過去の投稿2007年4月22日

「神の自由、計画そして主権」

「神の自由、計画そして主権」
2007年4月22日
テキスト ローマの信徒への手紙 第9章6節~13節

「 ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、 また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」 すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。
約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。 それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。 「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。」
 

本日の説教題は、いささか長いものとなりました。神の自由、神の計画、神の主権という三つの主題をひとつの主題にしているわけです。口語訳や新改訳では、「神の選びの計画」、新共同訳聖書だけは、「自由な選びによる神の計画」神の自由という言葉を添えたのです。神の自由とは、言葉を換えると神の主権です。そもそも、真の自由をお持ちになられるのは、創造者なる神おひとりです。創造された世界を今もすべ治めることがおできになる唯一の方、その力を主権と申します。そして、その主権者こそ、自由にすべてを処理することがおできになられるのです。

その意味で、「自由な選び」とは、神の選びと言い換えることができるでしょう。「神の選びによる神の計画」ということになるでしょう。
しかし、今ここで、問題になるのは、この神の自由による選びのご計画が頓挫している、しくじられている、計画が破綻しているということなのです。

「神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。」
冒頭にこのようにパウロが言うことは、まさにその問題に触れているのです。神の御言葉の効力とは、御言葉によって約束され、明らかにされているイスラエルの救いです。ところが、イスラエルは、何度も何度も、神の恵みを裏切り、自分たちが何様であるかのように振舞って、いくつもの国に蹂躙され、攻め落とされ、亡国の民になりさがったということです。しかも、そこで決定的に悔い改めて、自分たちがただ、神の祝福によりすがって生きる以外に、地上において生きることは出来ない存在であることを証し、そう生きるべきだったのです。そして神はついに最後のいわば切り札として、イスラエルからイエスさまを与えてくださいました。ところが、神の究極の愛の御業、顧みてくださる御業に向かって、彼らがした応答は、イエスさまを神に呪われた者として十字架につけて地上から抹殺してしまった、あの十字架の処刑でした。

ですから、ユダヤ人使徒パウロ自身も、深い悲しみと絶え間ない痛みを味わい続けるのです。神さまを信じているけれども、しかし、本当に、神さまの御言葉は、絶対的なのか、絶対的な、全能の、主権的な効力、力をもって、その御言葉の実現をもたらすものなのかどうか。要するに、神のご計画には計画倒れもありうるのか、計画が破綻し、頓挫し、無念にも、実現できないこともあるのかという問いなのです。

そして、彼は、その結論、その答えを最初にはっきりさせてしまうのです。それが、「神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。」という御言葉なのです。

このことは、私ども一人の信仰者にとっても、極めて重大な信仰上の問いではないでしょうか。極めて真剣な課題ではないでしょうか。
私どもの信仰の確かさは、すべて神の御言葉にあります。そこに基きます。御言葉なしに、私ども、教会の存在も営みも、そもそも信仰は始まらないのです。私どもは、これまで学び続け、聴き続けてきた信仰の言葉、福音を聴いて、そして信じているからこそ、罪赦され、神の子とされているとの救いの確信、その結果としての喜びと幸いをかみ締めて生きているのです。

ところがもしも、御言葉の効力がない、力がないのであれば、私どもの信仰は破綻してしまします。
またそれは、言い換えれば、神のご計画そのものの、破綻であり、頓挫になります。

私どもの信仰の強さ、聖書の信仰に生きる人間の強さとは何でしょうか。それは、私どもには、天地創造の神、主権者なる真の神が味方であってくださり、その神がともにいてくださり、その神の子とされていることでしょう。いかなる被造物でも、この神の強さ、力をくじくことはできない、この神への信仰が私どもを勇気をもって、人生へと向かわせる力です。神のご計画は必ず実現する、神がわたしに対してもっていてくださる御計画、御心もまた、貫かれるのだと信じるとき、私どもには、艱難、苦難、迫害と、いかなる境遇にあっても、生きるすべを与えられるのです。

しかし、今、神の御言葉の中心、約束の中心そのものであるイスラエルの人々が救われていない、信仰に至っていない姿が目の前に明らかにあるわけです。

そうなれば、信仰者にとりまして、一大事です。神のご計画が中途半端に終わるものなのであれば、自分の人生もまた、神のご計画が実現できずに終わる可能性も生じるからです。そうなれば、世界の終わり、世界の完成という究極のご計画も、もしかすると、聖書に描かれている通りにならなくなる、可能性も生じるのです。そうなれば、私どもは不安になる。

パウロはここで、はっきりと神の自由な御計画、それは、イスラエルを選ぶこと、選ぶとは救うということとまったく同じ意味の言葉ですが、イスラエルを救うご計画は、必ず実現すると、はっきりさせるのです。民数記第23章19節にこうあります。「神は人ではないから、偽ることはない。人の子ではないから、悔いることはない。言われたことを、なされないことがあろうか。告げられたことを、成就されないことがあろうか。」これは、神は、預言者に告げられたことを必ず成就されるという、預言者バラムの言葉です。

パウロは、先ず議論の最初に、イスラエルは救われていないのか、イスラエルとは誰をさすのか、そのことを明瞭にするのです。「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、 また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。」

血統上のイスラエル、アブラハムの子孫が即、イスラエルとはならないというわけです。アブラハムの子孫は、自動的に、アブラハムの子、イスラエルには組み入れられないという驚くべき、人間的には、驚くべき考え方をここで明らかにするわけです。

そもそも、神の民という存在は、徹底的に神の選びに存在の理由をもっています。最初から最後まで、神が一人の人アブラハムを選び出し、これを祝福の器と定めたのです。それ以外のなにものでもない、つまり、アブラハムというひとりの人間が、まさに突出して、限りなく神に近い、すばらしい人間であったからなのではないのです。聖書は、一言も、何故、神がアブラハムを選ばれたのかその理由を記していません。それが、聖書の信仰の急所、救いの恵みの要となるのです。

それこそが、自由な選びによる神のご計画のあり方なのです。理由は、ただ神にのみあります。それが神の自由です。神には、他の存在に強いられてとか、お付き合いで仕方なくとか、たまたまとか、偶然とかではなく、神ご自身の、自由なご意志に基づき、選ばれたのです。選ばれたアブラハムの側には、何の条件もないのです。

ところが、やがて、この神の自由な選びのご計画にあずかった側のイスラエルに、とんでもない誤解が生じてまいります。それは、この選びが、アブラハムの子孫に自動的に、受け継がれてゆくという考えです。確かに、神は、アブラハムの子孫と契約を結ばれたのです。彼らこそ、イスラエル、神の民である、神の民となることは間違いのないことです。しかしもしも、それが、自分の、自分たちの側に選ばれるにふさわしい条件をもっているかのようにうぬぼれるなら、あるいは、選ばれてあることが、自動的、当然のことであるかのように考えるなら、それは、イスラエルの恐るべき罪なのです。思い上がりなのです。選びは、神の自由な選びであるのです。それは、ただ、信仰によってのみ受けるべき祝福なのです。恵みとして与えられるものですから、信仰によって、感謝をもってのみうけられるものなのです。

ここで、イスラエル、神の皇太子という名称がアブラハムの妻、サラによって身ごもった神の約束の子、イサクの子孫、しかも双子の兄弟の兄エサウではなく、弟ヤコブにこそ、与えられた名前であることを、私どもは忘れないでいたいのです。本日は、あらためて、創世記第32章23節以下をご一緒に、開いて読んでみたいのです。56ページ。
「その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。 皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。
「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」
「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、
その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」
「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。
ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。
ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。」

ヤコブはここで、何者か、それは、神の使い、天使なのですが、天使と格闘します。相撲をとるのです。ここで、彼が必死にしたことは何かと申しますと、それは、「祝福してくださるまでは離しません。」ということです。つまり神の祝福を、必死に求めたということです。もしこのような言い方が許されるとすれば、これだけが、ヤコブの「とりえ」なのです。ヤコブは、ただ、神さまなしには生きてゆけない人間。その人のことです。そして、そこから、分かること、教えられることは、イスラエルとは、ただただ、神なしには存在しえないもの、神さまの祝福と憐れみなしには、生きられない民のことなのです。そうなると、私自身よく分かります。わたしもまた、神さまなしでは生きられません。そのような人間にされているのです。それがどれほどありがたいことなのか、それは、毎年、分かってくるのです。この恵みを知らない人は仰るかもしれません。「神に頼るのは弱い人間、不幸な人間、自分は、弱くも不幸でもないから、神に頼らず、自分の力、責任で生きて行く。」立派なことかもしれません。今朝、そのような方に反論を試みる暇もありません。ただ、自分自身は、弱い人間でしかない、神を求めた経緯のなかでは、不幸であると言われるような経験もないわけではない。その通りかもしれない。しかし、神を求めることができた、それこそが神の選びであり恵みであることを思うとき、なんと幸いな人間であろうかと思わざるを得ないのです。神なしには生きることができない人間としていただいた幸せを思わざるを得ないのです。

さてここで、イスラエルという名称を与えられた、ヤコブという人物のことを短く紹介したのです。とても難しいのですが、しかしただ一つの事実、エピソードを紹介するだけで、彼の特徴をほぼつかむこともできるかと思います。ヤコブは、長男の権利、神の祝福を相続する権利を、兄のエサウを騙し、父のイサクを騙して奪い取った人間です。そもそも、彼は、弟なのです。そうであれば、アブラハム、イサク、エサウと神の民の歴史はつながってゆくことが自然であったはずです。人間的な見方からすれば、たとえば、ひとりの親として、自分の子どもに、ヤコブというひとりの人間を、信仰の偉人として、信仰の模範として語り聞かせることは難しいはずです。将来、ヤコブのようになりなさいなどとは、決して言えないと思うのです。

しかし、神は、まだこの双子の兄弟が生まれもしないときから、つまり、どちらが良い人間で悪い人間であるなどということが、何も選びの条件になれない段階で、神は、「兄は弟に仕えるであろう」と予告なさったのです。そこにこそ、神の選びの本質が明らかに示されるのです。どうして、選ばれたのか、それは、決して人間が答えを出してはならないのです。決して、人間が理由を作り出してはならないのです。

確かにヘブライ人の手紙には、こうあります。「ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。」エサウを、信仰の価値より人間的な価値を選び取る俗悪な人というのです。

しかし、注意して読まなければなりません。ここでは、決して、俗悪な人間だから選ばれなかったと言っているのではないのです。俗悪な、人間的な価値を選び取るなと警告しているだけです。選ばれた理由は、ただ神の自由にのみあるのです。「善い事も悪いこともしていないのに」エサウが選ばれたのです。

このような考えを持つ方はおられないと思いますが、万一にも、自分は幼児洗礼を受けているのであるから、あるいは、わが子は、幼児洗礼を受けているのであるから、まさに、もう、何もしなくても、永遠の命が保証され、主イエス・キリストが獲得されたすべての祝福が自動的に注がれる、受け継がれると考えるなら、まさにそれこそ、ここで徹底して批判されている、考え違いです。罪です。

使徒パウロは、ここで、「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。」と言います。これは、創世記の言葉ではなく、旧約聖書最後のマラキ書の第1章、冒頭の言葉です。マラキ書は、旧約聖書最後におさめられている書物です。イスラエルが、正しい礼拝をしていない現実を批判し、悔い改めを呼びかけるのです。

私どもは、誰でも、神はヤコブを愛されたという言葉であれば、耳に心地よく、心にもすっと入ってきやすいかと思います。しかし、ここで神は、エサウを憎んだとあります。
私どもは、しばしばここで神が憎むということに、納得行かないのです。直ちに反発するのです。たとえばこうです。「神は愛であるのではないのか。神が愛であれば、なぜ、エサウを憎むのか、しかも、生まれる前から、「兄は弟に仕えるであろう」などと決められてしまったなら、エサウの悲しみ、エサウの嘆きはどれほどであるか。エサウは神のえこひいきの前に犠牲になっただけであって、そのような横暴な神であれば、そもそも、神の愛などということは成り立たない。」

実はこの問題は、私自身が洗礼を受ける前の、ひとりの求道者であったとき、どれだけ苦しんだ問題であったかと思い出します。正直に申しますと、洗礼を受けてなお、聖書とのこの面での格闘は続きました。だからこそ今、皆様とともに、きちんと確認しておきたいのです。

私どもは、そもそも、神に愛される値打ちがあるのかということです。まったくないのではないでしょうか。私どもは、いったい、何をもって神の御前に、神の民、聖なる者としていただけるというのでしょう。どこがそれにふさわしいものを持っているというのでしょうか。
私どもは自分の人生と、自分の心をつぶさに見れば、直ちに、神に愛されるどころではないことを認めざるを得ないのではないでしょうか。むしろ、神に憎まれることが当然、憎まれるべき人間であることが分かるはずです。

私どもはすぐにそれを棚上げにするのです。しかし、パウロは、今、確かに私どもには、耳ざわりな、憎む神をはっきり描き出すのです。それは、私どもに憎まれて当然の人間が、まったく何の理由もなく、ただ神の自由な選びによってヤコブとされていること、イスラエルの一員とされていることを、目の前に刻み付けさせるためです。

ある説教者が、アメリカのハイウェーのことを紹介していました。それは、アメリカでは高速道路の片側に、事故で大破した車をそのまま放置してある場合があるというのです。それは、車を飛ばすドライバーに、「もしも気を抜いて、スピードを出しすぎると、あなたもこうなりますよ」という警告のためなのでしょう。日本では、道が狭いですから考えられません。しかし、ときどき、事故の写真をトイレに貼って警告と威嚇をしています。もとより、事故へと誘うためではなく、このような事故を起さない為にです。 

パウロが、「神はエサウを憎んだ」とここで、マラキ書を引用しているのは、私どもがその意味では、エサウのようにならないため、俗悪な人間にならないためという警告でしょう。そして、なによりも、私どもが神の自由な選びのご計画にあずかっている幸いを、感謝し、賛美するためです。

私どもは、決して、エサウを憎んだ神を、無視してはならないのです。神が憎まれるということを、見逃してはならないのです。しかし、いかがでしょうか、実際、私どもが、エサウを憎んだ神を、覚え、仰ぐということは、どれほど厳しいことでしょうか。恐るべきことでしょうか。それができるのは、自分自身が、ヤコブとされた人間でしかないのではないかと思います。つまり、神に愛されている人間、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛に、しっかりと結ばれ、包み込まれている人間でなければ、覗き見れないほど恐ろしいことであると思います。

事故で残骸になってしまった車を見るだけでも、あまり気持ちのよいものではないはずです。いわんや、事故の瞬間とか、事故の現場に立ち会うなら、ぞっとして、目を背けてしますのではないでしょうか。

しかし、第8章28節で学びましたように、私ども、「神を愛する者たち、すなわちご計画に従って召された者たち」は、エサウを憎んだ神を、他のどこでもなく、主イエス・キリストの十字架の上のお姿において見ることができるのです。そうです。私どもの主イエス・キリストこそが、あのおそるべき十字架の上で、神に憎まれ、神の怒りを受け、神ののろいをお受けになられたのです。この事実において、神が憎むというその現実を、見ることができるのです。

あの十字架において、「どうして初めからエサウを憎むのか、そんな思い付きの神、でたらめな神があるものか」という言わば、哲学的な問いは、成り立たなくなることを知らされるのです。「神は愛ではなく、横暴、自分勝手、えこひいきだ」などという文句、批判は吹き飛ばされてしまわざるを得ないのです。神ご自身が、あの十字架で、独り子なるイエスさまを罰せられたからです。これ以上に峻厳な事実は、地上にありません。

使徒パウロが、「肉による同胞、イスラエルの救いの為なら、神から見捨てられた者となってもかまわない」と言えたのは、あの十字架の上で、人となられた御子、イスラエルの一員となられたイエスさまが、事実、神に見捨てられたことを知っているからなのです。

この神に見捨てられたイエスさまは、しかし、同時に、神に愛されたお方でもあります。その証拠が、墓からのお甦りに他なりません。実に、このお方がおられる故に、人間は、自分勝手に、「自分は神に選ばれていない」とか、「わたしは神に愛されていない」とか、言うことは断じて許されないのです。このおそるべき御子の犠牲によって、私ども信じる者たちは、救われ、今や、正真正銘イスラエルの一員とされているのです。

ユダヤ人イエス、真のイスラエルイエスさまの故に、このイエスさまを信じる信仰の故に、私どもはイエスさまと一体化し、結び合わされ、そのようにして正真正銘アブラハムの子孫となる道が開かれたのです。これが、神の自由な選びのご計画の本体です。これこそが、神のご計画であったのです。そして、この御計画は、効力を失うことも、途中で挫折することもありえないのです。この御計画は、世界を救う、わたしの、皆様の人生をも救う、神の祝福に満ちた御計画は成就するのです。私どもはすでに、見ています。主イエス・キリストのお陰で肉のイスラエルも救われるのです。どんなに、反抗し、心を閉ざし、かたくなになっていても、時がくれば、彼らがイエスさまは主、メシアと告白するのです。そしてこのイエスさまのおかげで、すでに異邦人がどんどん救われて来ました。まだまだ足らないのです。しかし、異邦人もまた、選ばれたすべての者が救われて、神のイスラエルの一員、正真正銘のイスラエルになる道すら開かれているのです。

祈祷
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、何よりも主イエス・キリストの父なる御神、それゆえに私ども異邦人すら、堂々とイスラエルの一員とさせてくださいました、父なる御神。今、私どもも、肉のイスラエルがなおあなたの御子においてしめされた救いの歴史を受け入れず、反抗している事実を見ます。イスラエルを救うと選び、約束されたあなたの御業、その御計画は、決して頓挫してはいません。むしろ、それによって異邦人の救いが拡大しているのです。 私どもはしばしば、目に見える出来事に左右され、自分の人生におけるあなたのご計画が妨げられる、完成されないのではないかと右に左に動揺することがあります。どうぞ、神の言葉の効力を、神の自由な選びと御計画を信じさせてください。そして選ばれてある恵みに感謝し、謙虚に、選びの責任を担わせてください。アーメン。