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「美しい足とされ」

「美しい足とされ」
2007年8月5日
聖書朗読 イザヤ書第52章7-10節
「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。 その声に、あなたの見張りは声をあげ/皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る/主がシオンに帰られるのを。 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。 主は聖なる御腕の力を/国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ。」

テキスト ローマの信徒への手紙第第10章14節~15節
「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。
聞いたことのない方を、どうして信じられよう。
また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。
遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。

先週もまた予定を変更して、親子合同礼拝式として捧げました。改めて、ローマの信徒への手紙の講解説教を学びます。本日から、第14節以下を学びます。特に、14節と15節を学びます。何度かにわけてこのテキストを学ぶこととなるかと思います。また、本日は、イザヤ書第52章も、前もって朗読いたしました。この箇所を読んですぐに気づくことは、パウロがここで集中的に、旧約聖書を引用しているということです。

9章から11章までは、何故、神の民イスラエル、ユダヤ人は不信仰になって、神のキリストに反抗し、イエスさまを十字架にかけ、復活されたイエスさまになお、聞き従わないで、不従順を続けているのかということを扱っています。その意味では、旧約聖書の引用が多くなるのは当然でのことでありましょう。

特にここでは、イザヤ書からの引用が集中します。ちなみに、皆様のお持ちの新共同訳聖書には、後ろのページに新約聖書における旧約聖書の引用の一覧が記されています。それをご覧になられれば、さらに聖書の学びは深まります。

さて、預言者イザヤの預言の言葉はまるで詩の言葉のようです。「いかに美しいことか」「なんと美しいことか」驚きの声をあげているのです。美しいものを見たときの、感動のことばです。直訳すれば、「おお、美しい。」です。「おお」「うわぁ」とか、驚きの言葉です。美しい大自然の山や、滝などを見れば、思わず声が出るでしょう。そのような美しいものを見たときの感動の言葉、いへ、これは、声なのです。

 実は、聖書の中には、美しい、美ということに対しては、あまり記述がありません。もしかすると、当時の文明世界、ギリシャの世界、ローマの世界では、この美しさを追求する文化、価値観への批判があるのかもしれません。その意味では、今日の我々の文化、価値観への批判に通じるでしょう。今、我々の国にも、「美しい国」とか「美しい国づくり」などという言葉で、政治を語る総理大臣がいるわけです。美しいもの、美とされるのは、しばしばいわゆる「見目形」のことではないでしょうか。美しい顔、美しいスタイルなどです。旧約聖書サムエル記上には、「人はうわべを見るが、主は心を見る。」という言葉があります。つまり、ちゃらちゃらした表面ではなく、内面の美しさをこそ、神は見てくださるということでしょう。

最近、「人は見た目が9割」という書物が売れているそうです。私などは、完全にアウトです。あるいは、顔面麻痺になった人がそのような書物を読んだら、いったいどうなるだろうかと思います。
話がなおそれますが、ローマの信徒への手紙の著者の使徒パウロ自身が、この見た目において、かなりのハンディキャップを持っていたようです。コリントの信徒への手紙Ⅱにパウロの敵対者の論評として、こうあります。「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない。」確かに、説教者にとっても、見た目は重要でありましょう。アメリカのテレビ伝道者などを見れば、よく分かります。彼らは、自分がどうテレビに映し出されるのか徹底して研究しているはずです。何よりも、歌が上手でなかればならないのです。声もよく通る、美声であることも条件でしょう。しかし、繰り返しますが、神は、何を見てくださるか。どこをご覧になられるのかであります。それを見失ったら、恐ろしいこと、惨めな姿になるはずです。
 
さて、それなら、預言者イザヤ、そして使徒パウロは、ここで何を美しいと言うのでしょうか。それは、「足」です。これは、ギリシャやローマ、現代の我々の価値観からずれば、いわば、異常な言葉です。もとより、そこでも、確かに美しい足の女性や、アスリートの鍛えられた足などがあるではないかと屁理屈を言うかもしれません。しかし、ここでは、足の形、形体のことを言っているのではないのです。

「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」ここでの「良い知らせ」とは、まさに新約聖書の福音のことです。つまり、足の美しさとは、福音を伝える者の足のことです。そうであれば、その人の足の形は、どうあろうともかまわない。車椅子でもかまわない。いや、足がなくてもかまわない。彼が、良い知らせを伝えるなら、持ち運んでくれるなら、その人の全存在が美しいのです。「おお」「うわぁ」と、感嘆の声をあげるほど美しいと、イザヤが言い、パウロはここでこそ、強調して言うのです。

 さて、そもそも、「美しさ」とは、どんな人にも、男性にも女性にも、お年寄りにも子どもにも、ひとしく理解され得るものなのでしょうか。例えば、「美人画」などの絵を見ていますと、時代によってずいぶん異なることがわかるのではないでしょうか。女性の美しさなるものが、いかにつくられたものであるのかも分かるのではないかと思います。その意味では、「美しさ」への感覚を磨き、理解力を鍛える必要があるのではないでしょうか。

 ここでの美しさとは、そのような見目形のことでは、まったくありません。「よき知らせ」「福音」を語る人そのもののことなのです。そうであれば、そのよき知らせ、福音を、そのままよき知らせ、「おお」とか「ああ」とか「うをぉ」とか、声を挙げるほどに理解することは、簡単なことではない、自然のことではないのです。そこでこそ、もっとも大切な理解力が問われるのです。

御言葉は言います。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」神は、私どもの心をご覧になられます。それは、目に見えない部分をご覧になられるという意味に他なりません。しかも心は、自分自身ですらよく見えない部分です。自分自身の心の本当の有様を、我々はいかに見損なってしまっているかを思います。いわんや、隣人の心を正しく見ることはさらに困難なことでありましょう。そしてそのことが分かる、気づくなら、目に見えない神を見ること、目に見えない神の御心を見ることは、我々人間の通常の能力を発揮することによって、達成し、実現することができないことでもあると気づく、気づけるのではないでしょうか。

 それなら、神を見ること、その御心の美しさを見ることは、不可能でしょうか。違います。神はその御心を惜しげもなく、明らかにしてくださいました。それが、御子イエス・キリストのお姿に他なりません。御子の御業、ご人格において、私どもは、神を見るのです。主イエスはヨハネによる福音書において、こう仰せになられました。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」「わたしを見たものは、父を見たのです。」

 あの当時、ユダヤの人々は、主イエスを見て、そこに美しさを発見できたのでしょうか。神の民イスラエルは、どうだったのでしょうか。イザヤ書はまさに第53章で、このように言いました。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」
 神の民イスラエルは、まったく躓いてしまったのです。この美しさを、決定的に見損なった。このお方の美しさを根本的に理解できなかったのです。主イエスの外見、しかも、縄で縛られ、鞭打たれて、血みどろになって、茨の冠をかぶせられ、殴られたお顔も腫れ上がっていたお姿を見たときには、決定的になったのです。裸にされ、十字架につけられたお姿は、我々人間が考える美しさ、「美」からもっとも遠いところにあったのですから、彼らは、イエスを捨てました。

しかし、この神のみ子の死、私どもの罪を償うための身代わりの苦しみと死がなければ、私どもは、罪赦され、神の子とされ、天国の民に加えられることはありえないのです。ここにこそ、実は、神の隠された美しさがある。この美しさこそ、本物の美しさなのです。

 使徒パウロは、かつて、この美しさを知りませんでした。この美しさに躓きました。神が十字架で、ローマ兵に殺されるわけがないし、そのような無残な殺され方をするものは神に呪われた者であって、美しさの対極、醜い、あまりにも醜いものと考えたのです。しかし、今では、そうではありません。あの十字架において、神の御心を見たのです。神を見たのです。それは、私どものために、その美しさを損なわれ、醜い者の姿に落ちてくださった神の愛、恵みであったのです。 

 それが分かったときから、使徒パウロは、走り始めました。私どもに向って走り出しました。異邦人に、キリストの福音を、罪の赦しの恵みを告げる使徒になったのです。使徒とは、神に直接に任じられ、遣わされた者ということです。確かに、その外見は弱々しいパウロであったのかもしれません。しかし、その足は、私どもが、喜びと驚きの声をあげざるを得ないほど、美しいものとなっているのです。

このように申しますと、なんだか、私自身も、足がくすぐったくなってくるような気が致します。つまり、この美しさは、何も、イザヤだけ、パウロだけ、聖書の中で活躍する神の預言者、使徒、伝令だけに当てはまることではないからです。福音を伝えることができる人、伝えなくてはならないように命じられている人は、わたしを含めた、ここにいる全員に他ならないからです。他ならない、皆さんの足が美しいと言われているのです。

 わたしは、「なんと美しいことか」とは、良い知らせを聞いて、喜び踊った人たちからの声だけではないと信じます。よい知らせを伝えるようにと、彼を送り出したお方、「わたしがあなたがたのために成し遂げた勝利、十字架と復活の勝利の報せを、あなたは、そこから出て行って告げに行きなさい」と、背中を押してくださった方ご自身の、声でもあるのではないでしょうか。つまり、私どもを伝令と用いてくださる神ご自身が、私どもの足を「なんと美しい」とご覧になって下さるのです。
 
前後しますが、14節では、「どうして呼び求められよう。」「どうして信じられよう」「どうして聞くことができよう」と、「どうして」「どうして」と問いの形で畳み掛けます。これは、ユダヤ人たちが、言い逃れができないようにするための、論述方法です。つまり、イスラエルの人々は、「我々は、救い主のことを、聞いたことがないのだ」と、言い逃れることは決してできないのです。なぜなら、すでにイザヤがはっきりと預言していることだからです。何よりも既に、救い主ご自身が、イエスさまが十字架についてくださったからです。そうであれば、イスラエルの人々は、もはや、「そんな人は知らない、聴いたことがない」などと、言い逃れることはできません。実は、そのことこそ、ここでパウロが明らかにしたい主題であります。そのためにこそ、この文章が記されているのです。

しかし、私どもは今日、この御言葉とただユダヤ人を批判する言葉、イスラエルの不信仰を裁く言葉としてだけ読むことはできません。これを、私どもに向けて書き送られた手紙として読むことができますし、しなければなりません。

私事ですが、わたしが聖書を初めて読んだのは、高校生のときです。それまでは、まったく周りにキリスト教の関係者はおりませんでした。入学した学校がキリスト教主義であったので、半ば、強制的に聖書を購入させられたのです。聖書なるもの、キリスト教なるものに生まれて初めて接し、驚きました。もしも、そこで、聖書との出会いがなければ、わたしは、どうなっていたのでしょうか。今、とても不思議に思うのですが、私自身が、キリスト教主義の大学で、ほとんど初めてキリスト教、聖書に接する大学生たちに、福音を説く務めを与えられています。先週は、前期の試験の採点をし始めました。読みながら、彼女たちも、最初のとき、どれほど、とまどったことかが分かります。初めて学内のチャペルに参加する。それだけでも、とても、緊張するそうです。なによりも、ほんものの教会の礼拝式に出かけていったとき、それは頂点になったようです。しかし、自分がそうであったように、少なくない学生たちが、変化する、印象が訂正されたりするのです。ある学生は、「何のために生きるのか、初めて講義で考えさせられました」と、書きました。何の為に生きるのか、その問いの本当の出所、その問いを本当に問うてくださるのは、造り主なる神に他なりません。私どもキリスト者は、そのことを告げることが出来る特権を与えられたのです。その使命、務めを与えられたのです。まことの神さまを知り、信じることができている奇跡、これは驚くべき恵みなのです。

 パウロは、14節で、「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。」まるで畳み掛けるように、言います。いかがでしょうか。いったい、この言葉を、主イエスを信じなかったイスラエルの民への批判としてだけ、聴き取ることができるのでしょうか。確かに、もともとのテキスト自身の意味はそうなのです。しかし、わたしは、この畳み掛ける言葉が、心に突き刺さります。これは、私じしん、私ども教会への挑戦ではないでしょうか。パウロは、畳み掛けて問いながら、どんどん、大きく、重く問うのです。「信じなければ、イエスさまを主と呼べないではないか。主イエス・キリストの福音を聴いたことのない友達が、どうしてイエスさまを信じることができるか。それを宣べ伝えるべきなのは誰なのか、あなたではないか。あなたが福音を宣べ伝えないで、いったいどうして、あなたの隣人が救われるのか。」パウロの鋭い問いかけです。先ほどの学生ではないですが、キリスト者とされた私どもに新ためて問われる問いではないかと思います。「あなたは何のために生きているのか。」「あなたが信じることができたのは、キリスト者であるということはどのような意味、目的があるのか」

 これは、使徒パウロの言葉であるよりも、まさに神からの挑戦、言葉、迫りです。神は、問うておられるのです。また、私どもを促しておられるのです。「あなたは、わたしの伝令ではないか。わたしはあなたを遣わしている。あなたは、伝えるだけでよい。事実を伝えればよい。私があなたの神、そして御子の十字架と復活の出来事を告げればよい、その意味を証しすればよい。」

 夏の甲子園を目指す高校野球が始まっています。例えば、ピッチャーが打ち込まれ、ピンチになったとき、しばしば、監督は、伝令を送り出します。彼は、ピッチャーやキャッチャーに、ただ監督の言葉を告げるためにマウンドに駆け寄るのです。もしも、監督さんの言葉を告げないで、自分の考えを告げたら、大変なことになります。そのようなことをするわけがありません。

 私どもキリスト者は、その全員が、伝令です。伝令とされました。伝令を送り出されたのは、神です。天地創造の神です。御神が、背中を押して、「わたしが告げた言葉を語れ、告げよ」と、権威を与え、命じ、遣わされたのです。私どもは、伝令に過ぎません。しかし、この伝令は、なんという光栄な務めでしょうか。私どもが、世界に、神の勝利を告げることができるのです。罪の赦しを告げるのです。神の救い、祝福を告げるのです。永遠の命への道を、福音を宣言するのです。それは、呪いの言葉ではないのです。なんと言う幸せでしょうか。

ただし、そこで、間違ってはならないことがあります。それは、このよい知らせを、誰でもが、すぐ、喜んで聞き入れるという約束はありません。そこには、しばしば、反発がある。しかし、私どもは自分自身この福音によって飛び上がるほどの喜びを最初に教えられたのです。

伝令は単なるロボットではありません。録音の機械ではありません。伝令自身が、この知らせに、最初にあずかっているのです。送り出してくださった神の喜びを、神と一緒になって、喜んでいるのです。そして、これを告げるべき人には、必ず届くとの希望をもって、届けることができるのです。
 
 確かに、私どもはこのような経験をするのではないでしょうか。福音を聴く人は、最初に反応するのは、福音そのもの、知らせそのものではないということです。最初に反応を示されるのは、その人の外見です。しかし、そのときの外見とは、単なる外見ではありません。もしも、そのような語る人の外見で応答した人は、信仰に生きることはないと思います。少なくとも、生き抜くことはできません。
問われる外見とは、その福音を伝令自身が、信じているということ、信じてあずかっているということです。知らせを喜んでいるということです。知らせが、どれほど重要であるかをわきまえているということです。

先ほどの学生たちの中には、キリスト教主義の高校から入学された方もおります。彼らは、何に驚くのかと申しますと、わたしが熱を込めるのに驚くようです。これまでの学校でのキリスト教の時間とは、違う印象を持つようです。それがどのように実を結ぶのか、結べるのかまだ分かりません。しかし、福音を説くとき、説教するときは、どうして興奮せずにいられるでしょう。この福音が、私を救った。私を、今日あらしめているのです。恵みなのです。だから、語らずにおれません。

よい伝令、よい神の伝令、福音を宣べ伝える人は、いつも誰よりも真っ先に聴く人であります。聴き続ける人なのです。だから、礼拝説教、祈祷会の学び、読書会、毎日の聖書朗読が大切なのです。それなしに、生き生きと福音に生き続けることができないからです。また、神が、そのようにして、伝令の心の板にしっかりとよい知らせを記してくださる、刻んでくださるからです。

 先日の夜の祈祷会で、ある一人のカトリック神父が初めて、聖餐、彼らで言えば、ミサにおいてパンとぶどう酒を信徒に配ったときの感激、感動について申しました。これまで、神学生として何年も、学び、研鑽し、修練し、ついに任職されミサを執行することができたときのその喜びと感動です。わたしもよく分かると申しました。彼は、まさにそのために、神父になったわけですから。 今から、聖餐を祝います。皆さんの席に、男性委員が、パンを持ち運びます。それこそ、一つの伝令の業です。それは見える言葉を運ぶのです。見える言葉、パンとぶどうジュースを運びながら、それは、キリストの臨在のしるしそのものですから、キリストご自身を運ぶ人なのです。

 信徒が運ぶのです。カトリックでは考えられないことでしょう。キリストを運ぶのは、聖餐の礼典だけではもちろんありません。何よりも、未信者に運ぶことはできません。未信者の方には、言葉を運ぶ、告げるのです。その言葉こそ、キリストご自身なのです。これは、教会員全員の特権であり、使命なのです。義務なのです。

 そしてそのような人の足は美しいのです。「ああ、美しい」と声をあげるほどの存在とされているのです。皆さんは、わたしをそのようにご覧になられるでしょうか。そう見えてくるときこそ、いよいよ、福音を知ることができるようになっているはずです。そして、同時に、一人の説教者だけの足が美しいと感嘆するのでは、ないはずです。ついには、自分の足、自分自身をも美しい人間として見ることができるはずです。信仰のまなざしとは、牧師の足を美しいと見ることであり、同時に、自分自身を美しいと見ることに他ならないのです。「自分なんて、普通の人間だ。いや、それ以下だ」なんて、言わせない。見せないのです。「ああ、自分は、キリストの伝令、神の使者、福音を運ぶ人、キリストを運ぶ人。なんと、美しいのだろう」と自分自身に驚き続けことができるのです。そして、それだけに、この美しさを大切にする人です。
 
 最後に、かつても説教でご紹介したことのある、ごく短い詩を朗読して祈ります。八木重吉さんの詩、「美しく見る」です。
「わたしの
  かたわらにたち  
     わたしをみる  
       美しく見る。」

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、あなたが私どもの足を、もっとも汚れやすいその足を、美しくしてくださいました。そのようにして、私どもの全存在を美しくしてくださいました。私どもに福音が、記されているからです。心の板に刻み込まれているからです。何よりも、あなたが美しいと見ていてくださるからであります。私どもは、今、あなたから命じられ、伝えるべく送り出されます。今週も、この世界へと伝令として送り出されます。どうぞ、説教を、聞いて終わることがありませんように。どうぞ、私どもが、何のために、聴いているのかを悟らせて下さい。新しい決意をもって、教会から派遣して下さい。