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「勝ち得て余りある、愛」

「勝ち得て余りある、愛」
2007年3月4日
テキスト ローマの信徒への手紙 第8章34節~37節

「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」
 

今朝も皆様と共に、礼拝式を捧げることが許されます事を心から感謝いたします。皆様と声を合わせて神に賛美を歌い、ニカヤ信条を唱え、十戒を唱え、主の祈りを唱える、そのようにして賛美、感謝を捧げることができますことを心から感謝いたします。
 
 さて、本日、与えられた説教のテキストは、まさに使徒パウロの賛美の歌です。パウロは、この第8章で、とりわけ今学び続けている31節以下の言葉において、何をしているのかと申しますと、難しいことは何もありません。心の底からの感謝と喜びとを、一気に爆発させ、神に賛美を捧げているのです。いわば、この手紙のなかの讃美歌のような箇所です。讃美歌なのですから、これをもっともよく味わうためには、むしろ、説教を聴くことより、これを何度も声に出して朗読することの方がふさわしいのではないかとすら思います。この御言葉に心を合わせて、自分の言葉、自分の感謝、自分の喜び、自分の信仰、自分の賛美として、歌うことです。

 先週の礼拝式後、有志の方々が賛美の練習、聖歌隊の練習を始めて行いました。私どもの礼拝式では、賛美を独唱するということはしません。聖歌隊だけで、賛美を歌っていただくということもほとんどしたことがありません。しかし、礼拝式のなかで、聖歌隊の賛美を捧げる教会もあります。そのときには、会衆は、座って聴いているわけです。しかし、聴きながら、おそらくキリスト者であれば、単に、聴衆として鑑賞しているということではなく、心においては一緒に動き始めるのではないかと思います。自分は、声に出さずとも、心は、感謝と喜びへと動き、座りながらも心で一緒に賛美を始めている、そのようになるのではないかと思います。

さて、31節は、「これらのことについて何と言ったらよいだろうか」と言って始まります。今まで自分が語ってきて、読者が読んできて、結論として何といったらよいのかということです。翻訳では、訳されていませんが、これらのことについて「わたしたちは」なんと言ったらよいだろうかと、呼びかけているのです。いわば、独唱ではないのです。私と一緒に歌おう、一緒に聖歌隊なって歌おうということでしょう。今、私どもは、いわば、パウロの独唱を聴きながら、しかし、すぐれた独唱者によって、私どももまた一緒に歌い始めるような経験へと誘われ、巻き込まれていると思います。使徒パウロは、ここで、「わたしたち」という言葉を繰り返し使っています。確かに、ここでこの手紙を記すのは、パウロ個人ですが、しかし、読者と一緒になっているのです。ここでは、手紙の著者も読者も別々に存在しているのではなくて、もはや一つになっている。一つになって、自分たちの信仰を証し、神の恵みをたたえるのです。

 私どもは主の日の礼拝式のたびに、ここで牧師の説教を聴きます。もしも、わたしの説教が、言わば成功したか、しないか、その一つの規準は、皆様と一緒になって、神を賛美し、感謝することができたかどうかです。わたしの説教もまた、それは、皆様と一つになって、教会の信仰を証し、神の恵みを褒め称えるものに他なりません。わたしは、間違いなく語る人です。そしてそのように皆様は、今日、徹底的に聴く人になるのです。しかし、肝心なことは、語る者も聴く者も一つになって、神を褒め称えることです。

賛美の練習が進んで、いよいよ讃美歌を正しく豊かに、美しく歌うことができたら、どんなにすばらしいかと思います。そのためには、音符を読んだり、技術を磨くことも大切でしょう。しかし、なによりも、聖書から聞こえてくるこの賛美、説教から聞こえてくるこの賛美をしっかり聴くことです。そしてその賛美の心を自分のものとすることです。

さて、そのようにして、今朝、使徒パウロと一緒に、歌う歌は先ず、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」です。
 これまで、このような呼びかけを、繰り返しています。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。」「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。」そして最後、三番目に「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」と続きました。訴え、罪に定めるということは、要するにキリストの愛からわたしたちを引き離す企てということです。敵が、攻撃をしかけてまいります。サタンが、挑んで来るのです。お前は、罪人である。罪人であってもよいではないか。いや、神などいない。いや、神はおられるが、お前を愛してはいない。神はおられるが、お前が考えているような、正義の神でもなければ、愛の神でもない。

 サタンは、ついには神にまで訴え出るのです。しかし、これまで学んだように、それは、調子に乗りすぎて墓穴を掘るようなものなのです。なぜなら、神は、私どもの味方であってくださるからです。神に選ばれた者を訴えるほど、身の程知らずなことはありません。実に、そのようにして、神を敵に回すことに他ならないのです。なぜなら、神は、私どもを義と宣言することを欲しておられるからです。実に、そのために、御子イエス・キリストを十字架にお与えくださり、死人の中から御よみがえらせてくださったのです。さらには、今や、キリスト・イエスは、神の右で、父なる神に向かい合って、私どものために執り成しの祈りを捧げていてくださるのです。
 
ここまで、話を進めてきたら、ついに、もはや最後の最後に出る言葉を残すしかない。それが、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」なのです。まさに、いったい誰が、このキリストの愛からわたしたちを引き離すことができるのか、こう叫ばざるをえないのです。
パウロは、この最後の決着をつけるために、なお、丁寧に語り進めます。パウロは、ここで七つのものを数え上げました。「艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」この他にも数え方によっては、なお数多く挙げられるはずです。しかし、七とは、特別の数です。つまり、七つ数えあげることによって、すべてのものを含めたのです。

 ただし、ここで数えられたのは、私どもの内側のことではないと思います。先週は、先ほども確認しましたが、サタンの悪知恵について学びました。悪魔は、神に訴えるのです。しかし、その仕方は、実は、神さま御自身に直接に訴え出るのではなく、しばしば、キリスト者の良心を通して訴えるのです。キリスト者のまじめさ、と言っても良いでしょう。キリスト者として信仰によって歩めば歩むほど、自分の罪深さ、罪の現実の悲惨さを知ります。自分がいかに、神から遠く、離れている人間なのか、神の喜びたもう生き方から離れているのかを知るのです。これは、確かに、信仰の成長の側面です。しかし、キリスト者は、自分の罪深さを知れば知るほど、恵みの深さを知ることができ、神の愛の深さを知ることができるのです。ただ、サタンは、そこを攻撃してまいります。神の恵み、神の義を、見えなくし、誤解させ、自分の罪だけに目を注がせようと訴え、そのようにして敵対するのです。

 しかし、神は、私どもの味方です。私どもに義を、つまり救いを宣言してくださるのです。私どものために、お甦りになられ、天に昇られたキリスト・イエスが私どものために執り成し祈っていてくださるのです。ですから、私どもを罪人として訴え、罪に定めることなどまったくできないのです。

 それに対して35節では、私どもをキリストの愛から引き離すものとして、私どもの言わば、外側から来るものを挙げているのです。これまでの訴える者とは、罪に定めるということであって、内側のこと、目に見えない部分のことであります。ただし、内側と外側とをきちんと分けてしまうことはできません。艱難によって、自分の心が萎えて、自分の弱さが目に付き、精神的な苦しみを味わわされることがあるのです。そこを敵に攻撃され、訴えられるということがあるでしょう。そのように申しますと、内側と外側とを、区別しなくてもよいのかもしれません。ただここでは、やはり、外側の問題に重点が置かれているのは、明らかなのです。

 パウロは、キリストの愛から、キリスト者を引き離すことのできるものとして、考えられるようなことごとを七つ数えたのです。それは、「艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」でした。わたしは、これらを一つひとつ解説するよりも、パウロ自身の言葉、実例を聖書、コリントの信徒への手紙Ⅱ第11章に記された体験を読むだけでよいと思うのです。いささか長いのですが、読み上げます。「だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。 彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。 キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。 このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。 だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。 誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。
主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存じです。」

いかがでしょうか、ここには、ため息をつきたくなるほどの、現実の艱難。苦しみ。迫害。飢え。裸。危険。剣があります。パウロは、最後に、神を褒め称えて終わるのですが、実は、もう一つ、思い出したように、具体例を挙げました。「ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、わたしは、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした。」実に、生々しい記憶です。

 しかしここで使徒パウロは言うのです。このような経験は、実は、自分たちだけの特別のことではないというのです。その証拠として、彼が挙げたのは、自分のことなどではなく、詩篇でした。詩篇第44編の神の民の経験です。

 わたしは、パウロ自身、読者に読んでもらいたい、思い出してもらいたいと思って、詩篇第44編23節だけを挙げたのだと思います。その前の節にはこのように記されています。
 「しかし、あなたは我らを見放されました。我らを辱めに遭わせ、もはや共に出陣なさらず 我らが敵から敗走するままになさったので/我らを憎む者は略奪をほしいままにしたのです。 あなたは我らを食い尽くされる羊として/国々の中に散らされました。 御自分の民を、僅かの値で売り渡し/その価を高くしようともなさいませんでした。 我らを隣の国々の嘲りの的とし/周囲の民が嘲笑い、そしるにまかせ 我らを国々の嘲りの歌とし/多くの民が頭を振って侮るにまかせられました。 辱めは絶えることなくわたしの前にあり/わたしの顔は恥に覆われています。 嘲る声、ののしる声がします。報復しようとする敵がいます。」

ここでは、イスラエルが戦争に敗れるという国家的危機の中での叫びが、歌われています。略奪され、イスラエルの民は難民となって、散らされ、捕虜として売られ、周辺諸国の嘲りの対象とされました。町や村は廃虚と化し、屠られる羊のように無慈悲に殺される者として苦しみにあっているのです。ところがこのような艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣という苦境にあえいでいるイスラエルの民を、神は、助けようとも救おうともされません。そこで、なぜ神はわたしたちを見捨てられ、虐げのうちに放置されるのか、なぜ神は眠っておられ、わたしたちを忘れておられるのかと問うのです。これはイスラエルの信仰がその根幹から揺すぶられる、深刻な問いでした。

23節はこうです。「我らはあなたゆえに、絶えることなく/殺される者となり/屠るための羊と見なされています。」これは、お気づきの通り、パウロが手紙に引用した言葉です。
しかし、イスラエルの詩人、信仰者は、このような艱難の極みを経験してなお、嘆きと訴えだけで終わらずに、こう歌うのです。「 これらのことがすべてふりかかっても/なお、我らは決してあなたを忘れることなく/あなたとの契約をむなしいものとせず 我らの心はあなたを裏切らず/あなたの道をそれて歩もうとはしませんでした。」
 
 詩人は、どうしてそのように信仰を言い表せるのでしょうか。それを示すのが、詩篇第44編4節です。「先祖が自分の剣によって領土を取ったのでも/自分の腕の力によって勝利を得たのでもなく/あなたの右の御手、あなたの御腕/あなたの御顔の光によるものでした。これがあなたのお望みでした。」 
彼は、自分たちの先祖を救い導いてくださった神を信じているのです。神の力強い右手、御腕、御顔の光によるものであって、決して、先祖の偉大さによるものではないと理解していたのです。

 今、パウロもまた、この旧約聖書の信仰の先輩にならって、いへ、それ以上の確かさをもって、勝利の宣言を歌い上げるのです。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」 
使徒パウロにとって、キリストの愛の確かさと力強さは圧倒的なものでした。この愛の確かさは、一言で言えば、十字架の愛でしょう。十字架のおそろしいまでの御苦しみを忍び耐えて、そのお命を私どもにあたえてくださったのです。神ののろい、刑罰を十字架で身代わりに受けてくださるまでの愛です。先週も、「わたしたちすべてのために、その御子を差へ惜しまず死に渡された方」とは、まるで、父なる神さまは、御子イエスさまより、私どものほうが大切であるかのようではないかと申しました。そしてそれは、イエスさまご自身も、喜び進んで十字架に赴かれたわけですから、まるで、イエスさまご自身のお命よりも、罪人である私どもの命のほうが高価である、尊いものであるかのようにかんがえておられる、そう考えることも許されるくらいの行為ではないでしょうか。
 
 キリストの愛、それを私どもはどのようにイメージしているでしょうか。もしも、それをたとえば、親子の愛とか、夫婦の愛とか、人間と人間の関係における愛と考えるのなら、それは、極めて不十分なイメージです。

 つまり、そこでの愛とは、たといどんなに強力で、どれほどまでに真実で、深い愛であったとしても、究極の敵である死の前には、ひとたまりもないようなものではないでしょうか。愛とは、いつまでも共に居たい。どこまでも、一緒におりたいというものでしょう。簡単に言えば、愛する相手と離れたくないと覚えさせるものです。たとい、距離的には離れて生きていても、精神的には一つに結ばれているものでしょう。しかし、死によって、どうしてもそれは切断されます。断ち切られてしまいます。引き離されざるをえないのです。

 しかし、「死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエス」とあるとおりです。主イエス・キリストは復活者なのです。死んでお甦りになられたのです。永遠の神キリスト、そのキリストの愛はまた、永遠です。そうなれば、この永遠のキリストの愛の対象とされた私どももまた、永遠に愛され続ける者とされたのです。

ですから、パウロは叫びました。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」ここに私どもの輝かしい勝利、圧倒的な勝利があります。

かつての翻訳では、「勝ち得て余りがある」としていました。これは、名訳であると思います。圧倒的勝利なのです。勝ち得て余りあるとは、高校野球にたとえて申しますと、彼らの目標は、甲子園出場でしょう。それぞれ県大会で予選を勝ち抜くのです。一勝するだけでよいというチームもあるかもしれませんが、多くは、それで満足できないでしょう。そしてなんと言っても憧れは、甲子園まで行くことでしょう。県大会で、何チームと戦って、優勝できるのか、くわしくは知りません。しかし、優勝することなしに、甲子園球場に行けません。そして、甲子園に行っても、そこで一勝するだけでは、優勝できません。そこでも、勝ち続けて、ついには、最後の試合、決勝試合を迎えるのです。そして、その決勝戦で勝ったチーム、彼らこそ、優勝チームの栄冠を勝ち取ることができるのです。高校野球日本一になるのです。

ここでの「輝かしい勝利」それは、単に、一勝するような勝利ではありません。それは、優勝なのです。もはや、戦う相手はいないということを意味するのです。完全勝利です。圧倒的勝利です。もはや敗北はありえない。戦いは、済んでしまっているからです。

いったいこの輝かしい勝利を収めたのは誰でしょうか。使徒パウロは、それを他ならない私どもキリスト者であると申します。しかし、私どもは、実際にはこの戦いを戦っていないのではないでしょうか。この究極の敵、サタンとの戦いを私どもがしたのではないのです。主イエス・キリストが戦ってくださって、勝ち得て余りある勝利を収められたのです。

そしてその勝利を私どもにお与えくださいました。その意味で、この勝利は、確かに私どもの勝利です。野球のたとえで申しますと、わたしどもはベンチにすわっていたようなものです。試合に出ていないのです。ところが、ベンチにすわっていただけなのに、このキリストのチームのメンバーにならせていただいたお陰で、私どもに勝利が転がり込んできたのです。そして、ただ、このキリストのチームのメンバーとされたという理由だけで、優勝の栄光と立場にあずからせていただいたのです。
この勝ち得て余りある勝利の根拠は、私どもにはありません。私どもの外から来た勝利なのです。外から与えられた勝利なのです。キリスト・イエスが死んで、否、復活させられ、今、神の右に座られているからです。

私どもはどのようにしてキリストのチームのメンバーになったのでしょうか。それは、私どもが、キリスト・イエスと洗礼によって一つに結ばれたからです。今、祝おうとする聖餐の礼典によってキリストとの交わりに結びあわされたからです。私どもは、キリストと一体化させられてしまったのです。そのようにして、キリストの勝利即、わたしの勝利、私どもの圧倒的勝利になったのです。聖霊が祈ってくださるばかりか、御子イエス・キリストご自身が執り成し祈っておられるのです。このキリストの愛によって、私ども自身が勝ち得て余りある人間、人生になってしまったのです。人生に、まさに、決着がついてしまっているのです。勝負がついているからこそ、七つの敵、完全な敵ですら、キリストの愛から私どもを引き離せないのです。
 
 今、わたしどもは厳しい信仰の戦い、試練にあっているでしょう。それは、先の見通しは分からないのです。しかし、信仰の目は見ます。現実の、ありとあらゆる課題が、キリストの愛から私どもを引き離せないことをです。そうであれば、私どももパウロだけに歌わせていては惜しいです。私どもも歌いましょう。

「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」

祈祷
 主イエス・キリストの父なる御神、私どもも今、それぞれ、小さな、あるいは大きな艱難のなかに生きています。自分のことだけではなく、教会の仲間たちのこと、家族のこと、日本の社会、世界、日本にある教会、数え上げれば、きりがありません。しかし、私どもには、唯一の神、創造者にしてすべての主権をもちたもう神が共におられます。そればかりか、唯一の主イエス・キリストがともにいてくださいます。このキリスト・イエスの命がけの愛のなかに、私どもはすでに置かれています。私どもがそうしたのではありません。ただ、あなたが、一方的にそうしてくださったのです。このキリストの愛の交わりから、私どもを奪い去るもの、引き離すものはありえません。すでに、地上にあって、この神の勝利に捕らえられ、神の愛のなかに獲得された私どもですから、私どももまた、今や、勝利者とされています。勝ち得て余りある者とされています。心から感謝申し上げます。どうぞ、この確信のもとに、信仰の人生を全うさせてください。私どもの力、勝利などではなく、ただ、あなたの愛が勝利し、勝利し続けることだけを深く信じることができますように。ここにいるすべての者たちの揺ぎ無き確信とさせてください。アーメン。