過去の投稿2006年8月26日

8月20日

☆ 本日は、牧師休暇に伴い、○○伝道所委員の奨励で、礼拝式を捧げました。兄弟にとっては、初めてのことではありませんが、大変な緊張のなかでの奉仕と思います。当然のことでしょう。神の御言葉に奉仕するのですから!神の言葉の解き明かし、つまり説教(奨励)は、神が語られる言葉そのものです。「奨励」と表記しますが、本質的には、牧師の説教と変わりありません。だから本日も、礼拝が成立したのです。

★  今回も、当然のことですが、草稿を丁寧に読み、後日共に、考えました。第一の印象は、名古屋岩の上伝道所の説教、わたしの説教のよき聴聞者であるということです。こう書きますと、何か自画自賛になりますが、福音の理解において、とても安心して読むことができました。これは、もっとも大切な、基礎、基本です。○○委員は、説教、祈祷会、読書会において、よくわたしの語る言葉に耳を傾け、それに生きておられるからこそであると思います。ただしそれは、一人、渡辺委員だけではないと信じます。自画自賛ついでですが、説教、祈祷会、読書会にきちんと出席されていれば、誰だって?、語れるようになるのではないか。○○委員のようにではなくとも、与えられたテキストから、福音の真理を語ることはできると思います。

☆  他教会の長老の奨励も感謝ですが、自分たちの教会員の奨励を聴いて礼拝することも感謝です。説教者は、会衆への愛なしに語れません。また、彼らを知らない(共に生きていない)と、彼らに届くことは困難です。その点で、教会員が「奨励」することは、他教会の長老さんがしてくださるより、すばらしいわけです。

★  この欄をしるしているのは、14日(月)です。小泉首相は、ほぼ間違いなく靖国参拝するでしょう・・・。それを日本の世論(キリスト教会)が阻止できなかったことを深く問います。しかし、神の裁きのゆえに、彼が心を頑なにしてしまっているのかもしれない・・・。そうであれば、私どもの国は、神の裁きをすでに受けている・・・。次主日の読書会で、皆様と学び、懇談のときを持てることを楽しみにしています。

☆  先週配布した、「ヤスクニ通信」の編集後記のなかで、「60年代~70年代の「靖国国家護持法案」をめぐっての戦いを第一次靖国闘争と呼ぶなら、今まさに第二次靖国闘争というべき事態に立ち至っています。」 とありました。本当にそのとおりと思います。第一次のときに、先頭に立って戦った現役の牧師、指導者たちも、すでに高齢者となられています。日本キリスト改革派教会の有志牧師たちも国会前でデモ行進に参加し、ハンガーストライキをなさった信徒もおられたとも言われます。渡辺牧師の文章に、今日、キリストの教会は無気力化している・・・との現状認識が述べられています。

私どもの教会は、主イエス・キリストの主権に服する教会の開拓伝道をここで戦っています。キリストの主権は、教会だけに限定するものではありません。国家の上に真実の主権者として神がおられます。いかなる国家も権力も、神からの委託を受けてのみ成り立ちます。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」(ローマの信徒への手紙第13章1節)明らかに、ローマ皇帝の支配体制をさしています。一方で、この帝国が教会を迫害しているのです。その帝国をも神の支配下にあることを高らかに宣言しています。しかし、同時に、この権威、権力を間違って行使したのです。ですから、ヨハネの黙示録では、この帝国を「獣」、あるいは「大バビロン」とも呼びました。そしてこの獣も、バビロンも倒されることが予告されているのです。私どもの受け継ぐ国は、地上の国ではなく、御国です。主イエス・キリストの永遠の支配される国です。しかし、地上の国を捨てることは、できません。教会は、国家がその権威の源泉を神にあることを伝えるべく、存在しているのです。とりわけ、日本のような異教的な文化のなかで新しい(実は、明治政府いらいの古い)「国のかたち」を構築しようと企てる為政者、高官、財界に向かって、しっかりと立っていなければならないはずです。主よ。私どもに勇気と力。愛と知恵を与えてください。

★  「ヤスクニ通信」の読書案内の欄に、「英霊」(ジョージ・L・モッセ)が紹介されていました。靖国問題の本質は、「戦争体験の神話化」の問題であり、それとの信仰の戦いを教えられる良書であると勧められています。これは大切な視点です。私どもは、日本の「靖国神社」だけに批判的であるわけではなく、すべての戦争を担う、人間の死(戦死)を正当化、英雄化、神話化する宗教的システムを批判すべきなのです。ヨーロッパにおけるナショナリズム、戦没兵士を美化し、聖なるものとするシステムとしてキリスト教のシンボルが用いられたことを知っています。そうであれば、これは、単なる日本のキリスト者の「神道」批判、キリスト教勢力の他宗教批判ではありえません。この事を、一般の方に理解していただけるようにと願います。