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「あなたのために、今、キリストが」

「あなたのために、今、キリストが」
2007年2月25日
テキスト ローマの信徒への手紙 第8章33節~34節

「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」

 
 本日も、ローマの信徒への手紙の講解説教の第8章31節以下から学んで神に礼拝を捧げることができますことを心から感謝いたします。私どもは今将に、ローマの信徒への手紙の中で、もっとも大切なメッセージを聴いております。福音の中の福音を聴いて礼拝を捧げることができることを、あらためて感謝いたします。 

使徒パウロは、本日与えられた32節と33節で、「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。」「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。」と、言いました。いわば、私どもに攻撃を仕掛けてくる相手からの、挑戦を受けているのです。先週は、「誰がわたしたちに敵対できますか」を学びました。ただそこで、私どもは、敵そのものについては、深く学びませんでした。私どもの敵とは誰か、私どもに敵対するのは誰であり、何であるのかを、確認しませんでした。しかし、今朝は、まさに、敵が問題になっています。ここで取り扱われるのは、敵の攻撃についてです。いったい敵は、私どもキリスト者にどのような攻撃を加えようとするのでしょうか。

攻撃されるとか、攻撃するとか、いささか物騒な話です。実に幸いなことに、今日の日本において、軍事攻撃を受けることはありません。確かに、テロ攻撃におびえてはおりますが、それを経験してはおりません。また、大地震にもおびえているわけですが、なお、この地方では、経験していません。

しかし、我々の人生のなかで、生きることにおいて、この物騒な話は、実は、身近なことではないでしょうか。会社や職場、学校や家庭においては、実に、大小さまざまな攻撃に満ちているのではないでしょうか。勤め人であれば、自分の立場、地位を奪われることはまさに攻撃を受けることでしょう。学生であれば、思うように自分の成績が伸びないとか、友達に意地悪をされるとか、居心地がわるい状態に追い込まれることは攻撃を受けることでしょう。家庭においてすら、無縁ではないのです。さらには、健康が損なわれることも攻撃でしょう。何も今ここで、一つひとつ数える必要もないと思うのです。実に、我々にとって、生きるということはすでに、様々な攻撃にさらされるということを意味しているように思います。

テレビのバラエティ番組で、法律相談があります。そこでは、「訴えてやる」というフレーズが繰り返されるのです。幸い、わたしは裁判所に訴えられたことはありません。しかし、もしも、自分が訴えられる側に回ったと想像したら、それこそ、ぞっと致します。まったく身に覚えのないことであっても、万一、訴えられたら、それだけで、憂鬱になるでしょうし、あるいは憤るかもしれません。いずれにしろ、はなはだ困ると思います。

しかし、たとえばの話ですが、その訴えが、身に覚えのあるものであったとしたら、いかがでしょうか。卑近な例で言えば、もしも突然、警察から、「あなたはスピードオーバーしましたね。出頭してください。」と言われたとしてみてください。証拠を示して、写真がある、スピードオーバーの客観的証拠もあるというわけではないのです。ただ、あなたは、何キロオーバーで、交通規則を破りましたと、一方的に、指摘されたとしても、多くのドライバーは、ドキッとするのではないでしょうか。どうしてかといえば、多くの方が、いつでも法定速度で走っているわけではないと思うのです。身に覚えがあるからです。証拠がなくても訴えられたら、どれだけ心が動揺するかです。

さて、使徒パウロが言う、ここでの敵とは、誰のことでしょうか。それは、訴える人のことです。誰に訴えるのでしょうか。裁くことのできる、絶対の権力をもっている方のところです。つまり、天地創造の神に訴えるのです。神の最後の法廷、最後の審判の座において、訴える人のことです。

それなら次に、いったい、何を訴えると言うのでしょうか。それは、私どもにまったく実の覚えのないことではないのです。いへ、まったく訴えられて当然の、明らかに自分が犯した罪の行為についてなのです。自分自身で、それを知っているのです。弁解する言葉はいくつも考え出せるかもしれませんが、その事実においては、弁解の余地がないほど、はっきりしているわけです。なぜなら、その罪の行為の証拠は、いわば原告、訴える側が、きちんとそろえているのです。しかも、その罪の証拠たるや一つ二つの風呂敷に、到底、包み込めないほどのおびただしい証拠です。目撃証人もいます。その映像もあるのです。その証拠を一つひとつ挙げられて、もはや自分でもすっかり忘れていた罪の行為の数々を、敵が、原告が勝ち誇って示すのです。そこで、嫌でもはっきりと思い出させられてしまいます。

すべての罪状を確定した後、訴える者は、勝ち誇ってこう言うでしょう。「裁判長、明らかに彼は罪人です。本人も、認めているとおりです。いや、他ならないあなた御自身が、この男の人生で、どれほど、罪深い、汚れたことをしてきたのか、その言葉と思いと、何よりも行いをご存知のはずではないですか。つまり、この男は、自分の犯した罪によって有罪です。永遠の滅びへと断罪してください。」

ところが、パウロはここで高らかに宣言するのです。喜びと確信に満ち溢れてうたうのです。「誰がわたしたちを訴えるでしょう。」さらに、「誰が、わたしたちを罪に定めることができるでしょう。」と言うのです。要するに、パウロは、ここにおいて、遂に、ローマの信徒への手紙の究極の議論をもう一度取り上げて、決着をつけるのです。

すでについている決着を、最後にもう一度確認するのです。どこで決着がついているのかと申しますと、それは、第8章1節でした。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」そこで、すでに、私どもキリスト者が決して罪に定められない者であるという、決着がついてしまっているのです。パウロは、そこで、心を込めてキリスト・イエスと告げました。このキリスト・イエスのお陰で、このキリスト・イエスと信仰によって一つに結び合わされたお陰で、ただそれだけで、無罪判決が下されることを、それが、キリスト・イエスによって神が与えた下さった恵みであると告げるのです。これこそ、私どもの福音であると告げるのです。
しかし、パウロは何度でも、言いたいのでしょう。何度言っても飽きません。彼は、第8章を終えるに当たり、最後の最後に、もう一度、この神の福音を、私どもの救いの恵みを宣言するのです。

さて、ここで一つの鍵となる言葉は、「選ばれた者」、「選び」の問題です。8章1節では、「キリスト・イエスに結ばれた者」と言いました。それをここでは、神に選ばれた者と言い換えたわけです。その意味では、この「神に選ばれた者」という事実こそ、究極の福音の真理であるということができるはずです。救われるということ、主イエスさまを信じるということは、神に選ばれるということであって、選びの結果だということです。

しかも、大切なことは、パウロは、ここで自分が神に選ばれている事実を、100パーセント確信しています。そして、何よりも大切なことは、読者たちをも100パーセント、神に選ばれている人々であると確信しているのです。ローマの信徒たち、ローマの教会員たちは、全員、神に選ばれている者たちであるという確信があるのです。それは、彼らが、キリスト・イエスを信じているからです。平たく言えば、洗礼を受けて、キリスト・イエスと結ばれ、聖餐の礼典にあずかってキリスト・イエスと結ばれ、そのようにして、主の日のたびごとに礼拝式にあずかって、お互いの交わりを深めながら、何よりもキリスト・イエスと一つに結ばれたキリストの体なる教会の交わりに生きている事実があるからです。

私どもは、今、他のどこでもなく、ここで、名古屋岩の上伝道所の礼拝堂で、この御言葉を聴いています。この事実こそが、神の選びの証拠なのです。そうであれば、間違いなく私どもも、自分が、選ばれていることを信じてよいし、信じるべきです。

ここでの、訴える者、告発者とはいったい誰のことでしょうか。それは、サタンです。サタンがする仕事とは、キリスト者を神に訴えるということです。しかし、今学びました通り、サタンが、神に選ばれた者を告発する、訴えるということは、とてつもない間違いを、すでにそこで決定的に犯しているということに他なりません。神は、私どもの味方なのです。神は私どもをご計画に従って召しだし、御子イエス・キリストの姿に似たものにしようとあらかじめ定め、彼らを義とし、ついには復活者なる御子イエスさまのお姿に変化させてくださるのです。そのような神の御心を知らずに、私どもを神に訴えるなどということは、まったくの見当違いな、まさに初歩的なミスを犯しているということです。

使徒パウロは、ここで、「人を義としてくださるのは神です」と言いました。それは、これまでの信仰によってのみ義とされるというローマの信徒への手紙を要約する御言葉です。第4章24節「私たちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。」とあるとおりです。選ばれた人を義とする、それは、神の当然の行為なのです。

私どもは、今、訴える者とはサタンであると申しました。その通りです。しかし、サタンは、実に老獪であって、賢いのです。自らがサタンであると正体をすぐに現して私どもに挑んでくることは、ほとんどないと思ったほうがよいのです。サタンは、ほとんどの場合は、自らの正体を隠して、徐々に私どもを誘惑し、攻め立てようとします。つまり、敵である悪魔、彼は、キリスト者自身、つまり自分で自分を訴えさせることによって、その悪賢い企てを実行するのです。つまり、キリスト者をして、自分を神に選ばれていない、愛されていない者だと、信じ込ませるのです。これは、キリスト者自身にも、鋭い攻撃として迫ってまいります。なぜなら、キリスト者自身、自分が罪人であると認めているのですから、そこにつけ込むのです。そして、こう説得するのです。「誰でも、罪を犯しているではないか。だから、あなただけが、特別に悔い改めたり、罪を告白してみたりする必要などないではないか。教会の生活のために、自分の生活を犠牲にするなど本末転倒ではないか。苦労してまで、損してまで、神に仕えたり、隣人を愛したりして、おかしいではないか。いや、もちろん、神も隣人も大切であろう。しかし、自分こそが、大切ではないか。自分の思うように生きていったらよいではないか。ほどほどにしていればよい。」これは、サタンの言葉です。

今週、中部中会の機関誌が発行されましたが、東部中会の機関誌も発行されています。そのなかで、一人のミッション系の中高一貫教育を施している高校教師の文書が載っていました。これは、ぜひ、中高生にも読んでいただきたいと思い、印刷しました。タイトルは「わたし絶対主義」というのです。
このような言葉がありました。「進路相談で、『自分らしく生きたい』『自分が本当にやりたいことを見つけたい、しかしそれが分からない。』と高校生たちがそういう。そのたびに私は、『そんなことは多分一生分からない』と答えて、生徒に顰蹙をかっています。」

なるほど、顰蹙をかわれるのだと思います。この先生は、自分らしく生き、自分が本当にやりたい仕事を見つけ、それを生きることは、高校3年間で見つかるものではなく、一生の課題であるということを言いたいのでしょう。なにより、この先生ご自身の狙いをこう記しておられます。「生徒に違う視点を与えたいと思っているのです。その違う視点とは、わたしの人生の主権はわたしにあるのではなく、神にあるのだ、ということです。」

 「自分らしさを問う」ということは、自分が自分に対して問うことなのではなく、わたしの人生の価値を決める私を見捨てることのない生ける神に問うことなのだと、そのことを皆さんには心と留めて欲しいと切に願います。」こう文章を結んでおられます。キリスト者の教師として、実にすばらしいメッセージ、聖書的な視点であると思います。

 わたしは、牧師として、しばしば下手ではありますが、カウンセリングの手法を学び、それが生きるようにと学び、実践します。心理カウンセラーたちは、一生懸命、「自分自身を肯定的に評価してくださいね。自分をいたわってあげてくださいね。」こう勧めます。まったくその通りです。自分のことを価値ある人間として、受け入れ、認めてあげる、それなしには、人は健康な心で生きて行くことはできません。しかし、このキリスト者の教師であれば、こう仰るのではないかと思うのです。「あなたは、自分で自分を価値ある者とするのであれば、また何かあったとき、上手く行かなくなったとき、自分を価値のない人間、自分の人生をもう望みがない、とそこでも、自分を絶対化して、自分で決めるだけではないか。そんなことを止めて、自分の外におられる神の御言葉を聴こう。」

 今、心を病んでおられる方がいったいどれほど大勢おられることでしょうか。とにかく、仕事の量が多いのです。働きづめなのです。ですから、体を壊すか、心を壊すか、両方とも病んでしまうかとなります。高校生や未信者の問題だけでは決してありません。キリスト者であっても、たとい牧師であっても例外ではないのです。しかし、そこで、キリスト者は、ここに、立ち返ることができます。「誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは、神!」神は私どもの味方なのです。御子の命すら惜しまずに与えてくださった神なのです。その行為は、まるで、御子イエスさまより、あなたの方が大切なのだと言わんがばかりのものです。

 キリスト者は自分で自分を裁いてもならないのです。騙されてはならないのです。サタンが、そそのかして訴えても、神に自分の裁きをゆだねなければならないのです。そして、神は、あなたを、義としてくださるのです。

 使徒パウロは、興奮しています。ある聖書の学者も申しますが、33節と34節の文章は、乱れているというのです。つまり、34節の誰が私たちを罪に定められるのかという問いに対して、33節の、人を義とされるのは神です。と続く方が分かりやすいというのです。33節の、誰が私たちを訴えるのかに対しては、キリスト・イエスがわたしたちのために執り成してくださるのです。と続く方がつながりやすいというのです。なるほど、そうかもしれません。しかし、要するに、使徒パウロが言いたいことはよく分かるのではないでしょうか。そして、大切なことは、このパウロの喜びの言葉を、わたしども全員の言葉、自分のこと、自分のもの、自分の言葉にすることです。

 最後に、34節を聴きましょう。何度も繰り返しますが、使徒パウロは、第8章で、いわば、頂上に立っているのです。そして、この34節こそ、そのまさに頂点の言葉です。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」実にこれこそ、福音の要約です。もし、皆さんが、福音をごく単純に、未信者、求道者に伝えるときに、このことを伝えれば、福音の中心を伝えることになるわけです。そしてそれはとりもなおさず、私どもの幸い、幸せ、祝福、利益を確認することばです。

 ここでは、イエスさまを先ず何よりも「死んでくださった方」と、紹介します。パウロは、何度でも何度でも、十字架の死を告げるのです。先週学んだ32節もそうでした。「惜しまず死に渡された方」と言って、主イエス・キリストの十字架の死を告げます。ここでも、そうです。主イエス・キリストは、私どもの罪を償うために、十字架で死んでくださったのです。私どもを、サタンの支配、罪の支配から贖い取ってくださったのです。

 ただしパウロは、ここで、主イエスの死を強調しますが、むしろ、父なる神がこのお方を復活させてくださったことを強調しようとします。「死んだ方、否、むしろ」と言って、あの十字架の死はまさに、無駄な死、意味のない死なのではなく、贖いの死、償いの死、私どもの身代わりの死であったことを、復活によって証拠だててくださったと言うのです。父なる神ご自身が、御子を復活させてくださったことによって、公に、御子の死を受け入れ、その死によって、私どもの贖いが完全に実現し、成就したことを、全世界に、宇宙大に渡って、過去、現在、将来のすべてにむかって、公に宣言してくださったのです。神は、御子をお甦らせくださったことによって、キリストの死の意味、それが勝利であったことを確定してくださったのです。

 しかも、ここではそこに留まりません。それは、2000年前の昔のことです。しかし、父なる神は、今、このお方をご自身の右に座らせておられるのです。神の右にイエスさまがおられるということは、父なる神と同じ権威、権能、尊厳をお持ちであられるということを意味しています。イエスさまは御子なる神さまなのですから、当然のことです。しかし、その当然のことですが、神であられるイエスさま御自身が、今、一体何をしていてくださると言うのでしょうか。それこそが、私どもの、今を救うメッセージです。

 わたしどもの救い主なる主イエス・キリストは、今、父なる神の右に座して、その栄光と権威を帯びて、教会を、そして全世界を支配しておられます。そして、真の人となって十字架に死んでくださったお方、復活させられた方が、今や、真の神として、父なる神に執り成していてくださるのです。つまり、お祈りしていてくださるのです。御父の右においてです。それは私どもが、執り成しのお祈りをするのとは、わけが違います。ひれ伏して、懇願することが、私どもの祈りにはふさわしいでしょう。私どもは神の子とされて、大胆に祈ることができます。聖霊の執り成しを受けて、主イエス・キリストと結ばれて、大胆に、父なる神に近づくことができるのです。そして、私どもは、そのような大胆さを、ただ御子イエスさまのお陰で与えられているのです。しかし、それでもなお、私どもが、お祈りするとき、頭をたれ、へりくだって憐れみにすがって祈るしかないでしょう。しかし、御子イエスさまはそうではありません。父なる神の右に座しておられるお方が、この弱い私ども、肉体においても、精神においても、何よりも信仰において弱い私どものために、執り成し祈ってくださるのです。改革者カルバンはこう言います。「人間のような態度で哀願したり、ひざまずき、手をすりあわせて神に祈願しておられるかのように想像すべきではない。」主イエスさまは、常に、私どものために、御子の権威をもって、御父に訴え続けてくださり、そのようにして、完全な救い主を私どもは持っているので、神を私どもの味方と確信することができるのです。

 ですからもはや、私どもを罪に定めるものはありえないのです。イエスさまが、とりなしの祈りを祈り続けていてくださるからです。この場に招かれている私どもは、確信してよいし、確信すべきです。このイエスさまに祈っていただかないで、誰しも、教会へと導かれることはできないのです。洗礼を受けていようがいまいが、今私どもがここにいる、ただそれだけを根拠にしても、私どもは、この主イエスの執り成しの祈りが、他ならない自分のために捧げられているのだと信じてよいし、信じるべきです。イエスさまに祈っていただかなければ、誰も、主イエスに近づけない、神に近づけないからです。しかし、今、私どもはこの礼拝式によって、主なる神、父なる神の御前におります。恵の場所、その只中に座っているのです。この幸いに、招かれている者を、誰が訴えることができるでしょうか。誰が罪人として、裁き、永遠の滅びへと断罪せよと神に要求することができるでしょうか。そのような者こそが、真っ先に、神に永遠の裁かれる以外にないのです。

 今、私どもはここで天上の礼拝を仰ぎ見ます。そこでは、御子イエスさまが父なる神の右に座して祈っておられるお姿が見えるのです。どうぞ、今週も、毎日、毎朝、この私どものために祈っておられるイエスさまから目を離さないで、歩み続けましょう。

祈祷
わたしどものために死んでくださった方、否、復活させられた方であられる主イエス・キリストの父なる御神、私どもは、サタンに騙され自分で自分を訴え、裁くことがあります。自分を見下してしまうのです。自分は、赦されない、自分は、価値がない、自分の将来は明るくない、まことに勝手な、自分を絶対にして判断するのです。しかし、主イエスよ、あなたは、私どものために、毎日、毎朝、毎晩、執り成し祈っていてくださるのです。私どもに与えられる経験の、とりわけ苦しみのすべてを益となるようにしてくださるのです。御子の姿に似たものにしようと、働いておられるのです。どうぞ、今週も、私どもが祈るそのときに、自分が祈っている確かさを求めるのではなく、自分のために祈っていてくださるイエスさまの執り成しの祈りに支えられてこそ、祈れることを、祈っているのだと、はっきりと悟らせてください。この真の祈りの世界へと私どもを、つねに留め置いてください。そして、私どももまた、祈りを祈れるようにしてください。 アーメン