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「キリストの声を聴き取るために」

「キリストの声を聴き取るために」
2007年8月12日
招  詞 詩篇 第95編6-11節
わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。
主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。
「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように/心を頑にしてはならない。
あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。四十年の間、わたしはその世代をいとい/心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。わたしは怒り/彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」

テキスト ローマの信徒への手紙第第10章14節~15節
「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。
しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、誰がわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。
実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
それでは尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのであろうか。もちろん聞いたのです。
『その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ』    」

 私どもは、毎週ここに来ます。そして、毎週、ローマの信徒への手紙を通して語られる生ける神の言葉を読み、聞き続けて礼拝を捧げています。私どもにとって、今朝は、徹底して聴く日、徹底して神の御言葉を聴く日と弁えをもって、礼拝堂に座っておられるのではないでしょうか。
先週は、美しい足という説教で、私どもは、伝令であると学びました。伝令が伝令でありうるのは、唯一つの条件があります。それは、遣わした人の言葉、メッセージをきちんと聴いて、受け止めて、それを間違いなく、遣わされた相手にまで届けることです。

宅配便の方が家まで品物を届けてくださるときに、彼は、必ず、印鑑を求めます。証拠を求めます。確実に届けることが、それが彼らの仕事そのものなのです。そのためには、何はともあれ、運ぶべき品物、荷物をきちんと載せることです。私どもは、今朝、ここでいわば、送り届けるべきもの、そのものを載せられるのです。しかもこれは、単に届けるのではありません。載せられているもの、そのものは、よい知らせ、福音です。罪の赦しと永遠の命、神の子、キリストとの交わりをもたらす命の言葉、命の情報、宝物なのです。そして、この宝は、届ける本人をこそ、生かすものなのです。そうであれば、いよいよ、今朝、私どもは、ここで真剣にならなくてはならない。集中しなくてはならないこととなるでしょう。

本日の説教の中心になる御言葉はまさに、17節、「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」になります。信仰の始まり、それは聴くことにあるというのです。わたしは、漢字を書くときには、聞くという文字を、御言葉を聞くときには、耳偏の「聴く」にします。補聴器とか聴診器の聴という感じです。医師が、体に聴診器を当てて、内部の音を聴き取るときには、集中力が必要なのではないかと思います。

私どもの信仰の始まりは、神の御言葉を聴くところにある、これは決して、一人、使徒パウロの主張なのではありません。この一句は、まさに、聖書の全体の重みのかかった一句なのです。要するに、信仰とは、御言葉を聴くことに他ならないのです。これは、なんと単純な真理でしょうか。驚くべき単純さではないでしょうか。ところが、この単純な真理を、よりによって神の民、イスラエルは受け入れられなかったのです。この真理に生きることをしなかったのです。それが、ここでのパウロのメッセージの中心であります。

「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことかと書いてあるとおり」なのです。しかし、実際は、預言者たちは、嘆かざるを得なかったのです。神の民は、その知らせを聴き取らなかったからです。そこでパウロは、預言者イザヤを例にあげ、こう批判します。「主よ、誰がわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。」

この批判は、また一人パウロのものではありません。誰よりも厳しく批判し、叱責されたのは、他ならない預言者の中の預言者、究極の預言者であられる主イエス御自身でした。ルカ第11章50節以下でこう仰せられました。「こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。 それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。」このゼカルヤという預言者のことを私どもは詳しくはしりません。歴代誌下第24章に、こう記されています。南ユダ王国の高官たちが、「先祖の神、主の神殿を捨て、アシェラと偶像に仕えた。この罪悪のゆえに、神の怒りがユダとエルサレムに下った。彼らを主に立ち帰らせるため、預言者が次々と遣わされた。しかし、彼らは戒められても耳を貸さなかった。神の霊が祭司ヨヤダの子ゼカルヤを捕らえた。彼は民に向かって立ち、語った。「神はこう言われる。『なぜあなたたちは主の戒めを破るのか。あなたたちは栄えない。あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる。』」ところが彼らは共謀し、王の命令により、主の神殿の庭でゼカルヤを石で打ち殺した。」 
主イエス御自身が、「イスラエルは、神の言葉を語る者たちに反抗し続けたのだ、そのような歴史であったのだ」厳しく叱責したもうて、悔い改めに招かれたのです。

そこで使徒パウロは、第18節でこう言います。「それでは尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのであろうか。もちろん聞いたのです。『その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ』」イスラエルは、福音を聴いたことがなかったのか。このような言い回しで、パウロは、とどめをさすかのように、悔い改めを促すのです。預言者は、次々と遣わされたのです。彼らは命をかけて伝令としての使命を果たしたのです。その内容は、「悔い改めよ。神に聴き従わず、偶像に引かれるなら、神の裁きを受ける」と厳しい言葉がほとんどですが、しかしそれは、彼らを愛してやまない神の熱愛に基づいてのものなのです。だからこそ、何度も諦めずに、預言者を遣わされたのです。神は、次々と、ご自身の伝令を派遣されました。ところが、彼らは、悔い改めるどころか、伝令、預言者たちを亡き者としてしまったのです。

パウロは、この言葉、神の言葉は、ただ預言者たちだけが告げただけではなく、ごく基本的なこととしても、語られ、聞かれているはずであると迫りました。それが、18節です。そこで、言わば、ダメ押しのようにして、詩篇第19編の引用して、迫ります。「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。 昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。 話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。」

 神が創造された天と大空も神の御言葉の現われなのです。御言葉によって造られたというわけです。創世記第一章に記された創造の御業です。また、昼は昼に、夜は夜にというのは、時間ということです。全宇宙においても全歴史においても、神の御言葉に満ち溢れているということです。神の御言葉が刻み込まれているではないかと迫るのです。

それなら、どうしてイスラエルは聞いたことがないなどといえるのでしょうか。決して言えるはずはないのです。そうなると、そこで暴露されるのは、唯一つです。聞く耳をもっていない。いへ、聞こうとしないということです。
しかし、同時にそこで改めて確認しておきたいことがあります。それは、私どもの救いの急所は何かということです。

教会の改革者として名高いマルチン・ルターの翻訳した聖書は、「実に信仰は聞くことによる」という箇所をこのように訳しました。「信仰は説教による」これは、まさに教会の改革者としてのその原動力、その中心をものの見事に表すものであると思います。あの16世紀の教会改革、私どもの改革教会の誕生の決定的な力の源がいったいどこにあったのかを言い当てる言葉です。それは、まさにこの説教の復興でした。その他、様々な改革が行われたのは、皆様もよくご存知と思います。礼拝の改革こそ、教会の改革の源でありました。そしてその礼拝をどのように改革したのかと申しますと、聖書にもとづいて、聖書の教えにのみ基づいて教会を建て上げることでした。そこで、「聖書のみ」という改革の原理が主張されました。さらに、私どもがローマの信徒への手紙で学び続けております「信仰のみ」がいわば、改革の内容の原理でした。聖書を読むことが徹底して重んじられたのです。そうなると、それまでの教会公認のラテン語訳聖書ではなくて、およそ自分の国の言葉、文字を読める人なら、誰でも読めるように、自分の母国語での翻訳が急速に進んだのです。ルター訳、ドイツ語訳の聖書はその代表的な翻訳となりました。それらなら、教会改革は、聖書の翻訳と、聖書を信徒が自分で読むようになれば、それで果たされるのでしょうか。違います。それらはすべて、この一つに向ったのです。それが、説教でした。

そしてそれは、改革者が勝手に、それが一番有効な方法なのだと考えて、つまり、人間の発想であったのではありません。それこそが、聖書に記されている真理なのです。先ほども申しましたが、聖書の信仰、聖書の66巻のすべてのメッセージが、実に、17節に圧縮されているのです。パウロの発明ではありません。数々の預言者たち、聖書の著者たちが語り続け、記してきたことは、「信仰は聞くことに始まる」という真理であるのです。

そしてその聖書は、どのような書物なのでしょうか。私どもはそれを、使徒たちから学ぶことができます。しかし、何よりも決定的なことは、主イエス御自身から学ぶことができるのです。ヨハネによる福音書第5章39節にこうあります。ユダヤ人に対して仰せになられた御言葉です。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」

決定的な言葉です。ここでの聖書とは、旧約聖書のことです。使徒パウロがここで集中的に議論して、引用するのも旧約聖書です。旧約聖書は、イエスさまを証言している。証しているのです。さらに、ルカによる福音書において復活のイエスさまが、二人の弟子たちがエマオの村に歩いて行かれるところに現れて、説教された物語は、まさにその真理を明らかにするものでした。「イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」

旧約聖書の全体について、ご自分について証言されていることを説明されたのです。ルカは、それをこそ、説教の原点、原型とするのです。
このような背景をもとに、使徒パウロのこの言葉が生まれたといっても良いと思います。「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」そのキリストとは、十字架のキリストなのです。彼らが殺したあの男、十字架の木の上に追いやったあの人間なのです。それを認めるかどうか。そこにすべてはかかっているのです。

そして、それを認めるとき、何が起きるのでしょうか。変化です。変わることです。それを、聖書の言葉、信仰の言葉で表すのが、「悔い改める」ということです。
本日は、午後に○姉妹の送別のときを持ちます。姉妹は、私どもが滝ノ水に教会堂を献堂して最初の洗礼入会者となりました。洗礼を受ける前に、必ず、学びのときをマンツーマンで持ちます。彼女とも、ほぼ一年あまりかけて洗礼後も学びのときを持ったのだと思います。洗礼を受けるとき、特に心を注いで導くことは、まさに「悔い改め」に他なりません。カテキズムの中で、十戒を学びます。一つひとつ学んで、いかに自分が罪人であるのかを知るのです。あるいは、それに先立って、先週は、高校生の学び会でちょうどそこを学びましたが、問い19にこうあります。「あなたは罪人ですか。」「はい、わたしも神さまの御前に罪人です。」このところで、まさに、「あなた」学んでいる本人が、罪人であることを認めるのかどうかを問うのです。子どもカテキズムは、徹底して、それを問います。問い20では、「あなたも神さまの怒りを受けなければなりませんか」と問うのです。そこでも、「はい。」と応えます。

それは、滅びるということです。自分の罪の刑罰を受けることを承服するのです。本当に自分がイエスさまを十字架で殺してしまったのだ。本当に自分の罪がイエスさまを、十字架の上における神の裁きと怒りに追いやったことを認めるのです。そして、悔い改めるのです。自分の罪を悲しむことです。何よりも、徹底して憎むことです。

もしもこの悔い改めが、ないところで、洗礼を受け、教会生活を始めるのなら、どうなるでしょうか。続かないでしょう。もしも、続くのであれば、それは真実な信仰の生活でもなんでもなくなると、言わざるを得ません。結局、それは信仰とは無縁のものとなるのです。

このように言う事ができるでしょう。信じることは悔い改めること。これは、別々のことではありません。悔い改めることは信じることです。それは一つのことなのです。そうであれば、何も悔い改めるのは、洗礼を受ける前のときだけであるはずがありません。洗礼入会志願のときだけ、信じるなどというのはおかしなことです。つまり、キリスト者の全生涯は、悔い改めに生きる生涯であるということです。あのルターのあまりにも有名な95か条の公開質問状、教会改革ののろしをあげることになった、95の問いの最初の問いは、悔い改めよと主イエスが叫ばれたとき、それは、キリスト者の全生涯が悔い
改めの生涯であることをお求めになられたという意味のことを、言いました。

信じることは、悔い改めること、自分を第一、主とする方向から、神さまを主とし、第一にする方向へと転換することです。方向転換するのです。それを自分の全生涯継続するのです。そうなると、そこには、はっきりとした変化が生じます。変わるのです。「変わろうとするのをやめるとき、そのとき、生きようとするのを止める」一人のカトリック司祭の言葉です。神の前に生きるとは、常に変わろうとすることです。

端的に申しまして、私どもが説教を聴くとは、礼拝式を捧げるとは、このことです。私どもは、「主よ、お語りください。僕は聴きます。」という態度を持つことなしに、説教を聴くことはできません。聴き取れないのです。聴いたことにならないのです。例えば、信仰に入るのに、何回、何十回説教を聴けばよいのか、などという質問が提出されたらどうでしょう。洗礼入会のためには、何十回かはマンツーマンで学びをすることを求められます。しかし、信仰に入るのに、礼拝に何回、説教を何回聴けばよいのか。それは、ありません。たった一回でもよいのです。説教を聴いて、本当に、自分のこれまでの生き方が、恐ろしい罪であったこと、神の愛を受け入れて、信仰によって生きることが必要であると分かれば、もう、その人には信仰が与えられ、信仰の歩みが始まっていると言っても言い過ぎではありません。逆に、何回、何十回聴いても、変わることがなければ、この変化がなければ、聴いたことにはならないのです。理解したことにはならないのです。

昨日、家内に誘われて、NHKのひと時でしたが、テレビ番組を観ました。ブレインマンというのです。脳に障害を持つ人は多いですが、しかし、その障害のなかで、記憶の天才がおられることも知りました。数を数えること、計算することができるのです。それは、計算機と同等がそれ以上の正確さで、記憶したり、計算するのです。また、読んだ書物のすべてを記憶できる人のことも知りました。人間の脳の能力、これは、わたしのような凡人は、そのほとんどを使いこなせないままですが、もしも、わたしの脳であっても、それが、使いこなせたなら、このような人になることもできるのかもしれません。神は、人間を恐ろしいまでにすばらしい能力、可能性を与えておられるのです。ただ、そのような非凡な能力を持ち合わせないわたしは、人と同じことをするだけでも、こつこつと、人の何倍か努力しなければなりません。その人の能力があれば、わたしの説教の準備は、土曜日の夜遅くまでしなくて済むのだと思います。一週間のなかで、少なくとも丸一日以上は、休みをとれるはずです。うらやましく思いました。

さて、番組のナレーションで、「聖書の言葉もすべて覚えてしまっている」ということばがありました。なるほど、目で読んだ文字はすべて覚えてしまっているということなら、そうだろうと思いました。しかし、問題があるでしょう。聖書の言葉をかりにすべて暗記して、たとえば、レビ記、たとえば、列王記、歴代誌などすべての、記録を覚えていても、もしその人に、変化がなければどうでしょうか。御言葉を読むことは、神の声を聴くことです。神の声を聴くとは、その神の声に自分を明け渡し、変えられることです。新しくされることです。もしも、その天才が、悔い改めること、新しくされることがなければ、どうなのでしょうか。それは、本当に意味で、脳の働きが正しく機能したことになるのでしょうか。

先週は、礼拝式後、「説教の分かち合い」を行いました。わたしも、そこに参加したいといつも思います。この集会はすでに何年も継続しています。説教の分かち合いの集会は、自分の考え、自分の信仰を語ること、場ではありません。説教では、一方的に聴くだけだから、分かち合いでは、今度は、語る側になるというのではまったくありません。説教で自分が聴き取った恵みを分かち合うのです。そしてそこでもまた、極めて大切なこと、皆さんがすでによく自覚していてくださることと思いますが、そこでも私どもは耳を皿のようにして、仲間の言葉に耳を傾けるのです。7人、8人がいれば、自分も語りますが、他の6人、7人の兄弟姉妹の言葉を聴くのです。

来週は、○委員の奨励を聴いて、礼拝式を捧げます。すでに、祈祷会の晩に説教原稿を頂きました。そこで、私自身うれしく思ったことは、渡辺委員が奨励できるのは、わたしの説教をよく聴いておられるからなのだと、分かるからです。そしてそこで変化がある。悔い改めが起こるのです。一回限りの変化ではなく、継続するのです。○姉妹も○兄弟も、一人ひとりの名前は出しませんが、名古屋岩の上伝道所の兄弟姉妹たちが、説教によって変化する、悔い改め続ける、成長する、それが教会の真実の姿です。それが生きた信仰の姿です。ですから、礼拝は、毎週捧げるのです。キリストの言葉を聴いて始まる信仰は、聴き続けることによって継続するのです。信仰とは、神の御言葉に聴き続けることです。そして、徹底的に神へと悔い改め続けることです。ですから、信仰とは常に戦いなのです。戦っていないキリスト者は存在しない。それは、罪人であることを卒業できた人です。そんな人は地上では一人もいないのです。私どもの戦いとは、自分の不信仰との戦いです。聴いても従わないですまそうと企む恐るべき罪の誘惑との戦いです。なるべくなら犠牲を払わないところで、教会生活、信仰生活をしておこうとする怠惰や不忠実との戦いです。この戦いに終わりはありません。ですから、使徒パウロは、キリストの言葉を、十字架の言葉を聴くことに始まると言ったところで、それを決して一回限りのこととは言わないのです。

今週は、15日、敗戦記念日を迎えます。私どもの教会はすでに10年以上にわたって、この月、教会の戦争責任についての学びを様々な角度から継続してまいりました。今年も、継続します。私どものこの国が真実に生きるためには、本当に神の御前に立つことができるためには、あの戦争の責任、先ず、加害者としての責任を明確にするところから始まるのだと考えます。そして何よりも、その加害者中の加害者としての私どもの教会の罪を知り、それを悔い改める以外に、日本とそこにある私どもの教会の形成はありえないことを思います。そこでこそ、教会が、真実にキリストの言葉を聴くことが問われます。キリストの言葉を真実に聴けば、そこに必ず悔い改めが起こるからです。そうなれば、キリストにふさわしく、神の御心にふさわしく生きる歩みも整うのです。

私どもの教会は、まことに小さな教会です。しかし、どんなに小さくても、キリストの言葉が真実に語られ、聴かれ、悔い改め続ける神の民であれば、良いのです。そこには、私どもの救い主、真の主イエス・キリストが共にいてくださるからです。一人のキリスト者としても同じことです。私どもが、罪を認め、神の怒りを受けるべき存在であることを、そして何よりもそのような罪人のために、主イエス・キリストが、その罪を担い、その神の怒りを引き受けて、身代わりになって十字架についてくださったことを信じることです。そこに、私どもの希望、救いがあります。そして、私どもがこのキリストの救いを徹底して受けるとき、この救いを喜び、祝うとき、神の御言葉はまさに全地に、これ以上ない仕方で響き渡るのです。キリストの声を聴く耳が開かれますように。キリストの声が聞こえる教会となりますように。そのために祈りましょう。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、あなたは今朝も私どもをここに呼び集め、ご自身の言葉を語らせ、記された聖書と、ご自身が語らせる説教者を通して、語りかけてくださいました。私どもは、今、それを聴きました。どうぞ、今週、聞いた言葉に生きることができますように。私どもは、御言葉によって常に新しくされ、改革される教会であることを、標榜してまいりました。どうぞ、そのような私どもであればこそ、私どもの心を常にやわらかくし、徹底して御声を聴いて、これに生きることができるようにしてください。私どもの耳を常に開き、心を開き、新しく生まれる喜びを日々深めさせてください。アーメン。