過去の投稿2007年6月24日

6月24日

★  先週は、○○教会との講壇交換で、○○牧師がよい説教をしてくださったことを伺いました。ご自分の救いの証をしてくださったとのこと。しかも、中部中会では、はじめてなさったとのこと・・・。もとより私自身も、伺ったことはありませんでした。その意味では、先生の実存を込めて説教を語ってくださった当伝道所は、実に恵まれていると思います。

☆  わたしは、○○教会に参りました。車で高速道路を飛ばしてまいりましたが、やはり、距離があることを体で覚えさせられました。中部中会の主催の講壇交換として、わたしはひそかに(?)○○との開催を希望して担当者にお伝えして、願いがかないました。以前にも記しましたが○○教会には奉仕に伺うことがなかったからです。また、○○教会の教会堂そのものも初めて拝見したのでした。当伝道所は、会員の構成年齢は、ほぼバランスよくおられます。もとより相対的には若い会員が多いと思います。その点、中部中会のなかでは、感覚的に言うと若い会員の多い教会と思います。その点、○○教会は、高齢者が中心の教会と言っても間違いないと思います。現在、会堂建築を目指して協議が真っ最中のようです。歴史のある教会が、新しい礼拝堂を捧げられれば、○○市にとっても、大きな意味があるのではないか。また、伝道の面でも大きな証となり、進展が期待されるものと考えます。

★  今回は、礼拝式後、すぐに、会堂建築の会議があり、会員方とゆっくりとお話させていただくことがかないませんでした。しかし、説教の後の献金の祈りを聴きながら、大きな励ましを受けました。基本的に、講壇交換は、普段の教会での説教をすることにしています。今回は、「不思議な場所で」というローマの信徒への手紙の第9章、当伝道所でしたばかりの説教を基本にして語りました。初めての場所で、しかも会衆がまったく違い、存じ上げないところでの「説教」というのは、「説教学」の観点から言えば、「その説教を聴かれる現実の、特定の会衆の声を読み取る」ことがないままに、テキストを語ることになります。その意味では、大きな冒険であり、福音の真理が「うわすべり」する危険性が大きいのです。その「普遍的真理」を、聴衆が「キャッチ」していただくことが求められる。その意味では、説教者より会衆の参与が強く求められるようになると言っても過言ではありません。野球で例えれば、ライナーのような打球で自分の頭の上を飛び越えるボールに飛びついて捕球する「技術」が求められているように思います。今回、年配の一人の兄弟の献金感謝祈祷を聞きながら、「ああ、聴き取ってくださったのだなぁ」と感謝いたしました。全会衆がそうであれば、すばらしいのですが、おそらく、信仰の長い道のりをひたすら走ってこられた兄姉たちは、そのような「ファインプレー」で聴き取ってくださったものと思います。

☆   日曜学校の教師会の後、有志で、○○氏の病床を見舞いました。○○姉が毎朝、仕事の前に見舞いつつ、共に祈られる生活も、一年に及びます。今回は、皆さんで讃美歌を歌うことができませんでした。実は、その後、わたしは、深く反省させられたのですが、そのようなときこそ、皆で、「主の祈り」を祈ればよかったということです。○○氏は、おそらく「主の祈り」を覚えておられるはずです。皆でこの一つの祈りによって兄弟姉妹の交わりがその場で一気に与えられる・・・。主イエス・キリストとの交わりがどのような祈りにもまさって与えられる・・・。これは、次回の訪問のときまでおあずけになります。主の日の礼拝式で、病床の方のため、礼拝に集えない仲間たちのための祈りが捧げられます。もとより、祈祷会では、必ず、全現住陪餐会員のための祈りが教会として捧げられます。この祈りによって、私ども一人ひとりの厳しい戦い、孤独の戦いは、共同体のものとなり、神のものとなるのです。

★   結石破砕は、見事に「空振り」に終わりました。一泊二日で、石が砕け散って、もとの生活にという楽観は空振りでした。3500発の音波、衝撃波を当てても、びくともしないという「堅物」は、医師泣かせでしょう。金曜日に戻りましたが、午後には、主日の準備ができるものと考えていましたが、結局、金曜日は何もできずに休みました。本日の説教もその意味では、予定外のことです。もう一度、今度は、麻酔を打たないで破砕できる機械のある病院で試みることとなりました。腎臓に結石ができる体質です。何年も前から、石があることは分かっていました。それを、目先の忙しさにかまけて放置した結果だと思います。まだまだ長い(はずの)伝道者、牧者としての歩みを継続するために、自分のあらゆる能力と相談しながら、肉体の健康にも気を使わなければと考えます。ちなみに、先の「健診」後から、理想体重まであと1キロのところまで落としています!毎日のありふれた生活の上に、どれだけ神の豊かな守りがあるのかを改めて思わされます。