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「神の熱心による救い」

「神の熱心による救い」
2007年6月24日
テキスト ローマの信徒への手紙 第10章1節~4節

「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。
わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。
なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。
キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」

さて、今朝は、ローマの信徒への手紙第10章に入りました。使徒パウロは、第9章の冒頭で、こう言いました。「私自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」そして今朝、聴きました御言葉には、こうあります。「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。」いったいパウロという人は、どれだけ熱心なのかと思います。使徒パウロの伝道の熱心、これは、すさまじいものと言っても言いすぎではないと思います。ここでは、自分自身がユダヤ人なのですが、自分の同胞が救われるために、キリストから離され、神から見捨てられてもと、想像するだけでも恐ろしいことまで、言うのです。そして、彼は必死の思いで、ユダヤ人の救いのために今ここで、心から願い、必死の思いで祈っているのです。ユダヤ人の救いは、もとより、彼の同胞のことだから祈っていることはありますが、しかし、ユダヤ人が救われないのであれば、神ご自身のご計画、真実、約束が裏切られることになりますから、特別のことではあります。しかし、それだけでことを済ますわけにはまいりません。使徒パウロは、ただ同胞のために伝道したのではありません。むしろ、使徒パウロが神から託された使命は、異邦人伝道なのです。ユダヤ人伝道のことは、他の使徒たちも熱心に携わっていました。しかし、パウロは、異邦人のために特別に立てられて使徒であっても、なお、ユダヤ人の救いのために全身全霊を込めて祈って、伝道しているのです。まさに、福音の伝道のために燃え上がっている。そのような人です。まさに言葉の正しい意味で、熱心な伝道者です。

私どもも、この熱心、この聖霊の炎を点されたいと願います。先週は、中部中会の講壇交換でした。全中会の牧師が担任する教会を離れて、説教しました。しかし、それは、中部中会が一つの教会であることを具体的に表すすばらしい営みです。しかし、牧師たちは、自分の仕える教会を離れますが、会員の皆様は、その日、それぞれ思い思いの教会の礼拝に集うことは、許されません。どうしてでしょうか。それは、中部中会は一つの大きな教会ですが、それを構成する一つ一つの教会を守り、その教会形成の主体となるのは、現住陪餐会員一人ひとりだからです。その意味で、会員は、自分の仕える教会にどれだけの責任を与えられているかと思います。まさに、名古屋岩の上伝道所を形成する主体は、皆さん一人ひとりにあるわけです。

そこで地上に教会が形成されるためには、現実のこととして、熱心が必要であるということは、改めて申すまでもないと思います。これは、教会だけに当てはまる真理ではないとも思います。およそこの地上で、何か形を現すためには、熱心に取り組む、全力を傾注するという側面がなければ、かなわないということでしょう。子どもたちでも同じでしょう。勉強にしても、クラブ活動にしても、熱心に取り組むことがなければ、それなりの成果でしかないということを、味わわせられると思います。最初の教会もまた、あの使徒たちの熱心、会員の熱心さに支えられたことは、使徒言行録などを見ればあきらかであると思います。

さてこのパウロが、ここで「熱心」という言葉を用いて、同胞であるイスラエル、ユダヤ人を弁護します。「彼らが熱心に神に仕えていることを証します。」イスラエルという民族こそは、まさに神への熱心に生きている、これは、客観的な事実であろうと思います。というよりは、神への熱心を失ったら、すでにイスラエルという民族は成り立たないからです。聖書の信仰、旧約聖書、律法を重んじること、その証として割礼を受けることなどを止めてしまったらもはやユダヤ人はユダヤ人ではなくなるわけですから、まさに神信仰と生活とは、切っても切れない関係に生きている世界の民族、歴史の中でまさにユニークな存在、類例のない存在です。

ですから、神に熱心なのが、ユダヤ人であるとは、ユダヤ人パウロでなくとも、我々にも理解できます。しかし、使徒パウロは、自分自身がかつてそうであったことを思い起しながら、ここで神に熱心なユダヤ人のあるがままを証言するのです。

ところがしかし、パウロは、その熱心を賞賛するわけではないのです。これがこのテキストの急所です。当然、本日の説教の急所になります。熱心だけれど「正しい認識にもとづくものではありません」
この言葉は、ユダヤ人に対して、痛烈な批判となります。これは、ほんの小さなエピソードですが、わたしが卒業した神学校は、日本では、100年以上の歴史がある神学校でした。戦前からの歴史を持つわけです。日本には、ホーリネスという教派があります。戦前からの教会です。その教会は、実に伝道に熱心であることが有名でした。それだけの伝道の結果を日本や韓国、台湾、北米にもたらしたわけです。しかし、その教会を、かつての主流派教会、それは、私どもの教会のルーツになる教会のことですが、見下しておりました。何を見下したのかと言うと、彼らは、伝道熱心ではあるが、キリスト教の深い知識、広い知識、所謂、神学がないという批判です。熱心ではあるが深い知識がないといことを、この聖書の御言葉であげつらわれたと書物で読んだことがあります。もし、そのような批判がこの聖句、御言葉で言われたのでしたら、そのようにこの御言葉を読んだ賢い側の教会の見識、御言葉の理解そのものが問い返されます。なぜなら、ここでの熱心は、私どもが絶対に真似をしてはならない熱心だからです。

これも横道ですが、宗教に熱心な人は怖いということが、日本人の理解のなかにすでに浸透してしまっているものと思います。そもそも日本人は、宗教という言葉すら明治時代になって初めて用いられたことばであり、事柄なのです。賢い人間、知識ある人間なら、宗教とはほどほどに接すべきなどということが真顔で語られるわけです。ついでに申しますと、信仰と狂信とはまったく別物です。しかし、信仰の世界では人間は、実にしばしば狂信者となりました。なりえるのです。しかし、それなら狂信者でなければ、一般に宗教と距離を置いて生活している人々が、正しい生き方をしているのかと申しますと、まったくそうではありません。この世の教え、この世の価値観がその人の宗教や偶像になっています。どれだけ有名になり、お金持ちになり、自己実現を達成できるかが人間の幸福を決める、人間の価値を決める。これも聖書の信仰から見抜ければ、狂信です。狂った信仰の姿です。しかも圧倒的に多数の人々がこの狂信の虜となっています。そして、特定の宗教を信じる狂信者を見て、ああ、信仰に凝り固まる人はこわいなぁと言いながら、自分が取り付かれているこの世の価値観を、経済至上主義を拝んで恥じないのです。

さて、もとに戻りましょう。ここでの熱心とは、キリスト者が犯してはならない罪です。もしも先ほど申しました教会が、その意味で熱心であれば、それは異端ということです。もとより、異端ではありません。だから、この御言葉を用いて他の教会のことを批判することは、よほどの証拠と根拠なしには、言えないことです。ユダヤ人は、キリスト教の異端ではありません。ユダヤ人は、神の永遠の選びの民です。しかし、よりによってこの神に選ばれた人々が、神に熱心でありながら、まったく神の御心と逆に進んだことを、使徒パウロは批判したのです。

それなら、「正しい認識」とは何でしょうか。他の翻訳では、「深い知識」とかただ単に「知識」と訳されます。知識がない、認識がない信仰とは何でしょうか。
パウロは、ただちにこう言います。「神の義を知らず」神の義を知らない。それが、正しい認識、あるいはただ単に知識と言ってもかまわない。決定的に必要な理解を知らないということです。その最初、その基本、その大前提が間違っているというわけです。

パウロは、ユダヤ人の熱心をこのような熱心なのだというのです。「自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」「自分の義を立てようとして」という翻訳もあり、こちらの方が分かりやすいかもしれません。

ユダヤ人は、神を信じる人々です。信仰に熱心な人のことです。熱心が悪いわけではもちろんありません。わたしはキリスト者ではあるけれど、不熱心だから、この箇所で、自分を慰められたなどということがあれば、とんでもない誤解といわなければなりません。まことの信仰は、その実りとして、熱心さへといわば自動的に実ってくるものです。

しかし、真の信仰からではなくて、もしも、自分の信心、自分の信仰の理解などで、ことを運ぶのであれば、それは、決定的な間違いです。正しい認識、知識のない、信仰に転落します。

それなら正しい認識、正しい信仰、正しい神知識とは何でしょうか。それは、神の義とは何かを巡って単純なことなのです。ここで、ああ、信仰とは、正しい認識、深い知識が必要なのであって、難しいものなのかと、理解すれば、それも誤解です。信仰は、複雑なことを知らなければならないわけではないのです。しかもここで問題になっているのは、救いの問題です。義の問題です。自分が救われるということは、いったいどうすればよいのか、何が必要なのか。何を知り、何をして生きて行けば良いのか、その根本的な問題、急所を知ることが問題になっているのです。それを一言で言い表す言葉は、これまで繰り返されてきた「義」という文字、言葉です。神が人間にとってまことの神となる。神が神となる、それが義です。人間は、初めの人アダムが蛇の誘惑に負けて、神の掟を破ってから、神の義を失いました。善悪の知識の実をとって食べてしまったことが、神を神としなかったことです。神と人間とのあるべき関係、状態を壊してしまいました。初めの義、神と人間とのあるべき関係を失ってしまったのです。それ以来、人間は、神の怒りと神の裁きを受けるべき罪人になってしまったのです。

しかし神は、ユダヤ人を選び、彼らをあらためて信仰によって導くことをもって神の義にあずからせようとしてくださいました。ところが、なんとも皮肉なことに、善悪の知識の木の実を食べてはならないという神の掟を破った人間が、まるで、今度は失敗しないように神から与えられた恵みの律法をまるで自分が守ってみせることによって、つまり、自分の宗教的な熱心、神への信仰の熱心でとりもどせるかのように励みだしたのです。

そして結局そこで何をしたのかと言えば、神の義を求めたのではなく、自分の義、自分がどれだけ、神の御前に立てるか、神に義とされる、よしとされる、神に救っていただくことが出来る人間であるかを証明しようと逆方向に走り出したのです。自分の信仰によって、自分の熱心な律法を守る生活によって、自分で神の義を実現してしまおうと考えたのです。

確かにそこでは、神を重んじているように見えるのです。確かに、形としては、熱心に生きるのです。それは、使徒パウロが、キリスト者を迫害していたとき、誰よりも律法に熱心であったと思い返したとおりです。かつてのパウロも、神の前に熱心でした。しかし、正しい認識にもとづかなかったのです。まるで、自分の力で、自分正義感で、自分の考えでキリスト者を弾圧することが神を喜ばせ、神に従っていると理解していました。そして、パウロは、ここで単なるユダヤ人批判ではなく、痛烈な自己批判として、あの熱心は、知識によらない、本当の神の義と神ご自身のことを思わないあり方、やり方であったのだと言うのです。

私どもの信仰、聖書の信仰とは何でしょうか。それは、多くの人々が宗教と考えていることとまったく違うあり方のことです。その意味で、聖書の信仰とは、決して人間の普通の考え方からは理解もできないし、ありえないことなのです。その意味では、キリスト者になるということは、180度の転換を経なければ、起こりえないことです。それは、契約の子が、一定のときが来れば、洗礼を受けるとか、ある程度、教会の生活をしてなじめば、洗礼を受けられるというような、神についての、聖書についての、教理についてのある程度の知識を持てば、よいというものではまったくありません。大胆に言えば、信仰とは、ただ単にニカヤ信条や教会の信仰告白にアーメンと理解を示せばよいのではありません。

自分がまったく罪人であること、その罪を赦すために御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったこと、その神の義の現われそのものである十字架のイエス・キリストを信じて、よりすがる以外に自分が救われることはありえないことを信じることです。そしてそれこそが正しい認識なのです。しかし、そこでもある人は言うかもしれません。その知識もやはり教理ではないか。その通りです。十字架による救いこそは教理の中心です。しかし、この教理を信じる人は、必ず、180度の転換を求められるのです。

わたしも一生懸命、この福音の教理を学生に語ります。大学では試験がありますから、少なくともわたしクラスの学生たちであれば、試験のときには、十字架の教理、救いの教理を自分のペンで答案に書いて見せてくれるのではないかと期待します。しかし、それなら見事に答案に十字架の教理、ここでの神の義を答案に書いて見せられたら、本当に正しい認識になるのでしょうか。それは、否です。
この教理は、神とわたしとの関係を180度変えてしまうような、おそるべき真理なのです。
神の義、それは、神自らが、人間を義人にしてしまう神からの一方的な働きかけのことです。それは、いわば、神の熱心なのです。人間が自分で、神に認められることを自分で証明してみせようと励む熱心などではないのです。比べられないものです。神ご自身が、私どもをどんなことをしてでも、救おうとする神の働きかけのことです。

それに反して、自分の義を立てる、証拠立てる、自分の義を求める熱心とは、結局、神を第一にしているわけではないのです。神を信じている自分は、神に認められる人間であることを、神と人との前に誇るあり方です。それは結局、神を求めているのではないのです。

この御言葉を、今朝、教会で読みます。ここには残念ながらユダヤ人はおられません。それなら、このユダヤ人への言葉は、簡単に読み飛ばせばよいというのであれば、大間違いです。この言葉は、ユダヤ人批判であると同時に、今日のキリスト教世界への痛烈な批判でもあります。

いったい今日の教会と、キリスト者がこのパウロのユダヤ人批判と無縁なのでしょうか。わたしは深刻な問題として考えます。私どもキリスト者、今日のキリスト教人口は20億人にも昇ると言われます。一体その中でどれくらいの人々が、神を求めているのだろうか。自分の義を求めるのではなく、神の義を求めているのだろうかと思うのです。

先ほど、狂信の話をしました。この世の考え、この世の価値観にとらわれて生きている人間も、この世の宗教の信者、偶像礼拝者と言いました。それも狂信の一種ではないかとまで言いました。しかし、その問題は、まさに、そして特に私どものような先進諸国にあるキリスト者たちへの問いなのです。私どもの名古屋岩の上伝道所の開拓伝道とは、まさにこの問いへの答えでありたいと志すものでした。つまり、教会生活とはそもそも何か。なんのために、教会に、礼拝に来るのかということ、信仰のいわば正しい認識を確立することです。自分を幸せにするための道具として、自分が経済的に、あるいは心の平安、安らぎのために教会の生活に励むのであれば、それが、どれほど熱心であっても、それは、結局、自分の義を求めること、自分の義を立てることということにしかならないなのです。

どれほど教会生活に励んでいても、それが自分のためであるというのなら、それは、ここで使徒パウロが激しく問題にしたあり方と同じです。教会生活は、神を神とするためにこそあるのです。

たとえば今朝も私どもは主の祈りを共に祈りました。主の祈りの第一の祈願はなんでしょうか。「御名をあがめさせたまへ」です。神の御名が礼拝されることを求めるものであって、どうしたら、ついでに自分の名前も高められるか、地位や名誉に結びつくのかなどとは祈らないのです。主イエス・キリストが教えてくださった祈りも、われわれ人間が知っている祈りの世界とは180度違うものです。異次元の祈りです。この祈りを祈りながら、自分にこだわり、自分がどうしたら神の義を獲得し、どうしたら成功者となり、どうしたら自己実現が果たされ、どうしたら自分の願うものが獲得できるかということにこだわっていられなくなる。そうさせられるのです。

神の御名が崇められるとは、神が神として崇められ、働かれることを願う祈りです。神の義を待ち望む祈りです。罪人を、御子イエス・キリストの十字架の贖いによって罪を赦し、義とする神のお働きが、この地上に実現することを求めるのです。神のための祈りです。

私どもの周りでも、一生懸命お祈りをし、ご利益を求める宗教があります。しかし、神社に真剣に詣でる人のなかで一体何人が、祭られている神の名前を知っているのでしょうか。さらに、その祭られている神の御名が崇められることを願って神社に詣でる人がいったい何人いるというのでしょうか。人間の祈りの世界は、聖書の神の目から見れば、壮大な不信仰なのではないでしょうか。

しかし、そのような自分中心、自分のことを第一にするための宗教は、完全に終わらせられているのです。なぜなら、主イエス・キリストが十字架についてくださったからです。主イエスが私どもの罪の犠牲になられた限り、もはや誰がどのようにして、自分の行いによって、自分を神の御前で誇ろうと企てられるのでしょうか。「キリストは律法の目標であります。」目標とは、終わりとも訳せます。そのような翻訳もあります。律法を守って、自分の義を立てようという企ては、もはや完全に終わらせられています。

だからこそ、異邦人のような私どもですら、神に熱心でもない人間が救われることが出来たのです。神の熱心が、私ども異邦人をただイエスさまの十字架によってだけ救うのです。そしてそれが神の義なのです。そうであれば、神の義は、私どもには、受けるだけです。キャッチする。受け入れることです。信じることです。

最後に、自分のことを熱心ではなく、不熱心であると言い訳しながら、ただ神を信じるだけでは、安心できない。信じて生きることも大切だけれど、生活の保障も必要です。そのような認識で、教会生活をすることは可能なのでしょうか。少なくともこの教会ではできないと思います。もしも私どもの教会が福音の真理、この単純なキリストの十字架による救いの道、信仰のみによる救いの道を固く信じて説教する教会であれば、できないでしょう。説教が間違っているか、自分が間違っているか、問われて、信じる者すべてに義をもたらすこの福音に生きる以外にないでしょう。

私どもは、この道を求めたい。私どもが主の祈りで祈っているように、御国をきたらせためへと祈るのであれば、それは、自分の義を求める、自分の義を立てる生き方を喜んで手放す生き方となります。そして、そのときこそ、本当に私どもに与えられた生活、人生が、神の祝福のなかでキラキラ輝いてくるでしょう。たとえ、どんなに厳しい状況にあってもです。病床にあってもです。自分の義を求め、それを誇ることもできない病床にあって、しかし、神が義としてくださる恵みの世界を見るのです。私どもにも自分を見る新しい目がいよいよ開かれますように。

主イエス・キリストはすでに十字架についてくださいました。私どもは信じるだけで、神の義を受けるのです。そして、この十字架で殺されたイエスさまを信じるだけで罪が赦され、神の恵みにあずかるという、人間にはまさにおろかでしかないような救いの道こそ、正しい認識にもとづく信仰なのです。それがどれほど、不熱心であっても救いの道は揺らぎません。また、この正しい認識にもとづく信仰は、不熱心から熱心へと私どもを、奮い立たせずには置かないのです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神。あなたの選びの民のユダヤ人の過ちを、今、自分自身のこととして思わざるを得ません。教会生活、信仰生活を営みながら、しかしそれがあなたを求め、あなたの義が実現することを喜びとするのではなく、自分の義が実現することを喜びとする本来ありえない生き方に逆戻りすることを恐れます。どうぞ、毎日、あなたへと立ち戻らせてください。真実に悔い改め続ける生涯を送らせてください。人々に認められるような何事かを果たして、自分の義を求める誘惑から、こつこつと、あなたの栄光を求める生き方、御名が崇められますようにと祈る祈りへと、180度の転換を、日ごとに与えてください。すでに、信仰によって義とされた恵みの世界のなかで、この驚くべき恵みを正しく認識し、この認識によってこの世の考え方から180度異なって生きることができるように聖霊を毎日、時々刻々、注ぎ続けてください。アーメン。