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「罪の正体を見る力」 7月30日

「罪の正体を見る力」
2006年7月30日
テキスト ローマの信徒への手紙 第7章7節~14節

「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。 わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、 わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。 罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。
それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。」
 
マルコによる福音書第10章17~22節
「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

今朝も、神が招いてくださった皆様とともに礼拝を捧げるという特権にあずかることが許されましたことを感謝いたします。私どもは今、永遠の神の御前に、主イエス・キリストによって贖われた神の子として出ております。一人ひとりは、さまざまな歩みをなしてまいりました。試練の只中にある仲間も、変わらない平凡とも言える歩みを重ねた仲間もおられます。しかし、それぞれの歩みが、生きておられる主イエス・キリストの恵みの支配の中におかれていたことを改めて思います。そのような、ここに呼び集められた一人ひとりの上に、主イエス・キリストからの恵みと平和が皆様の上に豊かにありますように。

さて先週から、第7章7節以下を学び始めて礼拝式を捧げております。この箇所は、人間の内面、内側、目に見えないその深み、そのどん底を、覗き込んだ人の生々しい記録であるといってよいと思います。先週も、紹介しましたが、この箇所を、ある学者は「マイナスの頂点」をなすと言いました。人間の内面を覗き込むというとき、それは、自分自身の内面を覗き込むということなしには、説得力をもつことはないと思います。他人の心の奥底とか、自分を棚に上げて、人類一般、人間一般の心の深みを議論するわけにはまいりません。
それは、誰よりも、この手紙の著者である使徒パウロ自身がよく弁えていたことであろうと思います。使徒パウロは、ここで、一人称単数、「わたし」という言葉を頻繁に用います。これは、決して偶然のことではないと思います。ここでは徹底的に「わたし」が取り上げられます。

しかし新約聖書、なかでもパウロの手紙を読みますと、彼は基本的に、「私ども」「わたしたち」という教会共同体、キリスト者全員、複数形を主語にして語っています。基本的に、信仰を語るということは、信仰とは、「私ごと」個人的なものではありません。つまり私どもの聖書の信仰は基本的に、神の与えてくださる信仰であり、世々の教会が連綿として継承し続けた福音の真理、公の信仰に対して自分もまたアーメンと承認するというものです。キリスト教信仰とは、神の御言葉にもとづき、神ご自身の自己紹介の御言葉に基づくものですから、公的なものであります。私事とか私的なもの、自分の個人的な信仰心とか、確信によってたつものではありません。ですから、キリスト教信仰は、通常「わたしたちの信仰」として語ります。

しかし同時に、この「わたしたちの信仰」、「私どもの信仰」が、自分のものとなる、他の誰のものでもなくこの私自身の信仰となることなしにまた正しく、「私どもの信仰」を語ることもできません。このわたしが信じるということもまた、ゆるがせにできないのです。しかしそれはあくまでも、信じる内容は、「私どもの信仰」なのです。

皆様にも既にお祈りしていただいておりますが、今、一人の方と個人的な聖書の学びを始めております。先週、まだ第二回目の学びですが、ご本人の口から洗礼入会の志願を申されました。奥様のお腹には第三子が与えられていますが、赤ちゃんの誕生とともに洗礼を受けられるということを、実は、わたしは考えておりました。しかし、ご本人は、できれば、早いうちにとのことを仰ったのです。そうであれば、降誕祭にということを申しました。有名なザアカイの物語を読んだのです。後でこのように感想を仰いました。「ザアカイの物語を一緒に読みながら、そこで主イエス・キリストの御業、説教が、その方の眼前に立ち上がってくる、これはザアカイのことだけではなく、自分のことのように思えて来ました。」わたしは、申しました。「それは、聖書の著者であられる聖霊なる神が心の中に働かれたからです。神のお働きにあずかるということはそういうことです。」

この経験は、その兄弟だけの経験ではありません。ここに招かれた者たちが既に何度も味わい、この礼拝式のなかで繰り返し、今朝もまた与えられるまことにリアルないきいきとして体験でありましょう。そうなると、聖書の言葉が私どもの言葉となり、わたしの言葉となる。私どもの救いは、わたしの救いとなるのです。

さて、多くの人々が聖書を読みますが、同時に多くの人々が聖書の言葉に躓きます。ピンと来ないのです。いや、おかしいと思うのです。たとえば、パウロは10節で、こう言います。「わたしは死にました。」ここでも、たとえば大学生がこの言葉を初めて読みますと、大変な違和感を持ちます。理解ができないと申します。一方で、当然であると思います。実際に生きている人間が「わたしは死にました」と書くのは、納得がいかないのです。

実は、この類のことは、誰よりも主イエスさまご自身が経験されたことでした。ヨハネによる福音書第6章です。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちのうちに命はない。」この説教を聞いて、弟子たちの中からも、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」とつぶやいたわけです。主イエスとの交わりがない人間は死んでいる、命がないということです。しかし、多くの人々が最初にこれを聞いて理解できませんし、かえって反発するのです。聖書の言葉が霊的な、神の真理を明らかにする言葉であるかぎり、この躓きを避けることは決してできません。聖書の御言葉は、人間の常識からあまりにもかけ離れたところから語られます。そして、神の真理は、人間の予想通りなどということではなく、まさに神から教えていただかなければ、分からないからこそ、神はご自身の真理を啓示してくださったのです。啓示のお働きなしに、人間は、真理を知ること、認識すること、分かって信じることはできません。

パウロは、今、まさに、啓示の真理を知ったのです。彼にとって神の律法、ユダヤ人としての律法は、幼心に刻まれています。十戒はそらんじることができます。先週の朝の祈祷会は、契約の子らのための祈祷会として守りました。本日は、年間の予定では、カテキッズ、教会の子ども達のための集会を開催する予定でした。私どもは子ども達の信仰の教育、教会として信仰の継承のために、心を砕いています。先週は、礼拝式の姿勢、態度について学びました。男の子たちとは、確認するように祈りのときを持ちました。お祈りの最後に主の祈りを祈りました。皆すらすら唱えることができます。幼い心に刻まれているのです。すばらしいことです。しかし悔しいことですが、パウロは、彼ら以上に、徹底した信仰継承の教育を施されていたと、思います。ですから、神の言葉には幼い頃から慣れ親しんでいるのです。しかし、信仰は、ただ単に幼い頃から慣れ親しんでいれば、自動的に信仰の告白に至るものではありません。慣れ親しんでいた御言葉、よく知っているはずの御言葉、分かっているはずの御言葉が、新しくびっくりするような新鮮な言葉として響いてくるのです。まさにそれは、神の啓示に触れるような思いです。

パウロは、幼いときから律法を知り、そらんじていました。しかし、律法を遵守していれば救われると単純に考えていたときには、使徒パウロにとって律法は、自分の宗教的な、人間的な正しさを確かめるものさしでした。そのものさしによって量られるとき、彼の心にはプライド、誇りがみなぎるばかりでした。

ところが、主イエス・キリストの恵み受けたとき、パウロは、これまでの律法が新しいものとして目の前に立ち上がってまいりました。主イエス・キリストの救いの光の中で自分を見たとき、実は、自分がどれほど罪深い人間であるのかが分かったのです。自分の罪の重さは、神の独り子なるキリストを、人間となられた主イエスを十字架で殺してしまわないではおられない罪であったことが福音によって分かったのです。

そして改めて律法がその聖なるもの、正しく、善いものであることが分かったのです。しかも、その律法を完全に生きること、神を徹底的に愛し、隣人を自分のように徹底的に愛することができていない、ただ神の栄光のために律法を生きることができない人間であることが、見えてきたのです。

そこでしかし、誤解してはならないと使徒は申します。13節、「それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。」律法という善いものが、主キリストの福音を信じた者にとって死をもたらすような、おかしな働きをすることになるのかということです。パウロは直ちに申します。「決してそうではない。」律法は、どこまでも限りなく、神の与えてくださった善き物であり、聖なるもの、霊的なものなのです。しかし、その聖なる、善き物が罪に染まってしまった人間に出会うとき、律法は人間のあるがままの姿を映し出すようになりました。罪の正体を暴露するようになったのです。罪を犯すということが、人間にとって死をもたらすものであることは、実に、律法によって明らかになるのです。律法なしには、罪を犯しても、誰でもしていることではないかとか、あの人と比べたらまだ自分などは良いほうだとか、おしまいには罪を犯すことは避けて通れないのだから、悲しみながら罪を犯しているならそれで仕方がない。神さまもお許しくださるでしょう。だとか、勝手な理論、勝手な解釈で、自分の罪深さをごまかせるのです。律法がなければ、罪をまことの罪、本物の罪として暴くことができません。罪とは、何でしょうか。それは、神の律法を純粋に守り、これに生きないことです。律法違反です。律法違反というとき、それは、形式上の、かたちばかりのことを意味しているのではありません。

共観福音書の中に「金持ちの青年の物語」があります。本日は、マルコによる福音書第10章を読みました。わたしは、ここに登場する人、青年であったり議員であったりと紹介されますが、この人は、まるで使徒パウロのようではないかと考えることがあります。パウロもまた、一人の金持ちでまじめな青年でした。何一つ不自由ない、人も羨む立派なユダヤ人として生きていました。

主イエスは永遠の命を得るためにはどうすればよいですかとたずねに来た彼に言いました。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」これは第6戒から第10戒、最後の父と母を敬えは第5戒で順番が狂っています。なぜ、主イエスが順序どおり数えなかったのか、はっきりとは分かりません。もしかすると「殺すな」というこの掟こそ、実は、青年の罪の中でももっとも深刻な課題であったのかもしれません。この青年は、決して殺人者であったはずがありません。しかし、主イエスの御眼に留められるとき、この人は隣人を生かすことができなかった、むしろ、いつも自分を生かす道、自分を輝かせる道、自分を偉く見せ、自分を幸せにし、自分を神の前にも人の前にも誇ってみせるような人間となることを、まっしぐらに推し進めて生きてきたのではないかと思います。「永遠の命を得るためには何をすればよいのでしょう。」実に宗教的な問いです。その意味では、今日で申しますと、まれにみるまじめな青年といえるかもしれません。しかし、そこでも、もしかすると、自分の救い、自分の永遠の命にどこまでも執着する思いが、現れているのかもしれません。厳しいことですが、しかし、わたしはそう考えます。宗教においてこそ、人間は最高の罪を犯すということは、今日、我々の時代の苦悩の中でも最大級のものではないでしょうか。

「殺すな」しかし彼は、まさに神のまなざしから見れば、この戒めに生きていなかったのでしょう。殺すということが、刃をもって人の命を殺めることだけを意味しているのではないのです。神の掟は、人を生かすことです。ところが、人間は、自分に都合の悪い人は、平気で無視するのです。平気で、存在を否定するのです。人格を否定します。それこそは、殺しなのです。

主イエスは、かの青年に、そのような十戒など、子供のころから慣れ親しみ、守ってきたと自負してみせられたのです。本当に彼には、確信があったのだと思います。しかし、主イエスは、律法の本当の要求を彼に覗かせます。
「むさぼるな」という要求は、「奪い取るな」ということですが、それを現実的に守ることは、相手に施すこと、積極的な神の御心は、まさにそのように愛に生きることですが、そのような律法の心を理解されている主イエスさまの要求、自分の持ち物を売り払いなさい。貧しい人に施しなさいと命じられたとき、そこで、初めて気づいたのです。自分は、罪人であると、気づくのです。彼は、わかったと思います。主イエスさまが求められたように律法を改めて考え始めたら、彼は、自分が崩れて行くように思ったのではないでしょうか。自分が永遠の命を確かなものとするどころか、その確かさがこなごなになってしまうような、恐怖におののいたのではないでしょうか。これまでののんきな律法の理解。自分がますます、偉くなり、宗教的な祝福も富んで行くような仕方で律法と付き合っていたのが崩壊するのです。

それは、まるでパウロがここで嘆いたような「わたしは死にました」ということになるのではないでしょうか。命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かった。この「分かった」という言葉は、発見したとも訳せるものです。この青年もまた発見した。善き律法が、自分の優秀さ、まじめさ、正しさを計って見せてくれる掟が、自分の罪を暴露するのです。

しかしこの後が、使徒パウロとこの青年との違いです。彼は、主イエスさまに「わたしに従いなさい」と招かれました。これは、彼が律法を守って生きれた暁には、わたしの弟子となることを許そう。すべてを売り払うことができたらあなたはわたしの弟子とならせてあげよう。わたしに従うことを許そうというわけではありません。もしそうであれば、あの有名なザアカイなどがどうして救われることができたでしょうか。彼は、徴税人です。彼は主イエスさまを家にお泊めすることができたとき、そしてこのお方だどなたであるかを発見し、信じたとき、大きな悔い改め、変化を遂げました。しかし、丁寧に読みましょう。彼はこう言いました。「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。」彼は、あの青年とは比較にならないほどの悪人です。徴税人がどれほどの不正をしてお金を蓄えていたかは、当時のユダヤ人であれば、誰もが知っておりました。不正を不正とも思わないで、どんどん、人々のお金を正しい税額以上に徴収し、それを懐に貯めこんで恥じなかったのです。富める青年の物語は、ユダヤ人の中でも誇りにできるような金儲けをしていたのでしょう。

さらに、ザアカイはせいぜい半分を施すと言うのです。本当であれば、ほとんどを不正でお金を蓄えたのですから、彼こそ、全部を貧しい人に施してもよいくらいです。しかし、主イエスは、このザアカイに、こう申しました。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」彼に、永遠の命を保証したのです。このザアカイは、救いを受けたのです。永遠の命をまだ施しを実際には始めていないのに、受けているのです。
そうであれば、この青年が、ここで何をすべきかは明らかです。主イエスさまのもとを立ち去らないで、主よ、憐れんでください。わたしは、罪人であって、子どものころから実は、十戒の何一つとして神に喜ばれるようには、神を愛し、神を喜びとするようには十戒に生きて来れませんでした。と罪を認められばよいのです。

パウロは、ここでいよいよ認めることができるのです。主イエスを知れば知るほど、いよいよ徹底的に自分を知るのです。14節後半です。「わたしは肉に人であり、罪に売り渡されています。」これこそ、パウロの本性なのです。限りなく邪悪な本性なのです。罪に売り渡されているというのは、すでに丁寧に学びました第6章16節のような、「罪の奴隷」ということです。パウロは、自分自身では、骨の髄まで、罪に売り渡されている人間。肉の人というのは、霊的な事柄を求めるような人間ではなく、放っておいたらいつでも、自分のこと、自分の欲求、神中心ではなく、自己中心、律法違反に転落するしかない人間であることを認めるのです。これは、おそろしい自己認識です。人間は、本当におそろしいもの、それを見つめることができないのです。

今月号の「ふくいんのなみ」というラジオ伝道の機関誌の今月のメッセージのなかで、勝田台教会の安田牧師が、ある牧師の言葉を紹介しておられました。「悩む力」というのです。「どんな力でも使わなければ衰えます。悩むのも同じです。誰だって過ちを犯したら悩みますから、悩むのに力は要らないと思うかもしれませんが、そうではないのです。大変な力がいります。真正面から過ちを見つめ、そこから新しい自分が生まれてくるように悩みぬくには、大きな力が要るのです。しかし、安楽な生き方をひたすら求めて続けてきたわたしたちは、いつの間にか悩む力を失ったようです。冗談の中に誤魔化し、感傷的に流し、悩みを悩みとして見つめられなくなりました。わたしたち現代人は悩みに対して劣弱でるようです。」わたしはこの文章を読みながら、これは、決して現代人に限ったことではないと思いました。人間は、まさにこの悩む力を失っている。いへ、自分の本当の姿を見る力、聖書の言葉で言えば自分の罪の正体、その邪悪な姿を見つめることは到底できないのです。それなら、パウロには悩む力が人一倍旺盛なのでしょうか。だから、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と告白できたのでしょうか。

違います。彼が、本当に自分の罪の姿、そのおぞましさを見つめ、真実に嘆きの声を上げられたのは、他ならないそのような罪人で惨めな人間が、神の愛の外にあるのではなく、むしろ、正反対。自分が神の御子主イエス・キリストの救いの恵みに完全に買い取られている、贖いとられている、骨の髄まで、キリストのものとされていることを知っているからなのです。

自分自身のことを言えば、罪に売り渡されている。その通り。しかし、同時に、その自分がキリストに贖われ、買い取られ、買い戻され、神のものとされているのです。ですからどれほど、自分の罪深さに嘆き、おののき、死と滅びの中に定められる以外にないようなおぞましい姿であっても、大丈夫。そのような者に、救いの御手、神の揺ぎ無き恵みの御手が差し伸べられているのです。その手にぐっと捕まえられ、握り締められた人間だからこそ、他の人の罪の問題ではない。普遍的な人類の罪の邪悪さでもない、自分自身の罪の邪悪さに叫びの声を上げ、嘆きの声をあげ、自分を死に定められた人間。永遠の滅び、神の裁きを受ける以外に逃れようない者と認めることができたのです。

私どもも、今朝、同じです。自分を罪人として認めることができるのです。悩む力ではありませんが、自分を正直に認める赦しの確かさのなかで、おぞましくも生々しい自分を見ることができるのです。
主イエス・キリストに近づけば近づくほど、自分の罪深さに涙を流す以外にない私どもが、しかし、同時に、それがうれし涙に変えられる。赦されている、愛されている、罪の奴隷ではなく、そのまま神の僕、神の側、神の子とされていることを信じることができるのです。ここに私どもの勝利があります。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神。私どもは、かつては自分の罪に嘆き、おののくことを知りませんでした。自分のまことの罪の姿を知らないで生きてまいりました。しかし、今、福音の光の中で、神の律法によって暴露された自分の姿を知りました。しかし、神に感謝いたします。私どものその罪は、御子の十字架によって赦され、私どもは御子の命の身代金で贖いとられ、アブラハムの子、神の子とされているのです。罪を認め、嘆きながら、しかし罪の押し倒されない不思議な力、神の善き力のなかで、私どもをいよいよ罪から解き放ち、律法ののろいから解き放ち、神とともに、主イエスと共に生きる新しい生き方へと解き放ってください。アーメン。