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「神の霊に導かれる者の幸い」

「神の霊に導かれる者の幸い」
2006年11月26日
テキスト ローマの信徒への手紙 第8章12節~17節①

「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」
 

先週は、広島にある平和の君伝道所に参りましたので、特別の思いでここに立っております。わたしにとって、ここ、名古屋岩の上伝道所で説教すること、これこそ喜びです。わたしの存在はここでの説教のためにこそ用いられるものであると思います。ここに呼び集められたおひとり一人のために存在しているということです。それだけに、あらためて皆様への愛が募りました。あらためて主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり、唯一の神からの祝福を告げます。おめでとうございます。私どもは、今朝、父と子と聖霊なる神の交わりのうちに座っています。お互いは、兄弟姉妹、神の家族です。そのような幸いへと今朝、ここにいるすべての者が招かれています。私ども以上に幸いな人間はいません。

 本日は、降誕祭を目指して洗礼の礼典にあずかり、教会員とされることを志しておられる方々との合同の学びのときを持つ予定でおります。洗礼入会式のとき、おそらく、「おめでとう」という言葉を集中的に、教会員から聞くことができるかと思います。それは、まさに名実ともに神の子とされた日、神の子とされていることが客観的に明らかにされるときだからです。しかし、それは一生に一度の経験ではありません。主の日のたびごとに新しく聞くことができるのです。

ここで使徒パウロは言います。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」これこそ、父なる神が御子イエス・キリストによってパウロに与えられた言葉に他なりません。あなたがたは神の子です!とパウロから読者は宣言されます。言わば、おめでとうと祝福されているわけです。しかしそれは、単に使徒パウロの祝福ではなく、神ご自身の言葉を、彼が私どもに告げてくれる言葉に他ならないのです。

「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」ここで、奴隷ではないと告げられています。どういう意味でしょうか。それは、「罪の奴隷」ではない、ということです。そのことは、すでに第6章で集中的に学びました。私どもは、かつては罪の奴隷でした。しかし今は、教会によって伝えられた教え、福音の教え、教理を知りました。学びました。学んで信じることができました。そしてなお学び続けています。そして、この学びによって御言葉に従い、主イエスに従う者と作り変えられてしまいました。そのようにして今や、私どもはただ恵みによって、ただ信仰によって、罪の奴隷ではなく、神の奴隷にさせていただいたのです。かつては、自分の五体を汚れと不法に任せ、地上にあって神なく望みなく生きていたのです。ところが今や、主イエス・キリストのおかげで、主イエス・キリストの十字架の身代わりの死のおかげで、わたしどもは神の奴隷にさせていただいたのです。それが、第6章での使徒パウロの教えでした。

 しかしパウロはこの第8章で、さらにまされるすばらしい恵みの世界を語ります。それが神の子という表現です。使徒パウロは、ここで「アッバ、父よ」と言いました。「アッバ」とは、ユダヤ人の言語、ヘブライ語です。ローマの信徒たちは、ギリシャ語を使う人々がほとんどのはずですが、ここでは「アッバ ホ パテール」と記されています。ホ パテールはギリシャ語で、英語で言えば、「ザ、ファザー」となるでしょう。アッバは、実は、幼児のことばです。赤ちゃんは、しゃべる前に、声にならないような声を出し始めます。アブアブとか、バブバブとかが、アッバの語源であると言われます。つまり、パパとかお父ちゃんということで、幼子の愛と信頼を込めた父への呼びかけなのです。

 さて、前後いたしますが、パウロは12節で、これまでの議論を受けて、こう言いました。「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。」「わたしたちには一つの義務がある」というのです。そして直ちに、それは、肉に対する義務などでは決してないと言います。これは当たり前のことです。通常の文章のつながりから申しますと、この文章はおかしいといわざるを得ません。「わたしたちには一つの義務がある」というのであれば、当然、「霊に対する義務を負う、霊に対する義務がある」と続くはずです。何故、そのようにつながらせないで、言わば、意表をつくような言い方をするのでしょうか。

使徒パウロは、実に徹底した人なのです。厳密に物事を考える人です。この徹底さ、厳密さがどこに向かうかと申しますと、それは、私どもの救いの確かさに向かうのです。パウロは、徹底してキリストの救いの確かさ、罪の赦しの御業の確かさを読者に明らかにしようとするのです。「肉に従って生きるなら死ぬ。」これも8章の前半で徹底的に強調した真理でした。肉、肉、肉、いったい何度耳にしたことでしょう。肉に従って歩む者は、肉に属することを考える。肉の思いは死である。肉の思いに従うものは神に敵対している。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがない。このように肉の性質を糾弾するのです。

 しかし、私どもキリストを信じる者は、肉の支配下にはいません。霊の支配下にあるのです。私どもは、聖霊なる神に属しているのです。これは、主イエス・キリストの十字架と復活の圧倒的な力で、また父なる神が御子を死人の中から甦らせてくださった絶大な力、つまり聖霊で私どもの体を生かし、奪い返してくださったからです。これは、私どもがしたことではありません。私どもは、罪の中に死んでいただけです。「肉では罪の法則に仕えているのです。」と第7章の最後の言葉にあるとおりです。自分の力では、決してこの法則の外に脱出することはできません。たとえて申しますと、どんなにジャンプ力のある人が、飛び上がっても、地球の重力で下に落ちる以外ありません。それくらいに確実に、肉では罪の法則に仕える以外にありえないのです。それほどまでに私どもの罪の力は強いのです。罪は肉に働いて我々を、私どもを虜にするのです。捕虜にし、奴隷にし、人間が、決して重力の外に脱出できないように、縛り付けているのです。

 しかし、重力のたとえを続ければ、今や、重力の外に脱出することができる時代になりました。宇宙ロケットに乗せられるなら、誰でも重力の外に出られます。ただし、どれほど人間知恵を用いても、企てても、死んでしまった人間をよみがえらせることは、絶対にできません。不可能です。それ以上に不可能なことがあります。それは、罪人である人間が神の子となる、されるということです。
ところが今や、神はそれをしてくださったのです。それは、独り子イエス・キリストを罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたからです。つまり、神の独り子のイエスさまを人間とならせ、十字架で私どもの罪の責任を負わせ、罪の刑罰を代わりに償わせられたからです。このイエスさまの御業のゆえにのみ、キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、私どもを罪と死の法則から解放したのです。「今や、キリスト・イエスにあるものは罪に定められることはありません。」そしてそれこそが、14節、「神の霊によって導かれる者」への宣言、祝福の宣言なのです。
 
パウロは12節で、繰り返します。罪を赦され、罪と死の法則、その重力、その押しつぶす力から解放されたキリスト者、言い換えれば神の霊によって導かれた人間には、肉に従って生きる義務などないのだと言うのです。当然のことです。私どもは、肉に従う義務、責任はありません。あるのは、霊に従う義務、責任だけです。肉に従って生きるなら死んでいるのですし、永遠の死、滅びとしての死へと決定されるのです。

ただし、ここでもしかすると皆さんのなかで、この御言葉にいささかの戸惑いを覚えられる方もおられると思います。13節の後半です。「霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」もしも、体の仕業を絶てなかったら、生きることができずに死ぬということになるのでしょうか。ここでも霊によって体の仕業を絶つことが、永遠の命の条件になっているのでしょうか。そのような理解はまったくの誤解です。これまでこの手紙でしてきたパウロの議論は、きわめて単純、明快です。救いは信仰のみなのです。恵みのみなのです。信じるだけです。それなら、なぜ、ここでまるで体の仕業を絶つことが条件のように言われるのでしょうか。

 実はある教会では、キリスト者は、自分のうちにある罪の根を根絶しなければならない。それがキリスト者に求められている道であると言うのです。それが、キリスト者の聖化の歩みであると言うのです。ここで丁寧に、霊によって体の仕業を絶つとはどういうことなのか考えてみることは大切だと思います。

マタイによる福音書第18章に、主イエスのこのような説教があります。「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」

主イエスは他の箇所でも、主を信じる小さな者つまり、キリスト者一人を躓かせ、天国から離れさせる者がいれば、大きな石臼を首にかけられて海に投げ込まれたほうがはるかによいと仰せになられました。そればかりではありません。自分自身の片方の手が、自分を天国から、イエスさまから離すのであれば、切り捨ててしまいなさい。もし片手が、もし片足が、信仰から離そうとし、神に反抗するように誘惑するなら、切り取れと、切り取って天国に入ったほうが、そのまま地獄に行くよりは良いではないかと仰せになられました。

もしもこれを文字通りに実行するとすれば、私どもは、どうなるでしょうか。片方の目どころではなく、明らかに、両目を失ってしまうのではないでしょうか。片手、片足どころではないのではないでしょうか。肉、つまり肉体の全存在を失わざるを得ません。万一、体の仕業を絶つということをそのように理解すれば、一体、五体そろって天国に入れる人はいるでしょうか。天国に入れるような肉体はありえません。それなら、永遠の命、天国の命を受けるためには、どうすればよいのでしょうか。
 まさにこの問題こそ、7章24節、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」との叫びなのです。パウロは7章25節では、わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。と言いました。そしてこの第8章14節では、それを、神の霊、聖霊を通して神に感謝しますと言い換えているわけです。

 主イエス・キリストの御業も聖霊の御業も、私どもの外で、私どものまったくかかわりのないところで成し遂げられました。その意味で、徹底的に、私どもの救いは、神の御業なのです。神の一方的な恵みの行為、出来事なのです。ただし、主イエス・キリストの十字架と復活の御業2000年前の出来事でした。しかし、聖霊のお働きは、今ここでなされているということです。つまり、聖霊なる神は、今ここで、あの2000年前のイエスさまの御業を信じる私どもにぴたりと当てはめて下さるのです。これが神の霊の導き、神の霊のお働きなのです。
 
それにもかかわらず、そこでなお疑い深い人はおられるでしょうか。わたしは神の霊に導かれていないと逆に信じる人はおられるでしょうか。わたしは決して聖霊に導かれてなどいないと確信する人はおられるでしょうか。

 今、私どもの教会には、洗礼入会者志願者が与えられています。志願者の方々は、試問のときまで、まだ志願者のままです。降誕祭に洗礼を受けられるかどうか確定しているわけではありません。本日は、礼拝式後の学びのときで、その試問会で何が問われるのかを改めて学ぶ予定です。

試問会で最初に問われることはなんでしょうか。皆様も思い出していただきたいのです。それは、こうでした。「あなたが救われたのは、ただ恵みによると信じますか」徹底してこのローマの信徒への手紙で学んでいる福音の真理を問うのです。あなたは体の仕業を絶っているのか、あなたの目は罪を犯していないか、とは問いません。それを切り取れとも言いません。あなたは救われているのかと問うことは、あなたは神に導かれている人ですかと問い直すことでもあるはずです。あるいは、あなたは神の子ですかという問いでも良いと思います。まったく同じことを問うのです。

それなら神の霊によって導かれている人とは、どのように人なのでしょうか。端的に申します。それは、決定的なことは、主の日の礼拝式を楽しみにし、これを待ち望み、これを喜びとしているということです。主の日の礼拝式、それは、主イエス・キリストにお目にかかる場所です。神を礼拝し、神に感謝し、神を愛するときです。しかも一人ではなく、神の子たち、兄弟姉妹たちとです。それが自分にとってなくてならないもの、自分の人生の目標であり、喜びであると受け止めていれば、どうして神に導かれていない、神の霊によって導かれていないなどと信じれるでしょうか。主日礼拝式を楽しみにしている人とは、言い換えれば、主イエス・キリストを愛している人のことです。そして、主を自分より、何ものよりも愛する人は、誰でも聖霊に導かれているのです。極めて単純なことです。

 また、神の霊によって導かれている人とは、神を父とお呼びすることができる人のことです。それは、決して人間の力ではできないのです。神のみ子の霊、イエスさまの霊、キリストの霊を受けているからお呼びできるのです。聖霊なる神が内に宿っていてくださるから、天地の創造者なる神を、わたしのお父さまと呼べるのです。

 しかもパウロはそこでこうも言います。「わたしたちの霊と一緒になって証してくださいます」わたしたちの霊も、自分が神の子とされていることを証すると言うのです。聖霊なる神さまは、わたしたちの内に宿ってくださる、住まいとしてくださるからです。わたしの霊は、この聖霊と一つにされてしまうわけです。わたしという存在は体も霊もすべてこの聖霊と一つにされてしまうのです。

 実に、神を愛する愛、これは、外から入り込む愛です。自分の内側にはもともとなかったものです。自分を愛する愛しかないのです。しかもその愛は、自分を駄目にするような愛です。隣人を損なう愛です。神を愛する愛とはぶつかります。神を愛さないのです。ところが、今や違うのです。神の愛が注がれました。神に愛されていることを知らされたのです。気づいたのです。神に知られていることに気づいたのです。そして自分のなかに神を愛する愛が沸き起こったのです。これは、もともとなかったものです。しかし、今はあるのです。そして神を愛することが自分の本心、本音になっているのです。建前などではありません。主イエスへの愛と信頼は、自分の全存在であって、イエスさまなしにはもはや生きれないという思いが与えられているのです。それが私たちの霊と一緒になって証してくださるということなのであります。

今朝、わたしの心に主イエスへの愛があります。皆様の中にはあるでしょうか。もちろんです。あるからここに来ているのではないですか。「アッバ父よ」日曜学校の子どもたちにも、契約の子たちにもすでにこの神の霊が注がれているのです。なんとすばらしいことでしょうか。彼らも、私どもの小さな兄弟姉妹です。

 体の仕業を絶つことも、まさにこの霊のお働き、神の霊に導きによるのです。もとより、根絶などできていません。しかし、始まっています。肉の欲望に流されたくなくなっているのです。それは、確かに始まったばかりのような者です。しかも、実にしばしば、この戦いに負ける者でもあるかもしれません。自分の日常生活のなかで、神よりも自分の時間を優先させるというようなことも負けているということでしょう。伝道、祈り、愛のディアコニアに時間をとらせないこともそうでしょう。そして実にしばしば、私どもは、体の仕業、肉の思いに傾いて、古い自分に戻ろうとするのです。

しかし、大丈夫です。どうしてそう言えるのでしょうか。それは、わたしどもは、パウロとともに自分の罪の悲惨を嘆くことができるからです。自分が罪人であると知らされ続けているからです。しかもそこで、開き直っているわけでは断じてしません。私どもは悔い改めて、信じて立ち上がる術をも知っているのです。主イエス・キリストに感謝します。聖霊に感謝しますと言えるということです。霊に従って生きようと発奮できるからです。そこに、私どもが神の子であることの証拠があるのです。神の霊を受けている、私どもは、なお、「天のお父さま感謝します。助けてください。罪を赦してください。御心をなしてください。」と祈れるのです。祈りはじめているのです。そのような人こそ、神の霊によって導かれている人なのです。

神は使徒パウロを通して、そのような私どもに宣言してくださいます。あなたはわたしの霊に導かれている。あなたはわたしの霊を受けている。あなたは私の子、わたしはあなたを愛している、あなたの愛をわたしは受け入れている、そして私どもの霊もこの神の宣言を心から受け入れることができます。それを喜びとしているのです。そこに、深い共鳴が始まっています。神と響きあっているのです。それは神の愛が私どもと通いあうことです。一方通行ではありません。神さまは私どもに片思いではなくなるのです。私どもが、神の子であると自分を認めるとき、神の愛は私どもに実現し、両思いになるのです。それが鮮やかに実現される場所こそがこの礼拝式です。しかも神さまと一対一ではありません。ここでは愛する仲間、兄弟姉妹皆で、神の愛を受けることができているのです。お互いにも神の愛が通い始めているのです。ですから、私は、どれほそ皆様を愛しているかと思います。皆さんも同じであると思います。

 八木重吉の詩集、「貧しき信徒」のなかの一節に「素朴な琴」という詩があります。晩秋の季節にとてもふさわしい、すばらしい詩です。
「この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美くしさに耐えかね
琴はしずかに鳴りいだすだろう」

 この明るさ、それは、秋の日差しと同時に、いへそれよりも私どもには、光よりの光なる神を思わされます。「この明るさのなかへ」とは、主イエス・キリストの御臨在するこの場所、礼拝堂のなかを思います。そこに素朴な琴をおけば、その美しさに耐えかねて、しずかに鳴り出だす。琴、それはつまり貧しき信徒、私どものことです。今、私どもはこの明るさの中におかれ、「あなたは私の愛する子」と宣言されています。私どもは、どのような響きをたてるのでしょうか。ここにいるすべての人に共通しているのは、単純な言葉、「アッバ」です。「天のお父さま」です。そのように、神を父とお呼びすることが可能とされているのです。神と響きあうことができるのです。「天のお父さま」と鳴り出すことができる、祈ることができるのです。それが神の霊に導かれている私どもの特徴があります。そこに私どものすべてにまさる幸せがあります。

 もう説教を終わりますが、最後の最後に、先ほどの貧しき信徒の中から「美しくみる」という詩をご紹介したいと思います。
「わたしの
 かたわらにたち
 わたしをみる
 美しくみる」

実にすばらしい詩です。聖霊に導かれる人は、自分を美しく見ることができるのです。罪人の悲惨に嘆いても、しかし、神の子として見ることができるからです。アッバ父と呼べる私どもは、今、神の子なのです。

 祈祷
 主イエス・キリストの父なる御神、主イエス・キリストの霊であり、あなたの霊に他ならない聖霊を私どもに豊かに注いでくださいますことを心から感謝申し上げます。この恵みのなかで、私どもは肉の思い、自分を中心とし、第一とし、自分を喜ばせ、楽しませる歩みから、神の子としての歩みへと取り戻していただけます。どうぞ、いよいよ私どもを御霊に導き続け、あなたを仰ぎ見、あなたを御父と呼び続けながら、一歩一歩、喜びのうちに歩けますように。ここに招かれた者たちすべてがすでに神の霊に導かれていることを深く悟り、心から信じ、感謝することができますように。アーメン。