過去の投稿2006年6月5日

6月4日

★  祈祷会で、現在、日本キリスト改革派教会創立40周年宣言「聖書についての信仰の宣言」を学んでいます。朝の祈祷会では、家内が急遽、司会者となりました。テキストを読むペースは、普段の三分の一にもなりませんでしたが、「ダ・ビンチコード」についての質問があり、具体的な聖書論についての学びが深められたかと思います。私自身は、読んでいません。もちろん映画も観ていません。(時間もありません。)しかし、だいたいのあらすじは、ぼんやりとは知っています。先週の、福音主義神学会中部部会での講演において、講演者が触れていました。欧米のようなキリスト教社会では、エンターテイメントとして楽しまれているのでしょう。聖書の知識を持っている人たちには、そこで言われていることがらが、何の学問性も持たないものであるとみなされているはずです。ただし・・・。日本のような聖書やキリスト教に対するほとんど基礎知識のない状況においては、「エンターテイメント」では、決して済まされない、由々しき問題が生じていることを、見聞きしています。暗澹とします。しかし、祈祷会で申しました。「むしろ、伝道と証しのチャンス!」

☆  人間の罪とは、神の御言葉への違反です。我々人間は、創世記第3章のアダムとエバの罪の物語から始まって、自分を正当化するために、御言葉にそむき、神を殺し、否定することを、繰り返してまいりました。高校2年生のとき、「キリスト宇宙人説」を唱える作家(デニケン?)の文庫本を何冊も読んで、信じてしまったことがありました。何よりも、19歳のとき、哲学者ニーチェ(反キリスト教、ニヒリズム)の著作にわが意を得たりと感動していたのでした。しかし、そのような人間が、聖書の教師、御言葉の説教者になっています。

★  御言葉を茶化し、あるいは、教会の信仰を否定する聖書の学者(いわゆるリベラルな聖書学者)たちは、枚挙にいとまがありません。大学とか教授の名の下に、自分の考え(宗教)を誇示する人々は、多いのです。しかし、それは、あくまでも学問の装いですから、「ダビンチ・コード」のように、もともと聖書に関心のない一般の多くの人々にまで影響を直に及ぼすことは少ないかと思います。しかし、それは、広く言えば、キリスト教界の中から出てきたことです。つまり、他人事ではありません。もしも、キリスト者である私どもが御言葉に服さない生活をしていれば、結局、「ダビンチ・コード」と五十歩百歩になるかもしれません。

★   また、言うまでもなく、明らかな「異端」があります。加えて、プロテスタントでいえば、これが果たしてキリスト教なのかと首をかしげるようなさまざまな「教会」が目白押しの現実があります。聖書論の学びは、少しも楽しくない?かもしれません。しかし、このような現実のなかで、キリスト者が聖書の権威を堅く持つために、先輩たちから学ぶことは重要です。

☆  宗教改革時代。ルターやカルバンのような改革者たちは、口をそろえて、再洗礼派(アナ・バプテスト)を批判し、攻撃しました。「キリスト教世界」を崩壊させる「パン種」をそこに見たからでした。そのためには、 実力行使(権力による弾圧)をも肯定したのです。このことは、今日の私どもの時代から見れば、行き過ぎの面があったと、わたしは考えます。「ダビンチ・コード」のようなエンターテイメントがもてはやされる状況のなかで、今日のキリスト教会(ローマ教会が直接的には槍玉にされている?)が冷静に対応していることは、当然ですが、正しいと思います。(しかし、主イエスへの冒涜を「楽しむ」ような小説・映画の存在と人々に、私どもの伝道の責任と祈りの務めを思います。)

★  伝道月間が終わりました。先週の礼拝式には、大人だけで50名の出席。コンサートにも50名が出席されました。しかし、伝道は続きます。毎主日が真剣勝負です。皆様は、加えて毎日の出会いが・・・。
☆  横手姉のオルガン、すばらしい恵みでした。先々週の説教冒頭の言葉として、推敲の段階で削除した言葉があります。「牧師は、礼拝式のために生きている。『男子一生の仕事』(差別発言!)。奏楽者も同じ。 人間がそのすべてを注ぐに足る奉仕をしておられる。しかし、表に立つ奉仕者だけではなく、礼拝式を捧げる業にあずかるすべてのひとり一人がまさに、人生の究極の仕事をなしている・・・」

☆  コンサートの小説教は、「あなたも神のオルガンに」でした。「パイプオルガンは、空気で鳴る。人間は、神の息で生きる。神のすばらしさと生きる喜びを美しく奏でる。そのように神が人間を演奏してくださる。」教会員には、加えてこう申し上げたいと思います。「パイプは、一つの管(音)だけではなく、150本以上もの大小さまざまなパイプが鳴る。それは、教会の姿に似ている。誰一人として、詰まったパイプであってはならない。奏楽者たちは、練習を積み重ねておられる。会衆である私どももまた、賛美を歌う(捧げる)器である。全力をもって歌いたい。」