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「主イエスの左右に座れる人」

「主イエスの左右に座れる人」
2007年2月4日

テキスト マルコによる福音書 第10章36-45節②
「 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 先週は、恵みのうちに会員総会を終え、新しい年度を迎え、ディアコニアに生きる教会、奉仕に生きる教会員、神と隣人に仕えるキリスト者として新たな一歩を踏み始めました。
先週の説教で予告しましたとおり、本日も、先週と同じ聖書箇所、テキストから学んで、神を礼拝いたします。

この物語は、主イエスの弟子たちのなかでもそのもっとも初めから弟子として従った二人の兄弟、ヤコブとヨハネの申し出から始まります。彼らはこう申します。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」別の翻訳では、こうです。「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。こちらの方がニュアンスを伝えていると思います。彼らは、実に大胆な願い方をするのです。「わたしたちが今から、お願いすることを、かなえてくださいますね。必ず、かなえてくださることを信じています。」そのような、言い方なのです。

先ず、この二人の言い方を深く考えてみたいと思います。いかがでしょうか。皆様は、このようなお願いの仕方をしたことがあるでしょうか。あるいは、されたことがあるでしょうか。いや何よりも、皆さまは、主イエスにそのようにお願いしたことがあるでしょうか。しておられるでしょうか。
そこですぐに気づくことはこういうことではないでしょうか。このような言い方は、特別に親しい関係、信頼関係にあるのでなければ成り立たないということです。あるいは、こう言ったら言い過ぎでしょうか。「甘えている」ということです。彼らの言い方は「甘えている」言い方ではないでしょうか。そして、このように甘えることができる関係、このようにお願いできる相手を一人でも持っている人は、それだけでも幸せ者であると言えます。ヤコブとヨハネと主イエスとの関係は、何よりも絶対的な信頼関係にあった、先ずそのことを深く心に留めたいと思います。

それは、主イエスのこの言葉でも確かめられます。「何をしてほしいのか」主は、彼らのお願いの仕方を拒絶されていません。そこに、鮮やかに、この二人と弟子との間にある信頼関係の深さ、揺ぎ無さを思います。彼らのお願いの仕方そのものは決して、主イエスを憤らせ、悲しませてはいないのです。

さて彼らの願いに耳を傾けてみましょう。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」「栄光をお受けになるとき、私どもの一人を右に、左に」一体彼らは、ここで何を願い求めているのでしょうか。栄光とは、支配という意味が込められています。主イエスが王の王として支配されるとき、王としてイスラエルの国を治められるとき、という意味です。確かに弟子であれば、主イエスのご目的である王としてのご支配、神の力が鮮やかに地上に実現するのを一日も早く求めることは当然のことでしょう。その喜びの日を待っている自分たちであればこそ、イエスさまとともにイエスさまのもっとも近くで喜び祝いたいという願いは、弟子としては当然の思いでありましょう。

ところが、主イエスは、このように仰せになられました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」彼らの願いは、自分自身で、何を意味しているのかが分かっていないのだと言うわけです。早く申しますと、間違っているということです。それなら、何が間違っているのでしょうか。そのことを考えるとき、何よりも、この物語の直前に置かれている主イエスの告白です。イエスさまは、ここで三回目のご自身の御受難の予告をなさいました。十字架につけられ、殺される。しかし三日の後に復活するという予告です。すでにこれまで少なくとも三回語っているのです。

そうであれば改めて、ヤコブとヨハネとが期待していたのは、どのような栄光かということが問われます。端的に申しまして、いわば政治的権力者になる道、そのようなこの世の王としての栄光なのです。ここで彼らの理解し、願っているキリスト像、イエスさま理解と、真のキリスト、本物のイエスさま理解とは、まったくぶつかってしまっているわけです。悲しいことに、彼らが主イエスにどんなに期待しても、どんなに強く信じていても、それはあるがままのイエスさまとはまったく無関係になります。こう申してもかまいません。彼らは、イエスさまを「偶像」にしてしまったのです。このローマ帝国の支配下にあるイスラエルを解放し、神に選ばれたイスラエルの自由と輝きを取り戻す救い主こそ、イエスさまだと自分勝手に理解し、そのようなイエスさまを信じ、従っているのです。

ですから、主は仰せになられます。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、わかっていない。」実は、この鋭い主イエスの警告、叱責を私どもも聴かなければならないこともあるのではないでしょうか。もしも、私どもが、常に新しく神の御言葉を聴いて、自分勝手な信仰理解、自分勝手なイエスさま理解にこだわっているなら、それは、どんなに熱心で、強固な信仰であっても、それは、まことの信仰とは無縁です。それは信心、あるいは信念と呼んだほうが良いでしょう。そのような信心、信念は、信仰とは無縁のものです。御言葉によって、常に新しくされること、変えられること、それが、私ども改革教会の名称、標語です。ですから、私どもは毎週、安息日を聖とするのです。祈祷会を重んじるのです。繰り返して、御言葉を聞き続け、絶えず変わろうとする、新しくなろうとすることをめざしているのです。「変わろうとすることをやめるとき、生きようとするのを止める。」何度も、紹介する言葉です。

主は尋ねられます。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」この質問の狙い、意図は何でしょうか。それは、ご自身が栄光を受けるということがいったい何を意味しているのかということをお教えになるためです。つまり、十字架の道、苦しみの道、苦難と死の道です。それを通らなければ、栄光に至ることはできない、その道を主イエスはまさに受けられようとしておられるのがこのときなのです。

彼らは即答します。「できます。」実に大胆な答えではないでしょうか。私どもなら、そのように即答できるでしょうか。そこにこそ、彼らの誤解があったといわざるを得ません。
いったい、「わたしが飲む杯」とは何でしょうか。それは、苦しみ、苦難であります。主イエスは、十字架における処刑の直前、その前夜に、ゲツセマネにおいて厳しい祈りの戦いに出られました。「この杯を過ぎ去らせてください。」主御自身の叫びでした。しかし、同時に祈られました。「しかし、わたしの願うことではなく、御心にかなうことが行われますように。「主の願いではなく、父なる神の御心の実現を求められたのです。そこで、分かることは、ここでのわたしが受ける杯とは、苦難のことです。その苦難は、十字架で神の刑罰を受けることです。罪の裁き受けることです。

主は、この杯を受けることができるのかと尋ねられました。弟子たちは、「出来ます」と即答しました。もとより、できるわけはありません。神の御子であって、人となってくださったイエスさま以外に、十字架の苦しみを受けることができる存在はないのです。そもそも、ゲツセマネの園で一緒に祈っていなさいと命じられた弟子たちは全員、イエスさまと一緒に祈ることができずに眠り込んでしまったのです。

次に「わたしが受ける洗礼」、これはどういう意味でしょうか。洗礼をもともとの言葉であらわすと、バプティゾーです。新共同訳聖書は、バプテスト派の方々を配慮して、洗礼のところにわざわざ亀甲各戸を入れて、バプテスマと振り仮名をつけています。この洗礼のもとの意味は浸すという意味であり、さらに水死、溺死という意味があります。水の中に水没させられたら死んでしまいます。主イエスは、まさに十字架で苦しまれ、死なれたのです。それがここでわたしの洗礼という意味です。そして、この洗礼を、イエスさま以外の誰が受けることができるでしょうか。神の御子にして人間となられたイエスさま以外に、誰もいません。

ところが、驚くべきことに主は、こうも仰せられたのです。「確かに、受けることになる。」そうです、彼らは、主の十字架を担うことはまったく出来ませんが、しかし、主イエスが与えられた自分の十字架を担うことはできるし、担わなければならないのです。

歴史を紐解けば、確かに彼らはこの後、この杯を飲みました。使徒言行録第12章に明らかなように、使徒ヤコブは、ヘロデ王の手にかかって、剣で殺されたのです。殉教したわけです。ただしヨハネは、おそらく殉教しませんでした。しかし、教会のために、死に至るまで忠実に奉仕に励んだのです。100歳まで、現役の使徒、教師として生きたのです。それなら、主イエスの預言ははずれたのでしょうか。違います。それもまた、殉教同様、厳しい戦い、苦しみの杯を受けたことなのです。伝道者として真実に生きているなら、この杯を避けて通ることはできないのです。

さらにヤコブとヨハネは、洗礼を受けました。洗礼とは主イエス・キリストと結び合わされることです。つまり、彼らは、十字架で死なれたイエスさま、墓からお甦りになられたイエスさまと信仰によって一つに結び合わされた人間とされたのです。

彼らは、こうして、自分が願っていなかった方法で、苦難の杯を受け、主イエス・キリストと一つにされる道を歩む者になったのです。そのようにして、自分が願っていた以上の、はるかにまされる祝福を受けたのです。つまり、父なる神の選びによって、主イエスとともに勝利者とされたのです。今や彼らは、主イエスの左右に、御そばにはべることが許されているのです。

この勝利者とされる祝福の姿を誰よりも、鮮やかに教え、御言葉で描き出して見せてくれたのは、ここに登場するヨハネでした。彼の記したヨハネ黙示録です。「小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に14万4千人の者たちがいて」黙示録第14章1節「この者共は小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」黙示録第17章14節「小羊の婚宴に招かれている者は幸いだ」わたしたちの神である主が王となられた。わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう」19章6節
つまり、「栄光をお受けになるとき、私どもの一人を右に、左に」というこの願いは、主イエスが十字架について、復活され、天に戻られて、まことの栄光を受けられたときに、成就しているのです。今や、天上で、このヨハネも殉教したヤコブも、ほふられた小羊イエスさまの右と左、つまり、隣に座しているのです。この最高の恵みの立場は、ひとへに天の父なる神の永遠の選び、ご計画、予定に基づくものでありました。彼らはその究極、最高の祝福に決定されていたのですし、定められていたのです。
もとより、ただこの二人だけというのではないのです。14万4千人いるのです。いへ、正確に言えば、数えられないほどの大群衆です。私どもより一足先に、地上の信仰の生涯を終えられた方々も、また、主イエスの右に、そして左に座っているのです。主イエスの隣に座るということは、要するに、主とともに支配者となっているということです。主とともに王となっているのです。それが天上のキリスト者の姿なのです。しかもここにいる私どもにも約束されている立場なのです。なんという驚くべき祝福でしょうか。

今朝は、聖餐の礼典を祝います。聖餐の礼典は、ぶどうの杯を受け、パンをいただきます。それは、他ならない、主イエス・キリストの流された御血と裂かれた肉体、つまり、十字架の救いの御業、主イエス・キリスト御自身と一つに結ばれるための礼典にあずかることです。イエスさまの恵みを体ごと、私どもの全存在で受けることを意味します。そのようなキリスト者とは、主イエスの十字架の道を共に生きる者とされるということを意味するのです。それは、キリストの栄光にあずかる者とされたということを意味します。キリストと共に勝利者、支配者にさせていただけるということを意味するのです。つまり、ヤコブとヨハネは、確かにイエスさまの十字架の後で、この苦難を受けることになったし、それゆえに、今や、天上で、この栄光の勝利、支配にあずかって、イエスさまの左右に座しているのです。
実に、主の日の礼拝式を捧げているということは、この驚くべきすばらしい祝福、想像を絶する幸せ、天国の勝利、栄光の一歩手前を生きているということであります。一歩手前ですから、まだ完全な栄光と勝利を受けていません。しかし確かにこの一歩手前までこの祝福に接近しているのです。それは、既に、この礼拝式において、このすばらしさの前味を味わい始めているということを意味します。前味を味わえば味わうほど、私どもは、天の栄光にあこがれます。また同時に、私どもは、今確実に、地上にいるのだということも分かります。決して栄光の神の国ではなく、そうであれば、決して、栄光の神の国の住人、戦いを終えた勝利者として地上を生きるわけには行かないということも気づくのです。私どもは現役で信仰の戦いを戦うように召されているのです。杯と洗礼とを受けることへと召されているのです。

さて、この物語は、41節で大きな区切り、変化を迎えます。この二人の行為を聞きつけた他の十人の弟子たちが、腹を立て始めたのです。ここでは、この十人の憤りを少し丁寧に考えたいと思います。彼らは何を憤ったのでしょうか。それは、おそらく、第9章33節の出来事から想像すべきであると思います。そこでは、弟子たちは、自分たちのなかで誰が一番偉いのかということで議論しあっていたからです。

今ここで、あのときの主イエスが悲しみの中で諭されたことを忘れてしまっているのです。あのとき、主イエスはここでと同じように仰せになられました。「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」これは、要するに、ここで主が言われたことと同じメッセージです。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」

主は、あの議論のなかで、一人の子どもを抱き上げられ、仰せになられました。「わたしの名のために、このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」主は、当時の社会では、ほとんど数にも入れられない子供、人格を認められないような子供の、しかも一人を受け入れること、重んじることこそが、主イエスを受け入れ、神を受け入れることなのだと諭されました。彼らの価値観は、いかに子供から大人へ、小さなものから偉大なもの、社会的に低い立場にある者から高い立場にある者へと上り行こうと志していたのに、主イエスは、反対の道を示されたのです。

私は、おかしな言い方ですが、ここでこだわっておきたいことがあるのです。主イエスは、ここで「偉くなりたい、一番になりたい」という彼らの志、願いを否定しておられるのでしょうか。教会に生きる者、主イエスの弟子たちとして、私どもは「偉くなる、一番になる」、まさに「主イエスの左右に座って、主の栄光に用いられ、共に喜び祝う者とされる」それを願うことは、否定されるわけではないのです。偉くなって良いし、なるべきなのです。そして、そのような者たちは、直ちに、皆に仕える者、すべての人の僕となることをめざすのだと命じられるのです。そこでは、この世の考えとは180度違います。たった一人の、しかも子供のために生きなさいということでしょう。子供のために、人生を犠牲にされたくないと、主張する母親、父親が増えている今日です。その子供が、自分の子、わが子であっても、そう言うのです。そうなれば、ここでの主イエスの御言葉は、どれほど、大きな衝撃になることでしょうか。

主は仰せになられます「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。」この世、神さまを信じ、服従しない人々の間では、権力者、支配者たちは、民を支配し、権力を振るっています。しかし、教会ではそうであってはならないというのです。

異邦人の間で支配者とみなされている人は、多くの場合、主イエス・キリストの支配を認めません。そしてこの主の支配は、いわば入り組んだヒエラルキーはないのです。この世の権力者たちは、選挙のときには、地元に出向いて、よろしく、ヨロシクとただそれだけを連呼します。街頭演説で見ることはできます。しかし、多くの人々は、それ以外は、永田町のなかでの彼らを知ることはできません。しかし、主イエスの御国において、キリスト者たちは、ヤコブとヨハネが左右にいて、はるかかなたから望遠鏡でもなければ見ることができないのでしょうか。聖書を読み、黙示録を見るとそうではないのです。そこには、この小さなわたしですら、主イエスの右に座って、主イエスに近づけるのです。そのような天国の祝宴へと私どもは招かれているのです。

どうぞ、この天国、このイエスさまの左右に座れる恵みを重んじましょう。天皇に呼ばれて皇居に行けなくともかまいません。そこで勲章を受けられなくともかまいません。権力者に近づいて、特権にあずからなくてもかまいません。しかし、万一にも、天国に行けなかったなら私どもの人生は惨めでしょう。空虚でしょう。

さらに、イエスさまの言い方に注意しましょう。異邦人の間では、「みなされている」というのです。政治的権力をほしいままにする者たちは、本当の意味では権力はないということです。権力は、子供の一人を重んじ、その一人のために仕えるイエスさま、その一人のために命をお捨てになるイエスさまにのみあるからです。私どもは、このイエスさまに仕えましょう。僕になりましょう。そして、願わくは、その志においては、もっとも仕える者になりたい。主のために偉くなりたい。それは許されている志です。いへ、大切な志です。そして、そのような私どもであればこそ、奉仕に生きる、ディアコニアに生きるのです。

主がそのお命を身代金としてささげてくださって、買い戻され、自由にされた私どもは、もはや、自分のために生きてはならないのです。自分を喜ばせるためだけに生きることは、できないのです。
主に喜ばれることが私どもの本心、本音です。この私どもの志がいよいよ成長し、奉仕に励むことができますように。

私どもがこの奉仕の歩みの中でこそ、ヤコブのように殉教する人も、ヨハネのように長生きをして、教会の指導者となる人も、主の苦難のご生涯をなぞるように生きるのです。そして、そのような人には、約束されています。主イエスの左右に座るのです。この約束を、私どもは今ここで味わい始めています。私どもは、礼拝式に招かれたのです。ここでこそ、地上にあってすでに、主イエス・キリストの右と左に皆でいるのです。この礼拝堂は、教室型の空間ではありません。前の席、後ろの席ではなく、皆で主の食卓を囲むのです。一列目と二列目、参列目とあります。天国の礼拝式のイメージも、長老たちがいて、14万4千人がいます。数え切れない群集がいます。しかし、やはりそれは、順番、順列があるのではなく、いわば、このようにイエスさまを囲んでいるイメージなのです。主の食卓、聖餐卓の左で説教するわたしは、もっともイエスさまに近い位置かもしれません。そうであればこそ、わたしは、皆さんにもっとも仕える務めがあるのです。そして、それを望んで欲しい。伝道所委員、長老や執事、何よりも牧師になることも、自ら欲することが大切ではないでしょうか。来週、ディアコニア委員会を設けます。率先して、ディアコニアに預かれるように励む、これが、主の道ではないでしょうか。身代金を支払われた者。主に招かれ、仕える者となりなさいと命じられた者の聖なる義務であり特権ではないでしょうか。

もとより、教会内のディアコニアだけではない。先週紹介した海外に赴かれたキリスト者の医師にならなくとも、自分がおかれた立場で、精一杯、奉仕者として、神にお仕えする思いをもって、一人の子供に仕えるのです。自分の子でも、隣人の子でも、そのような歩みへと主は私どもを誘われます。
天国でのこの最高の究極の幸いを保証されているから、できるのです。今、聖餐を祝います。信仰をもってあずかる人に、主の左右におらせていただける恵みをここで味わいます。そして、永遠の将来において、必ずそのようにさせていただけるのです。ハレルヤ。

祈祷
私どもの身代金として御子イエス・キリストの死を受け入れ、御子を死人の中から甦らせてくださいました父なる御神、私どもも心から願います。私どもをほふられた子羊なる主イエスの隣にはべらせてくださいますように。その希望にあふれ、主のお命じくださった、僕の道、苦難の道をも勇んで進み行かせてください。私どもこそ、まことの支配者主とともに支配する者、権力者のはずです。どうぞ、わたしどもも真の支配者なる主イエスのように、仕える道を歩ませてください。そこにおいてこそ、知る、自分勝手な、自己中心な、自分を楽にさせよう、自分の誇りと力を隣人に認めさせようとする罪の誘惑を知ります。これと戦わせ、勝たせてください。アーメン