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「不思議な場所」

「不思議な場所」
2007年6月3日
テキスト ローマの信徒への手紙 第9章19節~29節②

「ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。
人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。
神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。
神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。
ホセアの書にも、次のように述べられています。
「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」
また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。
「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。 主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」
それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。
「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、/わたしたちはソドムのようになり、/ゴモラのようにされたであろう。」
 

 5月の伝道月間を終えて、あらためてローマの信徒への手紙の講解説教に戻ります。すでに、5月の第一主日におきまして第9章19節から29節を学びました。本日は、この箇所からの2回目の説教となります。一月のブランクがありますので、異例のことですが、先回のおさらいをしてみたいと思います。
 
 使徒パウロは、これまでの議論のなかで、いわば、人間のまことに正直な姿、あけすけな疑問に正面から答えてまいります。神さまへの問い、質問であり、問いです。

6節では、イスラエルの民は、結局、救われないのではないか、と問います。なぜなら、現実には、ほとんどのユダヤ人は、神の独り子、救い主として与えられた主イエス・キリストを信じていないからです。むしろ、彼らはよってたかって主イエスさまを殺してしまったのでした。しかも今なお、自分たちが犯してしまったことをまったく悔い改めていない、悔い改めようとしないのです。つまり、結局神は、ユダヤ人たち、イスラエルを見捨てしまったのではないか。そうであれば、神がアブラハムに誓われた約束の言葉、救いの言葉はもはや無効になってしまったのではないか。神の御言葉、旧約聖書に約束されたもろもろの約束の御言葉は効力を失ってしまっているのではないか、と問うたのです。

さらに14節で、神に不義があるのではないか、神こそむしろ不正を犯しているのではないかという問いにも答えます。つまり、生まれる前から、神はヤコブを愛し、エサウを憎んだというのなら、そんな神さまであれば、まったく不公平であって、えこひいきであって、神さまらしくないではないのではないか、神さまの方が不正を犯している、正義の神ではないのではないか。

そして、日本語で言えば、三度目の正直ということになるかもしれませんが、19節です。「ところで、あなたは言うでしょう。」ここで、パウロは、あなたはわたしに言うでしょうと、言っています。ここでは、読者とパウロとが一対一になって、真剣に信仰について、神について議論をする、真正面からぶつかりあう様が目に浮かびます。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」

 このような神さまへの批判、反発、文句は、まるで親不孝な子どもが、自分が悪いくせに「このように生んだあなた、このように育てた親が悪い」などと食って掛かることと等しいのです。
 
 親に向かってならまだしも、天地創造の神、完全なる神にむかって、自分をこのようにした、信仰をもてないようにしている神の方が悪い、責任があるとうそぶくことは恐るべきことです。しかし、不思議なことに、このような人間の愚かな、罪深い、身勝手、自分勝手な思い、文句が聖書のなかに記されているのです。

 それは、そんな親不孝な者、つまり徹底的に不信仰で身勝手な罪人ですら、憐れんでくださるのが、聖書が証している神であられるということなのです。神の憐れみの富がどれほど豊かであるのかを、使徒パウロは、証しているのです。いわばここで、決着をつけるのです。もう、これ以上、同じ質問をだらだらさせない、それに答えることもしない。ここで、終わりにする。そのために、徹底して答えるわけです。

 伝道月間の第3主日で、お招きした岩崎牧師は、神の裁き、神の怒りということを、伝道説教において語られました。個人的に深い印象を受けました。神は、罪を憎み、怒り、罰せられる。それが聖書に証されている神なのです。人間が、勝手に自分たちの都合の良いように、優しい神、甘くみてくれる神、失敗を見逃してくれる神、罪についてあれこれ一つひとつこまかく指摘して、糾弾などされない神・・・。そのような神ではないことを、私どもは聖書から教えられるのです。ですから、「このように生んだ、このように育てた親が、神が悪い」などと、神に文句を言うことなど、本来、まったくおそるべきことなのです。しかし、神は、そのような者に寄り添ってくださいます。神は寛大な御心をもって、忍耐の限りを尽くして、これに答え、「そうではないぞ」と説得してくださるのです。それが、神の憐れみでした。しかし、この憐れみが、私どもに注がれたのは、神が人間にお優しく、甘やかしてくださり、罪を見逃されるようなご存在だからではないのです。

 神の憐れみは、神の怒りと切り離すことはできないのです。罪を犯し、親不孝の限りを尽くしている人間は、神の怒りの器なのです。神の怒りが注がれるべき器、神の怒りが溢れるべき器であるはずなのです。ところが、その器、その容器のなかに、神の憐れみだけが注がれている、これが、私どもキリスト者の現実となったのです。神の怒りがそそがれるべき器から、神の憐れみが注がれる器、この大転換、この180度の転換がどうしておこったのでしょうか。どうして、神は、私どもに真逆の対応をなしてくださったのでしょうか。そこでこそ、パウロは、心から証するのです。神の側での極めて痛ましい手続きを証するのです。

先週の伝道説教のテキストは、まさに、その御言葉でした。「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得る為である。」
神は、御子イエス・キリストを人類にお与えになられました。それは、私どもに代わって私どもの罪を償わせるために、独り子の命を十字架で奪い取られるということによってでした。自分の罪によって神の怒りを注がれて、滅びるべき人間、裁かれるべき人間が、御子イエス・キリストによって肩代わりしていただいたのです。主イエス・キリストがあの十字架の上で、どれほどおそるべき神の怒りをお受けになられたのか。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、どうして私をお見捨てになるのですか。」

人間が自分の好き勝手に生きていて、それにもかかわらず、神に食って掛かったり、文句を言って見せたり、自己弁護をする。確かに、そこに、人間の真実もあるとは思います。どうして、自分ばかりが、他人と比べてこんなに不幸な目に遭うのか、どうして自分ばかりが悪いのではないのに、自分だけがその責任をとらなくてはならないのか。

しかし、罪のないイエスさまが、あの十字架の上で、私どもの代わりに罰せられたときに、叫ばれた御苦しみによって、神への文句、口答えは、吹き飛ばされてしまうはずです。神の御子の苦しみによって、私どもの神から受けるべき苦しみ、怒り、裁きが吸い取られたのです。私どもは、こうして神の憐れみの器に大転換されたのです。

使徒パウロは、自分自身を、神の憐れみを注がれた器とされたことを信じました。そして、彼は、この神の憐れみを持ち運ぶことに、自分の残りの生涯を捧げたのです。こうして、キリスト者の生涯、生活のスタイルが、この憐れみを受けたものとして、この憐れみをもって隣人に仕えるものとなるわけです。

 非常に長いおさらいをしました。今日は、その続きです。その続きではありますが、違う主題を扱うのではありません。使徒パウロは、ここで決着をつけようとするのです。徹底的に議論を尽くすのです。同じ主題を語るわけです。

 今日の説教題を「不思議な場所」と致しました。ほとんどいつも、予告している説教題と当日の説教題とは違います。本日の外にだしている看板に記した説教題を新しい方が見たら、いかがなものかという問いを身内から受けました。
 
 使徒パウロは、ここで、ホセア書を引用しました。第2章2節が引用されています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」
 この2節を説くためには、やはりどうしてもホセアの書全体の内容、あらすじが分かっていなければならないと思います。ホセアは、紀元前8世紀の前半、北イスラエルで活躍した預言者です。ホセア自身のことは、この文書で知る以外に手がかりはありません。彼は、北イスラエル王国が、一般の人々から祭司に至るまで真の礼拝、聖書の神からまったく離れて、偶像を拝み、不品行な行いにあけくれていたとき、この国の滅亡、滅びを予告しました。その意味では、まことに預言者らしいメッセージを告げたのです。

しかし、この預言者の極めて特徴的なことは、彼の全生活が神の御心を知らされる器になっているということです。それは、特に、ホセアの結婚生活においてです。ホセアは、ゴメルという女性と結婚します。この結婚は、ただ、彼がゴメルという女性を好きになって、恋愛したからではありませんでした。神が、著しい仕方で導いてくださったのです。もしそうであれば誰でも、それはそれは、幸せな結婚生活を送ったことだろうと予想すると思います。ところが、ホセアの結婚生活は、悲惨なものとなります。ゴメルが不倫をするのです。しかも不倫によって、二人の子を設けるのです。当時の社会の慣習から言えば、そのような女性、妻は殺されてしまっても仕方がありませんでした。妻が不倫を犯すということは、死刑に当たるのです。それなら、神は、ホセアにゴメルを殺すようにお命じなったのでしょうか。もちろん違います。それなら、神はホセアにどうすることをお命じになられたのでしょうか。離婚でしょうか。違います。実は、ゴメルは、離婚される前に、なんと、自分自身既に娼婦になってしまっていたのです。神は、ホセアに驚くべきことをお命じになられます。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」(第3章1節)ホセアはこのご命令に従って、娼婦となっているゴメルのところに自ら出向きます。そして、銀15シェケルと大麦1ホメルと1レテクを支払って、彼女を買い取ったのです。買い取る。贖うということです。殺してもかまわない、いへ、律法では、殺されなければならないはずの妻を、殺すどころか、離婚もしません。むしろ、財産を支払う、銀15シェケルとは、銀170グラム。大麦1ホメルと1レテクとは、345リットルの大麦です。いわば、貯蓄のすべてを投げ打ったということでしょう。一人の女性を買い戻すのです。

 神は、このような経験をさせることによって、ホセア自身に神とはどのようなお方なのかということをお教えくださったのです。つまり、ゴメルとは他ならない北イスラエルの人々です。神との結婚関係、神との正しい関係を壊し、偶像へと転落し、不品行へと転落して自ら奴隷になってしまった、惨めなイスラエルの人々、まことに神の御前に不誠実、不信仰な彼らを、神がなお愛し続けるという驚くべきメッセージを語らせられるのです。
 
 さて、使徒パウロは、ホセア書の第2章2節を引用しました。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」これは、使徒パウロの自由な翻訳です。もともとのホセア書を、読んでみます。「イスラエルの人々は、その数を増し/海の砂のようになり/量ることも、数えることもできなくなる。彼らは/「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と/言われるかわりに/「生ける神の子ら」と言われるようになる。」

 ここでも、先ほど学びました同じことが起こっています。怒りの器から憐れみの器へと大逆転、大転換されたように、わが民でない者と言われる代わりに生ける神の子らと言われる。180度の違いです。

 ここで丁寧に注意深く聴き取らなければならないことが一つあると思います。それは、使徒パウロは、ここでの引用において、「と、言われた場所で」と訳しました。もともとの言葉では、「と、言われる代わりに」となっています。ここにこそ、使徒パウロのこだわりがあります。彼のメッセージ、彼の言わば神学的なメッセージがあります。わが民でない者と言われたまさにその同じ場所で。パウロは、場所にこだわる。
 
 本日の説教の題は、「不思議な場所」としたことを思い出してください。お前たちはわたしの民ではないと宣告された場所で、あなたはわたしの子と宣言されるのです。その代わりに、反対の言葉を言われる。否定の言葉が語られる代わりにそれを打ち消して肯定の言葉が語られる、そのような場所が、世界の中にあるというのです。いったいそこはどこでしょうか。どこにあるのでしょうか。
 
 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の前半、8章まで何を一生懸命語ったのでしょうか。一言で申しますと「信仰義認」です。第3章22節以下にこうあります。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」

主イエス・キリストを信じることによって与えられる神の義、神の救い、つまり罪の赦しです。イエス・キリストを信じることによって罪が赦される。本来は、罪を犯した人間ですからその人が神の裁き、怒りをうけなければならないのに、ただイエス・キリストを信じれば、罪を罰せられ、滅ぼされるその代わりに罪が赦され、神の子、神のこどもとされてしまうのです。否定が否定され、肯定される、大転換が起こるのです。これが、福音です。これこそ、パウロが喜びをもってひたすらに証していることです。

 主イエス・キリストの十字架の意味、それは、買い戻すことに他なりません。贖いです。罪のもとに売り飛ばされ、悪魔の奴隷とされている。滅びることが定められて牢獄の中に閉じ込められている私どもを、父なる神は、ご自身の財産、宝の中の宝でありたもう御子イエスさまのお命を代価として支払って、私どもを解放してくださいました。解放して、ご自身の子どもとして受け入れてくださったのです。ホセアにゴメルを買い戻して愛することを命じられた神は、はるかに御自身が御子の命を支払って、罪によって背いて、泥まみれになっている私どもを、買戻し、お風呂にいれ、清潔な服をまとわせて、ご自身の民、神の子として受け入れてくださったのです。

 そしてその十字架が立つ場所こそ、パウロが言いたいことです。十字架という場所以外には、この転換は決して起こりえません。この十字架という場所以外に救われる場所は世界にないのです。つまり、主イエス・キリスト御自身が私どもの生きるべき唯一の場所です。ここ以外に、人間が幸せに暮らせる場所、永遠に暮らせる場所、喜びに溢れて、平安に生きて行ける場所はありません。
 
言うまでもないことですが、人間には、生きるための場所が必要です。空間が必要です。何よりもそれは単なる空間ではなく、居場所が必要です。そこにいると落ち着ける場所です。そこにいると自分のあるがままを出せる場所です。それは、多くの人にとっては家庭となるでしょうし、安住できる場所こそ家庭であるべきだと思います。学生であればまだ学校が自分の居場所、楽しい場所であるということはあるかと思いますが、社会人になるとなかなか職場がそのような場所となることは難しいでしょう。

しかし、私どもがもしも、このキリストというお方とともに生きることができれば、このキリスト・イエスという場所で生きることができれば、私どもは安心して生きることができるのです。そこでこそ、自分を生きることができるのです。そして、このキリストと共に生きることは、職場の中で可能です。どんな場所でもできます。困難な、苦しい、悲しい人生の様々な局面であっても、主イエス・キリストとともに生きているなら、キリストの場所にいるのです。 

私どもは今、祈祷会で丁寧にウエストミンスター信仰告白を学んでいます。今は、第五章「摂理について」を学んでいます。子どもカテキズムの問い13でそれを要約して、学んでみたいと思います。
問13 神さまの摂理のお働きとは何ですか。
 答 今、私たちに働く、神さまの善いお力のことです。神さまのお許しがなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、神さまは私たちの父として私たちを守っていてくださいます。ですから、健康も病気も、嬉しいことも悲しいことも、すべてのことが私たちの役に立つよう働くのです。

神のよい力が私どもに働いてくださいます。ですから、どんなことも、たとい病気や、悲しいことが起こっても、すべてのことがわたしたちの役に立つよう働く。つまり、転換が起こるのです。大転換です。病気というマイナス、否定、悲しいことというマイナス、否定が、プラスに肯定に、変えられてしまう。悲しみによって崩れる場所が取り払われて、喜び立ち上がる場所に変えられてしまうのです。もしもそれが起こるなら、それは、なんという不思議な場所でしょうか。そして、それは起こるのです。その不思議な場所がすでにあるからです。それは、主イエス・キリストの十字架です。主イエス・キリストが折られる場所です。このイエスさまがともにいてくださるからこそ、摂理の御業が根拠を持つ。場所を持つ。足場を固められるのです。

あなたは今どこにいるのでしょうか。今朝、あなたはどこにいるのでしょうか。そうです。私どもは皆、ここにいます。教会です。教会とは、キリストのみ体です。キリストが聖霊によって御臨在されている場所です。ここでは天が開け、天と接続する場所なのです。ここでは、神の言葉が語られ、福音が語られ、イエス・キリストが主であると告白されるのです。イエスさまが真ん中に宿っておられる場所です。

そうであれば、こここそ、人間の安住の地です。私どもは今朝、ここにいることを喜び、祝い、感謝するのです。それがこの礼拝式です。ですから、ここで賛美が歌われるのです。この後、共に賛美を歌います。そして、直ちに聖餐の礼典を祝います。聖餐こそ、この場所で祝うものです。そしてこの聖餐にあずかるキリスト者は、自分が、この真に不思議な場所にいることを心から感謝を新たにしたいと思います。そして自分が、神の怒りの器から神の憐れみの器に変えられたことを受け止め、憐れみの業に献身してまいりましょう。今、試練と不安にある方がいれば、キリストの十字架によってそれすら自分の主空腹に転換されることを信じましょう。この不思議な場所、恵みの場所、赦しの場所、人間の安住の地、人間の本当の居場所である教会に、多くの方々を招きいれるためになお励みましょう。

祈祷
主イエス・キリストを私どもの救いのために十字架にお与えくださいました父なる御神、あなたの御子によって、御子を信じることによって、私どもは、怒りの子から憐れみの子、滅びの子から神の子へと、変えられました。この驚くべき御業を心から感謝申し上げます。どうぞ、私どもをキリストと共に生きる場所に留まらせてください。そして、悲しみすら喜びへと変えてくださる確かな救いの御業を信じて、私どもが雄雄しく、大胆に生きることができますように。その生き方によって、あなたの救いと恵みを証し、私どもの希望があなたにのみあることを、人々に指し示してください。道を求める仲間たちが、一日も早く、この場所、キリストとともに生きる人生、キリストを信じる生活を始めることができますように。私どもの教会が、いよいよ、キリストの御臨在を鮮やかに映し出す教会、地上に打ちたてられた救いの場所となりますように。
アーメン。