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「体まで救われて」

「体まで救われて」
2006年11月12日
テキスト ローマの信徒への手紙 第8章1節~14節③

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。  
キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。
もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」
 

本日の説教の題は、「体まで救われて」と致しております。私どもの信仰は、ニカヤ信条でいわれている通り、死人の甦りを信じるものです。体のよみがえりを信じるものです。主イエス・キリストの三日目に死人のうちよりおよみがえりになられた事実がその根拠になります。つまり、私どもの信仰は、はっきりと申しまして体の救いということが含まれています。体を別にして、私自身というものはありえないのです。体をもたないわたし、体のない人間というのはありえません。ですから神の救いは、この体にまで及びます。この体が新しいからだへと甦ることが、約束されています。主イエス・キリストがもう一度地上に来られるとき、そのときこそ、私どもの体が新しくされるそのときです。

 皆様の中にもおられるかもしれませんが、今、健康維持のためにスポーツジムに通われたり、スポーツを楽しまれる方も少なくありません。ジムとは、ドイツ語のギムナジウムから出てきた言葉かと思います。大学進学を前提にした学校を意味します。ギムナジウムはもともとラテン語を語源にします。しかしそもそもの言葉の出所は、ギリシャ語であろうと思います。裸で訓練する、すもうのような体の鍛錬の仕方をイメージすることができます。人間にとって、ジムで体を鍛えることはとても大切なことでしょう。とりわけ、わたしもそうでしたが、若いときには、そうであると思います。しかし、わたし自身は、ほとんど机に向かっているような実に不健康な生活を続けております。そのような不健康な生活を強いられている者が、体の健康について語ることは説得力を持たないかもしれません。

 しかし、使徒パウロが若きテモテのために書き送った第一の手紙第4章にこうあります。「信心のために自分を鍛えなさい。体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」パウロは自らこの言葉は真実であるなどと言うのです。つまり、パウロの目には、若きテモテが、信仰の鍛錬、訓練の大切さ、有益さについてどこか、切迫感、切実に求める気持ちが薄いと、危なっかしく映っていたのかもしれません。

 先週の祈祷会では、ウエストミンスター信仰告白の第2章の「三位一体」について学びました。そこで私は、三位一体は、お祈りのなかで、礼拝のなかでこそ、祈りの体験のなかでのみ、信じ、理解することができる教理なのですと申しました。そして、言わばイメージトレーニングのようなことを提唱したのです。父と御子と聖霊の交わりのなかに包み込まれている自分をイメージすること、この神の交わりの中に自分が包み込まれていることを、祈りのなかではっきりとイメージして祈りなさいとお勧めしたのです。これは、言わば、トレーニングです。霊的なエクササイズです。練習、鍛錬です。霊的な修練を毎日自分に課して、それを深めることが大切なのです。三位一体の教理がどれほど、私どもの霊的な生活、信仰生活にとって力あるものなのか、つくづく思います。そうであれば、今ここでご一緒に捧げている礼拝式こそ、肉体の鍛錬ではなく、信仰のエクササイズ、霊的な鍛錬の場です。しかも一人でもくもくと、ペダルを漕ぐのでも、ダンベルを持ち上げるのでもなく、皆で心を一つにして、息をそろえるようにして霊的な鍛錬、練習をするのです。今、そのような場所が私どもに与えられているのです。
 
 いささかくどいかもしれません。しかしもう一度、先週の説教の初めに申しましたことを繰り返します。わたしはそこで、今、朗読いたしました神の御言葉はまるで、中日ドラゴンズの優勝パレードのようなイメージを呼び起こさせられたと申しました。沿道を埋め尽くすようにしてファンが、選手たちの行進を見つめ、おめでとうと、万歳と祝福するあのパレードです。

 なぜ、そう思うのか、それは、この箇所では、それこそ「優勝おめでとう」どころのものではなく、さらには中日ファンからの声どころでもない声が響いて来るからです。それは、天地創造の、全能の神からの声です。すべての主権をもちたもう父なる唯一の神からの声です。しかもそれは、使徒パウロを通して聴こえてきますから、天からの声であり同時に横からの声でもあります。つまりこのような声、言葉です。「罪の赦し、おめでとう。」「あなたの罪はキリスト・イエスによって赦された。おめでとう」「あなたは罪の支払う報酬としての永遠の死、滅びをイエス・キリストの十字架のおかげで免れました。おめでとう」罪の赦しの宣言を私どもはこの第8章でまるでシャワーを浴びるかのように聴き続けることができるのです。この罪の赦しのシャワーを浴びるイメージは、洗礼のイメージと重なります。
ここにおられる多くの方は既に、父と子と聖霊の御名による洗礼を受けられました。三位一体の神の御名をもって洗礼を施されました。子どものときに、知らないときに洗礼を受けられた方もおられるのです。そのような方も自分の口で信仰を告白したからこそ、聖餐の礼典にあずかり教会員の責任を与えられる特権にあずかったはずです。いずれにしろ、水を頭の上に注がれたのです。そこで、「おめでとう、あなたの罪は赦されました。」との神の宣言、天からの宣言を、牧師を通して、横から聴いたのです。そして新しい人間となって、新しい一歩、一歩を踏みしめて歩むようになりました。

その新しさの原因、その新しい人生の原因、源はどこにあるのか、それはただキリスト・イエスさまにだけあるわけです。それは、御子イエス・キリストが私どもの罪深い肉の姿で人間となられ、まさにその肉をもって、私共の罪の責任を担ってくださり、十字架で、罪の支払う報酬の神の怒り、神の呪い、神の報復、復讐をすべて受けつくされたことを意味します。父なる神は、私どもを罰する代わりに御自身の御独り子を罰してくださいました。御子に罪を負わせ、私どもの罪を処断されたのです。私どもの罪を、御子において処罰してくださいました。そして、父なる神は、御子イエスさまを死者の中から復活させられたのです。それは、この私どもの罪を完全に赦すことが確定されたということです。

パウロは、ここで「律法の要求」と記しています。律法の要求とは、何でしょうか。神の聖なる、正しい掟である律法によって生きることです。神の言葉に従って生きることです。律法に従って生きるなら命です。しかし神の御言葉への違反、背きは罪です。律法は、罪の報酬として死を要求するのです。律法を守らなければ神に裁かれなければらないという当然ですが、しかし厳しい要求です。そしてこの神のおごそかな律法の要求は、キリストの十字架によってことごとく満たされたのです。100点満点として満たされたのです。そして、パウロは、このキリストにあるなら、キリストを信じるなら、キリストと一つに結ばれているなら、私どももまた神の律法の要求を満たしているのだと断言するのです。

4節、「肉ではなく、霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が満たされるためでした。」パウロは、ここでローマの信徒たち、読者たちは、霊に従って歩んでいることを当然のこと、大前提にして語っています。

そこであらためて確認しておくことが必要かもしれません。10節にこうあります。「キリストがあなた方の内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。」「おられるならば」という言葉がある方にはとても引っかかるかもしれません。あるいは、その直前の9節、「神の霊があなたがたに宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。」「宿っているかぎり」であってもよいのです。果たして自分の内に、キリストさまはおられるのか、宿っていてくださるのか、どうなのだろうか。自分のうちに、神の霊が宿っているのかどうか、これは自分自身とても不確かであるという思いを持つキリスト者もいないわけではないと思います。あるいは、洗礼入会志願者の方で、今、いよいよ、試問会を持つときに、自分自身がはっきりと、わたしのうちにキリストが宿っておられるのか、神の霊が住んでおられるのか、どうもいささか頼りない、そう戸惑う方も、もしかするとおられるかもしれません。そうであれば、どうするのでしょうか。一つの可能性は、「そう信じていないのであれば、洗礼を受けることはできません。」と告げることです。もしも、神の霊が自分に宿っていないと信じているなら、洗礼を施すことは、できません。それなら、実際にわたしはだめですと申し上げるかといえば、違います。本日の週報にも記しましたが、明治の初め、日本の教会の洗礼試問における質問を紹介しました。「主イエスを誰よりも、何よりも愛しているのか。」この問いが最初の問いなのです。そして、主をそのように愛することができている人は、聖書は、キリストが宿っている、神の霊が宿っていると宣言しているのです。

まさにローマの信徒への手紙のこの箇所はそうです。あなたは、間違いないくキリストを宿している、神の霊を受けているから、キリストを愛することができるのだと告げるのです。そうであれば、「おられるならば」と言われるとき、それをあやふやな、不確かな、いまだ確定されていない状態と、パウロが考えているのでは決してないのです。「あなたがたのうちに、キリストがおられる、神の霊が宿っておられる」と宣言しているのです。ここでも、キリストに結ばれているものは罪に定められることはないとの罪の赦しの宣言と同じ宣言なのです。

万一、キリストの霊を受けていないなら、聖霊を注がれていないのなら、9節で言うとおり、「キリストに属していない」、つまりキリスト者ではないということになるのです。しかしキリスト者であれば誰でも、ここでの神の宣言、おめでとうの言葉のシャワーを浴び、勝利の行進、パレードを進み行くのです。

先週、一人の方と創世記第3章の物語を丁寧に学びました。アダムとエバが神の御言葉を破って、善悪の知識の木の実を食べてしまった物語です。そのとき、アダムとエバに死が入り込みました。エデンの園から追放されたのです。どうして、神の御言葉を破ってしまったのでしょうか。つまり肉の思いを優先したからです。肉の思いとは、神さまなしでも生きてゆけるという高慢です。神さまを信じ、従わなくても自分たちだけでも楽しく、豊かに生きてゆける、むしろ、神がいても自分たちに悪くはないが、神を信じることは自分たちの生活にとって悪いことではないが、しかし、神を優先したり、自分のことより神さまを一番にする必要などはない。人間は、自分が一番であり、神さまは二番でよい、そういう思いが肉の思いなのです。神さまを第一にしなくても、人間は人間らしい生き方ができる、そこそこの生き方ができるのだと開き直る思いです。うぬぼれです。

ですから、この肉の思いを実行に移したとき、アダムとエバは命と平和を直ちに失ってしまったのでした。彼らは、お互いを、あるがままで受け入れることができなくなりました。イチジクの木で自分を隠したのです。そればかりか、神のみ顔を避けてしまいました。死へと転落したのです。

今我々の生きている世界は、まさにこの肉の思いを突き詰めようとする世界でありましょう。20世紀も21世紀も、戦争の脅威のなかで、人類は命と平和を喜ぶことができなかったはずです。むしろ、肉の思いに縛られ、実行し、死の恐怖のなかに閉じ込められたはずです。しかも、そこで、なお自分の罪を悔い改めず、神に赦しを求めないまま、この究極の問題を回避したまま、素通りしたまま、歴史を進められると思っているようです。しかし、神は生きておられます。肉の思いのまま、進んで行けば、そこには、罪と死、神の裁きと怒りがあるだけです。

さて、私どもキリスト者とは、いったいどういう人間なのでしょうか。キリストに属する人間の現実の姿とはいかなる姿なのでしょうか。私どもは、肉にあって生きています。なお、この肉、肉体をもって生きています。その限りにおいて、私どもから罪の誘惑が去ることは決してありません。私どもは、「わたしはなんという惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から誰が」という叫びを知っているのです。このおそるべき惨めさを本当に知っているのは、キリスト者だけであります。未信者のとき、わたしはこの言葉に促されて求道が始まりました。その意味では、罪に悩み、自分の悲惨さに打ちのめされる経験をしていたのは確かです。しかし、その罪の悲惨さを本当に知らされたのは、洗礼を受けて、キリスト者になってからであります。神の霊を受けて初めて、神なき自分の人生の恐ろしさ、悲惨さに気づけたのです。しかし、これは、同時にそこで知ることです。この悲惨さを知れたのは、肉の思い、肉の支配下、肉に属していたからではありません。霊の支配下に置かれたからです。命と平和のなかへ、神の愛の交わりなかへ、教会へ、神の支配する平和の国、神の国のなかに、神が主イエス・キリストによって引きずり込んでくださったからです。招き入れてくださったからです。

しかし、そこでこそパウロのここでの議論が必要となるのです。言うまでもなく、私どもは体を、肉をもってこの礼拝堂に座っているのです。一方で、主イエス・キリストを愛し、一方で現実には肉の弱さをまとったままです。私どもはパウロとともに認めるしかないのです。パウロと共に知っているのです。「肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」ですから、神さまは自分のあるがままを受け入れ、赦しのなかに招き入れてくださいました。しかし、それは、あるがままで生きてよいということとはまったく違うのです。肉にあるままで、愛されたのですが、そのままで神に喜ばれるわけはありません。しかし、そこで何が要求されているのでしょうか。それは、徹底的に、この肉にあって生きている自分が、キリストの御業で、その実りとしてのキリストの霊を受けて、全存在が新しくされていることを認めること、信じることです。徹底的に信じることです。

 これも先週のことですが、一人の方とお話をしながら、わたしは心からお勧めしました。その方は、「自分の過去を振り返れば、罪だらけである。自分の罪の行いのせいで今の自分がある」と仰いました。その通りかもしれません。しかし今や、神は、このローマの信徒への手紙を通して、宣言されたのです。罪はキリストのゆえに処断されてしまったのだということです。ですから、罪の過去を思い起こして自分は、望みがないと嘆くのは間違っているのです。過去を思い起こすのなら、それだけ同時に、その過去のおぞましい罪のひとつ一つが、ことごとく十字架のイエス・キリストの処刑によって、処断済み、解決済み、支払い済み、帳消しにされていることを信じなければならないのです。

主イエス・キリストは、私どもを救うために、血と肉を供えられ、この肉の誘惑、試練を誰よりもお受けになられました。この主イエス・キリストが私どもの弱さを同情できないわけはないのです。ヘブライ人の手紙第4書15節にこうあります。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」ですから、わたしどもは大胆に神に近づけるのです。大胆に祈れるのです。つまり、自分の過去にも現在にも命の光が射し込んでいることを知ることができるのです。さらには将来をも明るく信じて待ち望む希望が与えられるのです。

そのために必要なことは単純なことです。徹底的に信じることです。しかもこれは、何も洗礼を受けられていない方のための言葉では決してありません。キリスト者であってもまったく同じです。私どもは、徹底して信じるのです。

 私どものうちに注がれているのは、一体、何でしょうか。使徒パウロは言うのです。霊です。霊とは聖霊なる神ご自身のことです。聖霊は、神の霊ですから、罪の法則から解放することがおできになるのです。使徒パウロは第2節で高らかに勝利宣言を行いました。「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです。」この宣言は、事実です。神の事実、現実なのです。すでに解放されているのです。すでに勝負はついたのです。決着はついているのです。

 騙されてはならないのです。もはや、いじいじしなくてもよいのです。自分の人生は、罪の責任を償うばかりである。しかも償いきれないから、もはや死ぬ以外に逃れの道はない、もはや、自分には将来はないなどというのは、騙されている自分理解なのです。神は、シャワーのように浴びせられます。
 私どもがまるで勝利のパレードのように、神の前で行進することを許しておられるのです。
 
 パウロは、ここで、キリストを復活させたお方はどなたであるかを言います。彼はある箇所ではこういうのです。主イエス・キリストは甦られたと。しかしここでは、「イエスを死者の中から復活させた方」です。イエスさまは自らのお力によって復活が可能です。命の君、神よりの神なのですから。しかし、ここでパウロは、私どもの新しい存在、私どもキリスト者とはどのような新しい存在に変化させられているかを信じさせ、気づかせるために言うのです。父なる神が御子を復活させられた、その父なる神の霊を受けている、宿らせていただいたあなた方も、その同じ霊によって死ぬべき体をも生かされているし、やがてはその体も完全な神の子にふさわしい体、肉をとられた主イエス・キリストの栄光の体に似せられるというのです。
 
わたしは、この箇所を読めば読むほど、一つの鮮やかなイメージを思います。それは、三位一体の神の交わりのなかに入れられている自分のイメージです。ここでは霊という言葉が繰り返されました。自分の内に神の霊が注がれているのです。しかもその霊は当然のことですが神の霊、聖霊なる神を意味しています。そしてその霊は、9節で、キリストの霊とも言い換えられています。そして10節では、キリスト御自身が私のうちに宿っておられることが宣言されています。そして、とどめと言いましょうか、11節では、その霊は、イエスさまを死者の中から復活させた父なる神の霊なのだと言い換えられています。私どもキリスト者とは、この聖霊、キリスト、父なる神に取り囲まれるようにして、徹底した救い、完全な救いが保証されているということです。罪の赦しと救いの道、信仰の人生が圧倒的な神の力に守られて進み行けることが、パレードできることが約束されているということです。

最初に、エクササイズと申しました。この御言葉をそのように読む練習、信仰を鍛えることです。自分の肉の弱さを思うなら、思った分だけ、この神のお働きを思い起こすべきです。過去の罪が心に持ち上がるなら、徹底して、その罪はキリストの十字架において処断され、もはや、宇宙のどこをさがしてもその罪の責任を問われることはなくなっていることを認めることです。自分の弱さや過去に目を留めることを止めて、高く、外に目を留めるべきです。どんなに自分の肉の弱さを嘆いても、しかし常に、その自分は決して肉の支配下に留まっているのではなく、霊の支配下、キリストを復活させた全能の神の支配下、父と子と聖霊の交わりの真ん中に招き入れられている自分であることを信じなおすことです。霊的なこのイメージをいよいよ鮮やかに持つために、語りかけられた御言葉を信じて聴くことへと、自分を鍛錬すること、信仰の修練を毎主日、そして明日からも毎日の祈りのなかで、共にしてまいりましょう。

祈祷
肉を持つ、まことに罪の誘惑に弱い私どもであります。しかし、その弱さを肉を持たれた主イエスは憐れんでくださることがおできになられます。さらに、父なる御神、あなたは十字架で死なれた御子を、甦らせてくださいました。あなたは、わたしどもを、死を打ち負かす命の力、復活の命への支配下へと移し入れてくださいました。神の支配を覆す力は、宇宙にないことを信じます。これから後、いよいよ、あなたを見上げ、あなたの御言葉を聴いて信じます。いよいよ、あなたの目に映る自分の姿、罪赦された神の子としての自分の姿をしっかりと見させてください。自分の現在と将来とを明るく見る信仰の眼をいよいよ開いてください。アーメン。