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「目標はキリストー宗教の終わりー」

「目標はキリストー宗教の終わりー」
2007年7月1日
テキスト ローマの信徒への手紙 第10章1節~4節②

「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。
わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。
なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。
キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」

本日は、あらためて先週学びましたテキストを読みました。予告では、次のテキストに入ることにしていました。しかしながら先週の説教では、4節の御言葉にほとんど触れないで終わりました。ですから、本日は、この4節を中心にして、御言葉を聴いて、礼拝を捧げることと致しました。
さて、最初に、あらためて先週の説教をおさらいしてみたいと思います。先週の説教は、「神の熱心による救い」という題をつけました。

ユダヤ人が神に熱心であることを使徒パウロも、そして我々もよく知っていることです。ところが、使徒パウロは、彼らのその熱心を少しも褒めず、喜びもしませんでした。むしろ彼らのその熱心こそ、神の御前で、致命的な間違いであり、根本的な過ちを犯しているのだと、糾弾したのです。パウロは、私どもは、彼らのその熱心からわずかでも学んではならない、真似してはならないと、言ったのです。

その理由は、彼らの神への熱心とは、「正しい認識」にもとづいていないからということでした。「正しい認識」とは、正しい神知識、正しい信仰理解、正しい福音理解のことです。そして、パウロは、その正しい認識とは何かと、一言でこう言いました。「神の義」であります。ユダヤ人たちは、「神の義を知らない。」というわけです。そこでユダヤ人は、何に熱心になったかと申しますと、自分の義を求めることだと、パウロはその正体、その本質を暴いたのです。神の義を知らないユダヤ人は、「神の義に従わなかった」と言われるような、現実の姿、あり方を示しているとすら言うのです。

我々は、よく知っています。ユダヤ人は、今日も、まさに一所懸命に、義を求めている人のことであります。神の前に生きること、神の御前で、正しく生きること、そして神に受け入れられること、許され、善しとされ、義とされて生きることをこそ、真剣に求めておられるのです。それは、誰も異論がないほど明らかな事実だと思います。

しかし、繰り返しますが、使徒パウロは、彼らのその熱心を絶対に真似してはならないと言うのです。何がそれほどまでに問題なのでしょうか。パウロが見抜いている事態とは、ユダヤ人が、神を求めているのは、つまり自分が義とされることにあるということでした。要するに、彼らの信仰とは、信仰の態度とは、「自分のための神」というものなのです。つまり、自分が神に熱心になれば、自分は神の受け入れられ、神の義を自ら獲得できるとする考えです。ですから、パウロは厳しく指摘して、言います。だから「神の義に従わなかった。」

それなら、いったい、神の義を知り、わきまえ、神の義に従うとは、どういうあり方、信仰の態度を言うのでしょうか。端的に言えば、その熱心をまったく止めてしまうことです。その熱心を完全に断念し、断ち切ることです。つまり、自分の行いや努力、修行や修練などで、神の義に到達できるかのように思い上がった考えとその実践をやめることです。
「神の義」とは、神御自らが、その熱心をもって神の民、ユダヤ人を選び、救おうとなさる義のことです。「神の義に従う」とは、その神ご自身が神ご自身のご栄光のために、私どもの熱心などはるかに及ばない神の熱心によって私どもを救おうとなさる御業に、自分を丸ごと委ねてしまうことです。神の働きかけを拒まず、神のもたらしてくださる恵みを受け入れることであります。

人間は、その罪によって神の真理にまるで疎くなりました。鈍いのです。ですから、わたしは、ここでも事柄をはっきりさせるために、このように言うことがよいと考えます。使徒パウロが、ここで取り組んでいる課題とは、ユダヤ人が信じている「ユダヤ教」をやめさせるということです。ユダヤ教という宗教を完全に否定するのです。木っ端微塵に破壊しようとするのです。ユダヤ教なる宗教、もとよりそれは、旧約聖書を基礎にしたものです。しかし、その聖書の御言葉の真理を正しくわきまえていない、そこに彼らの根本問題があるのです。それが、ここで言われている、生ける神の義を知らないあり方、それゆえに神の義に従わないあり方なのです。

ただしどうぞ、誤解しないで頂きたいのです。これは、先週も申しました。ここでのパウロの議論は、単なるユダヤ人批判の言葉として聴き取るなら、それを自分を欺くこと、偽善でしかありません。この鋭い、あまりにも鋭い批判の矛先は、ただユダヤ人、ユダヤ教に向かうだけではないのです。むしろ、今日の私どもキリスト教に対する根本的な批判になりうるのです。私どもこそ、胸に手をあてて真剣に顧みる必要があるのではないでしょうか。

私どもは、ここで、何をしているのでしょうか。もしも、私どもが、ここでキリスト教という宗教活動をしているのであれば、それは、どれほど熱心な活動であっても、神の義に従わないことになるのです。熱心であればあるほど、神に喜ばれるどころではありません、むしろ、神の怒りと裁きとを自らの頭の上に積むことになるのです。ですから、このパウロの火が出るような激しい批判の言葉を決して対岸の火事のようにのんきに見ていることは許されません。

ここで皆さんとすこしだけ、「宗教」なるもの、ここでわたしが用いる宗教とは何かを考えてみたいのです。宗教とは、神とか仏とか、人間を越えた存在に対して、畏敬の念、より頼む思いをもって、自分の究極の課題の解決、助けを得る手段と一応、定義してみたいと思います。そこで分かることは、宗教の出発とは、どこまでも人間にあるということです。人間が宗教を必要とし、宗教を求め、作り出すのです。

もし、これを宗教とするなら、まさに、宗教的な熱心こそは、いよいよ、神の義を知らないこと、神の義に従わないことになるしかないのです。

私どもは、ときどき、ものみの塔の信者、エホバの証人が毎週、何時間も王国会館に集って聖書を学び、そしてその何倍もの時間を用いて家庭訪問をしていることを目撃します。この緑区で、エホバの証人の家庭訪問を受けたことのない世帯は、ほとんどないと思います。おそらく、すでに何度も受けていることでしょう。日本の宗教団体のなかでも、その熱心さは、突出したものではないかと思います。活発な活動をしている新興宗教、政治的宗教団体など、私どもが知らないだけでまだまだたくさんあるかと思います。

しかし、彼らがどれほど宗教的熱心であっても、生ける神の御前には、まったく通用しません。もとより、それぞれの宗教には、教えの内容が異なっているのですから、すべての熱心な宗教が私どもの神に通用するしないということは、乱暴な意見でしょう。しかし、同じ聖書を使っているキリスト教的宗教団体であっても、そうなのです。もしも、キリスト教を自称する教会、団体が、自分たちのキリスト教こそ人間が神に近づき、神に義とされるための手段であり、方法である、だからいよいよ、自分から神に近づくために熱心に励もうと呼びかけるのであれば、それは、パウロがここで熱心なるユダヤ人を徹底して批判したこととまったく同じになるのです。

私は、事柄をはっきりさせるために、こう言い切ってしまってよいと考えています。宗教、宗教的行為ほど私どもの教会の営みと異なるものはない。宗教こそ、不信仰であり、不従順なのです。もしかすると、皆さんのなかですでに自覚していてくださる方がおられると思いますが、わたしは、説教のなかでキリスト教とはこれこれこうだとなどという、キリスト教の説明をしてみせたことはないと思うのです。もっと言えば、礼拝説教で、キリスト教を語ったことはない。

もとより、わたしも一人の教会の、キリスト教会の牧師なのですから、キリスト教を相対的に、数ある宗教の一つとして、説明する用意はあります。昨年は、「宗教学」という講義を担いました。しかし、私どもの教会においては、そのような学びをしたことは一度もないのです。その暇はありません。私どもはこの礼拝式の場で、キリスト教の勉強をしに集っているわけではありません。私どもは、聖霊なる神のお働きにあずかり、ここに臨在したもう生ける主イエス・キリストによって父なる神を礼拝しているのです。そのようにして主イエス・キリストと一つに結ばれる幸いにあずかっているのです。その意味で、私どもの教会は、キリスト教という宗教を営む集団に成り下がってはならないのです。それは、かつて、使徒パウロがここでユダヤ人、ユダヤ教批判をその命をかけて行った道を逆行させることです。逆らうことです。いへ、使徒パウロの道を進まないということは、神に従わないということなのです。神の義をわきまえず、神の義に従わない道を歩むことに他ならないのです。

人間の宗教的営み、自分の義を求める営み、自分で自分を救ってみせるために神を利用する、自分で自分の正しさや天国に入れる人間であることを保証してみせようと神に働きかけるその熱心、その営み、その宗教活動、その儀式、その奉仕、そのあらゆる企ては、断固、終わらなければならないのであります。それが、今日のテキスト、今日学ぶべき一句、第4節の意味なのです。「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」

「キリストは律法の目標」とあります。この目標という言葉は「テロス」という言葉が用いられています。これまでの日本語の翻訳では、ほとんどすべてが「終わり」と訳しました。英語では、エンドです。ジ・エンドということです。おしまいです。テロスには、終わりという意味があり、どうじに目標という意味もあるのです。ここで皆さんのなかでも、ウエストミンスター大・小教理問答の問い一を思い出される方もおられるかもしれません。人生の目的です。「人の主な目的とは何ですか。」この有名な問いの目的には、英語ではまさに「エンド」という言葉が用いられています。テロスです。人生の目標、人生のゴールは、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。神に創造された人間は、もともと神に向かって創造されています。ですから、神に向かって歩む以外に生きる道はありません。その目標は神です。しかも、そこでの終わりとは、とても不思議な終わりです。人生の終わり、死において終わる終わりではありません。今、ここで終わってしまうのです。今、ここで私どもが、イエスさまを信じていれば、そこで終わっているのです。つまり到達している、達成しているのです。そうであれば、それは、10代の子どもたちであろうが、いへ、どんなに幼い子どもであろうが、そこではすでに、人生が終わっているのです。終わるとは、その人生が勝利しているということです。その勝利が今、確定するのです。

この世のありとあらゆる営みは、死ぬまで生きてみなければ、最後にならなければ実際のところ分からないということです。ところが信仰は違います。今、私どもは主イエス・キリストを救い主として信じていれば、まだすばらしい業績、誇るべき仕事の何一つも成し遂げていなくても、私どもは、人生の勝利者になるということです。それは、敵を打ち倒されて勝利された主イエス・キリストと一つに結ばれたおかげです。このキリストの勝利にあずかっているからです。
律法の目的は、キリストです。そして、律法の終わりはキリストなのです。神が私どもにお与えくださったすばらしい律法、掟とは、もともと、キリストへと導くものとして与えられているのです。信仰へと導くものなのです。それは、決して、わたしどもを行いによって、自力で救わせる為に、あたかもテストのように下されたものではないのです。

私どもは、律法によって生きる生き方が、キリストの十字架の贖いによって今や、決定的に、完全に、時代錯誤であることを教えられたのです。つまり、今やキリストなしに、神の掟を重んじ、神の律法を生きようとすることは不信仰、不従順でしかなくなっていることが高らかに宣言されたのです。

キリストが律法を成就してくださったという真理は、ローマの信徒への手紙第13章10節に出てまいります真理とほとんど同じことです。「愛は律法を全うするものです。」愛は律法を完成するのです。愛とは、キリストに置き換えることができます。キリストこそが神の掟、律法を全うされたお方です。そして、そのキリストによって生きるキリスト者もまた、愛によって生きる人間とされました。キリストの愛を受け、隣人を愛する以外に生きる道がないものとされたのです。ですから、この愛の道、キリストに従って生きる道は、律法を全うすることができるのです。もとより、愛においてこそ、私ども自身は不完全であることを、いやというほど見せ付けられながら生きます。しかし、たとい不十分であってもなお、キリストを信じ、キリストの愛によって生き始めている者は誰でも、全うする。完成しているのです。なんという大きな恵みであろうかと思います。

御子なる神キリストは、人間となられました。そして、私どもの罪をご自分の死をもって償い、私どもを神へと贖いとってくださいました。買い戻してくださいました。こうして、もはや、自分の義を追及したり、自分で自分の幸せを掴み取らなければならない生き方は、決定的に終わらせてしまわれました。もう、そのようなことをする必要はありません。そのことが、今やキリストの十字架によって、誰の目にも、朝日が昇れば夜が終わって朝が始まったことがわかるように、そのような鮮やかな仕方で、時代が画されたのです。それが終わりです。歴史の中に、神から、外から、はっきりと句読点、点が、丸が刻まれたのです。古い時代は終わり、新しい時代が始まった。それが、キリストは律法の終わりという意味です。

わたしの子どもの時代の映画は、物語が終わると、「終わり」という漢字が大きく映し出されます。英語では、ジ・エンドでしょう。これで終わり、もう立ち上がって映画館を出てゆかなければなりません。続きはない。完結したのです。それぞれの感想を胸に暗い映画館から外に出るのです。しかし今まで観ていたスクリーンとは違って、現実の社会がそこにはなお依然として存在しているわけです。現実に引き戻されるわけです。現実は、終わっていないわけです。つかの間のエンターテイメントを楽しむのが多くの映画なのかと思います。

しかし、ここで言われている「キリストは律法の目標、終わりです。」とは、そのようなものではまったくありません。完全に終わってしまったのです。現実の生活、歴史において完全に終わったのです。そして、同時に、この終わりによって新しい時代が始まりました。新しい現実が始まっているのです。それは、繰り返しますが、自分の義を熱心に求めるのではなく、反対に、神の熱心、神がその独り子をお与えになるほどの熱愛をもって、激しい愛をもって私どもを義としてくださる神の義、この神の壮大な運動、神の圧倒的な働きに身を委ねて生きることなのです。この神の義を受けて生きることこそ、私どもに与えられた新しい生き方です。この終わりによってもたらされた、新しさ、新しい時代のなかで、私どもは、律法を新しく受け止めなおします。そして心から重んじることができます。そして、これを喜ぶのです。十戒を口ずさんで生きるのです。キリストは律法の目標であり、終わりですが、律法を廃棄してしまわれたのではありません。捨ててしまいなさいなどと仰ったのではありません。私どもを律法を、とりわけ十戒を心から神の愛の言葉として受け入れ、十戒を守って生きようと励むのです。それは、もはや、それを守って見せて、自分の義を証明したり、自分の正しさや賢さや、幸福を保証してみせること、あるいは獲得してみせる、掴み取ることなどとはまったく異なることなのです。

実に、キリストは、信じるすべての人に義をもたらしてくださるのです。ただ信じるだけで、義をもたらしてくださる救い主として、来てくださったのです。すでに十字架で救いを成就してくださったのです。

私どもはもはや、宗教を行う、宗教をする、宗教に入ることによって救われる道はありえません。私どもは、今、正しい認識に立ちます。それを、体ごと教えていただくのが、本日、ともに祝う聖餐の礼典に他なりません。ここでは、私どもは、ただ座っているだけです。ある教会では、聖餐のときには、前に進み出ます。自分から進みでるのです。しかし、私どもの教会では皆さんはその場で座っているのです。待っているのです。配餐する奉仕者が近づくのを待っているのです。そして、運んでくれるのです。それはパンとぶどうジュースです。しかし、それが意味しているのは、キリストの獲得された、キリストが掴み取ってくださった祝福なのです。恵みなのです。罪の赦し、体の復活、永遠の命なのです。それが、自分のところまで来る、やってくるのです。私どもはしかし、そこで手を伸ばします。それは受けるためだけです。最小の行為です。皆さんが自分の手で取れなかったら、配餐者が飲ませてくださるかもしれません。しかし、そこで私どもは神の恵みを拒まないのです。受領するのです。そして私どもは知るのです。この受領する、受け入れる。食べ、飲むということ以上に、神の恵みの応答する、積極的な行為はないことを知る。私どもの熱心は、このイエス・キリストにおける神の熱心、神の熱愛を受け入れることによって示すものなのです。聖餐を祝うことこそ、神への愛の究極のしるしなのです。

横道にそれますが、イエスさまを心に信じているけれど、洗礼を受けない故に聖餐にあずかれない仲間は、だから、洗礼へと急ぐべきです。急いでほしいのです。そこで、愛を告白することができるからです。

主イエス・キリストは、私どもの宗教的活動、不信仰としての宗教を終わらせられます。そして、私どもの歩みをいよいよ神の義へと推し進めてくださるのです。そのようにして私どもをただ信じることによって、信仰によって義としてくださる道へと押し上げてくださるのです。そして、私どもも自覚的に、キリストを人生の目標とし、終わりとし、ゴールとして生きる光栄にあずからせていただいているのです。私どもはそのような人生の目的、目標を知らされ、設定させていただいて、ここで信仰生活に励んでいるのです。なんと幸いなことでしょうか。

確かに、今日、日本で真実にキリスト者として生きることは困難になりつつあります。しかし、闇のようなトンネルを進んでいても、すでに終わりから、目標から、すでに光が射し込んでいます。出口は明らかなのです。光の射す方向へと皆で行進する。歩み続ける。それこそ、主の日を中心にする私どもの人生に他なりません。私どもは、すぐる週、なお古い生き方、自分の義を求める生き方をしてこなかったわけではありません。しかし今、確かにここで終わらせられています。なぜなら、ここにはキリストが臨在しておられるからです。私どもはこのキリストを信じ、礼拝しているからです。

そうであれば、私どもは、使徒パウロが、第一節で祈った祈りを自分の祈りとしなければならないはずです。ユダヤ人のために祈ることです。私どもにとってのユダヤ人は、また日本に住む人々の為の祈りです。この町に住んでいる、宗教に熱心な人々の救いです。先週も申しましたが、その宗教とは何か特定の宗教団体に属して生きている人々のことだけではありません。この世の価値観、この世の自分の力で人生を切り開き、勝利者、勝ち組になるために生きている人々のことです。自分は勝ち組だと考えている人々の救いのためです。また、自分はそうなれないと挫折感や劣等感を覚えている人々の救いのためです。自分の義を求めるすべての人々のその生きる方向性に、あなたはの生き方、進む道はもう終わっていますよ。もう、通用しません。もう意味がないのです。キリストは、あなたのために来てくださった。十字架についてくださった。復活してくださった。だから、私と共に、キリストを目指し、キリストを目的として、キリストからの力で生きて行こう。暗闇に射し込んでいる命の光を目指してゆこう。それは、主の日、教会の礼拝式で射し込むから、聖書から射し込むから、私と共に、キリストからもたらされる救い、赦し、永遠の命を喜んで生きて行こうと、熱心に生きてまいりましょう。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、私どもは、信じる者すべてに義をもたらすあなたの御子、キリストを主と信じることができました。この最高の幸いを心から感謝いたします。そして御名を崇めます。御神よ、人間が、ただあなたの恵みによって、あなたの義によってのみ生かされること、生きることをあなたは求めておられます。しかし、今なお、多くの者たちが、古い生き方、自分で自分を救おうとする宗教的な生活のなかに閉じ込められ、閉じこもっています。どうぞ、私どもの教会の正しい神知識、認識を伝え、また伝えるキリスト者である私ども自身の生活が、神の義に従う生き方、神の義を受ける生活となりきるために日ごとに、キリストに結ばれ、キリストにまったくより頼む生活とならせてください。アーメン。