過去の投稿2007年2月11日

「万事を益となさる神」 2月11日

「万事を益となさる神」
2007年2月11日
テキスト ローマの信徒への手紙 第8章28節~30節

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」

 「神を愛する者たち」このように使徒パウロは、呼びかけます。この手紙を読んでいる最初の読者は言うまでもなく、ローマにいるキリストの教会の信徒たち、ローマ教会の会員たちです。もとより、そこにはまだ洗礼を受けていない求道中の仲間たちもおられたはずです。いずれにしろ、ローマにある実に小さな教会の集い、礼拝式でこの手紙は、朗読されています。そこで、パウロは、「神を愛する者たち」と読者をいわば、定義づけたのです。

 そうであれば、わたしも皆様にこのように呼びかけることができますし、すべきでありましょう。「神を愛する者たち」それが、皆様の、私どもの正体なのです。そして神を愛する者とされたこと、神を愛することができること、これは、実に尊いことです。ありがたいことです。神を愛することができる人、それこそが神の救いにあずかっている人、信仰によって義とされ、神の義を受けた人、つまり、これまで使徒パウロがここで一生懸命、議論してきたことに他なりません。

 今朝、私どもはここにおります。礼拝式の只中にいます。それは、先週共に学びましたように、やがて主イエス・キリストの右と左に座ることが約束され、保証され、決定されていることの証拠です。単に、将来の保証であるばかりか、今、それがここで実現しているのです。ですから、わたしは、しばしば、説教の最初に、皆様に「幸いな者よ」と呼びかけています。私どもがどれほど幸せな人間であるのかを、この礼拝式にあずかるときこそ、はっきりするからです。ところが、神を愛していない人々には、今日、私どもがここに出席している価値、その尊さ、その恵みを理解できません。知っておられません。

 実は、第28節の御言葉は、もとの言葉の順序は、「わたしたちは知っている」から始まっています。「私たちは知っている」「わたしたちは理解している」「わたしたちは認識している」「わたしたちは信じている」「わたしたちは確信している」というのです。そして、今朝私どもは、パウロと共に、そしてこのローマの信徒たちとともに、はっきりとこう言い切ることへと招かれているのであります。そうなりたいのです。つまり、自分がどれほど幸せな人間であるのかについての知識です。自分がどれほど幸せな人間であるかということの確信です。わたしたちもまた知っているのです。

先週の主日の午後、はじめて、高校生の仲間たちと子どもカテキズムを学びました。そこでいつものように、学び、確認したことがあります。つまり、人生の目的は神を知ること。神を知ることによってのみ、自分が人間であること、人間とは何者であるのかを理解することができるということです。私どもは、自分のことを、知らなければなりません。本当の自分のこと、姿をいったい誰が教えてくれるのでしょうか。それこそ、ただ、神さまだけであります。今朝、私どももまた、自分の正体、自分の本当の姿を教えていただきたいのです。再確認したいのです。そして、それを確信したいのです。

 「神を愛する者たち」と呼びかけた使徒パウロは、ただちにこの恵みの事実の根拠をはっきりと告げます。それは、「ご計画に従って召された者たち」ということです。神のご計画、神の御心、天上のお考え、天上の決意にもとづいて召し集められた者たちということです。つまり、神を愛することは、誰でも、その人が決意し、決断すれば自由にできるということではないということです。

この箇所を丁寧に読んで気がつかされることは、キリスト者とは、「ご計画に従って召された者」であることを、何度も、飽きることなく、言葉を変えて証していることだと思います。29節では、「神は前もって知っておられた者たちを」30節では、「神はあらかじめ定められた者たちを」とあります。
私どもは、今まさに、祈祷会で、ウエストミンスター信仰告白を学び始めております。第3章の「神の永遠の聖定」を終えて、日本キリスト改革派教会創立50周年記念宣言、「予定についての信仰の宣言」を学び続けております。つまり、今日のこの箇所の教理です。聖書の救いの信仰の言わば「心臓部」と呼ばれる教えを学んでいるわけです。私どもの信じ崇めている、生きておられる神と私どもとのかかわりについての信仰の奥義、秘儀を学んでいるのです。

聖書の教えの心臓部である予定の信仰、神の恵みの選びの教えは、聖書の神、真の生きておられる神とは、私ども罪人である人間にとって、言わば都合のよい神でも、分かりやすい神でもないことをはっきりと鮮やかに示してくれます。神は、まさに私どもの人知をはるかに超えた生ける神であることが明らかにされます。そしてそこで同時に明らかにされる真理があります。その捉えつくすことなどありえない神、生ける相手、信仰の対象を、実に、私どもが信じることができるという不思議な恵みについてです。捉えつくすことなどできない圧倒的に偉大な神を、しかしなお、知り、信じ、愛することができるのは何故なのかを明らかにする教理です。この予定の信仰、選びの信仰を学べば学ぶほど、私どもは神の恵みを賛美し、感謝し、いよいよ神を愛する愛が燃え立たせられるのです。まさに慰めの教理の極地です。パウロは、今、ローマの信徒への手紙の第8章、山にたとえればその頂点の箇所で、この予定の信仰、神の選びの信仰を私どもに語っているわけです。

ある人は、信仰とは、自分が自ら信じること、自分自身が決断することだと考えます。つまり自分次第、自分から始まるものと考えます。ですから、ある人は、「主イエス・キリストを信じる決心をしなさい。」と、決心を迫ったりします。確かに私どもも心から、そして強く、「信じなさい。信じるように」とすべての人に呼びかけ、お招きします。しかし、その人の決心次第で、信仰を持つことができるような言い方は注意深く避けます。そもそも、私どもの教会生活で、「決心」という言葉そのものを使うことはほとんどないのではないかとすら思います。しかも、そのような私どもの教会のなかで、まさに信仰を告白する決心、信じる決心をする方が起されるのです。それは、どうしてなのでしょうか。それは、まさに神がその永遠のご計画に従って、基づいて、天地が創造される前から、そして生まれてからまだ教会や主イエスのことを聞かされる前から神は前もってその人を知っておられたからだと聖書は、使徒パウロは言うのです。だから私どもは、救われてしまうのです。信仰告白や洗礼入会の準備をしようと志ている若い仲間たちもまた、この御計画に従って召された者、前もって知られていた者、あらかじめ定められていた者なのです。

これは最近の夜の祈祷会で申したことなのですが、かつて、わたしが未だ大学生1年生のときのことです。街の交差点で路傍伝道していた伝道者と議論したことがありました。わたしも当時、キリスト教をとっちめようと、議論を試みたのです。そして最後に、そのトラクトを配っていた方が、日時を定めて、お会いしてお話を続けようということになりました。わたしも同意しました。そこで、その日時と場所を知らされたのです。そしてわたしは後日、約束どおり、その場所に向かったのです。ところが、どうでしょう。そこには誰もいませんでした。ちょうど、その日は、台風が接近し、雨風が激しかったのです。しばらく待っていましたが、諦めて帰りました。わたしが来ることもないと、その方は考えたのだと思います。これははっきり申しますと、つまずかせる行為でしょう。信仰を求めた大学生をあの一人の伝道者は、つまずかせたのです。しかし、わたしはその1年後に、自ら教会を訪ねたのです。友人と一緒に、教会で聖書を学ぶときを設けていただいたのです。そして、1980年9月15日に救いの恵みにあずかり、降誕際で洗礼を受けたのです。あの日のことを伝道者となって思い起こすことがあります。わたしも、集会に伺いますと約束したのに、来てもらえなかったというようなことは、数え切れないほどしました。何より、自分が誰かをつまずかせたことがあるのではないかと恐れることもあります。しかし、それでもなお、私どもが大胆に福音を宣教することが出来る一つの真理は、神の選びは必ず実るというこの信仰、予定の信仰、選びの信仰にあるのです。神は、あらかじめ定めてくださった者を有効に召し出されるのです。必ずお召しになるのです。お招きになられるのです。その意味で、どんなに立派でない伝道者であっても、きちんと御言葉を説いていれば、それで伝道者の務めを、その最低線は担うことはできるはずです。逆に、華やかな伝道活動で、多くの人々にアッピールしても、教理が間違っていれば、あだ花でしかありませんし、むしろ、神に敵対することにすらなります。

私どもは自分を例に挙げても、神を愛する人間となれたのは、ただひたすら神の恵みのみ、神の選びのみ、ご計画のみに基づくのだと認めざるを得ないのです。私どもが主イエスを信じる可能性があるから、神はそれを予知されて、選ばれたのでは断じてありません。私どもの内側には、選ばれる理由は何一つないのです。ですから、不思議、神秘でしかないのです。むしろ、神の怒りを受けるべき点は数え切れないはずです。捨てられて当然、見放されて当然の傲慢で、自分中心で、罪にまみれた存在でしかありません。今、そのような私どもが神を愛している、まさに奇跡がここに起こっているのです。神の御業が実現しているのです。

さて、私どもは今まさに、このように永遠の神の熟慮に基づいて私どもがこの教会へと呼び集められ、教会に奉仕、教会形成の務めを担いながら、共に天国への旅路を進んでいます。しかしそれなら、私どもの地上の歩みは順風満帆なものでしょうか。決して、そうではありません。いくつも悩みがあります。苦しみもあります。自分の願うようにどんどん道が開かれてゆくようになるのかというと、いかがでしょうか。前回のテキストからの説教で学んだように、お祈りできる人間だから、つまり聖霊なる神に執り成され、主イエス・キリストに執り成され、そのようにして三位一体の神の全力を注がれて祈る人間とされているのだから、私どもの祈りは、たちどころにかない、実現してゆくというのでしょうか。それは、既に皆様がよく経験しておられるとおりのことです。私どもの願いが、そのまますぐに実現するとは、限りません。むしろ、ただちにかなうことは稀ではないでしょうか。

それなら、いったい、私どもの神への愛の根拠とは何にあるのでしょうか。ある人はこのように言うのです。何よりも悪魔が言う言葉、常套句があります。ヨブ記第一章に、彼のその言葉が鮮やかに記されています。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れて御覧なさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません。」これこそ、サタンの愚かな思い、確信であります。ヨブは、主なる神から「地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」と絶賛されるほどの信仰者として登場します。しかし、彼は、次から次へとおそるべき苦しみ、不幸が襲います。自分の財産も、そして子どもたちも皆、奪われてしますのです。そして遂に自分自身も、皮膚病を患います。しかし、それでも彼は、神に唇をもって罪を犯さなかったのです。

今朝、ヨブ記のメッセージについて説く暇はありません。しかし、ヨブにどうして次から次へと試練が襲うのでしょうか。神さまが生きておられるなら、それほどまでに連続して苦しい目にあわせなくてもよいのではないか。神はおられないのではないか。おられてもそれは、結局、力のない神ではないか。そのような疑いや、つぶやきを出してもよいものだと考えます。ところが、彼は、そこでも神を信じ続けるのです。途中で、自分の生まれた日を呪い、そのようにして神への呪いの言葉を訴え続けます。しかし、彼は、最後にそのようにした自分の非をすら、悔い改めるのです。自分が、このようなおそるべき不幸、苦しみを受けても最後には、文句を申しません。ただ、悔い改めるのです。そこに、このヨブのメッセージがあります。

さて、どうしてこのことをここでご紹介するのか、それは、実は、ヨブの信仰とは、極端な信仰の勇者の物語りではないと信じるからです。世界中にヨブだけが、このような信仰を与えられているのでしょうか。違います。私どもですら、今やこのヨブの信仰が与えられている、与えられ始めているはずです。神は、私どもを愛してくださいました。だから、ただその故にのみ私どももまた神を愛することができるようになりました。Ⅰヨハネ第4章10節にこうあります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」この愛、父なる神が、ご自身の独り子を十字架にお渡しくださいました。御子なるイエスさまは、私どもの身代金となって、十字架の上でその尊い代価を支払ってくださったのです。この神の愛。神の犠牲があるのです。この恐ろしいまでに私どもを愛してくださる愛があるから、私どもは、神を愛する人間に変えられたのです。それは、私どもの生活が反映し、私どもの人生が望んでいたように成功したからではありません。そもそもそのような成功と神の御心とを結び合わせること自体が信仰を裏切る行為なのです。

そこで、あらためて「益」とは何かを考えましょう。利益のことです。ご利益と言ったら分かりやすいかもしれません。ここでの「万事」とは、第8章の18節を振り返らなければなりません。そこで、現在の苦しみとあります。キリスト者として味わう現在の苦しみです。苦難。試練。悩み。うめき。産みの苦しみです。ヨブが受けた、自分の羊や牛が一瞬の事故で奪われることも、子どもたちが一瞬にして命を絶たれてしまうことも、現在の苦しみのなかにあることでしょう。ところが、現在のいかなる苦しみも、まさに万事の苦しみ、試練が、神を愛する者にご利益をもたらす。利益になる。益になるのというわけです。それなら、その益とはどんな益なのでしょうか。たとえば、ヨブであれば、羊を取り戻すことでしょうか。子どもたちを死人の中から帰していただくことなのでしょうか。もし、そうであれば、わたしどもに、今の時点でその可能性はありませんから、もはや、益になるはずがありません。この一点だけに限っても、益にならないのであれば、何が万事が益になるとパウロは大風呂敷を広げるのかということになります。

皆様は28節と29節とをどのように結びつけて読まれるでしょうか。私どもは、聖書を常に文脈から読むべきことを教えられてまいりました。聖書の一箇所だけを取り出して、読むということは、そもそも文章の読み方としてもすでに間違っています。28節と29節とは結ばれている御言葉であります。29節では、「御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。」とあります。つまり、わたしどもの益とは、御子イエス・キリストの御姿に似せられるということなのです。それが、神のご計画であったのです。それが、神の選びの目的であったのです。それを教理の言葉でもうしますと、聖化です。

問33 聖化の歩みとは何ですか。 
答  神さまの子どもとして、罪に死に、神さまの御子イエスさまのお姿に似せられていくことです。神さまに愛されている喜びのうちに、私たちも神さまを愛して歩みます。
主イエス・キリストに似せられて行く、それはいよいよ主イエス・キリストと親しくなるということです。近づくことです。私どもの教会でもそうですが、教会員の子どもや、日曜学校の生徒とか、学校の関係とかではなく、最初に教会に来るきっかけ、求道するきっかけになるのは、自分のこと、家族のことなどでの悩みを抱えてのことであることは少なくありません。しかし、私どもはまさにその信仰とは関係のない、言わば自分で蒔いた種で苦しみ、悩んでいたことで、教会に来るようになった経緯も少なくないのです。そうであれば、実に、その悩みや課題も今では、感謝すべきこととすら思えるようになるのではないでしょうか。もとより、そのようにならなくても、その悔いは生涯抱えながらも、しかし少なくとも今、自分がキリスト者とされていることは、心の底から感謝できるはずです。

使徒パウロは、すでに第5章でこう言いました。「苦難をも誇りとします。」そこでも「わたしたちは知っているのです」とあります。パウロが好んで、信仰の核心部分を言い表すときに用います。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」

苦難は、最終的に希望を生むと言います。そして私どもの希望とは、まさに主イエス・キリスト御自身なのです。そしてこのお方がもう一度この地上に来られる再臨の日こそが、希望の中核です。
そしてこの希望を信じることができるのは、聖霊なる神が私どもに与えられ、そのようにして神の愛そのものが私どもに注がれているからなのです。この神の愛は、罪人であった私ども、神に反抗し、神を信じていなかったときに、神が私どもを愛してくださったというあの十字架のキリストの事実にもとづく、裏打ちされている愛です。

神の祝福、それは、徹底的に終末論的な恵みです。つまり、天国、神の国の祝宴にあずからせるというものです。先週の説教で学びました、主イエス・キリストの右と左に座らせてくださるというものです。それは、天上の祝福です。霊的なものです。これは後で丁寧に学びますが、剣であっても、神の愛から私どもを引き離せないと言うのです。剣とは、死のことです。迫害による殉教のことです。イエスさまのために死ぬ、そんなことが起こるなら、キリスト教なんて信じない、教会なんて意味がないと主張するなら、つまり、神を信じれば人生が成功する、成功するビジネスマン、成功するなになにになるためのキリスト教などと言うものがあれば、それは、どれほど語られている内容に間違いがなくても、聖書の教えとはすれ違うでしょう。

私どもは、神の御子の形に似せるように神が永遠の昔から、天地創造の前から定められていたのです。たとえ地上でいかに、困難があっても、それで私どもが御子の姿から離れることはないのです。ですから安心して、万事をうけとめることができます。安心して、主とともに、苦しみに耐えながら、うめきながら、しかし、賛美と感謝をわすれずに、自分を幸せ者、恵まれた人間であることを心から認めて、明るく戦えるのです。イエスさまを信じたら成功する人、人生になるというのではなく、主イエス・キリストを信じることそれこそが、言わば成功なのです。利益なのです。勝利なのです。

神のご計画、ご意志は、あなたが御子の姿に似た者となることつまり、聖化にあります。そのようにして、御子イエス・キリストが多くの弟や妹たちを集め、彼らの長子、長男とならせるためなのです。つまり神ご自身が徹底的に御子イエス・キリストに栄光を与え、御子イエス・キリストの栄光を輝かせるためなのです。

そこでもなお、ある人は、こう文句を言われるかもしれません。「なんだ、結局、神は神中心を追求している。聖書は、神のために回っている書物であり、人間は二の次だ。」しかし、その通りですと答える以外にありません。人間が神の栄光をあらわすのではなく、神ご自身がご自身の存在そのものによって、お力そのものによって御自身の栄光を輝かされるのです。御子イエス・キリストの栄光を、父なる神があらわしてくださるのです。

しかし、ただそればかりではないのです。そこにこそ、神の独自性、神の神らしさがあると言えることがあります。それは何でしょうか。それは、ご自身だけが持つべきその栄光を、父なる神は惜しげもなく、神を愛する者たち、私どもにもお与えになられたということであります。そして、これからも与え続けてくださいます。さらには、世の終わりにおいては、主イエス・キリストが再び来られるときには、完全なる神の栄光そのものを私どもにも溢れるほど豊かにあたえてくださるのです。やがて、天上において、神の国の完成において、主イエス・キリストの栄光の御座に、その右と左に私どもも座すことができることが定まっているのです。この希望が、私どもの苦しみやうめきを克服させる力なのです。ですから、御子に似せられる栄光、その栄光が完成されるという特権と力が与えられている私どもこそ、どれほど幸せな人間であるのかと思います。私どもはいよいよ、私ども自身の姿を知り、喜び、神の御働きに身を乗り出すようにして、共に働くことができるし、すべきであります。

祈祷
私どもを御子の姿に似せようと永遠から選び、定めてくださいました主イエス・キリストの父なる御神。私どもの天のお父さま。今、苦しみ、悲しみ、不安のなかにある仲間がいれば、どうぞ、それらが益になることを信じさせてください。そしてその苦しみや悲しみや不安のなかで、あなたから目を離すのではなく、むしろあなたにのみ目を注ぐことができますように。そして、あなたの命をかけてくださった愛を信じ、私どももまたいよいよあなたを愛し、あなたにすべてを知られていることを確信し、私どももまたあなたを知ることに全力を注ぐことができますように。アーメン