過去の投稿2007年6月11日

6月10日

★  先週は、幼児洗礼入会と信仰告白を祝い、新入会者を迎えて愛餐会を行いました。「おめでとう」の挨拶。祝福を告げる人も、告げられる人も、実に幸いです。私どもの教会は、洗礼入会者はもとより、信仰告白の際にも、自分のことばで信仰を告白すること、証をすることを重んじてまいりました。礼拝式のなかで、 あるいは、燭火礼拝式においてなされてまいりました。しかし、一人の姉妹の発言のように、日本キリスト改革派教会では、あまりしないのです。もとより、私どもは、「敬虔主義キリスト教」を克服することをこそ目指して開拓伝道した教会です。「個人主義的キリスト教・キリスト者」ということへの徹底的批判があります。   ですから、信仰告白(ニカヤ信条)への同意、会員誓約がなされれば、入会を許すのです。しかし、もしも、形式的になれば、大変なことになります。罪の赦しの恵み、救いの確信や喜びを得ないまま、信仰の生活が始まれば、本人が苦しむばかりか、教会もまた困難を覚えざるを得ません。私どもは、「善き生活」をもって「一つ教会」の形成が実現されると創立宣言で標榜しました。もしも、救いの恵み、喜びがないところで、キリスト者の生活が始まるのであれば、教会は律法主義になり、また形式主義(官僚主義)に落ちてしまいます。どれほど幼い信仰であっても、自分の口で、イエスは主なりと告白すること、これからも、私どもの伝統とし、常識としてまいりたいと願います。

☆   信仰告白者は、これで二名となりました。開拓伝道の教会ですから、そうなります。しかし、これから続々と起されることを期待し、祈ります。二人とも、高校二年生の聖霊降臨祭となりました。もとより、高校生にならなければということではありません。中学生であっても、現住陪餐会員となることは十分可能と思います。礼拝式の後、短く、高校生との学び会が行われています。○姉と○○ちゃんがメインで、○○ちゃんも加わります。先週は、○姉と金城学院大学の1年生も加わっての集いとなりました。こつこつと、「子どもカテキズム」によって、聖書の信仰、教えを体得し、信仰の土台を構築して頂きたいと心から祈ります。

★   いささか古い話題となりますが、名古屋地区四教会合同の修養会に、○○委員が発題を担ってくださいました。○○委員は、いつも当伝道所での取り組みと学びに基いて発題されます。それは、基本であると思います。しかし同時にそれは、教会での学びに心から同意し、積極的に参与することなしには、できません。その意味で、とても嬉しいことです。伝道が共通の主題でした。委員は、「ディアコニア」について紹介されました。一人の牧師が、「具体的にはどうされているのか」と問われました。これは、わたしへの問いですから、「今は、聖書から、歴史からディアコニアを学んでいます。わたしたちは、教会のディアコニアの道を尋ね求めています。日本キリスト改革派教会でモデルとなる教会はないのかもしれない・・・。あわてず、  10年後を楽しみにしながら・・・」と答えました。教会そのものがディアコニアの群れとなりきること。その大きな目標を掲げて、今年度を歩んでいます。しかしそれは、先ず、教会内のディアコニアの充実として現れるものと思います。また、それは、教会員が教会への献身と奉仕という基本を担うことにも結実すると信じます。これも、大変、古い話ですが、開拓2年まで、土曜日の夜に集って、会堂清掃、翌日の準備をするために集りました。今週から、実に小さな復活が始まろうとしています。(委員会報告参照)主日礼拝式に集中する教会。変わらざる目標です。ついでのついでにこれも、古い話。「遅刻」の克服ということを厳しく指導しました。そこで軋轢も起こったのです。しかし、どうしても譲れなかったのです。「キリストの主権の確立。」  「5周年記録誌」掲載の「通信」には、毎週のようにこのことばが踊っていました。そのために、私どもは現住陪餐会員とされていることを、深く思います。

☆  祈祷会で、ウエストミンスター信仰告白第五章「摂理について」の学びが終わりました。7節は、教会についてでした。教会は、救いの歴史の場です。神の御心、関心は、教会にこそ注がれ、教会にこそ、摂理が働かれます。この事実を確信すれば、教会の生活に全身全霊をもって、励まざるを得ません。どれほど、小さな群れであっても、「いじける」ことなどありえなくなるでしょう。わたしの神学生のときの経験や、四国や東北の諸教会のこと、牧田牧師の高知伝道・・・に言及しました。主イエス・キリストは、教会の頭にていましたもう!神は、教会を通して御国を進展させたもうのです。弱く小さな私どもですが、神の摂理の勝利は、私どもの上にあるのです。自分の人生設計の途上に教会の生活を考えるなら、いつまで経っても、幼子のまま・・・。私どもは、先週の説教で学んだとおり、既に、キリストの十字架、教会という「場」において、怒りの器から憐れみの器へ、滅びの子から神の子への「大転換」が、起こっています。教会中心、神中心へと転換!