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「キリストの故の揺ぎ無き救い」

「キリストの故の揺ぎ無き救い」
2007年4月15日
テキスト ローマの信徒への手紙 第9章1節~5節③/Ⅲ

「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。 わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。」
 
今朝、与えられたローマの信徒への手紙第9章1節から5節までからの説教として、本日で三回目の説教となります。私どもは、すでに、2004年9月からローマの信徒への手紙を通して語られる神の御言葉を聴いて、礼拝式を捧げてまいりました。はや、2年半の年月が流れました。

それだけの長きにわたって、私どもはこの8章までを読んできたのですし、それだけの時間を必要とするほど、なお飽き足りないほど、この8章で記された福音の恵みを学び続けたのであります。さて、しかし、考えて見ますと、この第8章までの真理は、この箇所にしか記されていない福音の真理なのかと申しますと、実は、そうではありません。むしろ、使徒パウロが記した手紙には、どこにおいても、ここで明らかにした、主イエス・キリストによる救い、十字架と復活の御業による、恵みによる、信仰による救いの恵みを語っているのです。

その意味では、私どもが今、学び始めている第9章から第11章までは、実に、ローマの信徒への手紙にしか記されていない、いわば秘められた神の御心なのです。そうなりますと、このローマの信徒への手紙の固有の価値、かけがえのない価値というのは、むしろ、この9章から11章にあるとさへ言いうるのではないかと思うのです。ここから、使徒パウロはまさに語調をはっきりと変えて語り始めます。そうであれば、説教者である私自身もこのパウロの語調、そこで語られている内容に即して、語調を変えて語らなければならないのではないか、そう考えてもみます。それができるかどうか、おそらくできないのではないかと思うのですが、少なくとも、私も、そして皆様にとっても、ここで語られることは、そのような極めて大切なメッセージであることを意識してよいと思います。

それなら、ここで語られる神の御心とは、一言で言うとなんでしょうか。主題は、イスラエルであります。イスラエルとは、ユダヤ人の別名です。使徒パウロは、1章16節でギリシア人もイスラエルもとは言いませんで、ユダヤ人もと言いました。ところが、ここでは、ユダヤ人とは言わないのです。イスラエルと申します。それは、ユダヤ人を信仰の見地、信仰のまなざしでみるときの表現なのです。そこにパウロの、「こだわり」があるのです。イスラエル、そもそもこの名称は、アブラハムの子、イサク、イサクの子、ヤコブそのヤコブに与えられた名称です。創世記第32章に記されています。ヤコブが、ペヌエルという場所で、天使とすもうをとりました。彼は、そこで「わたしを祝福してくださらないなら、決してあなたを離しません。」と言いました。「お前の名は何と言うのか。」「ヤコブ」です。ヤコブとは、押しのける者という意味と言われています。しかし、神の使いは、「お前の名はもうヤコブではなく、イスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」イスラエルという名は、神が命名された名なのです。ある人はその意味を、「神の皇太子」と言います。神が選ばれた子、特選の子という意味でしょう。

このヤコブという人間、人間的に見れば、どう贔屓目に見ても、尊敬できるようなところのない、自我の強い、自己主張の強い人間を、神がご自身の民、神の子として選ばれたのです。
しかし今、使徒パウロにとっての大問題、その深い悲しみと絶え間ない痛みのもとになっている問題とは、他でもない神のイスラエル、神の選ばれた民の現実の姿なのです。つまり、彼らが、神の選びに生きていないということです。神の恵みに応えて生きていないということです。彼らは、自分たちにこそ約束され、そして現実に与えられ救い主、メシアを十字架につけてしまったのです。彼らの歴史は、これまでも長く、神に反抗し続けた不信仰な歩みでありました。しかも今、実に、神の御子のイエス・キリストを十字架で殺して、なお恥じずに、悔い改めずに、かえって、反発を深め、このお方を攻撃し続けるのです。

ここで提示されている問題は、一つには、使徒パウロにとって、彼だけではなく他の使徒全員もそうなのですが、彼らは皆、ユダヤ人であり、ユダヤ人自身の問題です。彼らは、使徒たちにとって、「肉による同胞」そのものなのです。同じ血が通う、民族です。それは、まさに肉親の救いにもかかってくる問題なのです。ですから、彼らが神に反抗することによって、深い悲しみと痛みを覚させられることは、我々であっても、よく分かります。

しかし、問題はそこに留まらないのです。留めてはならないのです。もしそれだけなら、正直に申しますと、我々のような日本人、韓国人、中国人など異邦人にとっては、他人事で済ませられてしまうのではないでしょうか。パウロや使徒たち、ユダヤ人キリスト者にとっては決定的な、大問題であっても、私ども異邦人キリスト者にとっては、それほどでもなくなってしまいます。

つまり、ここでもっとも深刻な問題となっているのは、単にユダヤ人の救いの問題以上のことなのです。つまり、神の約束、神の選び、神の主権、全能はどうなってしまうのかという問題です。神ご自身の権威に関わるのです。神さまの御言葉は反故にされ、神の約束は破られ、その御計画は実現に至らなかったとするのであばれ、神の全能も、神の主権も、創造者なる神という本質も、深いところで崩壊してしまうのです。そうなれば、これは、一人パウロの悲しみや痛みに留まりません。神を信じるすべての者にとっての、大問題なのです。

パウロは、ユダヤ人について、こう言います。「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。」

ユダヤ人こそ、正真正銘の「イスラエルの民」、つまり、神の民に他ならないという主張です。「神の子」としての身分も、そもそも彼らのものなのです。私どもは主イエス・キリストを信じて、神の子とされましたが、彼らは、アブラハムによって、その信仰に連なることによってはるか昔から、その最初から神の子として、存在させられている。特別です。

神の子としての栄光とは、彼らに、たとえば、出エジプトの出来事における奇跡の数々、荒野を導かれるときの神の御業、その栄光を彼らは、目撃しているわけです。まさに、神の子として与えられているその栄光の中の栄光だけではなく、そこに付随するもろもろの栄光も彼らのものなのです。さらに、「契約」です。神は、その一方的な救いの契約を、イスラエルと交わされました。神との契約、神とのかかわり、交流の相手とされたのは、イスラエルという小さな民族だったのです。これは、自分たちで決めたことではなく、神に選ばれ、契約の相手としていただいたのです。何という光栄でしょうか。契約の相手とは、契約は約束、救いの約束ですから、それは、神は御言葉をもって確かなものとされました。それが、「律法」であります。神の御言葉を聴くことができ、与えられたのも、彼らなのです。彼らの誇りは、律法を与えられたことです。ですから彼らは、律法の民、聖書の民なのです。それが、彼らの誇りなのです。そして、神との契約を御言葉によって結んでいただいた目的は、何かです。それは、「礼拝」に他なりません。生ける神、真の神を礼拝できる特権、その光栄、栄光をイスラエルは与えらているのです。つまり、神との交わりも彼らのものです。最後に、「約束」です。つまり、これらの数えられたすべてのものを与えるという神の約束は、実に、イスラエルに与えられたものなのです。そう神ご自身が誓われたのです。ですから、もしもイスラエルが滅びてしまうことになれば、結局、神ご自身のご計画や主権そのもの、栄光そのものを裏切りこととなることを意味してしまいます。大変な自己矛盾になるのです。

パウロは最後に「先祖たちも彼らのもの」と申しました。イスラエルとは、何か、ここでは、アブラハム、イサク、ヤコブのことです。旧約聖書を紐解けば、どれほど、この三人の名前が重ねて記されていることでしょうか。神は、あのモーセに対しても、こう仰せにならました。『わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』と。アブラハム、イサク、ヤコブに神は誓われたのです。ですから、「先祖」という言葉は決定的なのです。今まで語った事柄を一つの象徴的な表現で、全部言い表せるような言葉、それが先祖です。

ところが、使徒パウロが今、実際に目の当たりにしているユダヤ人は、主イエスを憎しみ続けています。反抗し続けています。それゆえに、パウロの福音を、かつてのパウロ自身がそうでありましたが、憎悪し、迫害することこそ、神に仕えていると信じているのです。そのようにして、神の御心を悲しませ、痛め続けているのです。神の怒りを自らに積むだけの惨めな姿に転落しているのです。

しかし、パウロは、なおそこで、このように確信するのです。あの39節で雄叫びのように勝利を歌ったように信じるのです。「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを、そしてあの不信仰で、かたくなで、反逆するイスラエルを引き離すことはできない。」そう言うのです。これをキリスト者だけ、教会だけではなく、現実のユダヤ人、イスラエルにも当てはめるのです。異邦人ですら、この神の愛にあずかったのであれば、どうして、神がそもそも選ばれたユダヤ人を、見離す、見捨てることがあろうかと信じているのです。

どうしてそのような揺ぎ無い信仰に導きいれられたのでしょうか。それは、天地創造の真の神、唯一の神は、アブラハム、イサク、ヤコブの神であって、彼らと契約を交わされた神、彼らを、選び出されたことに基づきます。そして、何よりもこの神が、実に、この先祖アブラハムの子孫から、あのダビデ王を起し、そして、今やついに救い主イエスさまを起してくださったからなのです。

ここでパウロは、イエスさまと呼ばずに、キリストと言います。それは、ユダヤ人といわずに、イスラエルと呼ぶことにこだわるように、イエスさまはただの人ではなく、キリストに他ならないからです。しかもそのキリスト・イエスは、正真正銘のユダヤ人です。そのようにして、まさに、決定的に、神は、アブラハムと結ばれた契約を守り抜かれたのです。そして、このイエスさまを通して、アブラハムに与えられた約束の子孫が、満天にきらめく星のように数え切れないほどに増えたのです。

この5節は、主イエス・キリストがどなたであるのかを告げる、決定的に重要な御言葉です。この最大級に重要な教理の言葉が、このような具体的なイスラエルの救いをめぐって語られたことに深い神の御心を思います。驚きと恐れをすら覚えます。ここに、イエス・キリストは、真の人間、肉体をとられた正真正銘の人間であることが高らかに宣言されました。そして直ちに、その人間キリスト・イエスは、万物の上におられる、永遠に褒め称えられる神であると告白するのです。

実は、この言葉こそは、使徒パウロが、ユダヤ人同胞から批判され、攻撃される、憎悪される言葉です。十字架で殺された人間イエス、つまり、ユダヤ人が考えてきた木に掛けられる者は神に呪われた者であって、すべてのものより低い人間、もっとも低い底に下る、永遠の暗黒に落とされる人間なのです。ところが、パウロは、イエスさまのことを万物の上におられると言うわけです。永遠の神と宣言するのです。

これを教会の言葉で、二性一人格と申します。8章で何度も学びました真の神は父なる神、御子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神における交わりであって、一体、一つになっておられる神、つまり三位一体の神であると学びました。そして、ここでは、二性一人格を学ぶのです。

これこそ、教理の中の教理、全聖書の救いの教えにおいて決定的に重要な真理です。福音と異端とを弁別する、要です。使徒パウロは、イエスさまが真の神であり同時に真の人間であられる、そのことが、イスラエルの救いの砦、神の世界を救いあげる上での、その御業の揺ぎ無き土台であるとここで宣言するのです。あまりにもすばらしい神の御業であるゆえに、パウロは自分で語った言葉ですが、思わず、自分でアーメンと賛美します。神が教えてくださった啓示、真理なのです。それを自分の口で唱えるのですが、あまりのすばらしさにアーメンと言わざるを得なくなったのでしょう。

長々と語ったかもしれません。ある人には、ここでの議論、説教と現実の自分と何の関係があるのかといぶかる人がいるでしょうか。大有りです。もしも、イエスさまが人間となってくださらなければ、ユダヤ人から生まれてくださらなければ、そして当然ですが本当に永遠の神の御子でなければ、イスラエルが救われないことになり、それは、私どもの救いの根拠、そのものも崩れることを意味するのです。
我々異邦人の救いとは、イスラエルの救いと切り離せません。私どもの方が先に救われてゆきます。主イエスがぶどう農園の労働者のたとえで仰せになられたように、「後のものが先になり、先のものが後になる」のです。しかし、もしも先のものが後ですくわれなければ、後の者の救いもまた、成り立たなくなるはずです。

しかし、この反抗する民イスラエルも、御子イエス・キリストによって救われるのです。それは、私どもとまったく同じです。そして、御子はすでにユダヤ人としてお生まれになり、ユダヤ人の王として十字架で殺され、そして復活されました。そのようにして、すべての人間の罪を償ってくださったのです。

パウロはキリストと結ばれた者、キリストにある者という表現を、飽きることなく繰り返します。それが、救われているということの現実の姿だからです。どうして、人間パウロ、ユダヤ人パウロとイエス・キリストとが結ばれることができるのでしょうか。神と人間であれば、決してできません。神は永遠の神、人間は小さな、有限な、被造物にしか過ぎないのです。そのような人間と神さまとが一つに結合するとか、結ばれるなどということは起こりえないことです。しかし、神は、とてつもないことをしてくださったのです。御子なる神を、永遠の神が、あのダビデの子孫であるヨセフのいいなづけとなったマリアの御腹に身ごもられ、肉体を受けて人となってくださったのです。これによって、イスラエルの救いも異邦人の救いも、成し遂げられる根拠、土台を持ったのです。

私どもは先週、○○兄姉の○○君の幼児洗礼入会式を挙行しました。皆で、このご家族を祝いました。このご家庭は、誰が見ても、とても分かりやすいご家庭です。祝福された家庭であることは明らかです。しかし、その同じ日、祝われているまさにその愛餐会のとき、わたしは、ひとりの仲間が、大きな病気に犯されている疑いがあるとのことを聞きました。これは、厳しい報告でした。そうなると、もしもそれが命に関わる病であることが判明し、病との厳しい闘いが始まることになるのであれば、それは、神の愛から引き離されるような出来事となるというのでしょうか。あるいは、その仲間は、神の祝福からもれてしまうということになるのでしょうか。とんでもありません。もしも、教会が、そのように考えるのであれば、あるいは、私どもの信仰がそのようなものであれば、それは、聖書の信仰になっていないはずです。

「死も命も、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。」これが、私どもキリスト者の確信なのです。すでに第8章で、使徒パウロは、結論付けたのです。しかも使徒パウロは、この第9章では、この事実に立脚して、一人の人の重い病も厳しい試練ですが、しかしそれに比べられないほどの、もっとも厳しい試練、問いのど真ん中へと彼はつき進んで行くのです。

最初に触れましたが、この第9章以下の、問い、議論ができるのは、実は、これまでの8章までにおいて証した、福音の真理、恵みが背後にあるからに他なりません。この恐るべき世界の課題、信仰の問題に立ち向かうための土台を据えたのです。
そして、今、パウロは語り始めます。第1節の御言葉が決め手、決定的に大切です。「キリストに結ばれている。」この事実に尽きるのです。いったい、どのようにして、人間が、罪人である人間、有限で、ちっぽけで、汚れた人間が、神のみ子キリストに結ばれる、一体化し、結合することができるのでしょうか。

パウロは、ここで、あらためて言うのです。言わば、ダメ押しです。それは、キリストが事実ユダヤ人になられたということであります。神の愛によって、圧倒的な勝利を得ていることを確認したその上でなお、使徒パウロは、言います。「肉によれば、キリストもイスラエルの一員になられた」主イエスさまが人間になられた、だから神の御子なるキリストと人間パウロ、ユダヤ人パウロは一体化、結合、結ばれることができるというのです。

もしも、イエスさまが人間となってくださらなければ、ここまでの確信に生きることはできないはずです。そして、決着がついたのです。神の御子ご自身がまさにイスラエルの一員となられたのです。御自身がイスラエルと一体化された以上、もはや、神がどうしてそのイスラエルを滅ぼし、見離し、見捨てることなどありえるでしょうか。神の民を見捨てて、地獄に落とすなら、それは、天におられるイエスさまを地獄に落とすことを意味するのです。

この事実によって、私どもも、たとえどれほど、キリストから離されるてしまうかのような苦難、試練にさらされても、そこでなお、この愛の交わりから奪い取られない、引き離されないことを確信することができるようになるはずです。

大切なのは、自分じしんが肉となられたキリストに結ばれている事実を受け入れ、信じるかどうかです。神の民、イスラエルがキリストのご降誕、十字架とご復活とによって、救いが完成されることを信じるかどうかなのです。パウロは、この確信にたって、これからの議論を展開してまいります。

一週間が今日から始まります。私どもは、今週も、自分の生活に何が起こるのか、誰もわかりません。それだけに、誰でもが深いところで不安と恐れを抱えて生きるのが我々人間の現実なのです。それをごまかす人も大勢います。考えないでやり過ごす人も少なくありません。また、それに押しつぶされそうになって、神ではないものに、身をゆだねたり、自分自身を奪い取られてしまった人も少なくありません。

しかし私どもは、そこで、見誤ってはなりません。私どもの今週の歩みも、これからの人生も、もはや決して、不幸や絶望で終わらないことをです。私どもは、しっかりと見つめるべきです。主イエス・キリストにおいて明らかにされた神の歴史的事実、御子が肉体をとられた御業、その肉体をもって十字架に掛けられた御業、その肉体をもって甦らされた御業をです。

同時に、私ども自身もすでにこれまでの信仰生活で味わい知っています。何よりも先週、私どもはこの礼拝式で共に聖餐の食卓にあずかりました。何よりも今、ここで共に神の御言葉を受け、契約の相手とされ、礼拝することができているのです。これが、私どもの自分への確信です。自分に関わる者たち、祈っている者たちへの確信なのです。祈っている者たちが、決して神に見捨てられ、滅ぼされないという根拠になるのです。

そしてそれだからこそ、私どもも大胆に祈りを祈るのです。使徒パウロにならって、「キリストから離されても本望です。」と、使徒のまねをするようにこの祈りを祈ることもできるのです。それは、実は特別のことではなく、まさに主の祈りを祈ることに他なりません。「われらに罪を犯す者を我らが赦すごとく」といつも祈っています。そのようにして、主イエスの祈りをなぞっているのです。

主イエス・キリストは、十字架の上で、「エリ、エリ、レマサバクタニ、わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」と祈られました。私どもは、まさに私どもに代わって見捨てられた真のユダヤ人をこのイエスにおいて知っているからです。このユダヤ人イエスさまの御業によってこそ、ユダヤ人がイスラエルであり、彼らが救われる根拠となるのです。そして、この一人のユダヤ人は、同時に、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神なのです。そこに、イスラエルの救いのこれ以上ない確かさが打ち立てられたのです。アーメン。

祈祷
あなたの選ばれた神の民イスラエルが、今もなお、あなたへの不信仰と反抗とを重ねています。それは、私どもの悲しみと痛みになります。誰よりも、悲しみと痛みのなかにあるのは、御神、あなた御自身です。しかし、わたしどもは信じます。決して、このままで終わらないのです。永遠の神の御子が、正真正銘のイスラエル人となってくださったからです。そうであれば、もはや、イスラエルが滅びることはありえません。そうであれば、新しいイスラエルとして接ぎ木された私ども教会もまた、決して、中途半端で、終わることはありません。いかに、厳しい戦いを強いられても、主イエス・キリストを信じるなら、私どもの教会もまた勝利します。どうぞ、この勝利の確信をもって、私どものこの日本とそこに生きる人々を深く悲しみ、自分の痛みとして、伝道することができますように。自分に与えられたこの十字架を、担う教会としてください。何かの宗教団体のように、自分の幸福を拡大する手段として、教会に生きることが決してありませんように。私どもを、あなたの御心にとどめ置いてください。アーメン。