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「仕えられるためではなく」

「仕えられるためではなく」
2007年1月26日(会員総会)

テキスト マルコによる福音書 第10章36-45節
「 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

本日は、この礼拝式を終えましたら、すぐに会員総会を開催いたします。2007年度の歩みを年報によって、委員たちの報告によって振り返り、あわせて新しい年度のビジョン、目標をお互いに深く確認し、志と祈りとを一つにして出発するよいときとなすことを期待いたしております。そして、今年も昨年に引き続きまして、年間の主題聖句を掲げることといたしました。昨年度は、「キリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。」を思いつつ歩みました。そして、教会の一つのはっきりとした目標として、教会がディアコニアの群れ、奉仕者たちの群れになること、「ディアコニア元年」と銘打って、特に後半の歩みを始めました。そして今年は、いよよそれを受けて、この歩みを会員ひとり一人が、深めてまいりたいと願います。そのために、今年、「ディアコニア委員会」という特別の委員会を組織しようとしています。教会には、教会学校の一つの交わりとしての「姉妹会」も組織されています。伝道所委員会は、これまでのようにこれからも、いよいよ教会のディアコニアの成長のために、仕えてくださるでしょう。
そのような私どもの教会の今年の一年の標語、それは、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」マルコによる福音書第10章45節の御言葉にいたしました。実は、最初は、このテキストを一回で語るべく準備をし、予想を立てておりました。しかし、昨日の夜になって、これを一回で語ることはできないと考え直したのです。本来は、この御言葉がおさめられています、物語全体をテキストにして学ぶことが必要です。しかし、本日は、特に45節を取り上げて、主題をしぼって学ぶことといたしました。

さてこの物語は、二人の弟子の発言から始まります。ゼベダイの子ヤコブとヨハネです。この二人は、主イエスの弟子たちのなかで、いわば一番早くから、主の伝道のお働きを助けた二人です。漁師をしていたシモンとその兄弟アンデレが、最初に弟子に召しだされ、その後に、同じく漁師をしていたこの二人の兄弟ヤコブとヨハネも弟子に召しだされたのです。
そして、間違いなく、この4人は、他の12人の弟子たちの中でも、際立つ存在であったことが分かります。たとえば、ヤコブという人は、使徒言行録第七章によれば、ヘロデ王によって剣で殺されています。殉教したのです。そして、弟のヨハネの方は、おそらく100歳に近くまで生き続け、福音書や手紙を残したであろうと言われています。まさに主イエスの弟子のなかでも際立った存在であるわけです。

私どもは昨年の秋、集中的に教会のディアコニアについて学びました。多くの仲間たちの発題の声に耳を傾けました。大変、印象深い学びの時を持つことが許され、今も深く感謝して思い起こすことができます。私どもは、そこで、キリスト者とは、自分が奉仕者となるべく救われたこと、自分がイエスさまに救われた目的は、神に仕え、隣人に仕えて生きることなのだと確認しました。それを深めたのです。私どもの教会の営みのすべてがディアコニアと関わるものである、奉仕と無関係のものはないと確認したのです。
 そのような私どものあの学びを振り返るなら、それは、要するに、このテキストにおいて、語られた主イエスの御言葉に要約できるかと思います、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」「皆に仕える者となりなさい。」「すべての人の僕になりなさい。」これが主イエスの弟子たちに求められていること、主のご命令なのです。
実は、これに先立つ、第9章でも、弟子たちはイエスさまがおられないところでこんな議論を始めたのです。「弟子たちのなかで誰が一番偉いのか」実に、世俗的な議論です。イエスさまの御心をまったくわきまえていない議論です。ですから、主イエスは彼らの議論を見過ごすわけにはいかなったのです。そして、こう命じられました。「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」「すべての人に仕える者になりなさい。」という命令を厳かに受け止めたのです。
つまり、第9章でもこの10章でも、主イエスが、弟子たちに求められたことは、ディアコニア、奉仕に生きること、仕えることでした。隣人に仕えることです。
マルコによる福音書のなかで一番最初に、奉仕、ディアコニアという言葉が出てくるのは、第一章です。主イエスがシモンとアンデレの家に行ったときのことです。そこには、弟子とされたばかりのヤコブとヨハネも一緒でした。そのとき、実は、シモンペトロのしゅうとめ、妻の母が熱を出して寝ていたのです。シモンとアンデレもヤコブとヨハネも、主イエスの弟子となるようにお招きを受けました。「人間をとる漁師にしよう」と招かれて、彼らは、自分の仕事漁師をやめたのです。ヤコブとヨハネは、父を残してやはり漁師をやめて、主に従って行ったのです。ところが、主イエスは、ここで彼らの家族を顧みられます。イエスさまの弟子になるということ、特に伝道者になるということは、父と母を捨てて、自分のこれまでの職業を捨てて、主イエスに従うことが求められている、命じられている、教会の歴史において、そのように考えられてまいりました。それは、基本的に、今日も同じです。同じであるべきです。それが神に専心して仕える者の道であると思います。しかし、そこで、父と母をもはや顧みない、捨ててしまうことを意味するのでしょうか。違います。大変、不思議ですが、今、弟子となって、一切を捨てて従い始めたばかりのシモンペトロの家に主が訪問なさるのです。なんとすばらしいことでしょうか。つまり、主イエス御自身が、特別の関心を注ぎ、特別に顧み与えてくださるのです。これは、私自身も、すでに経験してことです。何度か、証をしたことがありますが、わたしが神学校を行こうとしたとき、大変な反対を家族から、母から受けました。言わば、家族会議、親族会議まで開かれたのです。わたしの気持ちをくじくためにはるばる仙台から、おじさんが家に来てくださったのです。しかし、そうまでしても効果がなく、わたしは、悲壮な思い、覚悟で神学校にまいりました。しかし、そこで、神は、母を信仰へと導いてくださり、家族をすべて信仰へと導いていただいたのです。
それはまるで、このときのシモンの家を訪ねてくださるイエスさまのようです。シモンの姑が、熱を出していました。単なる風邪なのか、何か重い病に冒されていたのか、分かりません。しかし、家の人は、主イエスにこのことを告げたのです。するとどうでしょう。主イエスは、すぐにそばに行かれます。そして手を取って起されました。するとどうでしょう。彼女の熱はすぐに下がったのです。しかし、ここでマルコによる福音書が告げようとするもっとすばらしいことがあるのであります。
マルコによる福音書のなかで最初に出てくる奉仕、ディアコニアという言葉がここで出てくるのです。それは、「もてなした」という言葉です。もてなす。食事のおもてなしをしたのです。それは、ディアコニアという言葉なのです。何よりも、すばらしいことは、ペトロの姑の熱が冷め、癒されたことは、彼女が立ち上がって、彼女も一人の奉仕者になったということです。

ここにキリスト者の原体験を見ることができます。「皆に仕える者になりなさい。」主イエスは、弟子たちに、すべての人にディアコニアする人になりなさいとお命じになられます。それは、弟子たちが、この姑のように、主の癒し、主のもてなし、つまり主イエスのディアコニアを受けたからです。この主の奉仕を受けた私どもは、癒される。そして人間が本当に癒されるというのは、自分がそのままで、奉仕者になることなのです。その意味では、救われるということは、奉仕者になるまでのこと、奉仕者になっていないのであれば、実質的には、まだ救われていないとすら言いえるかもしれません。もとより、すべての弟子たちが肉体の病が癒されるということでは、現実にはないのです。体が思うように動かないキリスト者も、数知れません。肉体の障害、ハンディだけではありません。様々なハンディを抱えて、キリスト者となっている仲間たちがおられます。しかしながら、そこで、キリスト者であるということの共通項は、奉仕に生き始めるということです。どうしてそう断言できるのでしょうか。それは、キリスト者とは、例外なしに、主イエス・キリスト御自身のディアコニアを、もてなし、お世話、ご奉仕を受けている人間に他ならないからです。
 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」
このように仰せになられた主イエスは、続けてこう仰せになられます。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

主イエスは、仰せになられました。人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来た。主イエスこそが、まことの、唯一の支配者であり、絶対の圧倒的に偉い人のはずです。この世の価値観、考え方から申しますと、イエスさまはすべての人からかしずかれ、奉仕されて当然のお方のはずです。イエスさまの周りには、護衛がつき、執事がつき、イエスさまのお求めになられることは何でも、全員が従わなければならないはずです。
ところが、主は、仕えるために来られました。王の王であられるイエスさまは、徹底して僕になられたのです。王なる僕です。王であられる奉仕者です。そして、ついには、十字架の上で、私どもの罪を贖う代価として御自身の命を捧げてくださったのです。ここでは、身代金と言われます。誘拐犯に誘拐されて、暗いところに閉じ込められ、身動きできないような人間の解放のために、身代金が要求されます。まさに主イエスは、私どもが自分の罪のゆえに、罪の世界の中に監禁され、言わば永遠の滅びの死へと落とされる拳銃を突きつけられたような状況にいたところに、主イエスがご自身の命を身代金として十字架で支払ってくださったのです。王の王、主の主であられる主イエスが、その究極の奉仕を捧げてくださったのです。そしてその奉仕を受けて、私どもは今日の救いの恵みを受けているのです。
この主イエスの命がけのディアコニア、もてなしを受けた人だけが、信仰を告白できるのです。そして、私どもは、まさに、この身代金を支払われて、解放されたのです。この主の奉仕が私どもを駆り立てるのではないでしょうか。じっとしていられなくなるのではないでしょうか。
そこでは、ただ、仕えなさいと命じられるから、いやいや、強いられてするという世界ではなく、あの姑が病気を治していただいて弟子たちをもてなしたのは、そうせざるを得ない、そうしたくたまらなかったからなのではないでしょうか。命じられていません。あなたは、癒されたのだから、恩返しをしなさいと言われません。

その意味で、私どもの奉仕を、何か、特別のこととして考えることもないのかもしれません。キリスト者とされた人間は、ただ救われたそのことだけで神の栄光をあらわしています。それは私どものゆずれない確信です。人生の目的は、神を知り、神を喜び、神の栄光をあらわすことです。しかし、そのことは、ただ一点、主イエス・キリストを信じて救われるというただこの一点によってかかっています。今朝の御言葉で申しますと、主イエスが私どものために命をかけてお仕えくださったことです。主の命がけのご奉仕にあずかったということです。主のディアコニアを受けるだけで、神の栄光をあらわすことができるのです。それだけでアーメンです。
しかし、そのような人間は、実はそれで終わらないのです。正確に申しますと、終われないのです。救われた人生は、常に、神と人とを愛する人生へと放たれるのです。解放されるのです。それが私どもの本心になるのです。本音になるのです。愛さないと救われない、奉仕、隣人愛に生きないと救われないから、するのではないのです。条件ではありません。強いられてのことではないのです。主イエスからの愛や祝福、恵みの見返りを求めて、主の戒め、命令を守ろうとするのではないのです。
主にお仕え頂いたものは、いてもたってもいられなくなる、このわたしもまた、主への奉仕、隣人への奉仕へと促されるのです。

わたしは先週、ある方からメールを頂いて、そのなかで、最近いよいよ有名になり、活躍されている日野原重明医師の言葉を知りました。そして、その言葉の出所をインターネットで調べようとしたところで、まったく思いもかけず、一人の青年医師のことを知りました。そして、実に、励まされたのです。
宮川真一さんという方です。この方は、今、バングラディッシュにキリスト者の医師として赴任されています。日本キリスト教海外医療協力会から派遣されています。愛媛県宇和島の出身です。中学生の頃、当時、ネパールで医師として赴任されていた、この方も大変有名な方ですが、岩村昇医師が帰国のたびに、宮川医師の出席されていた教会に来られ、講演をなさったのです。岩村医師の語る、海外医療の世界にあこがれたそうです。教会において、キリスト者の一人の医師の講演を聞いたのです。まだ中学生です。しかし、中学生の心に、将来、自分もまた医師が不足して厳しい衛生環境のなかで倒れてゆく人々を助けたい、よい隣人になりたいという夢、志に火がついたのです。

しかし、宮川氏は、医師をめざしながら道が開かれず、大学では神学部に入られました。そこでの関心事は、「人の苦しみ」だそうでした。「神学の学びの延長線上には医療があったといわれます。しかし神学部での神学の学びは、奥深く、それまでの信仰を根底から崩され、再び立て直さないといけない厳しいものとなったそうです。そして、大学神学部を卒業しなお、医師の夢を追い求め、ついに、徳島大学医学部を卒業なさったのです。卒業後は、心療内科の医師となられ、海外での働きに備えたのです。
わたしは、はじめて宮川さんという医師がご夫妻でバングラディシュに赴かれたことを知りました。一人の中学生に夢を与えたのは、岩村昇さんという有名なキリスト者医師でした。そして、最近、世間でも、注目を集めることになった、アフガニスタンのペシャワールで数十年と働き続けた医師、中村哲氏とも親しいそうです。もとより、キリスト者だけがそのような働きをなすわけではないと思うのです。
しかし、日野原医師の言葉だそうですが、「日本医学教育学会員の間でのキリスト教徒の数を調べた統計では、会員のうちのキリスト教信者は10%もあることに驚いた。」キリスト者人口が1パーセントにも満たないキリスト者であるのに、10パーセントがキリスト者であった。そこに、主イエスのディアコニアを受けた人間の特質が現れているように思います。
この宮川医師を支える支援会の寄せ書きの言葉のなかに、このような言葉がありました。「どこにいて、何をしていても、人々の役に立つような人間になればいいんだ。わざわざ医者なんかになりやがって」と、もう一度、20年前と同じ言葉を送ることで、彼の傲慢な生き方を大いに祝福したい。不思議な言葉で、忘れがたいです。この方もキリスト者なのでしょうか。分かりません。しかし、「どこにいても、何をしていても、人々の役にたつような人間になればいいんだ。」なるほどその通りです。この宮川医師もまた、わざわざ医者にならなくてもよかった。ましてや、バングラディッシュに行くこともない。そうでしょう。しかし、この方にとって、おそらくそれが召命なのです。神に呼ばれているのでしょう。奉仕に生きる、人に仕える、それがこの方にとっては医者になることであったのです。バングラディッシュに赴くことだったのです。もとより、誰でもが医者になれるわけではないでしょう。しかし、誰でも医師であれば、このような志をもっているか、それは、極めて疑わしい現実があるように思います。
週報の牧会通信にも記しました。私どもの教会の中から、中学生、高校生たちから、志を与えられて、とにかく、「どこにいても、何をしていても、人々の役に立つような人間に」と生き始め、勉強する子が育つことを期待します。祈ります。

私どもの教会が、教会としてそうなることを祈り求めます。教会員が、それぞれが、お互いのために生き始める。誰一人、自分のために生きるのではない。マルコによる福音書は、シモンペトロの弟子であった、マルコが、ペトロから聞いたことを中心として書いたのだと言われています。また、一方で、使徒パウロとのかかわりもあります。パウロは、コリントの信徒への手紙Ⅱ第五章でこう言っています。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」
自分自身のために生きる生き方ではなく、自分のために死んで復活してくださった方のために生きる、これこそ、わたしどもの救いなのです。キリストの奉仕を受けた人間は、このように生きるのです。

そこであらためて言う必要もないかもしれませんが、障害を持ち、高齢者であったら、何もできないというのではないのです。私どもは、キリストのために生きる、これが原点です。キリストのために全存在をささげる、贖われ、身代金を支払ってくださったのは、イエスさまなのです。ですから、わたしの全存在は、どれほど高価であるかを思います。イエスさまのおもてなしを受けるほどに、自分自身を高価であるとみなす。これが、ディアコニアの原点です。自分を粗末にして生きる人には、どうして、隣人を愛し、もてなすことができるでしょうか。先ず何よりも、大切なのは、自分の存在が、どれほど重んじられているのかを知ることです。
すべてを捧げて主に従うという志は正しいのです。しかし、主イエスの方では、そこで、誰よりもわたしどもの家族を、愛する者を顧みていてくださるのです。それを信じること。そこで、わたしどものディアコニアが成り立つのです。
私どもの教会も、一歩でも二歩でも、そのように我を忘れるようにして、主のために生きることへと成長したい。
今年の私どもが、そのような経験を深めることを祈りたい。バングラディシュに行かなくともよい。医者にならなくともまったくかまわない。しかし、私どもはキリスト者です。私どもに与えられている宝は福音です。永遠の命です。イエスさまを紹介できるのです。主イエスの愛をおすそ分けできるのです。
奉仕表に始めて、自分のために誰かに助けてもらう必要がありませんかと書きました。応答者はゼロでした。なるほど、万一、助けてもらうところだけに○をされるなら、それは、この説教で語ったように、問題です。しかし同時に、奉仕は、キリストにされるということがキリスト者の基本ですが、もう一方で、兄弟姉妹に助けてもらうということも、大切です。助けることだけをするというのも、そこに危険性があります。それは、教会のディアコニアは上下関係、上から下に助けるという関係や、その逆もないからです。それは、主イエスによって相互に助け合う、仕えあう関係なのです。教会のディアコニアのために、お互いが必要なのです。ですから、ときに大胆に、助けを求めたい、そのような教会の交わりを育てたいと願います。そして、皆が奉仕者になる、広い意味で申しますと、奉仕を受けることも奉仕になる、そのような関係、交わりが真実のキリストにある教会なのです。
 来週もなお、このテキストから学びます。しかし、今朝、あらためて、仕えられることではなく、仕えることこそ、私どもの特権であることを知りました。この道を進んでまいりましょう。