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「開かれた天を見よ」 10月15日

「開かれた天を見よ-最初の殉教者-」
2006年10月15日・四日市教会 主日礼拝式
 
テキスト 使徒言行録 第7章54-60節 
人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。

 四日市教会の皆様の上に父と御子と聖霊において支配しておられる唯一の神からの恵みと祝福がありますように。初めて、皆様と共に礼拝を捧げることができました特権を心から感謝いたします。

先週は、日本キリスト改革派教会第61回定期大会が名古屋で開催されました。いくつもの重要な提案が審議され、受け入れられました。その詳細につきましては、後日、略報が届けられるかと思いますので、ご確認いただければと思います。その中で、もっとも時間をかけて審議されたのは、「宣教と社会問題に関する委員会」から提出されました、「教育基本法『改正』に反対する声明を出すことの提案」でした。結果は、大多数可決でありました。この決議を心から感謝いたしております。その反対声明文もまた、後日、皆様全員に配られるかと思います。その最後の一文だけ、ご紹介したいと思います。「たとえ、そのような法案が立法化されたとしても、そのような強制に対しては「信仰の良心」に従って断固拒否することを表明します。」この後に使徒言行録第5章29節の御言葉が記されています。「人間に従うよりも、神にしたがわなくてはなりません。」
 
 私ども中部中会は、既に4月の定期会で、「日本キリスト改革派教会中部中会は、憲法9条と20条に立つ」ことを決議しました。また、中部中会の世と教会に関する委員会主催の2月の信教の自由を守る集会、そして7月の平和集会では、それぞれ、日本国憲法の基本精神、特に9条や20条を守ることを参加者一同で声明文をつくりました。その二つの声明の最後にも実は、今回の大会の声明とほとんど同じ文言が記されているのです。「仮に、私どものキリスト信仰を侵す立法化がなされるならば、私たちはこれに従うことを拒否します。」「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」このような声明文を参加者一同で採択したのです。

 何よりも私ども中部中会にとって、記憶に鮮やかなのは、先月の中部中会信徒研修会であろうと思います。通算では430名ほどの出席者を与えられました。韓国の殉教者朱基徹牧師のご子息の長老から、子どもの視線でお父様の殉教についての証言に全員が耳をそばだてて聴いたのでありました。それは、ほかならない我々日本の、日本人の官憲によるおぞましい拷問の様子でした。

 今、私どもキリスト者、教会が日本の社会のなかで、その置かれている状況は、言葉の正しい意味で、危機的状況におかれています。この説教においていちいち、その理由や、さまざまな状況を説明する暇はありません。かつてのあの戦前の状況と瓜二つのような、極めて分かりやすい状況、戦争前夜のような状態にあります。

 私が仕えている名古屋岩の上伝道所では、昨年の夏の読書会で、「キリスト者の抵抗」について、同時に殉教について学び、考えました。教会で、そのことを皆で学べることはどれほどすばらしいことであったかと、心から感謝しているのです。そこでも学んだことは、誰でもが殉教者になるわけではないことでした。基本は、殉教に率先して進んでゆくのではなく、生きることです。自分の命を大切にして、生き延びることであって、そのためには、できる人は国外に亡命することであってもよいのです。そして、何よりも基本中の基本は、私どもは、二度とこのような殉教者が出てはならないと思います。そのために、権力者に法律を守らせることが必要です。また、私どもの信仰を圧迫するような悪法を作らせないようにすることが極めて重要なのです。

 さて、今、私どもは、キリストの教会の最初の殉教者となったステファノの物語を聴きました。ステファノは、初めの教会において、やもめの世話をするために、選び出された人でした。ところが、彼はやもめのお世話に専念したのかといいますと、実は、違います。彼は、民衆のなかで、不思議な業としるしを行っていたのです。そこで、彼の活動を快く思わなかった人たちが、彼を懲らしめるために、最高法院に引いて行きます。その場所は、つい最近、主イエスが引いてゆかれた場所に他なりません。ステファノは、その最高法院で、「モーセと神を冒涜した」と、まったくの濡れ衣の嫌疑をかけられました。しかし、彼は、その最高法院、最高裁法廷、国会の場で、福音の説教、主イエス・キリストを紹介し始めるのです。その説教を聞いたユダヤ人は、怒りたけりました。彼らは、自分たちは神の民であるとうぬぼれていました。ところが、そんな彼らに「あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。」とステファノは批判しました。これだけでも、「歯軋り」するような怒りを招いたのです。そして遂に、この言葉が彼の口から出たとき、彼の有罪は、確定し、しかも直ちに刑を執行されてしまうことになるのです。「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」彼がこう言うや否や、律法学者たちは、証言台にいる彼をめがけていっせいに、襲い掛かりました。

 なぜそうしたのか。一つは、こういうことです。彼らが、十字架に架けて殺したイエス。他でもない、まさにこの場所で、死刑判決をくだした男が、神の右にいる。天にいる。それは、彼らにとって、とんでもない、ありえないことだからです。もしも、そうであれば、彼らは、まさに、神の敵であり、自分たちは神の御子を殺した者たち、あの裁判は、ユダヤの歴史のなかで、最悪、極悪の判決であったことになるからです。そんなことは断じて認めないと彼らは、いきり立ったのです。

 もう一つの理由はこうです。ステファノが、神の栄光と主イエス・キリストを見たと言った言葉そのものにあります。確かに、この言葉は、旧約聖書に慣れ親しんでいる者にとっては衝撃的な言葉であると思います。なぜなら、天が開いて神を見た人間が、なお、生きているというのは、当時の彼らの宗教観からみれば、受け入れがたいことだからです。
たとえば、あの有名なイザヤの言葉を思い起こします。彼は、神殿にいるとき、天が開かれ、「御座に主が座しておられるのを見」ました。そこで彼はこう叫んだのです。「災いだ、わたしは滅ぼされる」つまり、聖なる、聖い神を、人間が直接に見るなら、そうなると考えられていたからです。あるいは、モーセのことを思い起こします。彼が、燃えるしば、燃え尽きない柴の木のなから、神から御声をかけられたとき、モーセは、「神を見ることを恐れて顔を覆った。」と言います。ですから、ステファノのように、堂々と「天が開いた」とか、「神の栄光」が見え、「神」とその右に「人の子」つまり主イエス・キリストが見えるというようなことを言ってのける者は、イスラエルの歴史のなかで、極めて違和感をもたらすものなのです。

 しかしまさにそこにこそ、使徒言行録のメッセージがあります。つまり、確かに旧約聖書の時代には、まさに例外中の例外のような特別の恵みが、天が開かれること、神を仰ぎ見ることでした。しかし今や、聖霊すなわちキリストの霊を受けるなら、聖霊に満たされるなら、神の栄光が見えるようになる時代が到来した、始まったということです。誰でも、聖霊によって、神の右に立っている主イエス・キリストを仰ぎ見ることができるようになるということです。わたしどものような異邦人にさへ、神の霊、キリストの御霊、聖霊が注がれるようになったからです。そのような驚くべき恵みの時代が、主イエス・キリストが十字架におかかりくださり、お甦りくださり、天に昇り行かれた今や、始まったのです。

 私ども日本キリスト改革派教会は、創立20周年宣言におきまして、「教会の生命は礼拝にある」と告白しました。私ども名古屋岩の上伝道所は、徹底してこの告白に生きることを志し、毎主日、生命あふれる礼拝式、聖霊の力あふれる礼拝式の実現を目指して励んでまいりました。
 今朝、四日市教会のこの礼拝式の場所で、今朝も、今も天が開かれています。主イエス・キリストが父なる神の右におられるその栄光のお姿を見続けながら礼拝を捧げているのであります。

 しかしもしかすると、そのことになお、確信をもっておられない兄弟姉妹がおられるでしょうか。「いったい、毎主日に、ここで、天が開かれているかどうか。自分は、そのような信仰の経験がないのではないか。」そのような問いがもしもご自分のうちにあるのであれば、それはとても大切な問いです。そしてそこから決して逃げないでいただきたいのです。きちんと確信を求めなければなりません。そして毎主日のたびごとに、天が開かれる礼拝式をささげられるように、教会が総力を結集し、祈りを集めて取り組まなければならない究極の祈りの課題なのです。

 そしてそれは、何よりも感覚のことではないのです。ステンドグラスがちりばめられ、何十メートルもの高い天井をもつ荘厳な大聖堂で雰囲気に浸ることではないのです。何千万もするような何千本のパイプを持つオルガンがなくてもよいのです。ただ、約束の御言葉を信じることです。たとえば、新約聖書のヨハネの黙示録には、天国の礼拝の姿、天の祝宴の有様が生き生きと描写されています。そして、この天上の礼拝と今捧げているわたしどもの地上の礼拝式とが、一つに結び合わされているのだと教えられます。天上の礼拝がささげられているからこそ、今、私どもは地上で礼拝を捧げることができているのです。天と地とは、今まさにここで、この四日市教会の礼拝式で結び合わされているのです。つまり今、私どもの上には、天が開かれているのです。万一そうでなければ、私どもの礼拝式は、どんなに盛んであったとしても、もはや礼拝ではないのです。

 それならどうして、私どもは、確信をもって、天が開かれ、神の栄光とその右に唯一の主キリストが着座されていることを信じ、仰ぎ見ることができるのでしょうか。その一つの大変、客観的な理由を挙げましょう。説教の前に、私どもはいつものように使徒信条を告白致しました。確かに皆さんと声をそろえてこのように告白したのです。「三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したもう。」主イエス・キリストが今、御父の右に座しておられる。そう告白するとき、私どもは聖霊によって心を高く天へと引き上げられてまいります。そして、栄光の主イエス・キリストをそこでこそ、仰ぎ見ることができるのです。そして、その栄光の、天におられる主イエス・キリストをここで仰ぎ見る。しかも天の主イエスは、ご自身の聖霊によって、この地上に御臨在くださいます。そのようにして天上と地上とが、つながるのです。このつながる場所こそ、ここ、この礼拝堂、この時間、この礼拝式なのです。私どもは、これからも、力を注いで、主の日の礼拝式に臨みます。自分を献げ、自分の全力を注いで、礼拝する、したいのです。それが、主イエスによってもたらされた新しい時代、救いの恵みを受けた者の特権なのです。誇りなのです。また最大の務めなのです。

 実は私は、今回の朱基徹牧師の殉教の証を昨年、日本キリスト教会大垣教会の集会で伺っておりました。その集会のなかで、一つの賛美歌が歌われました。私どもの賛美歌21には収められていませんが、「聖歌」のなかにあります。わたしも昔、よく歌いました。「めぐみの高き嶺」という歌です。これは、朱基徹牧師は、獄中でもしばしば歌われた歌なのだそうです。
「めぐみのたかきね 日々わがめあてに 
いのりつ うたいつ われはのぼりゆかん 
ひかりときよきと へいわにみちたる 
めぐみのたかきね われにふましめよ」

 わたしは、そこであらためて思わされたことがあります。「ああ、朱牧師は、天を見ていたのだ。だから、地上の価値観、地上の権力、地上の偽りの力に抗うことができたのだ。」恵みの高き嶺。これは、天上の礼拝の姿です。そこには、父なる神と主イエス・キリストがおられるのです。その高い嶺を、昇ってゆくことができるのは、そこから聖霊が注がれているからです。牢獄でも、天が開かれていたのです。だから、戦うことができたし、勝利することもできたのです。

 そうであれば、私どもは、ステファノの経験を特別視することは、できるでしょうか。ステファノのような特別に信仰にあふれた人だけにしか見ることができない光景なのだと、受け止めたら、間違いです。キリスト者であれば、誰でも見ることができるのです。今ここでみんなで仰ぎ見ているのです。

 本日の午後の礼拝式の説教題を、インターネットで拝見しました。「今、主イエスがはっきり見える」と題して、マルコによる福音書第8章から、一人の盲人が主イエスによって癒されて、イエスさまを見ることができた物語です。信仰とは、見ることであるということがよく分かるのではないでしょうか。もとより、それは肉眼で見える世界ではないのです。かつて静岡教会で説教させていただきましたとき、多くの盲人の信徒の方がおられました。生まれつき盲人の方も、途中失明なさったかたもおられました。しかし、あの兄弟姉妹たちは、霊の目がはっきりと開かれ、天を見上げることができておられるのです。もとより、私どもも同じであります。ここで、聖霊のお働きにあずかって、天が開かれ、私どもの眼が開かれて、見えてくるのです。マルコによる福音書の物語のように、わたしの経験から申しますが、今ここに聖霊によって臨在しておられる主イエス、天に座します主イエスは、徐々に見えてくる、そのように導かれる方が多いと思います。しかし、洗礼を受けたキリスト者であれば、誰の上にも天が開かれているのです。

 今、誰でも見えると申しましたが、しかしやはりこのときのステファノの言葉は、特別でもあります。それは、主イエスが父なる神の右に座している、座っているのではなく、「立ち上がっておられる」と報告されているからです。なぜ、主イエスは立ち上がっておられるのか。それは、ステファノをご自身のもとに迎え入れられるからではないでしょうか。最初の殉教者を主イエスが迎えられるのです。ですから、立ち上がっておられるのではないでしょうか。

 ただし、私は今回の説教準備において、これまでの自分の解釈をいささか修正してもよいのではないかとも思わされました。それは、どういうことであるかと申しますと、私は、主イエスは、殉教者であるから、立ち上がっておられるというようにずっと考えてまいりました。確かに、ステファノはキリストのための最初の殉教者となりました。しかし、使徒言行録を読みますと、この物語は、キリストにあって死ぬ人間、キリスト者の最初の死の物語とも読めるのです。

 実は、使徒言行録には、先に、アナニアとサフィラ夫妻のことが記されています。彼らも死にました。しかし、彼らの死は、神への裏切りの結果の神の裁きを受けたものでした。彼らの最後のことごとを、使徒言行録は、冷めた目で描き出します。「息が絶えた。」「死体を包み、運び出して葬った。」夫アナニアも妻サフィラもこのような表現でその最後が報告されています。ところが、ステファノは違います。注意して読みたいのですが、ここでは著者ルカは、こう表現するのです。「こう言って、眠りについた」一方では、「息が絶えた」。ここでは、「眠りについた」。まったく違います。この眠りにつくとは、主イエス・キリストとともに復活するということが定められている、永遠の命のために甦ることが約束さえている者に対する表現なのです。そうであれば、主イエスが再び来られるとき、永遠の命へと主イエスとともに復活するキリスト者の死であれば、誰の死でも、眠りについたと表現することができるはずです。ステファノのような殉教者だけの特権ではないわけです。誰でも、主とともに死ぬ、キリスト者として死ぬ者は、誰でも眠りにつくのです。そして、主に立ち上がっていただいて天へと迎え入れられるのであります。

しかし、キリスト者の死であれば、キリストのために生き、キリストのために死ぬ死であれば、どのような死に方であったとしても、病気であっても、事故であっても、老衰であっても、眠りにつくのです。そうであれば、ステファノが「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」という言葉は、誰でも死ぬときの言葉にすることができることが分かります。この言葉は、使徒言行録と同じ著者のルカによる福音書の、十字架の主イエス・キリストの御言葉、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と同じです。このように語ることは、ステファノだけに許されているのではなく、すべてのキリスト者の死のときの言葉であると思います。

 そして、主イエスに立ち上がっていただいて、ご自身のみもとに迎え入れられることが定まっているのです。死は終わりではない。それが主イエスのご復活と昇天によって明らかにされ、確かなものとされました。主とともに生き、死ぬキリスト者は、死は眠りなのです。ここに私どもの底力があります。この地上になにものをも恐れないですむ秘訣。秘密があるのです。天を仰ぎ見ながら生きている人間は、自分がその天に迎え入れられることを信じることができるのです。私どもは、地上の生活が永遠であると教えられていません。そうではなく、主とともに永遠に生きることができるのです。騙されてはなりません。

 最後に、ステファノの感動的な言葉を学びましょう。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」最後の言葉、大声で叫んだ言葉です。この言葉を聴いたのは、サウロ。後の使徒パウロに他なりません。このステファノがサウロを救いと信仰に導いたといっても良いのではないでしょうか。ステファノの説教とこの祈り、この生き方、死に方が、彼をキリストの使徒へと導く糸口、手がかりになったのではないでしょうか。そして、この祈りの言葉もまた、ルカによる福音書の十字架の主イエスの祈りを真似したものに他なりません。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 ここでも、私どもはもしかするとステファノと自分の信仰とはあまりにも開きがある、到底、自分はこのように祈れないと、はじめから、彼を、別人のように祭り上げて、それで安心してしまう、そのような誘惑があるかもしれません。しかし、彼のこの祈りは、主イエスの真似なのです。ステファノは愛しまつる主、救い主イエスさまにどこまでも従い行こうと信仰の態度を決定している人です。ですから、主イエスの命じられるように生きようとしたのだと思います。私どももまた、同じように、主イエスに教えられています。命じられているはずです。それはまったく特別のことではありません。それは、すでにここで皆さんと声をそろえて祈ったばかりの祈りです。「われらに罪を犯す者を、われらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまへ」主の祈りの第5祈願です。

 私どももまた、信仰の戦いをここでしています。それは、徹底的に愛の戦いです。ステファノは、どうしても説教をやめないのです。それは、主への愛であると同時に、隣人への愛だからです。もしも、彼が、死の恐怖におびえ、福音を証することをやめてしまえば、どうして、人々は救われるでしょうか。キリスト者パウロ、使徒パウロは誕生したでしょうか。彼は、伝道する。証する。それは、人々を救う福音は、主イエス・キリスト以外におられないからです。このステファノの信仰は、そのまま、後のパウロの福音になります。パウロはローマの信徒への手紙で申しました。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」このような福音の力の証人となったのはステファノであり、また、後のパウロなのです。

 私どもは今や、わたしどもを悪しき力が私どもを包囲しているかのような息苦しさを感じています。しかし、どれほど小さな私どもの教会であっても大丈夫です。主イエスがともにおられるからです。もし、私どもの小さな教会がこの主によって贖われた主のものであり、主のために生き、主のために死ぬキリスト者の集いであれば、私どもの勝利はすでに定まっています。私どもの上にも、はっきりと天が開かれています。父なる神と御子、王の王、主の主なるイエス・キリストが着座されているのです。かしこを仰ぎ見続けて歩むわたしどもは、ステファノに連なる神の民なのです。日本キリスト改革派教会は、四日市教会は、すべてのキリストの教会はそのように主の御前を歩んで行くことができるのです。

祈祷
私どもを尊い御子の血潮をもって贖ってくださいました主イエス・キリストの父なる御神。あなたはこの小さく弱い私どもを、教会を通して御自身が歴史の主、支配者であられることを証されます。このあなたのはかりしれない御心を受けて、私どももまた、積極的に、あなたが、唯一の主であられることを、あなたこそが福音そのものであることを時が良くても悪くても証する者とならせてください。愛に生きる信仰の戦いに倦み疲れることなく、勤しむ者としてください。そのために、毎主日のここで礼拝をささげるたびに天を豊かに開いてください。そして毎日、一人ひとりの上に天を開いて、御姿を仰ぎ見させてください。そして、ここにあなたの民を増し加えさせてください。アーメン