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「神の憐れみであふれる器」

「神の憐れみであふれる器」
2007年5月6日
テキスト ローマの信徒への手紙 第9章19節~29節①

「ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。
人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。
神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。
神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。
ホセアの書にも、次のように述べられています。
「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」
また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。
「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。 主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」
それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。
「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、/わたしたちはソドムのようになり、/ゴモラのようにされたであろう。」
 

主イエス・キリストの恵みと父なる神の愛、そして聖霊なる御神の交わりが皆さんの上に豊かにありますように。
いよいよ、私どもは、5月の第一主日の礼拝式を捧げております。毎年、この月を伝道月間として覚えて、祈りを集め、また、心にかかる方々を教会へお招きするために、行動する月といたしております。今朝は、まだ説教は、ローマの信徒への手紙から学び、通常の礼拝式です。

伝道月間の説教は、いずれも主題説教となります。その日、読んだ聖書の箇所だけを中心にします。あるいは、説教者自身が伝えようとする聖書のメッセージにもっともふさわしい箇所を選択して、そこから説教します。いずれにしろ、その日読んで聖書の御言葉だけの知識で、聖書の、神のメッセージを伝えようとするのです。しかしもちろん、聖書は、文書ですから、そこでの前後関係から意味が出てまいります。その意味で、聖書を丁寧に、聖書自身の主張を丁寧に聞き取ろうとするならば、連続して読み続けることがその王道、近道になることは当然であろうと思います。

その意味で、確かに、このローマの信徒への手紙の第9章などを伝道月間の説教のテキストにしても、かまいません。ただやはり、新しい方に、この箇所を語ることは難しいことは当然です。しかし、また同時に、こういうこともできると思います。もしもその方が、深く、信仰を、神を求めるのであれば、わたしはこの箇所もまた、信仰へと導くことになる実にふさわしい箇所なのだとそう、思います。

何故でしょうか。それは、ここには、人間の正直な問いが、いわば「あけすけ」に語られているからです。聖書という書物はその意味で、実に、「正直」な書物です。格好をつけていないのです。人間の心の底に思うことを、まったく飾らずに、そのままぶちまけてしまう、そういうところが少なくないのです。その意味では、実に人間的な書物であるといっても良いかと思います。この箇所には、信仰を持つ者、神を信じている者、神を知っている人間が、なおそこで、簡単に割り切れない問いについて真正面から問うのです。

6節では、イスラエルの民は、結局、救われないのではないか。なぜなら、ほとんどのユダヤ人は、神の独り子、救い主として与えられた主イエス・キリストを信じていないからです。むしろ、彼らはよってたかって主イエスさまを殺してしまったからです。しかも今なお、自分たちがしたことを悔い改めていないのです。神は、ユダヤ人たち、イスラエルを見捨てしまったのではないか。そうなるろ、神がアブラハムに誓われた約束の言葉、救いの言葉はもはや無効になってしまったのではないか。神のあの御言葉、旧約聖書に約束されたもろもろの御言葉は効力を失ってしまっているのではないか、と問うたのです。そしてそれに対して、堂々と答えるのです。

しかしそもそも、信仰篤き者であれば、そのような問いを発することはないのかもしれません。ところが、聖書は、使徒パウロは、いわば不信仰なこの問いを掲げるのです。
さらに14節で、神に不義があるのか、神は不正を犯しているのかという問いにも答えるのです。生まれる前から、神はヤコブを愛し、エサウを憎んだというのなら、そんな神さまであれば、神さまではないのではないか、神さまの方が不正を犯している、正義の神ではないのではないか。

そのような深刻な問いに、使徒パウロは、きちんと向かい合うのです。そして、いよいよ本日の御言葉へとつながります。日本語で言えば、三度目の正直ということになるかもしれません。19節、「ところで、あなたは言うでしょう。」三度目の不信仰な言葉が掲げられます。ここで、パウロは、あなたはわたしに言うでしょうと、言っています。ここでは、読者とパウロとが一対一になって、真剣に信仰について、神について議論をする、真正面からぶつかりあう様が目に浮かびます。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」

神さまが、エジプトの王のファラオをかたくなにされていたのであれば、なんだか、自作自演ではないか。神によってファラオの心はかたくなにされて、どんどんイスラエルをいじめ、圧迫し、制圧しているのは、結局、神さまのせいであって、そうなれば、ファラオを責めることは酷ではないか、神さまがファラオをかたくなにされるのであれば、その神のご計画、ご意志、意図にはどうして逆らえるか、結局、神さまには言い逆らえません。そういう事です。神さまには言い逆らえません。これは、誰でも丁寧に読めばお分かりかと思いますが、そのように言うこと自体がいい逆らうことなのです。要するに、この三つの言葉は、神への文句です。神は、人間を不当に取り扱っている。要するに、すべての責任は人間にあるのではなく、これを造った神にあるのではないですか、人間に不正があるのではなく、究極において神に不正があるのではないかという、神への批判なのです。

ある説教者は、このようなことを言いました。でたらめな生活をしていて、親にとがめられた子どもが、その親に向かって、このように言うことと似ている。「自分をなぜ、このように生んだのか。わたしを育てたのは、あなたたちではないか。わたしが悪いのではなく、親であるあなたがたが悪いのだ。」

皆様は、このような親不孝な言葉を、心に思ったこともなければ、言ったこともないかもしれません。しかし、わたしは違います。そのような類のことを心に思ったことがありますし、実際、小さな頃に、言ったようなおぼろげな記憶があります。

しかし、そこが不思議なことですが、聖書は、そのような言葉を自らのうちに収めているのです。それは、こういうことではないでしょうか。そのような親不孝、おそるべき親不孝な言動を、我々は知らないわけではないし、神に向かって、実際に心に思い、ときに言葉に出すこともあるのではないでしょうか。そして、実に、そのようなことを言うような人間は、もう、信仰からは遠い人間であって、神の怒りはそのような人間に及び、神はそのような者どもをお見捨てになられる、というのではないのです。もしそうであれば、わざわざ答える必要もないはずです。しかし、神は、そのような、おそるべき不信仰、冒涜的な言葉すら、胸の内に隠し持つのではなく、それを神ご自身の光の中で、ぶちまけてもよい、神はそれをなお、忍耐をもって受け止めてくださる、そういうことではないでしょうか。むしろ、大胆に申しますと、このような横柄な態度であってもなお、神は、なんとしても、神の憐れみの中に、選ばれた者を招きいれようと、必死になっていてくださるということであります。

会員の皆様は、よくご存知のことと思いますが、わたしは、かつて聖書に鼻をかんで捨ててしまったことがあります。それは、なるほど親に向かって、何故、俺を生んだのかというような、こと、いへ、それとは比べられないほどの恐ろしい行為であります。しかし、そのような愚かな人間を、神は、今、教会の教師、説教者として立てておられます。何と言う神の計り知れない憐れみでしょうか。

聖書は、これを読む者を救おうという目的で記されています。その救いは、中途半端なものではありません。逆に申しますと、救われる人間も中途半端な求道では、まことの救いにあずかれないのではないでしょうか。私どもは、たとえば、あのヨブのことを思い起こします。

聖書で鼻をかんだその箇所は、ヨブ記でした。ヨブは、すばらしい信仰者でした。それは、神ご自身の誇りであったほどです。地上に彼ほど、無垢で正しく、神を畏れ、悪を避けて生きている人間はいない、そう認められているのです。しかし、神は、サタンとのやりとりのなかで、このヨブに悪魔が攻撃をしかけることを許されるのです。そして、ヨブは、人間として耐え難い苦しみを味わうのです。彼の友人たちは、このヨブのもとにかけつけて、慰めようとします。ところが、ついにそのヨブが、神を恨み、文句を言い、不信仰な言葉を連ねて行きます。自分の正義を主張して行くのです。そこで彼らは怒り出して、ついに、ヨブを責め立てるようになります。「あなたは、神の御前で、悔い改めるべき罪があるのではないか」彼らは、実に信仰的な正論をもって、ヨブを非難するのです。彼らの言葉は、それだけ聞けば、大きな間違いがありません。それなら、神は、この友人たちを支持し、褒められたのでしょうか。違います。むしろ、神の顧みを受け、祝福を受け、神の憐れみを豊かに注がれたのは、神に思いのたけをぶつけてしまったヨブのほうでした。つまり、神さまとの間で、正直に自分の思いを告白し、問い質すことを、神は、斥けはなさらないのです。

さて、それなら、人間は誰でも神さまに文句を言えるのだと使徒パウロはここで、言うのでしょうか。決してそうではありません。
「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。」
そんなことは言うことが出来るはずがないと、断定するのです。そこでも、ヨブの神への批判に対して、神がお答えになられた御言葉を思い起こします。「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。~お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を支持したことがあるか。~見よ、ベヘモットを。お前を造ったわたしはこの獣をも造った。これは牛のように草を食べる。」神は、創造者であられることを、ご自身が明らかにされたのです。

また、この御言葉を読んで、おそらく多くの方は、エレミヤ書の第18章を思い起こされると思います。そこには、エレミヤが焼き物師の家に行くようにと命じられたときの経験が記されています。第18章4節以下にこうあります。  
「陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。 「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。」
 
パウロは今、まさにそのことを言い直しているのです。焼物師は、自分の意志一つで、貴いことに用いる器、貴くないものに用いる器を、造る権限があるように、神もまた、そうなのだと主張するのです。
それは、先週も、学んだように、神は憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思うものを慈しむ」ということと同じ真理です。そうすると、また、ただちに、どうどうめぐりの議論が始まる可能性があります。どうせ、神さまと対論しても、こっちには勝ち目はない。「どうせ」と言って、すねるわけです。人間にも、言い分があるのではないか。責任のすべてが人間にあるとまではいえないのではないか。

パウロは、ここで、この三度目の正直で、どのように言おうとするのでしょうか。どのように決着をつけようとするのでしょうか。そこで、語り始めるのは、「神の怒り」です。私どもは既に第1章18節以下で、この神の怒りを学びました。「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」

ここで描きだされた人間の罪は、特に異邦人の罪です。滅びさる人間、鳥、獣、這うもの、これらを神として彫り刻み、これを拝んでいたのです。まことの神、天地創造の神を否定し、空しい思いのなかで、自己中心と偶像礼拝に転落していたのです。そのような者に対して、神は、天から怒りを現されて、神が神であられることをお示しになられるのです。神の怒りの力を、偶像礼拝をする、まことの神を信じ、崇めようともしない人間は、神の正義の怒りによって滅ぼされるのは、当然過ぎることなのです。

皆さんは、ご自分をどう考えておられるのでしょうか。わたしは、罪人ですから、神を否定し、呪った人間ですから、まさに神の怒りを自分の頭の上に積んでいた人間に他なりません。どれほど積んでいたのか、恐ろしいことです。わたしという存在、その器のなかに、神の怒りがみちみちているのです。それが、怒りの器です。滅びることに決まっていたのです。死んだ後、神の裁きを受けて、永遠に神に捨てられることが滅びです。それは、他の誰のことでもなく、わたしのことだったのです。
あなたは、ご自分のことをどのように思われるのでしょうか。

わたしはここで使徒パウロ自身のことを思います。パウロは、正真正銘のユダヤ人です。ベニヤミン族の出身と第11章で自己紹介するほどです。それなら、ここで言われている怒りの器とは無関係であると、考えていたのでしょうか。違うと思います。むしろ、彼は、自分自身のことを、怒りの器として滅びることになっていた人間と考えていたと思います。

使徒パウロは、聖書に鼻をかんでいません。しかし、彼は、キリスト者と教会を迫害したのです。弾圧したのです。殺したのです。それは、主イエス・キリスト御自身を敵にすることにほかなりませんでした。つまり、神に対する敵対行為です。パウロは、自らのことを常にこう理解していたのです。テモテに書き送った手紙のなかで、こう言いました。「わたしは罪人の頭です。罪人のなかでもその最たる者です。」

ところが、そのようなパウロは、神の寛大な心で耐え忍んでいただいたのです。この神の忍耐の計り知れない富のおかげで、悔い改めることができた、それがパウロなのです。そうであれば、あなたはどうなのでしょうか。

神の御前にこれまでどのように歩んで来たのでしょうか。神の怒りを自分の頭の上に積み上げるだけ、その器のなかに怒りを盛られるだけの生き方ではなかったか。

パウロは、この神の忍耐、寛大な心が怒りの器である者たちに及んだのは、その最終的な目標は、他でもない、もともと選ばれていた器、すなわちイスラエルのことであり、神の憐れみの器なのです。神の憐れみにあふれる器、救われる器、ご自身の栄光を現そうとするために準備されている器を救うために、怒りの器を忍耐しておられるのであれば、ましてもともとの憐れみの器が救われることは当然ではないかと、主張するのです。イスラエルが救われることは、絶対的なこと、間違いないことだと、パウロは断定するのです。そのようにして、神の言葉が効力を持ち、神の正義は貫かれると最後的に宣言するのです。

ここで、実に驚くべき発言が出てきます。24節です。「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」パウロは今、確かに、「わたしたち」と言いました。読者の中には、ユダヤ人もいることは確かです。しかし、その多くは、異邦人のキリスト者なのです。パウロはユダヤ人です。ユダヤ人は、即、憐れみの器として自己理解を持っているのです。それは、同時に、ギリシャ人、ローマ人、異邦人は間違いなく紙の怒りを受け、滅ぼされるべき人間であるということを意味しました。今は、彼らに圧迫され、信仰の自由すら制限される惨めな状況ではあっても、神は、やがて、徹底して不信仰の異邦人を罰せられる、怒りをもって滅ぼされるのだと、ユダヤ人は考えていたのです。

しかし、ここでパウロの言い方においては、ユダヤ人も異邦人もその差がありません。どちらも、怒りの器なのです。しかもそのどちらからも、怒りの器から憐れみの器へと移し替えてしまわれるのだと言うのです。その器とは、神の憐れみだけがもられる器です。その憐れみに溢れる器とされるのです。

ここでの議論は、人間が自己正当化を図ろうとして、神を不義にしようとする人間の問いに答えるものでした。人間は、自分のなかに正義感、わずかでも理由があってしたことであれば、神に食って掛かるのです。神を信じてなどやらないなどとふてくされ、甘えるのです。あるいは、最近の人間は、進化論などをたてにして、神が創造したのではないなどと嘯くこともあります。神を信じない方が、理性的で、勇気のある、人間らしい行為、まじめなのだとすらうそぶきます。

このように厳しい言葉ですが、いい加減な、まさに甘えた神への批判もあれば、たとえば、さきの戦争の問題。ユダヤ人の大量虐殺、中国、朝鮮人の虐殺と侵略などの問題は、深刻でしょう。その当事者であれば、なおさらでしょう。今、日本では格差の問題が、深刻化していますが、世界を見渡せば、その格差は、壮絶です。今日、食べることに事欠く圧倒的に多数の人間と、冷蔵庫のなかにあふれる食材、ゴミ箱のなかには、食べ残しのあわずかな人々が共存している時代です。この不条理の只中で、神に口答えすることを、きっぱりと止めさせることはできるのでしょうか。私どもは、何をもって、神に全幅の信頼と従順をもって、自分自身が神の憐れみの器とされるのでしょうか。神の憐れみであふれるようになるのでしょうか。

それは、父なる神ご自身がその御子イエス・キリストを人類にお与えになられたからです。
この御子の十字架の死において、神の怒りが、その力がどれほどのものであるのかを、神の憐れみの器のなかで、その最高、至上のお方であるイエスさまに注がれたからです。イエスさまの全存在のなかに神の怒りが盛られた、溢れたのです。ここに、人類の、神はおられるのか、神は正義なのか、神は憐れみのお方なのか、人間にも文句が言えるはずだ、などという議論はもはや圧倒されるのです。封じ込められる以外になくなるのです。

イエスさまは、十字架の上で叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、どうして私をお見捨てになるのですか。」ここにこそ、真実の人間の神への問い、訴えがあります。それは、これまでのパウロが、答えようとした神の言葉の効力、神の不正、悪いのは、自分ではなく、神ではないのかという、口答えが吹っ飛ばされてしまうのです。罪のない人間イエスさまが、神の怒りを受けられ、怒りの器になられたからです。そしてそれを引き換えにして、そもそも怒りを受けて当然の、受けるべき人間の私どもが、神の憐れみの器へと変えられてしまったのです。この十字架のイエス・キリストにおいて、神の憐れみは、異邦人にも及び、イスラエルにも及び、すべての者を憐れみの器にしてしまうのです。

自分がいまこうして生かされていること、教会に生かされている事実は、まさに神の憐れみが豊かに注がれている証拠です。そして、この憐れみが注がれ、溢れる器は、ただ注がれて良かったということで留まらないのです。この憐れみをもって生きることです。自分にすら及んだこの憐れみが、隣人にも及ぶこと、及ぶべきことを信じるのです。だから、伝道の課題は、私どもにとって常に、最大の関心になるのです。私どもを神の憐れみの器としたもうた神は、その憐れみをもって、隣人に仕え、憐れみに生きるのです。

祈祷
 私どもは自分の罪によって、あなたの怒りを受けるべき者、生まれながらの怒りの子でした。しかしそれにもかかわらず、私どもを憐れみを受けるべき者、憐れみの器としてくださったのは、主イエス・キリストの恵み、神の愛のゆえ、聖霊の交わりが与えられているからです。どうぞ、あなたの御子の犠牲によって、あのあなたの愛と自由、罪なきイエスさまが罰せられるという不条理を耐え忍ばれた神の憐れみが、この町に住む人々の救いです。どうぞ、私どもがあなたの憐れみに溢れ、その憐れみをもって、隣人に福音を伝え、証し、あなたの憐れみへと招き入れることができますように。アーメン。