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「味方となってくださる神」

「味方となってくださる神」
2007年2月18日
テキスト ローマの信徒への手紙 第8章31節~32節

「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」
 

いよいよ、ローマの信徒への手紙の講解説教も、今日から第8章31節に入ります。まさに、「いよいよ」、「遂に」という思いをもって、この説教卓に立っております。ローマの信徒への手紙は、この第8章までがもっとも大きな部分となります。第9章から11章までが、イスラエルの民と神について、そして最後の第12章から16章までがキリスト者の生活について語られています。その意味でも、やはり、この第8章までこそが、ローマの信徒への手紙の中心なのです。福音の真理、主イエス・キリストの福音、信じる人すべてを救う神の力を証ししている箇所です。その意味では、この第8章までこそが、新約聖書のみならず、旧新約聖書の中心であると言っても、決して言いすぎではないと思います。そして、この8章の結論が31節以下の箇所なのです。

 わたしは、この箇所を読みながら、日本語では、大団円、英語ではフィナーレという言葉が頭に浮かびました。大団円とは、舞台や演劇の世界で使われる言葉だと思います。これまでの物語り、たとえそれが、悲しいものであっても、ついに最後の場面では、喜びの物語りに変えられて、そして幕が降りるのです。それまでのさまざまな災いに苦しみ、問題に動揺し、涙していても、最後の場面で、解決が与えられて幕を閉じる、その最後の場面をフィナーレ、大団円と申します。

 パウロは、このような言葉で語り始めます。「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。」つまり、ここで、最後の言葉、最後の最後の言葉を告げようとしているのです。振り返れば、私どもはすでに80回をはるかに超えて、この手紙からの説教を聴いて礼拝をささげてまいりました。2年以上もかけているのです。実に、長い論述でした。パウロもこれまでの議論を振り返って、最後に要約するのです。要するに何だということです。要するに、福音とは何か。要するに、私どもの恵み、幸いとは何だということです。もはや、パウロにとって福音の真理を語りつくした満足感もあったのだと思います。最後に語る言葉、その言葉を今日、ご一緒に聴いてまいります。
 
 しかしここで、すぐに結論に行かずに、少し足踏みしてみたいのです。先ほども申しましたように、ローマの信徒への手紙は、この箇所で福音の真理の叙述は終わります。そうなると、一つの問いは、この説教をここまで聴かれた方、聴いてくださった方であれば、きちんと言わば決着をつけなければならないということになるのではないかということです。

 もしも、ある人が、ここまで読んできて、「もっと私にわかるように福音を教えてほしい」とか、あるいは、「信じる者すべてに救いをもたらすのが福音だと学んできたけれど、わたしはもっと違う救いを期待している。これで終わってしまうのか。福音とはこれまでのことなのか。」このような問い、あるいはつぶやき、文句がでることも、もしかすると起こりうるのだと思います。わたしは、その問いには、はっきりと答えなければならないと考えます。

 先週、ある尊敬する説教者の説教を読んでいて、まさに目の覚めるような言葉に出会いました。「せいぜい数十年の地上の生活を、ただ幸福に、あるいはただ有意義に過ごすということだけのためであるならば、御子の死はおそらくあまりにも高価であり、必要のないものであるに違いありません。」まったくその通りです。パウロが証し続けたことは、人間が神の前にどれほど罪を犯していたか、犯しているのかということです。人間とは、罪人であるという現実です。そのことがどれほど深刻なことか、どれほどまでに恐ろしいことであるのかを知らなければなりません。罪を犯している人間は、神の敵なのです。神に逆らって、歯向かって、敵対しているのです。神に挑んでいる、神に攻撃を加えているようなものです。まさか、そこまではしていないと自分では考えるのです。しかし、パウロは、第5章8節で、「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき」と言い、10節では、それを「敵であったとき」と言い換えました。私どもが罪人であるということは、神の敵となっているということなのです。

 多くの人は、聖書や福音による救いを、まさに自分の必要、自分のニードによって考えます。いへ、誰でも最初は例外なく、聖書や福音を、まさに自分の必要に応じて、それに答えを求める思いで、読みます。つまり、自分を中心にして読むのです。しかし、そこで二つに分かれます。一つは、求めていることは得られないとして、聖書から離れることです。そしてその次の段階でも、実は二つに分かれます。それは、聖書のなかに、自分の求めているものを、読み込むことです。たとえば、こういうことです。聖書を開こうとするとき、「自分が今、こういう状態にあって、こういう助けが必要である、このような解決を欲している、それにふさわしい御言葉はないか」、そう聖書に向かうというあり方です。このようなままでいれば、いつまでたっても、聖書の真実のメッセージとすれ違います。何よりも、危険なことは、すれ違っていることもわからずに、聖書のなかに答えを発見してしまうのです。たとえば、「万事が益になる」という先週の御言葉などもよい例です。今は、大変でも、信じていれば、自分の願っているようになる、自分のしたいことが達成できるなどと、神さまをまるでご利益を必要に応じて、取り出せる偶像のように考えることもないわけではないのです。

もう一つの道は、正しい道は、こうです。聖書を、神さまを中心にして読むということです。神さまの栄光を求めて読むのです。先週で言えば、こうです。万事が益となるのは、私どもが神のみ子イエスさまに似せられ、そのようにして、ついには、御子なるイエスさまが褒め称えられるためであるということです。結局、益とは、神の栄光なのです。そしてそれこそが、私どもの救いに他ならない、それが聖書です。それが、信仰なのです。
 
 元に戻りますが、「パウロ先生、福音、救いの説き明かしは、もうこれ以上はないのですか。わたしは、それでは、救われません。わたしは、それ以外のものを求めているのです。」と訴えられる人がおられるなら、その人は、ここでこそ、自分の求めと神の求めとが、すれ違っていることを悟らねばならないのです。聖書を読んでも、説教を聴いても何もならない人とは、自分が罪人であることを認めない人のことです。ですから、主イエス・キリストの十字架を自分の人生、全存在には、関係のないこととしてみるのです。

神は、罪人、神の敵である私どもを、神の子の姿へと、もともとの人間の姿、あのアダムとエバの姿へと回復させようとしてくださったのです。それは、どんなことをしてでもという並々ならないご決意によるのです。そして、そのためには、なんと、御子イエス・キリストが死ななければならなくなるのです。とてつもない犠牲を神ご自身が支払わなければならなくなったのです。それが、御子イエス・キリストの十字架の死であります。ですから、使徒パウロは、十字架の主イエスを語り続けたのです。逆に言えば、十字架の教え以外のものを、聞きたいのであれば、その人はいつまでたっても、救いの恵みにあずかり、福音にあずかることができません

ときどき、新聞やテレビで、作家であり僧侶である瀬戸内寂聴さんの説法のカセットの宣伝を見ることがあります。仏教の説法、説教は、人生の知恵を説くのですから、基本的には、有益であるのではないでしょうか。そこには、十字架はありません。しかも、冗談のように楽しくお話されるそうで、笑いがたくさん加わっているそうです。しかし、笑いのカセットと言えば、漫談家の綾小路きみまろさんのカセットもとても売れていると言います。新聞でも宣伝していました。ところが、キリスト教会の説教は、少なくとも日本キリスト改革派教会の説教はまったく違います。聖書が語られるとき、それは、徹底して神の栄光を目指して語られるのです。御子キリストの形に似せるために、つまり、私どもの救いと聖化、キリストの体なる教会の形成のため、神の国の出現と拡大のために、説教をしているわけです。

 横道にそれたついでにまったく横道に入りますが、わたしは、寂聴さんやきみまろさんのお話の効力を認めます。わたし自身は聴きませんが、しかし、笑いが、体や心の健康に良いことは、科学的にも実証されているのです。気分転換をすることは、キリスト者であろうがなかろうが、大切なことでしょう。

 さて、いよいよ、本題です。 使徒パウロのこれまでのメッセージを要約、結論の言葉です。これだけ、つかんでいれば、宜しいというような言葉、宣言です。この宣言は、その意味では、説教で説き明かすことも大切かもしれませんが、説き明かされなければわからないようなものではないと思います。何よりも、私どもが、口ずさむべき言葉です。自分が日常生活のあらゆる局面で、先ず、自分自身に言い聞かせるべき言葉だと思います。

 わたしは、大学生のときにこの言葉を文語訳聖書で覚えました。「神もし、我らの味方ならば、誰か我らに敵せんや。」「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」神が私どもの味方であってくださるのであれば、もはや一切の話はついてしまっているはずです。もう、決着がついてしまっているはずです。もう、つべこべ言わなくてもよい、もうあれこそ、議論しなくても良い、要するに、天地を造られた神が、私どもの味方なのです。もうそれで、宜しい。そういう言葉です。

 今朝の招詞-招きの詞と書きます、ちなみに、私どもの礼拝式はすでに前奏から始まっていますが、しかし決定的に大切なのは、この招詞の朗読、もしくは宣言です。神が私どもを礼拝へと招き、私どもの礼拝を許し、受け入れてくださるその声として私どもは聴いています。ですから、皆様も招詞に集中していただきたいと思います。そして、ついでのついでですが、礼拝式は、報告までがプログラムですから、この報告も大切にすべきなのです。さて、横道にそれてしまいましたが、今朝の招きの詞は、詩篇124編を朗読いたしました。これまででもっとも多く採用している箇所です。この詩篇第124編は、実は、教会の改革者カルバン、私どもの教会のその意味では最大の功労者となった16世紀の大先輩カルバンが牧師として奉仕したジュネーブの教会の礼拝式においては、ほとんど必ずこの箇所を読んで、宣言して、礼拝式が始まるのです。「主がわたしたちの味方でなかったなら 主がわたしたちの味方でなかったなら」歌います。わたしたちに逆らう者が立ったとき そのとき、わたしたちは生きながら/敵意の炎に呑み込まれていたであろう。 そのとき、大水がわたしたちを押し流し/激流がわたしたちを越えて行ったであろう。 そのとき、わたしたちを越えて行ったであろう/驕り高ぶる大水が。」そして、詩人は喜びの叫びを挙げるのです。「主をたたえよ。主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった。仕掛けられた網から逃れる鳥のように/わたしたちの魂は逃れ出た。網は破られ、わたしたちは逃れ出た。わたしたちの助けは/天地を造られた主の御名にある。」「わたしたちの助けは、天地を作られた主の御名にある。」詩人は、主なる神ヤハウェの神を賛美します。主が私たちの味方である、主が私たちの味方となってくださった。わたしたちの助けは主なる神の御名にある、と高らかに歌い上げるのです。

 何故、教会の改革者カルバンは、この詩篇が言わば、大好きであったのでしょうか。詩篇のなかには、いくつもすばらしい詩、礼拝の招詞にふさわしい御言葉があるはずです。何故、この124編が選ばれたのでしょうか。本人に聞かなければ分かりませんが、しかし、わたしは想像するのです。わたしとカルバンを比べることなど、余りにもおこがましいことであることは当然です。しかし、わたしはカルバンでもあるいはルターでも、当時の教会、ローマ・カトリック教会をどうしても容認できず、教会改革を命をかけてでもしなければならなかった改革者たちが大好きです。わたしの牧師としての戦いを励ましてくれる存在です。私どもの福音主義教会は、彼らのことをいつも覚えていなければならないと信じています。彼らは、当時の教会と戦ったのです。ルターは、ローマ教会から破門されました。追放されました。カルバンは、第二世代でしたが、彼もまた、ジュネーブの教会の改革を進めていたとき、ジュネーブ市当局から追放された厳しい経験を持っているのです。教会改革をした人々、第一世代、第二世代の先輩たちの戦いはどれほど厳しいものであったのか、想像を絶するほどのものであったことかと思います。教会から追放されたら、地獄に突き落とされることを意味すると考えられていたのです。また、社会的にもほとんど生存の余地がなくなるような状況でした。

 わたしも牧師をしていて、そのようなことを経験させられたことがあります。そして、基本的には、どの時代のどの教会であっても、神の言葉を正しく、まっすぐに語る場合、そこには、激しい結果が生じるのです。受容か拒絶かです。カルバンは、礼拝式のこの招詞を宣言したとき、どれほどの重みをもって宣言したことでしょうか。カルバンは、「たとい、ジュネーブ市民のすべてを敵にしても、主がわたしたちの味方である限り、負けることはない、教会改革は妨げられない」このように信じることができたのではないでしょうか。

 何よりもこの詩は、ダビデの詩とされています。イスラエルの偉大な王であったダビデもまた、実に、「敵意の炎、大水、激流、仕掛けられた網」、としか言い表せないような現実の苦しみを経験したのです。主君であり義の父であるサウル王からの執拗に攻撃され、命を狙われ続けました。しかも、頼りにしていた人々は離れ去って行き、さらには裏切りにも苦しめられました。ダビデは実に、たった一人で荒れ野を放浪し続けたこともあるのです。

 しかしこのダビデも経験したのです。主なる神がわたしたちの味方である。という恵みの事実です。ダビデ王は、エルサレム神殿へと登って行くときにこの歌を歌ったと言われています。その同じダビデの詩のなかに、「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」(詩編121編1節)があります。エルサレム神殿のある山を見て、この歌を歌っているのであれば、まさに、わたしの助けはエルサレム神殿で礼拝する天地を造られた主のもとから来るという意味になるでしょう。

 そして、ここでは、最後にこう結ばれています。「わたしたちの助けは/天地を造られた主の御名にある。」主の御名、ヘブライ語の発音では、ヤハウェとなるでしょう。ヤハウェなる神こそ助けなのだと言うのです。しかし、彼は、主の名をみだりに唱えないために、主と呼びます。

 そこでもう一度、カルバンのことを思い出します。カルバンは、この主の御名をどのように考えていたのでしょうか。これは、はっきりしているはずです。いへ、カルバンを持ち出すまでもありません。「『主の御名』とはどのような名前ですか。」未信者や求道中の仲間から、このように尋ねられたら、皆様は、なんと答えるのでしょうか。それこそ、「待ってました」となるでしょう。この御名を神がはっきりとあらわしてくださったのです。

 「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は」とパウロは言いました。主の御名とは、この神の御子の御名に他なりません。それは、愛するイエスさま、尊きイエスさまの御名です。このイエスという御名にこそ、私どもの助けはあるのです。そうであれば、神が私どもの味方であられるとは、主イエスにおいてこそはっきりあらわされたと分かるのです。キリスト者とは、なんと幸いな者たちでしょうか。

 ここでは、「もし、味方であるなら」と言われていますが、ここでの「もし」とは、そうでない場合もあるなどという、仮定の言葉ではありません。いわば、文学的な言い回し、表現の一種です。神は、私どもの味方なのです。パウロは、このように言うことによって、次に語る言葉を、際立たせようとしているのです。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方」この歴史的事実が背後に聳え立っているのです。父なる神は、とてつもない犠牲をあの場所で、ゴルゴタの丘の上で、支払われたのです。それが、御子イエス・キリストの十字架の死であります。この御子の命、それは神の全存在と言っても良いくらいですが、その命を私どものために与えられた、死に渡されたのです。ここで「ために」という言葉に注意します。今朝は、古い言葉を用いますが、ついでに、一人の牧師が訳された翻訳で、実にすぐれた聖書がありますが、永井訳聖書と呼ばれますが、このように訳されました。「神もし、我らのためならば、誰が我らに逆らわんや」ここで、私どもが慣れ親しんだ「味方」という言葉を用いていません。実は、もとの言葉を直訳すれば、むしろ、「ために」となるのです。神は、わたしたちのために、御子を与えられたつまり、神ご自身がその全存在をもって、「わたしたちのために」働かれたし、働き続けておられるのです。「わたしたちのための神」!驚くべき言葉です。改革派教会は、神の栄光のためにと、聖書を読むと申しました。ところが、どうでしょう。その神ご自身が、徹底して「わたしたちのための神」であってくださるのです。つまり、私どもの味方となってくださるのです。味方とは、「ために」という言葉です。それは、こうも訳せます。「代わって」です。私どもの身代わりに、私どもに代わって、御子が罪人として十字架で神の裁きをお受けくださったのです。そのようにして、父なる神は、いつでも、私どもの立場に立ってくださるのです。それが、味方ということです。そうであれば、まさに、「誰が我らに敵せんや、向かうところ敵なしです。私どもに逆らえば、それは、神に敵対することになるのです。

この信仰は、誤解する方は先ずおられないと思いますが、あえて申しますと、キリスト者を決して傲慢にさせません。むしろ、謙虚にさせます。先週の「信教の自由を守る集会」でも、私どもは、この国の行方、それを導く政治家たちに対する抗議と抵抗の声明を採択しました。そこで発題された一人の委員は、私どもがここで聴いている説教を、ある意味で、語りなおされたのです。それは、他の発題者とは、異なっていたように思います。そこでは、私どもの教会の悔い改めが語られました。また、私どもの信教の自由を侵害する行為は、結局、この国と為政者自身を、損なうことになるという、悲しみが込められていたと思います。つまり、キリスト者はこの立場に立っている限り、まさに、迫害する者のために祈りなさいという、言葉が真剣に考えざるを得なくさせる、それほどまでに、圧倒的な勝利宣言なのです。

 もうここで説教を終えてもかまいません。しかし、なお最後に、「御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」に触れたいと思います。わたしは、この御言葉を聴きながら、主イエスさまご自身の説教を思い出さずにおれません。マタイによる福音書の山上の説教です。「先ず、神の国とその義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべては添えて与えられる。」使徒パウロは、ここで、神の国とその義とは何かを明らかにしたのです。つまり、福音の真理のことです。要するに、神の国とその義とは、イエスさまであられるということです。神の国を求める私どもに、神は、すでに主イエス・キリストをお与えくださったのです。主イエス・キリストはすでに十字架についてくださったのです。そのようにして、私どもの味方となっておられるのです。

 さらに、添えて与えられるこれらのものとは、何でしょうか。それは、「食べるもの、飲むもの、着るもの」です。これらが、人間に必要なことは、言うまでもなく味方なる神はご存知なのです。何よりも、御子をすら惜しまずにお与えくださった父なる神が、このようなものを惜しまれるはずなどないのです。与えることができないはずもないのです。使徒パウロは、主イエスの言葉を信じ、生活のなかで、体験してもいるのです。キリスト者は、究極の祝福とともに、地上における生きる道をも整えてくださるのです。

 これも、先ほど紹介した集会のなかでの実例ですが、そこで、一人の方が、このような証をなさいました。信仰の良心に従い、神に導かれて銀行を辞められたそうです。しかし、困難の末に、現職の仕事に就かれたことを証しておられました。地上での勤め先とは、まさに、「食べるもの、飲むもの」の必要のことに他なりません。神が、確かに導いてくださったし、その方だけではなく、神に祈り求める者には、ふさわしく備えられるのです。

しかしそこでも、いささかくどいことですが、この万物、食べるもの、飲むもの、着るもの、これらもまた、罪の赦し、救いとまったく無縁のことではありません。食べること、飲むことの思い煩いが信仰を疎外することがどれほど多いことかと思います。そうであれば、どんなに、多くの食べ物飲み物を獲得しても、罪の赦しを軽んじるなら、まさにそんなものはいらないということにすらなるでしょう。それが、邪魔にすらなるでしょう。私どもに必要なのは、神ご自身、主イエス・キリスト御自身のはずです。

天地創造の神が、私どもの味方です。御子イエス・キリストこそ、その証拠であり、味方なる神ご自身です。私どもには、イエスさまがいてくださる。ついていてくださる。このイエスさまがいてくだされば、他に何が必要でしょう。しかも、御子の父であるゆえに私どもの天のお父さまは、私どもが困ることのない様に、思い煩うことのないように、御子イエスさまと一緒に、地上の必要をも、お与えくださるのであります。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、あなたが、私どもの味方となっていて下さるのです。これ以上何を望むことができるでしょうか。究極の幸いを、この日も与えていてくださることを心から感謝申し上げます。この幸いを、今ここにいるすべての仲間たちの深い確信とさせてください。私どもに敵対できるものは何一つもないことを、心から確信させて下さい。そして安心して、主の業に、日常の暮らしに励まさせてください。同時に、このすぐれて偉大な立場に立つ人間らしく、いよいよ謙虚に、福音を宣べ伝え、証できますように。アーメン