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「恵みの下で生きる」

恵みの下で生きる」
2006年4月30日
 テキスト ローマの信徒への手紙 第6章12節~14節

「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。
なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」

使徒パウロはここで、まさに、目もさめるような断言を致します。私どもはまさに、ここで目覚めなければなりません。私どもの目を覚ます断言、それは、こうです。「罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。」「罪は、もはや、あなたがたを支配することはない。」これが、キリストの使徒パウロの確信なのです。パウロの目は、神によって透き通るように、真実の姿を見させられているのです。これまで誰も見たことのないような、しかし、キリストによってもたらされた新しい人間のまことの姿を、使徒パウロははっきりと見せられているのです。そして、神は、このパウロを通して、私自身の姿をこのように見ることを、お互いの姿をこのように見ることをお命じになっておられます。「罪は、もはや、あなたがたを支配することはない。」

さて、我々人間が、この地上を人間らしく、楽しく、豊かに、平和に生きる上で、決定的に重要なことは、何でしょうか。それは、その生きる場所を治める人が誰であるかということではないでしょうか。どんな人が権力を握っているのか、その権力はどのようなものなのかということです。法律によって社会のあり方を規制している法治国家なのか、それとも、権力者の一存ですべてを動かせるような専制国家なのかです。これは、まったく違う社会を作り出します。ただし、法治国家であっても、どのような法律、憲法の下にあるのかも問われてまいります。しかし要するに、何が、誰が、あるいはどのように支配しているのかが、我々の地上の生活にとって決定的に重要なのです。それ次第では、生きることそれ自体が苦しく、困難になることもあります。

一昔前には、小船に乗ってまさに命がけで海外に脱出した難民がおりました。ボートピープル、インドシナ難民です。今では、北朝鮮から命がけで川を渡って中国に逃げ込む人たち、脱北者たちです。戦争や紛争、圧制者による圧力によって自由や食料を制限されたりしている人々にとっては、自由の国へと逃れることがどれほどの憧れになっているかを思います。思想や宗教を迫害されている人々も少なくありません。つまり、我々にとって、誰が、何が「支配」しているのか、それは、決定的な問題、生きる上で究極的な問題を意味するのです。

しかしこの問題は、単に政治上の問題だけではありません。それ以上に、まさに人類にとっての、究極の問題とは、死の問題です。死の支配から自由になることができないということ、死の問題こそは、究極問題なのです。しかし聖書は、言います。「死の問題は、多くの主教が究極の問題と考えているが、しかしそれは、究極のなお一歩手前の問題である。人間にとっての究極の問題、課題とは、罪の問題である。つまり、人類は、死の支配、死の恐怖に一生涯奴隷になっている。」

一生涯奴隷の状態という言葉は、ヘブライ人の手紙第2章の御言葉であります。「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」この御言葉を読むと、いつも思い出すのは、家内が神学校でした献身の証しなのです。かつて、悪性の腫瘍ではないかと医院で診察され、専門の病院に行ったというのです。そのとき、待合室にいた大勢の婦人たちが沈痛な面持ちでいたことに強い思いを持ったというのです。彼女は、すでにそのとき、洗礼を受けていたわけです。キリスト者として生かされ、永遠の命の喜びと望みをもっていた。だから、最悪のことが起こっても、それを受け入れることができていた。年若い女性であっても、すでにキリスト者でしたから、勝利を与えられていたというわけでありましょう。診察の結果は、悪性のものではなかったわけです。しかし、それで良かったといって、終わらずに、神からの問いかけが残ったのです。それが、自分の神学校に行く一つの大きな経験になったのだと、もう大昔になってしまいましたが、聴きました。病院の待合室での厳しい経験を、神が導いてくださったことは、今では、神の摂理であるとしか思えませんが、そこで、結局は、死に支配され、奴隷とされ、屈服させられてしまっている人間の現実こそが、実は、人間の現実なのです。それはそのような死に至る病いに冒されているかどうかは、関係なくすべての人間は、結局、死刑囚でしかないわけです。人間は、生まれ落ちた瞬間から、死との戦いが始まるといってもよいでしょう。死ぬべき人間という現実を、打ち消せない。どれほど、健康であっても、明日の絶対的保証はありません。誰にも分からないのです。

しかも、死の支配の下にあるということ、死が恐ろしいということは、死後、神に裁かれるからなのです。死んで終わりではないのです。人間は、死んだ後に、神の審判がありますから、死ぬまで死のことは忘れ、気晴らしをしながら、楽しく、面白く、死の現実を直前まで考えないように生きるようと企てます。そして見事に、そのように最後まで過ごしぬけたとしても、それは、裏返せば、結局、死に負けていたということです。死の力に降参して、最後まで、ぎりぎりまで、死を考えないようにし、死と死後の問題を、聖書が明らかにしている真理ではないように、考えることも、一つの逃避のありかたでしかありません。死や死後についての考え方を変えたとしても、死後の事実、事実を変えることはできないのです。

しかし、聖書は言います。この死の支配は、アダムという一人の人間によって全人類に入り込み、すべての人間が死の支配下に屈服させられているけれど、いまや、それは、新しい一人の人によって、劇的に変えられた、というのです。一人の正しい人間イエスさまがお生まれくださり、この地上を生きてくださり、この方が私ども罪人の代表となって、十字架で死なれたからです。私どもの罪の支払う報酬をこの人となられた御子なる神イエスさまが完全に支払ってくださったからです。このまことの人間がお甦りになられたので、私どもに命が保証され、私どももまた、永遠の命が与えられ、肉体の復活が保証されたのです。このようにして、死に勝利する人間になってしまったのです。「なってしまった。」つまり、自分の努力や悟り、修行や善き行いを積んだことによって、達した境地などではなく、知らない間に、頼みもしないに、御子なる神が私どものために、死んでくださり、お甦りくださり、私どもに罪の赦しとそれによって同時に、死の支配からの解放があたえられ、他の誰でもなくこの私どもが死の勝利者となったからです。それゆえに、使徒パウロは私どもに告げるのです。「罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。」

今や、主イエス・キリストのおかげで、私どもは、死や罪の支配の下にはいない、これが現実、事実なのです。これが、キリスト者とされた自分自身に起こっている現実なのです。この事実を知らない人は、時代錯誤の生き方しかできなくなります。小学校に入学した子どもが、自分は、幼稚園がよいと言って、いつまでも、6歳になっても、12歳になっても、18歳になってもいつまでも幼稚園に通うことは、愚かなことだと思います。自分に起こった現実を知らない人、認めない人はいわば、そういうことなのです。キリスト者がもしも、自分は、いつまでたっても、罪と死に支配される以外にない、そのようにしか生きれない人間であると考えるなら、愚かなのです。間違っているわけです。ですから、間違ってはならない。自分自身を間違って、考えてはならないのです。自分自身を、自分勝手に解釈してはならないのです。

パウロは、この御言葉に先立って、キリスト者のことをこうも呼びました。「自分自身を死者の中から生き返った者として」「死者のなかから生き返った人間」これがキリスト者であるというわけです。これは、どういう意味があるのでしょうか。一つには、キリストを信じる前、主イエス・キリストにお会いする以前、人間は、一人残らず、死の支配に屈服させられていたということです。死の恐怖に閉じ込められていたわけです。それは、つまり、生きながら死んでいたということです。「生ける屍」であったわけです。肉体的には生きているわけですが、死の支配の下に閉じ込められていたということは、神との関係が切れてしまい、神の命にあずかれなかったということです。つまり、霊的に死んでいたということです。霊的な死の状態にあった人間が、キリストを信じることによって、キリストの十字架と一つになって、その死を死んでしまったのです。マイナスかけるマイナスがプラスになるように、霊的な死の状態が、キリストとともに死ぬことによって、プラスになる。十字架でキリストとともに死ぬことによって、復活されたキリストとともに生き返ることができるのです。これが、マイナスかけるマイナスはプラス、霊的に死んでいた人間が、キリストとともに十字架で死ぬとき、キリストの命で生き返るのです。プラスに転換するのです。主イエス・キリストを信じた人は誰でも、生き返った人なのです。その意味で、私どもにとっての肉体の死後の復活は、今、すでにこの地上でこれを経験し始めることが許されているわけです。

キリストとともに、一度死んでしまった人間を、死の力が襲いかかることはできません。もはや死の力も、キリスト者には手も足も出ないのです。もはや、死は、私どもに決定的な影響力を持たなくなっているのです。

パウロが言いたいのは、こういうことです。「あなたがたは、キリストとともに生きている新しい人間でしょう。そのような新しい人間は、もはや、その体は、義のための道具として、神に捧げて生きる以外に、ありえません。正しいあり方はない。」義のための道具、神の道具になる以外に、ありえないというのです。もしも、死ぬべき体を罪に支配させることになれば、時代錯誤を犯し、愚か者になるのです。「死ぬべき体」とは、放っておけば欲望に従って、命に向かわないものと、パウロは見抜いています。人間は、罪を犯してしまって、罪人に成り下がってしまったとき、それを放置しておくとどうなるのかを知っています。ありえない間違いと愚かさへと転落するのです。これが、私どものもう一つの現実であることをパウロは重々承知しています。単なる理想家、理想主義者ではありません。罪によって肉体は、神へと向かわず、自分を喜ばせ、楽しませることにばかり夢中になることを、パウロは知っているのです。しかし、そこでこそ、これに負けないでがんばれと励ましているのではないのです。難行苦行して、自分の欲望を消し去りなさい。仏教で言うなら「煩悩を滅し去りなさい、捨て去りなさい。焼き尽くしなさい。」ということになるのですが、パウロはそう言いません。支配されていないのだ、その現実を見なさい、そして、それを具体的にこの地上で味わうためには、その体、それは何も肉体だけではなく、心も魂も含んだ全存在をもって、神に対して生きること、それを神のための道具、神のみ業、正義のみ業、その神の戦いの道具、武具としてささげることが必要なのです。

ここで私どもの体をパウロは道具になぞらえました。道具とは、用いる人がいなければ、役に立ちません。私どもの体は、道具です。それなら、誰が用いるのでしょうか。それは、神です。ですから、キリスト者にとって生きることは、神に生きること意外のなにものでもないのです。神に用いられて生きることです。つまり、神に対して生きている人間とは、奉仕に生きる人間なのです。奉仕に生きることがないキリスト者の生活は、たといどれほどの神知識を持っていたとしても、生きることにはなりません。しかし、もしもキリスト者が、神に対して五体を使って生き始めるときに、本物の命を生き始めるのです。

具体的に申しましょう。キリスト者にとって、教会生活がどれほど大切か、奉仕が大切なのかが分かります。自分を神の道具にしていただくことこそ、キリスト者の生きる道なのです。生きることは、教会に生きることです。この特権は、奪われてはならないのです。教会には、さまざまな奉仕があります。すべきことは山ほどあります。牧師のするさまざまな仕事を担って、助けてくださることだけでも、大きな奉仕です。牧師の務のなかで、手分けできるものであれば、もしかすると、ほとんどすべて会員がなすべき奉仕なのではないかとすら思います。

神に献げるあり方のなかで、最大の事柄はなんでしょうか。教会の奉仕のなかでも最大の奉仕は、礼拝にあります。主日礼拝式への主体的な参与なしに、私どもの全存在が神の道具になることはありえません。体をささげることは、まず、主の日の礼拝式を捧げることです。もしも体は礼拝の場になくても、心と魂とは、神に献げているということは、果たして本当のこと、ありえることなのでしょうか。ただし、あわせてこのことも言わなければなりません。主の日を礼拝のために捧げていれば、週日は、自分のために使ってよいのか。それも、ありえません。私どもは、体ごと救われました。ですから、パウロは、コリントの信徒への手紙一第6章19節で「体をもって神の栄光を現しなさい」と命じているのです。聖書の信仰とは、心の信仰とか頭の宗教ではありません。全存在のものなのです。神に対して、具体的に生きることです。

先日の教会の映画会で、マザーテレサさんの映画を子ども達と観ました。彼女の台詞としてこのような言葉があります。「わたしは神の手に握られたペン、鉛筆に過ぎません。」しかし、このまことに小さな鉛筆、一本の鉛筆が神に捧げられたとき、そして神がこれをご自身の道具とされたとき、とてつもなく大きな働きをなすことができたのです。神に握られている鉛筆は、ひとりマザーテレサだけでは決してありません。パウロこそ、まさに、神の道具として、最大級に用いられた道具として、私どもの模範として存在している、使徒です。その使徒が、自分だけが道具であるとは申しておりません。すべてのキリスト者が、神の道具とされているので、積極的にささげなさいと命じるのです。

道具の比ゆは、道具それ自体は、まるでとるに足りなくても、それを用いる方によって、まったくかわるということを意味します。私どももまた、神が使用してくださるなら、正真正銘の神の道具となります。そして、この貧しい道具は、しかし用いてくださるお方が神であるので、ご自身の栄光、ご自身の御心を進めてくださることがおできになるのです。

鍵になるのは、道具の良し悪しではありません。確かに現実には、道具であっても、よい道具と悪い道具があります。一級品とそうでないものがあります。しかし、もし、神が私どもを道具としてくださるというのなら、道具そのものもまた、神が一級品に、超一級品に仕立ててくださるはずです。神がわたしをご自身の栄光の道具、義の武器にしてくださるのです。神の戦、戦いのために働くことへと、そこに実は、私どもの勝利の秘訣があるのです。

パウロは、繰り返し、神にささげよと命じます。その言い方は、不思議です。「罪はもはやあなたがたを支配しないから、捧げよ」と言うのです。「律法の下にではなく、恵みの下にいるから」と言うのです。

もしも私どもが律法の下に生きている、律法の支配下に置かれているなら、わたしどもなどうなるというのでしょうか。それはおそらくこういうことでしょう。「お前は、神の道具ではない。お前のしでかした罪は、必ず、神の刑罰のもとに覚えられる。お前は、言葉と思いと行いとによって、繰り返し、神の御言葉、律法を破っている。その事実は明らか過ぎる。」これが、律法の下、律法の支配に生きている人間が、指摘され、糾弾される現実でありましょう。そこでは、ただ、私どもの罪だけが指摘され、過ちや失敗だけがはっきりと数え立てられて行くのです。

それなら恵みの下にいるということはどういことなのでしょうか。それは、主イエス・キリストの福音を鮮やかに知らされる場所で生きることです。そこでは、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました。」という言葉が現実となるのです。

罪は、人間を死に定めます。それは肉体の死にとどまらず、神のさばきとしての死です。永遠の死です。一つの罪でも、神が責任をとらせられます。ところが、私どもは一つばかりではないのです。数え切れないほどの罪を神に犯してしまいました。しかも、問題は、信じた後、洗礼を受けた後は、地上にあっては、一切の罪を犯さないと神さまに誓約することもできない人間でしかないということです。徹底的に罪に敗れ去っている者でしかない、これが私どもの正直な、あるがままの姿なのです。

しかし、他ならないこの私どもが、今、どこに立っているのか、それが使徒パウロのメッセージなのです。「あなたがたは、今、誰の支配の下に生きているのか、それは主イエス・キリストの父なる神の恵みの支配の下にいるではないか。神の国のなかに、いるのだ。」つまり、恵みの下にいる人間は、数え切れない罪とその支払う報酬の刑罰を圧倒する恵みを受けているのです。恵みは満ち溢れるものです。恵みは、罪に負けないのです。罪の力とどっこいどっこいの恵みなどは、恵みと呼べません。神の恵みはあふれるのです。かつても、申しましたが、恵みの下に生きている人は、自分の罪を数える暇もないのです。自分の罪に苦しむ時間もない、自分の罪にとらわれる余裕もないほど、恵みが覆いつくし、恵みが多いのです。これが、恵みの下に生きる人間の特徴なのです。だから、自分の体を神に捧げる以外にない。そして、神は必ず、このみすぼらしい道具をしかし、用いてくださるのです。この道具をご自身の道具とするために、御子がどれほどの犠牲を支払ってくださったか、それは、神ご自身がご存知です。その意味では、このちっぽけな道具を誰よりも重んじてくださるのは、神ご自身に他なりません。

自分を献げるとは、献身するということです。日本キリスト改革派教会の60周年以降の歩みは、まさに献身の歩みで刻む以外にありえません。どれほど、たった5000人という現住陪餐会員ですが、もしも、その一人ひとりが本当に、聖書の福音、教理の全体をよく弁えて自分を道具として献げることができたら、創立の志を成し遂げ、この日本にどれほど大きな貢献ができることでしょうか。また、私どももたった30名あまりの現住陪餐会員ですが、全員が、自分自身を、そしてその体を義の武器として神に捧げるのなら、神とこの地域の人々にどれほど貢献することができるでしょうか。

今から聖餐を祝います。聖餐を祝うということは、自分自身が、恵みの下に生かされているということを祝うことでもあります。わたしどもの救いの祭りなのです。最高の祭りです。しかも、そこでキリストの体が受領されます。食されます。パンを受け、食べるとき、まさに、私どものために、キリストの体がささげられたことを覚えさせられます。キリストご自身が、私どもの罪の赦しのために、神へのいけにえとなってくださったということです。神への献げ物となってくださったのです。言葉を変えれば、主イエス・キリストは、私どもに向かって、ご自身の体をささげられたのです。私どもの世界へと献身されたのです。御子なる神の私どもへの献身です。

そこに、私どもの献身のまことの力があります。私どもは、この計りがたく高価な犠牲を支払っていただき、神へと買い戻され、神の道具としていただけたのです。ですから、私どもは、自分自身を自分の所有とはしません。確かにみすぼらしい道具かもしれません。しかしこの道具を買い戻すためには、御子のお命が引き換えにされているのです。神は惜しげもなく、私どものために、尊い命を支払ってくださいました。

その意味で聖餐のパンと杯を受けるということ、実に受動的な行為はしかし、同時に、自分自身を神の道具としてささげるという積極的な応答を意味しているのです。これが聖餐を正しく祝うことです。献身すること、その表明、その信仰告白として私どもは聖餐を祝い、これにあずかろうとしているのです。

私どもは、みすぼらしい道具を神にささげることなどおこがましくてできないとたじろぐのです。かつて、わたしもそうでした。牧師になるといっても、その深い意味が分かれば分かるほど、恐ろしくなりました。神さまに迷惑をかけるからです。私のようなみすばらしい人間が、神に自分をささげたところで何になるのか、かえって、神の栄光、栄誉を丸つぶれにさせてしまう、しかし、神は恵みをもって今日まで、私ですら、ごじしんの道具として用いてくださいました。しかし、これは何も伝道献身者、牧師になる人だけのことでないことは、今日の御言葉で明らか過ぎるほどです。キリスト者は、これ以外に、この道以外に生きる道はないのです。恵みの下に生きている人間は、大胆に、生きれます。なぜなら、自分の失敗や挫折、罪を数える時間はないからです。恵みの下、神の恵みの支配、それは、教会のことです。教会は神の国の拠点です。この教会の形成と、神の御国の拡大と前進のために、私どもの全存在が神の道具とされるのです。神は、あなたをも今、ご自身の鉛筆として、召しだしおられます。

祈祷
私どもの現実をあなたは使徒パウロを通して見せてくださいました。私どもは、罪の支配下、律法の支配下にいません。キリストに結ばれ、恵みの支配下に生かされています。ですから、私どもは、この全存在をもってあなたに仕えることができます。私どもの全存在をあなたの道具にしていただけます。どうぞ、今、聖餐を祝うこのときこそ、新たな決意を持って、あなたの祭壇に、自らを献げる光栄にあずからせてください。アーメン。