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「圧倒的な救い ー神のうめきー」

「圧倒的な救い ー神のうめきー」
2007年1月7日
テキスト ローマの信徒への手紙 第8章18節~27節③

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」

新しい年を迎え、最初の主の日を祝っています。今年、最初にお会いする仲間たちが多いわけですから、心からの祝福を告げます。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が皆様お一人ひとりの上に、名古屋岩の上教会の上にこの一年もあふれますように。

昨年の最後の礼拝式は、とても寂しい礼拝式でした。そこでも冒頭に申しました。人間にとってもっとも大切なことは、今ここでしていること、しようとしていることだということであります。つまり、神を正しく礼拝することです。神の御言葉を正しく聴き取ることです。一年の最後、それができるのであれば、一年は勝利であると申しました。本日は、一年の最初の主の日の礼拝式です。そうであれば、わたしは心からこう申します。今、私どもがしていることに比べれば、皆様の今年一年しなければならないいかなる仕事、いかなることごとよりも価値があり、大切なことであります。それを今、私どもはしている。それが神を礼拝するということ、神の民として礼拝するということであります。
 
  「うめく」。いったい皆さまは、最近うめいたことがおありでしょうか。最近、教会でうめきを経験なさったのは、加藤姉妹でしょう。元気な男の子を出産されました。それこそまさに産みの苦しみを経験なさったのです。しかしその呻きには、終わりがあります。出産すれば、その呻きは消えるのです。痛みは残るでしょうが、そこには喜びがあり、どんどん小さくなってゆく、やがてすぐに忘れてしまうようになる、わたしには、詳しいことはわかりませんが、いかがでしょうか。
今、わたしは、わたしには詳しくは分からないと申しました。男性だからです。しかしそれでも、想像することはできます。そして、ああ、大変なのだろうと、自分もまた苦しくなるような思いを持つこともできるのです。

使徒パウロは第22節でこう言います。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」もともとの言葉の順序では、「わたしたちは知っています。」から始まります。これは、とても大切なことです。「わたしたち」とは誰でしょうか。キリスト者である私どもに他なりません。パウロは、はっきりと申します。キリスト者は、この呻きを知っているのだと。

この呻きとは、以前にも学びました。被造物のすべて、動物も、自然環境も、ありとあらゆるものが、本来の栄光を失っている。もともとあった自由を失っている。もとの輝きを失っている。それを知っているのです。誰が、どのように教えてくれたのでしょうか。それは、第一には、御言葉です。説教で、創世記第3章のアダムとエバの物語りに、言及しました。アダムとエバが、神が唯一禁じたもうた善悪の知識の木の実を取って食べてしまって、罪を犯したのです。その罪のせいで、大地も空も海も、生きとし生けるすべてのものが、本来の栄光を奪われてしまったのです。そのときの説教で、あらゆる自然災害は、究極的には人災である。人間が罪を犯したから自然が人間を襲うことになっていると申しました。

大自然は、それゆえ、虚無に服しているわけです。いかに美しい大自然であっても、神が創造されたもともとの美しさにははるかに及ばなくなっているのです。そのようにさせられてしまった。人間の罪のせいです。神がそのように、されたのです。虚無に服しているとはそのような意味です。そして、その被造物のなかに、罪を犯した人間そのものが含まれていることは言うまでもありません。人間が虚無に服しているのです。虚無とは、中身がないということです。見た目は良いのです。しかし、中身は空虚、自由がない、永遠の命がないのです。ですから、人間という存在は、すべてうめいているのです。しかし、問題は、そのうめきを人間自身が知らない、知ろうとしないという問題があるのです。向き合おうとしないのです。何とか、そこから逃げようとする。深く物事を考えようとしません。自分とは何か。自分の人生をどう生きるべきか。何のために生まれてきたのか。そのように問いの前に立とうとしないのです。

確かに、創世記を読めば分かります。しかし、おかしな言い方ですが、ただそれだけで分かるのでしょうか。違います。聖書をただ読めば分かるわけではありません。このローマの信徒への手紙も、皆様と読みながら、しかし、分からないと思う方もおられるわけです。誰もが読んで、理解して、信じるわけではありません。つまり、創世記第3章だけで、被造物の呻き、産みの苦しみをしているその姿を認識できるわけではないのです。また被造物の冠である人間自身も、この呻き、産みの苦しみをしていることを知りません。知らないのです。

そこで使徒パウロは言うのです。誰が、この被造物の呻きを知っているのか。それは、キリスト者に他ならないというのです。キリスト者こそが知るのです。霊の初穂を受けている、聖霊を注がれているキリスト者、神をアバ、天のお父さまとお呼びすることができるような者、神の子とされたキリスト者だからこそ知るのです。分かるのです。

これは、とても不思議なことかもしれません。神の子になるというのは、そのような呻きのような苦しみから、もっとも遠いところにいれる人になることではないか。と誤解する人は少なくありません。キリスト者自身がそのような誤解を持つ場合も少なくないのです。

しかし、自分が神の子とされたとき、実は初めて、被造物の「うめき」、産みの苦しみのなかに閉じ込められている苦しみが分かるようになるのです。そして、かつて主イエス・キリストを知らず、罪を赦されていないままの人間のときのうめきの悲惨さを知ります。そしてまた同時に、自分が未だ完成されていない神の子であること、つまり、体をもって生きているゆえに、神から離れていることを知るのです。完成されていない状況にあって厳しい信仰の戦いの真っ只中に生きていることを知るのです。

ですからキリスト者は、「わたしたちは知っている」と言えるのです。そこであらためて思い出してよいことがあると思います。それは、主イエス・キリストが地上に来られたとき、もっとも激しくこのお方に反抗したのは誰であったのかということです。逆に申しますと、主イエスがもっとも激しく戦った相手は誰であったのかということです。それは、自分は罪人ではないと自認した当時の宗教家、信仰者のエリートたちでした。律法学者やファリサイ派の人々です。彼らは、罪深い生き方をしている人々を軽蔑していました。彼らは立派な生き方をしておりました。掟を守り、表面上は何の問題もない立派な大人、今日でいえば成功者です。エリートです。しかし、彼らは、他人、隣人の痛みや苦しみ、まさに「うめき」を知ることがなかったのです。いや、知るということが、単に知識の次元でいうなら知っていたかもしれません。そして、どうしてそのような悲しみ、苦しみ、痛みを味合わなければならないのか、その原因を解説し、その病理を解き明かすことも軽々とやってのけられたでしょう。しかし、一緒になって「うめく」ことはできないのです。どうしてでしょうか。それは、共感する心が欠落しているからです。まったく自分中心にしか生きていないからです。主イエスは、このような宗教的なエリート、立派な人々と人々から認められ、誰よりも自分でそう認めている彼らが、当時の疎外されていた人々の苦しみや悲しみに共感できないことを悲しまれたのです。

しかしこれは、他人事ではありません。キリスト者であっても、なお、そのような恐るべき罪に後戻りすることがないわけではありません。神を知らず、それゆえに希望を持っていない人々が、偶像礼拝をしています。過去最高の人々が神社に詣でたと言われています。今年こそは、家内安全、商売繁盛で、まことに自分勝手なご利益信仰を行います。まったくまことの神の御前に恐るべき罪を犯しているのです。しかし、もしも、彼らを冷たく突き放してしまう、つまり、共感する心を失うのなら、私どももまた、結局そこでファリサイ派の人々のような罪を犯し始めることになるのではないでしょうか。そこで、彼ら自身が知ることができていない「うめき」を、見ることです。彼らが自分で認めていない、恐るべき罪を犯してしまうその悲惨を、私どもは知るべきです。そして、心を痛める。私どもこそが、彼らに代わって、彼らのうめきに心をよせるべきなのです。そして、そこから私どもの伝道や証の言葉もまた新しくされる、新しく与えられるのです。

先週、ある方から、自分の家族、いつも顔を合わせているのに、自分がどれほど聖書の信仰を証していなかったのか、それによって教会やキリスト教信仰に対しての距離を埋めてあげることができなかったのかに気づかされたと教えていただきました。本当にそうだと思います。きちんと知っていて、拒絶するならしかたがありません。しかし、よく知らせていないで、それゆえに、理解してもらえず、それだけに恐れを持ってしまう。それではいけないと、ご自分で神に示されました。

私どもは、一緒に生きている者、まさに隣人の苦しみや悲しみに心を閉ざしてしまうことがどれほど多いことかと思います。キリスト者は、被造物のうめきを知っているのです。なぜなら、誰よりもうめいている、このまことの神の御前におけるうめきを知っているからです。自分自身が最もうめいているからです。

それなら、キリスト者はそこで敗北者なのでしょうか。惨めな、敗残者なのでしょうか。違います。そこで私どもは、待ち望むことができるのです。神を待ち望めるのです。神が私どもの死に定められた体を完全に贖ってくださること、完成してくださること、人となられた神の御子イエス・キリストのようになれる、ならせていただけることを知っているからです。それを今ここで、味わい始めているからです。その味わいを聖餐の食卓で、今朝も味わうのです。そして聖餐の礼典がないときにも、毎日味わっています。それこそが、使徒パウロがこの第8章でもっとも伝えたいキリスト者の幸いです。それは何でしょうか。それは、第15節です。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼ぶのです。聖霊を受けている。神の霊を受けている。それは神の御子の霊、イエス・キリストの霊です。ですから、イエス・キリストの父を、私どももまた天のお父さま、父よとお呼びできる者、つまり神の子とされているのです。この神の子とされていることこそが、私どもの究極の救い、勝利なのです。これにまさる成功、これにまさる幸福はありません。だからこそ、繰り返しますが、神の子として完成されていない自分の現実をうめくこともできるのです。

そして、今朝、最後にここでのもっとも大切なメッセージを聴きたいのです。これまで、第一に、被造物のうめき、第二に、キリスト者のうめきを学びました。そして最後に「神のうめき」を学びたいのです。
繰り返しますが、ファリサイ派の人々は、うめきを知りません。うめきなど、宗教的に、信仰的に弱い人間、貧しい人間、掟を守っていない人間であると理解するからです。ですから、キリスト者のようにうめいている信仰者がいれば、共感することはありません。同情することはありません。むしろ、見下すのです。これこれがあるから、駄目なのだと。理由を説明し、指摘し、批評、批判してくれるだけでしょう。

それなら、このようないわば弱い、うめいているキリスト者を神はどのようにご覧になっておられるのでしょうか。使徒パウロはまさに、まさに驚くべきことを告げます。26節「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」聞き間違いでも、読み間違いでもないのです。聖霊なる神ご自身が、うめいておられると言うのです。私どもをお救いくださるお方、御自ら、うめきを知っておられるのです。なんということでしょうか。うめいているキリスト者を冷たく見下すとか、だらしがないと突き放すとか、もっとがんばりなさいと上滑りに励ますとか、冷めたまなざしで見捨ててしまわれるのではないです。

聖霊なる神ご自身が、わたしどもが、既に神の子として救われながら、しかし、地上にあって、肉体を持つゆえに不信仰と戦い、自己中心と戦い、サタンと戦って苦闘し、うめいている私どもと一緒にうめいておられるというのです。ここにこそ私どもの神の子としての立場は揺ぎ無いのです。私どもが、今あるがままで大胆に、天地の創造者にしてすべての主権をもっておられる全能の神に向かって、わたしの天のお父さまとお呼びできるのは、この聖霊のうめきのおかげです。使徒パウロは、ここでわざわざ、「言葉に表せないうめき」と言いました。うめきというのは、言葉にならないものです。それがうめきです。つまり、これまでの被造物のうめき、キリスト者のうめきより、さらに強調しているのです。誰よりも、このような世界やキリスト者の救いのために「うめいて」おられるのは、聖霊なる神ご自身に他ならないのです。だから、私どもは安心して、大胆に、神を父と呼ぶのです。

使徒パウロは「弱いわたしたち」と申します。「わたしたちの弱さ」と訳すこともできます。どちらも間違いではない。しかし、「弱いわたしたち」とした方がやはりふさわしいのではないかと思います。「弱いキリスト者」です。キリスト者は弱いのです。昨年の主題聖句は、テモテの手紙Ⅱ第2章「わたしの子よ。キリスト・イエスの恵みによって強くなりなさい。」でした。皆様への誕生カードなどにも、この御言葉を記しました。キリスト者はディアコニアのために、隣人への奉仕に生きるために強くなければならない。その通りです。この強さは、隣人を生かす強さなのです。けれども、同時に、キリスト者は、かつて主イエスを知らないときと比べて弱くされているということも真実なのです。どうしてか。言うまでもありません。「うめき」を知らされたからです。自分の肉体が完全に贖われることがなければ、神さまに従順に生きることが、決して楽なことではないと知っているからです。13節で「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。聖霊によってからだの仕業を絶つなら、あなたがたは生きます」とパウロは言いました。「わたしはなんと惨めな人間なのだろう」という嘆き、うめきを私どもは、主イエスに救っていただいたからこそ、知ったのです。それを知らないときには、高慢に生きることができました。「自分も悪いけれど、誰だってそれくらいのことをしているではないか。だから、かまうものか。」そのように、おそるべき考え方を恥じることもなかったのです。自分はまだまだ、比べれば良心的な方だと、うぬぼれてさへいたのです。しかし、神を知り、神に知られて、弱さを知りました。自分の罪深さがどれほどのものであり、どれほど恐ろしい結果になるのかも知りました。ですから、特別に弱いのです。それが「弱いわたしたち」「キリスト者の弱さ」です。しかし、大丈夫です。神の子としてくださった聖霊が、そこでも私どもを助けてくださるのです。それなら、聖霊はどのように助けてくださるのでしょうか。

私どもが本当に苦しみ、悲しみのなかでうめくとき、まさにそこで何が問題になるのかというと、そうです。うめきです。うめきとは言葉を失うことです。言葉にならないのです。人間が言葉を失うとまさに危機の中の危機です。人間同士の間で言葉を失うのはもとより危機に違いありませんが、おそるべき、最大の究極の危機とは、神との間で言葉を失うことです。つまり、お祈りができなくなることです。これ以上の危機はないのです。しかし、キリスト者であれば知ることなのです。

神社に詣でる人々には知らない「うめき」です。神社に行って、お祈りをする。子どももするでしょう、「何をお願いしたのか」「それは秘密」そんな会話がなされることもあるでしょう。しかし、「何をお願いしたのか」「言葉にならなかった」「うめく以外になかった」このような会話する人は、ほとんど一人もいないのではないでしょうか。しかし、キリスト者は知っているのです。お祈りができなくなるほど、祈りの言葉さへ、失ってしまうほどの危機、試練を知るのです。未だ知らない方もおられるでしょう。しかし、いつか、そのようなところを神が通されるときもあると思うのです。

しかし、パウロはそこでこそ、こう言うのです。「祈れ」「祈れないときには祈らなくてもよいのだ」ではなく、大胆に祈れと言うのです。どうしてなのか。聖霊ご自身が、わたしどものためにうめき、そればかりか、執り成してくださるからです。私どものために祈ってくださる神がおられるのです。聖霊なる神が、私どもの祈り、どんなに拙い祈りでも、まるで神の御子、イエスさまの祈りであるかのように、執り成してくださるのです。

「執り成す」「とりなしの祈り」この言葉は、実に聖書的な言葉です。日常ではめったに使わないかもしれません。しかし、教会生活を始めると、毎日、用いる言葉、用いなくても自分の務めになるのです。執り成しとは、誰かのために、神さまに祈ることです。「あの人、この人を宜しくお願いします」と祈るのです。それが執り成しです。信仰の言葉出ない局面で使うのは、ほとんどが人間関係を、第三者に取り持ってもらうときでしょう。あの人に誤解されている。悪く思われている。そこで、第三者に相談して、実は、あの人はあなたが思っているほどには悪くはないのだ。いや、良いところもあります。そうして執り成しが成功して、関係が修復するということも起こる場合もあります。ですから、この「第三者」となってくれる人、執り成し手、取り持ってくれる人の存在は、どれほど貴重でありがたいものでしょうか。

神との間で、聖霊なる神ご自身が私どもの祈りを、執り成してくださるのです。それなら、この聖霊のお働きによってたちどころに、言葉がたくさん与えられるのでしょうか。これも、すでに多くの方がご経験なさったことではないでしょうか。そうではないのです。うめくように、神の御名を呼ぶのです。アッバと、天のお父さま、天のお父さまとお呼びするのです。それだけです。主の祈りの、「天にまします我らの父よ」それだけしか出てこない。しかし、聖霊が呼ばせてくださっているのです。そしてそのときには、聖霊が、言葉にならないうめきをもって執り成してくださり、まるで、イエスさまのように父なる神さまに、神に喜ばれる祈り、正しい祈り、真実な祈りとして届けてくださるのです。ここに私どもの勝利があります。

私どもに与えられている救いとはいかに、堅固なもの、強固なもの、揺ぎ無いものであるかが分かります。まさに圧倒的な救いの恵みです。聖霊なる神ご自身が、私どもと一つになって、父なる神との交わり、祈りを取り次ぎ、結んでくださるからです。

ですから大胆に、祈ります。天のお父さまと今年も、大胆にお呼びします。そして、自分のために執り成してくださる神の恵みを覚え、私どももまた、執り成しの祈りをささげるのです。うめきつつ、しかし、喜びにあふれて明るく、希望をもって、信仰の旅路を続けてまいるのです。

祈祷
私どもは、あなたを知ったゆえに、神の子とされたゆえに、被造物のうめきを知らされました。他ならない、自分自身が、体の贖われることをひたすらに待ち望み、そこでうめいているのです。そのようにして、このうめきのなかにある人々にかわって、うめき、彼らの恐ろしい現状を彼らに代わって理解し、同情し、共感し、憂えることができるようになりました。そのようにしてくださったのは、ほかならない父なる神よあなた御自身です。そればかりか、私ども自身のうめきを、あたなが軽しめられず、むしろあなたこそがそこで私どもに代わって、うめいて、しかも、力強く、確実に執り成していてくださるのです。なんという救いの確かさであるかと思います。心から感謝申し上げます。どうぞ、聖霊なる御神。あなたの執り成しによって、いよいよ、正しく祈らせてください。正しくあなたとの交わり、信仰に生き続けることができますように、毎日、毎日導いてください。そのためにも、神の言葉を聴き取らせ、全存在を集中して、説教を聴く教会とならせてください。  アーメン