過去の投稿2006年10月9日

命をもたらす霊の法則

「命をもたらす霊の法則」
2006年10月8日
テキスト ローマの信徒への手紙 第8章1節~4節②

「  従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。
つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。 」

 今朝も、使徒パウロを通して、神が私どもに宣言してくださる御言葉、人間が聴くことが許される至福の宣言、究極の言葉を聴くことができました。「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」つまりこういうことです。「キリスト・イエスを信じているあなた、洗礼を受けたあなた、聖餐を受けたあなた、キリストの体なる教会の会員とされているあなたは、キリスト・イエスと一つに結び合わされているので、神の御前にその罪を断罪されることはない。」

わたしは、つくづくと思います。私自身、この究極の言葉の重み、ありがたさを、本当に究極のものとして理解しているのだろうか。どれほど、深く受け止めているのだろうか。ということです。説教を語り始めて20年は経とうとしているのに、私はまだまだ、理解が足らないのではないかと思うのです。そのことを深く恥じます。そして実は、それこそが、わたしの究極の、唯一つの課題なのだと思うのです。そして、それはひとりわたしだけの課題ではなく、私どもの課題ではないでしょうか。

このように説教を語り始めながら、わたしはそこで何をしているのでしょうか。この一句の重み、ありがたさを説明しているのです。この一句を聴いて、心が熱くなり、興奮する、本当に感謝と喜び、神への愛と信仰、献身が燃え上がる、そのような言葉なのですよと、説明しているわけです。そのように聴き取っていただきたいからです。わたしは、この究極の言葉を、安売りするわけにはまいりません。この言葉を、安っぽく聴き取られるなら、むしろ、語らないほうがよいのではないかとすら考えるからです。まさにここで聴くことのできる御言葉はたとえようもないほど重要な、究極の言葉であることをいよいよ知りたいのです。

パウロもまた、まさにそれを願っていると思います。使徒パウロは、第6章までは、「わたしたちは」あるいは「あなたがたは」と語ってまいりました。しかし、第7章におきまして、「わたしは」「わたしは」と、自分自身を前面に押し出して語り始めました。そして、この第8章では、「あなたは」と語り始めます。まるで、聖書の中から使徒パウロの手が伸びて、そのまま、わたしの顔を指差して、「あなた」と言うかのごとき発言です。この手紙は、パウロが自分で書き記したのではなく、テルティオ(16:22)という人に書き取らせているものです。もしかするとテルティオの顔を見ながら、「あなたは罪に定められないのだ。」と言ったのかもしれません。ここでの使徒パウロの興奮、胸の高鳴りが聞こえてくるようです。筆記したテルティオ自身もどんなに心躍らせながら、筆を動かしたことでしょうか。福音の宣言は、神が「あなた」といって、私どもをひとり際立たせて、そのような神の御前に一人立つ私どもへ語り込んでくださるものなのです。

パウロは、第8章1節で、罪の赦しの宣言、福音の宣言を告げました。そしてまたただちに始めます。何を始めるのかと申しますと、この宣言の力、有効性を説明するのです。ただし、それらは、これまでまったく秘密にされていたわけではありません。「従って今や」という御言葉において明らかなのは、これまでのすべての議論の結論が、キリスト・イエスに結ばれているあなたは断罪されない、つまり赦されているということに至るものでした。すべての議論の結論が、罪の赦しの宣言なのです。しかし、パウロは、この一節における至福の宣言を語った後、ただちに又、この宣言がいかに効力を持ち、いかに確実な根拠を持ち、いかに揺ぎ無い言葉であるのかを集中的に説明し始めるのです。

横道にそれますが、聖書の言葉には、一言一句たりとも無駄な言葉はありません。だからこそ、7章まで学ぶのに、2年もかかるわけです。そのように一言一句も聴き逃してはならない言葉が聖書のみ言葉なのですが、その中でも、やはりここ、この第8章こそ、そうなのだと言ってもよいと思います。福音のエッセンスです。聖書の教え、信仰の教え、教会の教えを教理と申します。神と人間の真理を明らかにする言葉が教理です。ですから、わたしどもは教会で、教理を一生涯学び続けます。先週、嬉しいことに、ある方と初めて、マンツーマンの学び会を致しました。いつものように「子どもカテキズム」を用います。筋道を立てて、聖書の教えを学び、救いと信仰、教会生活、信仰生活へと導かれることを祈り願っていたします。教会は、最初から最後まで、常に教理を教え、学び続ける場所なのです。

第8章の1節は、罪の赦しの宣言でした。そして第2節からは、この宣言の確かさ、根拠をあらたに説明していることが分かります。その意味で、まさに教理そのものを語って行くわけです。
わたしは、この手紙を読みながら、一人の御言葉の教師として、使徒パウロがこの手紙で、まさに、教理教育の決定的なモデルを見せてくれているように思います。

パウロはローマの信徒への手紙を書きました。読者は一人ではありません。ローマの信徒たちへの手紙です。ほとんどの読み手は、まだ会ったこともない信仰の仲間たちです。しかし、彼らの信仰の状況のことは、聞き及んでいるのです。その彼らの状況のなかで、福音とは何かを説明しよう、教理を解説しようと試みるのが、この手紙の目的なのです。そして、パウロは、その説明の中で、どうしてもしなければならないこと、あるいはしてしまわざるを得ないといってもよいかもしれませんが、罪の赦しを宣言せざるを得なくなるのです。
使徒パウロは、ここでは、手紙を書いています。しかしわたしは想像するのです。もしも、パウロの目の前にこの読者がいて、その読者たちが、この7章までの説教を心から理解し、信じて聴いているのを見たなら、パウロは、洗礼を施すことを決意するのではないかと思うのです。あるいは、パウロが洗礼を施さなくとも、ローマの教会の指導者、牧会者が洗礼を施すように促すのではないでしょうか。しかし、今、目の前に読者がいませんが、パウロは、それと同じような行為をするのです。それは、何か。それが、第1節あるいは第二節も加えてもよいのですが、赦しの宣言なのです。罪と死からの解放の宣言です。「あなたの罪は赦された。あなたは罪と死の掟、律法、法則、力から完全に解放された」福音の教えを説明するなかで、どうしても、このような断言、宣告が必要となるのです。

わたしは、この2節以下からの教理のいわば生の言葉とその説明を読みながら、パウロの語りの迫力を覚えさせられます。あらためて、教理というものが、どれほど命あるものなのか、いへ、福音の命そのものであるとすら言ってよいと思わざるを得なくさせられるのです。教理を語り、学び、そして身に着けることは、生きることそのものなのだということが分かるのではないでしょうか。教理なしに、私どもはキリスト者としての祝福にあずかり、祝福に生きることができないことを知るでしょう。ましてや、この祝福を隣人に分け与えることもできないことが分かるでしょう。

先週も申したことでが、説教とは、この1節を繰り返し宣言することです。そしてそれと似ているのですが、説教とは、結局、この1節や2節の神の宣告がどれほど確かなものであるのか、どうして確実なものなのかを明らかにする教理の言葉を語ることであると言ってよいのです。

2節から語り始められる言葉は、おそらく私どもキリスト者にとっては、何も新しく聴くような教えは何一つ記されていません。逆に申しますと、救いの教理の真髄、もっとも大切な教理がここで示さているのです。日曜学校の子どもたちもわきまえていてくれていると思います。契約の子達も、理解していると信じます。そのような教理が語られているのです。教理のなかでもその真髄は、3節の後半であります。「つまり、」と語り始めるパウロの言葉です。そして、ここでも先週と同じように、説教とは、要するに、この教理を語ることだといってもよいのです。

さて、パウロは、7章の最後の箇所で、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰がわたしを救ってくれるでしょうか。」と、どん底から叫び、呻きました。そしてその直後に、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」と勝利と感謝を叫びました。そのときの説教でも、申しました。主イエス・キリストに救われているからこそ、自分の罪の惨めさ、恐ろしさ、おぞましさ、そして罪の支払う報酬の永遠の死、罪への神の刑罰の重さ、深刻さについて真実に呻くことができるのだと学びました。キリストの救いの圧倒的な力と勝利があればこそ、自分の悩み、本当に悩まなければならない悩みを悩むことができたと申しました。キリストが、天からの命綱となってパウロにくくりつけられているから、自分の悲惨さを認め、悩むことができたと学んだのです。そこにキリストにある者、キリストに結ばれた人間の強み、勝利があります。

しかし、ことはそこで終わりません。そう言ったパウロは、その直後にまたこうも記すからです。「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」ある人は、「いったいどっちなのか。」と混乱します。「これではキリスト者とは、どちらに立つものなのかわからないではないか。」これは、よく分かります。じれったくなるのです。「黒白、はっきりつけてほしい、もっと分かりやすく語ってほしい」とおっしゃるかもしれません。確かに、世間的に、常識的に言えば、「心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕える。」ということでは、一人の人間のなかで、心と肉とが、ばらばらになっている、分裂していることになると考えるわけです。

確かにもしも、自分の肉では、罪の律法に仕えているというのであれば、その人が、神の正義の法廷で、永遠の死、滅びが相当すると断罪されることは、明らかのはずです。しかも、パウロは、明らかに第7章の後半で、「自分の五体、体には、もう一つの法則があって、心の法則と戦い、自分自身は、罪の法則の虜とされている。奴隷にさせられているのだ」と言いました。つまり、自分で自分を見つめるとき、神から死刑判決を下されることは明らかであると認めているのです。つまり、現実の自分の姿や生き方を見るなら、自分の中には、救いの可能性は皆無なのです。もはやどうすることもできない。救いに至る一縷の望み、可能性ももはやありえないわけです。

ところがしかし、そのようなパウロが、そこで直ちに主イエス・キリスト、キリスト・イエスさまを見上げるとき、天地がひっくり返るような、天地が新しく創造されるような、驚くべき命の力、神の力を見ることができるというのです。それが1節におけるキリスト・イエスに結ばれているという言葉の示す恵みの事実です。先週は、「キリスト・イエスに結ばれる」とは、「キリストの中にある」とも訳せることばであって、英語で「イン」を意味する、「エン」というギリシャ語の前置詞が使われていることを学びました。

そして、今パウロは、2節で、キリスト・イエスにあるということは、どういう恵みを私どもにもたらすのかを説明しようとするのです。そしてパウロはここでも、「エン・クリストー」という言葉を用います。1節では、「キリスト・イエスに結ばれる」と訳されていますが、2節では、「キリスト・イエスによって」と訳されています。いずれにしろ、救いの事態とは、エン・クリストーという現実の中にあるということが繰り返し明らかにされているわけです。

パウロはこの2節では、キリスト・イエスさまの中にあるものとは、命をもたらす霊の法則であるというのです。主イエスのなかにはまことの命が充満し、神の命、永遠の命に満ち満ちておられるというわけです。

パウロは、かつて6章の23節で、「罪の支払う報酬は死である」と申しました。命の反対は、死です。そして、罪の支払う報酬が、永遠の滅び、永遠の死なのです。ところがしかし、キリスト・イエスのなかには、命があるのです。永遠の命があるのです。そして、この永遠の命が、キリスト・イエスにある者、キリスト・イエスを信じるキリスト者に、注ぎ込まれるとパウロは言うのです。しかもこの8章2節では、パウロは、「あなたと」読者を指差して断言しています。「罪と死の法則からあなたを解放した。」つまり、救いは、あなたの力や努力ではなく、ただキリスト・イエスのおかげなのだ。キリストにある命の御霊のお働き、力によってあなたは解放されている、こう言うのです。ことは、決着済みであるというのです。

わたしは1節だけではなく、ここでも、説明だけで終わらないで、同時に救いを宣言していると読むこともできると思います。解放の宣言です。「罪と死の法則」の法則とは、もとの言葉では、律法という言葉です。罪と死の律法は、罪人を死罪に断罪し、永遠の滅びへと処罰します。ところが、キリスト・イエスのおかげで、キリストの内に満ち溢れている命をもたらす霊の律法によって、罪と死の律法は、打ち負かされるのです。罪と死の法則、律法、その力がどんなに強くても、キリスト・イエスのうちにある命をもたらす霊の法則、律法、その力の方が圧倒的に強いからです。このようにして、完全に罪と死から解き放たれて、自由にされるのです。

それなら、わたしどもにとってそこでもっとも大切なこととは、何でしょうか。それは、ただ信じることです。キリスト・イエスと結ばれている自分が、今や、いかなる罪にも定められない、徹底的に赦されているという神の赦しの宣言を信じて聴き取ることです。神の救いは中途半端なものではなく、完全なものなのです。わたしどもはこの神の確実な救いをただ信じるだけでよいのですし、それだけに、徹底して信じたいのです。

さて、使徒パウロは、さらに説明を続けます。決定的な説明が始まります。それが3節です。ここに、福音のなかの福音、それこそ、全聖書の中心、心臓ともいうべき、神の出来事、御業が告げられます。「つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」これこそ、福音の知らせそのものです。神はその独り子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送ってくださいました。クリスマスの御業です。マリアから肉体を受けられたのです。創造者なる神が被造物である一人の女性の肉体を用いて、御子なる神を人としてこの世に送ってくださったのです。

神の独り子なるお方、御子が肉体をとって人となられたお方には人間の名前がつけられます。そのお方の御名が、イエスさまです。父なる神は、御子イエスさまを十字架の上ではりつけ、処刑、断罪してしまわれたのです。父なる神が、御子を人間としてこの世に送って、ご自分の私どもへの救いの御業を成就させるため、完成するために、十字架につけてしまわれたのです。この行為によって、私どもは完全に赦されたのです。

しかもそればかりか、同時に、神ご自身の律法の要求もまた、御子キリストの十字架の御業によって満たされたのです。神の要求、言葉をかえれば永遠の神の御心とは何でしょうか。それは、御言葉に一点の曇りなく喜んで従う人間を御前に立たせるというものです。神は、我々人間にそのように厳かに要求しておられるのです。そして実に、神は独り子に肉体をとらせ、人間イエスさまにおいて完全に、完璧にその要求を満たされたのです。ある説教者は、このところを説明して「一石二鳥」であると言いました。神は、主キリスト・イエスにおいて、罪人である私どもを救い、しかも同時に、神の義しい御心の要求をも達成されたのです。まさに十字架の御業は、一石二鳥です。人間の救いと神の栄光、神の要求の二つがみごとに御子の受肉、苦難と死、十字架によって成し遂げられ、神は満足なさったのです。

ここで明らかにされることは、神のご計画、ご自身の御業は徹底的であるということです。神は御自身の御心に他ならない、律法を徹底的に重んじられるのです。ですから、それを徹底的に遂行されるのです。しかもそのようにして同時に、神は、罪人を徹底的に救ってしまわれるのです。神は御子なるキリストを自ら処罰し、断罪なさることによって、ご自身の義を完全にあらわし、成就してしまわれるのです。そのようにして、神の義は直ちに私どもの救いとなったのです。実にこれこそ、ローマの信徒への手紙が証する神の福音です。

神がご自身の御心に忠実に生きられた、御業を実行なさったところに、あらわされたものが神の愛があります。しかもそれは犠牲の愛でした。しかし、神がただご自身の側で一方的に犠牲を支払ってくださったおかげで、私どもは救われたのであります。これを成し遂げられたのが、神、聖書が証するまことの神なのです。

私どもは、この神の犠牲を見ないで、愚かにも神に文句をつける、批判することがあるのです。先週、アメリカのアーミッシュというキリスト教の特徴ある教派の学校で、神に恨みを持つという人によって、児童が射殺されました。ある人は、なぜ、神は、そこで彼らを助けられなかったのか、と神を批判します。またある人は、たとえば、なぜ自分だけに苦しみが多いのか。なぜ、この世界には病気、争い、貧困、不正が満ちているのか。それを放置しているような神なら、神でもなんでもないではないか。そのような神は、死んでいる、あるいは全能者ではない。挙げてゆけばきりがないほど、ありとあらゆる悪態を神につくのです。しかし、それは、正しいことなのでしょうか。できることなのでしょうか。

この神を知れば知るほど、神を批判しながら、しかし自分の生き方、自分の罪深い生き方をどこまでも曲げようとしない人間の愚かさと罪深さが見えてくるのではないでしょうか。しかも驚くべきことに、このように心かたくなな私どもの罪を断罪する代わりに、神は御子キリスト・イエスを十字架でほふり、断罪なさったのです。

神を信じられない私ども、それどころか、神へと責任をなすりつけ、自己弁護を繰り返すような私どもの罪深さのなかにこそ、パウロが表現するような罪と死との法則を見ることができます。まさに罪と死との律法、掟であり力です。その力強さを思わざるを得ないのです。この法則の奴隷になっているのが、罪人に他なりません。いったい、それほどまでに罪の虜になっている者、罪の力に屈伏させられている者が、少々、修行してみたり、悟りを開いてみたり、深く反省したといってみたところで、あるいは何か一つ二つでも、社会的に立派なことをしたからと言って、神が下される罪の処罰からまぬかれることはありえません。

私どもは、ここでこそ知らされるはずです。「ああ、自分の罪の問題は、これほどまでに深刻であったのか、これほどまでに自分の手に負えないものであったのか」と。本来、おかしなこと、不思議なことですが、人間は自分自身のことなのに、自分が罪人であることがまったく分からないのです。しかし、この宣言を聴いてこそ知るのです。「ああ本当に、わたしは惨めな人間だ。しかし、同時にそれ以上のことを知っている。ああ本当に、もはやわたしは罪を処罰されないのだ。本当に、神に赦されているのだ、ああ、本当に、自分は神に愛されている人間なのだ。わたしはなんと幸せな人間なのだろう、誰が、こんな祝福された人間としてくださったのか。それは、ただキリスト・イエスのおかげである。わたしは、あるがままで罪赦されたので、まさにあるがままで神の栄光のために生きれるのだ。だから、これからの人生は、神の栄光のために生きさせてください。」

いかがでしょうか。そのような志がすでに私どもの心に植えつけられていませんか。いかに小さくても、これが、霊にしたがって歩む者のあるがままの姿、志なのです。この命をもたらす霊の法則が、私どもに及んでいるのです。今朝も、パウロと共に歌い、感謝したいと思います。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。」そして、いよいよ、自分により頼まず、ただ、キリスト・イエスにある、キリスト・イエスに結ばれることを求め、信じて生きるのです。信仰から信仰へと歩み続けるのであります。そして、この宣言を、私自身が、隣人に告げるために、自分がどれほど祝福された人間、幸せな人間であるかをいよいよ深く受け止めながら歩むのであります。

祈祷
 私どもの救いのために、御子キリスト・イエスを罪深い肉と同じ姿でこの世にお送りくださいました、父なる御神、今、あなたの家、聖霊の家である教会で、あなたの宣言を聴き取り、あなたの御業を仰ぎ見ることができましたことを心から感謝申し上げます。自分がどれほど幸いなものであるのか、あらためて知ります。そしてこの御言葉なしには、人間として生きることができないことを知ります。どうぞ、この宣言、あなたの御業を、教会が骨の髄まで知り、そして、その喜びと感謝をもって、この町に住む人々に、この時代のなかで、はっきりと告げ、広く告げることができますように。私どもをあなたの福音の道具として、お用いくださいませ。              アーメン。