過去の投稿2006年8月26日

8月13日

★  本日は、多くの日本の教会で、「平和主日」として捧げられています。「教会学校教案誌」も、毎年、敗戦記念日にあたる週を平和主日として、カリキュラムをつくってまいりました。わたしの豊明教会での説教は、直接「平和」を取り扱いませんが、梶浦先生は、「教会学校教案誌」の本日のテキストから説教してくださいます。楽しみです。

☆  先週の朝、夕の祈祷会は、報告にもありますように、渡辺信夫先生とわたしの文章を読みました。読書会の準備も兼ねています。特に、朝の祈祷会は、今年初めて8月にも開催し、夜の祈祷会では、毎年学ぶ、国家、平和の問題を学びました。昨年、洗礼をお受けになられた姉妹には、初めて考えさせられる主題であったようで、その意味でも、やはり、この学びがどれだけ重要であるかを思わされます。名古屋岩の上伝道所の開拓伝道は、日本の教会の戦争責任を学び、克服することなしに今日はありませんでした。それは、これからも同じです。私どもだけではなく、日本にあるすべての教会は、これなしに、真実の歴史的な教会になることはおそらく「ありえない」と思います。その意味でも、私どもの地道な学びと実践を継続することは、いよいよ、この時代にあって、真価を発揮するべき、「とき」を迎えています。

★  わたしはほぼ毎回、「苦しみ」ながら、説教準備に「挑み」ます。先週の説教は、久しぶりに、なんと土曜日の夕刻になって、やっと方向性が定まりました。いつものように原稿をつくりましたが、かえって、文章は、整っておらず、説教卓では、自由に語りました・・・。本日、来週と二週続けて、説教奉仕ができなくなりましたので、先週の説教は、本日にふさわしい主題であったかと思います。今、私どもの国が、日本の教会がどのような場所に立たされているのか。キリスト者として目を見開き、使命に生きてまいりましょう。27日の読書会。多くの方と学び、懇談できますように。        説教一部再録・・・。↓

【一体、どうして、日本は、かつての戦争の罪を認めることができないのでしょうか。敗戦国ドイツにはできて何故日本には、加害者としての責任を認め、被害者の人々と真実に、深く和解できないのでしょうか。わたしはそれも、究極的な理由は、私どもの神、聖書の神との関係にあると確信しています。
戦争へと国民を駆り立てた為政者、軍部。また、駆り立てられて協力した国民もまた、自分がそこで犯した罪を認めない。むしろ、「しかたがなかった、それほど悪くはなかった・・・。戦争勝利者が敗者を裁く裁判など、正当なものではない・・・。東京裁判など、今からすれば、決して認められない・・・。」などと、歴史の事実そのものまでなかったことにしようとすらします。
 なぜ、日本人は、自分たちの罪と過ちの事実と向き合えず、それを認め、悔い改められないのでしょうか。それは怖いからです。そこに、赦しがないからです。 赦されることを知らないなら、人は、歴史の罪、自分の罪に向き直れません。 
    使徒パウロは、自分の罪を認め、悲惨さを認めます。振り返れば、神の民の歴史もまた、おそるべき偶像礼拝を犯した歴史でした。犯した罪の重さは、神の民ですから、神を知らない人々と比べて、計り知れないほど重いはずです。しかし、彼らは、神にその罪を認め、悔い改めることができるのです。開き直って自己正当化をしないで済むのです。なぜなら、裁きの神であり同時に赦しの神であられる真の神を信じることができたからです。
    その意味で、私どもの日本の教会には大きな責任と使命があるのです。福音を告げることです。「主イエス・キリストの父なる神がおられる。だから、歴史に正直に向き合うことができるし、向きあおう!日本と日本人が犯した罪も、主イエス・キリストの十字架によって赦しの道が開かれている。私ども教会も、戦争協力というおそるべき罪を神と人の前に犯しました。そのような私どもですら赦されました。ですから、主イエス・キリストの救いを受け入れよ!」
日本人は、神の御前にかたくなです。かっこうをつける弱さに閉じこもります。その中で、キリスト者は、むしろ大胆に、自分の弱さを生きる。自分が罪人であることを認めるのです。そして、そのような罪が赦された人間として、福音によって強くされた人間として生きる、そこにキリスト者の証しの使命があります。】

☆ 次主日は、○○委員の奨励奉仕です。テキストは、創世記第2章1~17節です。この機会に、説教聴聞の常識を改めて記しましょう。①説教者のために祈る。(週日、特に土曜日) ②説教を聴く自分の為に祈る。(特に、土曜日)③会員、求道者、新来者のために祈る。④テキストを読む(特に、土曜日)。読みましょう!