過去の投稿2007年2月11日

2月11日

★   「パワー フォー リビング」なる書物を無料で送りますという宣伝広告が、新聞折込のみならずテレビコマーシャルでも流れています。「無料」に引きずられ、家内が早速申し込みました。先週、その書物が届けられ、斜め読みしました。記されている内容そのものは、教理的に言えば、基本的な間違いはないと思います。しかし、それならその書物を皆様に読むことを勧めるかと問われれば、ただちに否です。もとより、自分のためではなく、隣人のために読むことは、大切です。短時間で読めます。お貸しします。

☆   それなら、どこに「問題」があるのでしょうか。一言で申しますと、「教会なきキリスト教」(?!)です。 確かにその書物のなかには、「教会」の項目があります。このような言葉があります。「クリスチャンとして成長していく上で、実際的な大きな助けとなるのはキリストを信じるほかの人たちと交流を持つことです。」「クリスチャン同士の関係はクリスチャンとして成長する上で不可欠です。」「他のクリスチャンと交流を持つ最善の方法は近所の教会に足を運ぶことです。」何が問題なのでしょうか。要するに、神との個人的な関係こそが究極であって、その個人の信仰を助け、成長させる「手段」として教会があり、その意味で不可欠とするのです。ですから、この書籍を無料頒布するのは教会ではなく、まさに「財団」(個人)なのでしょう。このような考え方こそ、実に、私どもが闘ってきた「キリスト教」なのです。(蛇足ですが、わたしは、【クリスチャン】という呼称そのものまで使いたくなくなってしまったほどです。エホバの証人ですら、自分をクリスチャン言うのですから!)

★  書籍では、よい教会かどうかを判断する条件を4つ挙げています。私どもは、開拓当初何度となく、真の教会は、ニカヤ信条で告白されている、「使徒性、公同性、唯一性、聖性」を持ち、「聖書を正典とし、基本信条(ニカヤ信条・使徒信条に代表されるキリスト教会を結ぶ信仰告白の絆)に堅く立ち、教会職務の制度(私どもで言えば長老主義政治)を整えている教会」であるとしてまいりました。そうでなければ、歴史的正統的教会とは言えないのだと学び続けました。その結果、日本キリスト改革派教会加入へと導かれたわけです。

☆   多くのキリスト者が、このような伝道の「仕方」に首を傾げ始めているようです。その意味で、今回のことが、日本のキリスト者自身への問いかけとなればと考えます。私どもの教会は、開拓伝道開始早々、「正しい福音の伝道でなければ、伝道しないほうがよい」と主張しました。普通であれば、開拓伝道とは、一人でも教会に来て欲しい、そのためならどんなことでも・・・という「意気込み」があるはずでしょう。しかし、わたしのかつての前任地での厳しい戦いから、「正しい福音」の伝道を、正しくなすこと以外に、この日本にまことのキリストの教会を形成することはできないと確信させられたのです。そうです。伝道とは、キリストの教会の形成を目指してなされるものなのです。その意味で、教会なくしてキリスト教なしです。教会なくして伝道なしとすら言い切れるのです。それが、教会の歴史でした。聖書そのものがそれを証言しています。そしてその聖書も、教会の書以外のなにものでもありません。

★   最近、個人的には存じ上げませんが、すぐれた福音派の牧師であられるのだと思いますが、このような言葉を読みました。抜粋して御紹介します。「『キリストが、わたしのうちに生きておられる』(ガラテヤ2:20)との御言葉が自分において現実化するのは、デボーション(聖書を読み、祈る)を通して神との霊的交わりを深めることにおいてであると長い間考えてきました。しかし、○○で、学んだことの一つは、この御言葉が説教においても出来事となり現実化することを新たに悟りました。③この度、○○に助けられて、この御言葉が聖餐に与ることを通しても私たちに現実化するということを示されました・・・。」つまり、いわば、個人主義的なキリスト教信仰に長く立脚しておられたわけです。私どもは昨年から、聖書日課(まるで注解書のようですが!)を用いて、聖書に親しむ生活を心しております。しかし、主日礼拝式によってではなく、家庭、個人でのディボーションによってこそ「救い=主キリストとの交わり」が確かなものとされると指導されたなら、「パワー フォー リビング」的な伝道への「疑義」も生じないのではないかと思います。日本の教会のなお多くが、この「教会なきキリスト教」型に留まっています。ですから、私どもの伝道は、未信者の方より、信者の方から「怪訝」に見られることにもなるのです!キリスト教会の歴史も2000年を数え、いよいよ、「キリスト教とは何か」が不鮮明になり、個人主義的キリスト教(!?)がまかり通ろうとします。私どもの責任を今こそ、痛感し、どんなに、困難かつ地味であってもこの道をひたすらに歩み続けてまいりたく願います。しかも、出来る限り大勢の方に伝道する思いに燃え上がりたいのです。