとき、あるいは信仰を告白したとき、神の法廷に立ったのです。神の法廷で、キリストと共に葬られた人間と公に認められた、宣告されたのです。そしてそれはただ、キリストの復活の命、新しい命に生きるためなのです。

祈祷
 御子の苦難と死にあずかる洗礼を施してくださいました、父と子と聖霊にていましたもう全能の神、唯一の神よ。私どもは御子の身代わりの死のおかげで、罪の裁きを受けずに、永遠の死を死ぬことなしに、死ぬことができました。死に与らせていただきました。心から感謝いたします。どうぞ、この死を死ぬことも、復活することも私どもにはできません。しかし、主イエス・キリストがなしてくださいました。私どもは信仰によって、洗礼を通して、このキリストと一つにされています。心から感謝いたします。この徹底的に、一方的にあながたなしてくださったみ業を信じ、感謝して、地上を歩ませて下さい。死に打ち勝った勝利の主は、私どもの主であり、私どもの勝利であることを深く悟らせてください。そのようにして、存分に主のために生きる、幸いな地上の歩みを生き抜かせてください。                   アーメン