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「異邦人の救い」

「異邦人の救い」
2007年9月16日
テキスト ローマの信徒への手紙第第11章11節~16節
「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。 彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。
では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。 何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。 もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。 麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。」

この手紙が記されたのは、いつであるのか、それを確定することは、今では、ほとんど不可能であろうかと思います。しかし、それでも一つの極めて重要な関心を私どもは抱きます。それは、紀元70年の前か後かという一点です。何故、紀元70年が問題になるのかと申しますと、それは、エルサレム神殿がローマ帝国によって跡形もなく破壊された年として覚えられているからです。

使徒パウロがこの手紙を書いたのは、起源58年頃と考える学者もおります。その意味で、エルサレム神殿崩壊の前、ユダヤ人が国を亡くしてしまう前に記されたとほとんどの人が考えているわけです。
なぜ、それが、今、皆さんと改めて確認したかったかと申しますと、いよいよ、私どもは、ローマの信徒への手紙の第9章から第11章までを丁寧に読んでいるからです。ある聖書の学者は、この箇所を、「魚の骨」の部分であると言います。魚の骨を食べることは、通常ありませんが、骨のない魚はありません。しかも、この箇所は、1章から8章、そして第12章から最後の16章までをつなぎ合わせる接合部分の骨でもあるのです。またある人は、この箇所は、聖書の歴史観、あるいは歴史哲学などという言葉もありますが、そのような神の民の歴史をどのように解釈するのかの、根本が記されている書物と申します。

私どもキリスト者の歴史、丁寧に申しますと神の民の歴史と言い換えるべきでしょうが、神の民の歴史を救いの歴史と申します。救いの歴史とは、神ご自身がその民に関わられた歴史です。そして、それを一言で申しますと、神は、ご自身が永遠の熟慮をもって始められた御業を、その御計画にもとづいて、狂いなく、成し遂げたもうということです。神の御業は、必ず、御心どおりに完成するということです。

パウロが一生懸命、この箇所で語っていることは、もとより、イスラエルの問題、イスラエルの救いの問題でした。我々のような異邦人にとっては、何か別のお話のように聞こえてしまいます。パウロ先生のように熱中できない、遠い話のように聴き取られかねないのです。確かに使徒パウロ自身がイスラエル、ユダヤ人ですからです。熱中するのは、よく分かります。しかし、問題の本質はそのようなことではなかったのです。問題の根本は、「神さまの御業には、狂いも出る、予想外のことが起こって、神さまもまた、その予想外の事件に翻弄されてしまうのか」そのような信仰者の疑い、問いに対して、断然はっきりと、答えるべきことにあるのです。

先週、最初に聴いた御言葉はこうでした。1節、「神は、ご自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。」
神は、イスラエルに偶像の神バアルにひざまずかなかった7000人をご自分のために残されたことが、旧約聖書によって証拠づけられました。そして、旧約の昔だけではなく、今でも、そのように神の選ばれた残りの民、それをレムナントと申しますが、残りの民がいることが、パウロ自身の存在を引っさげるようにして語られたのです。

そして今朝、最初に聴いたのは、11節、「ユダヤ人がつまづいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。」
ユダヤ人は、信仰につまづきました。神を信じること、約束の御言葉を信じることによって、救い主を信じることによって救われるという恵みの契約、約束に踏みとどまらなかったのです。神の御言葉の約束に、信仰に躓いたのです。何という不幸、災いであろうかと思います。最初に申しましたが、この手紙が記された10年足らず後、エルサレムが崩壊しました。もし、読者が、それを目の当たりにしていたら、しかもその読者が、キリスト者となったユダヤ人であれば、何をそこで思うでしょうか。

「ああ、神は、ユダヤ人をついに決定的に退けられたのだ、神さまは、不信仰でかたくななユダヤ人をついにお見捨てになられたのだ。」と考える人が出ることも当然ではないでしょうか。それほど、すさまじい出来事でした。歴史の証言は、その後ユダヤ人は、1900年近く、国土を失ったままとなったのです。

しかし神は、彼らを決して退けられたのではなかったのだ、ないのだと使徒パウロは、エルサレム崩壊の前にこの手紙を記しているのです。この手紙を読んだ多くの人々は、神の刑罰、怒りとしてのエルサレム崩壊を知っているのです。何よりも、主イエスの預言の御言葉、ルカによる福音書第19章の言葉も知っていたと思います。「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、 お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。」

さらに、第21章でも、このようにエルサレム滅亡が予告されました。「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」

歴史のなかで、主イエスのこの予告が70年に起こったのです。主イエスは、そのようなことが起こらないようにと、そのために、イスラエルが悔い改めるようにと、前もって警告されました。涙を流してイスラエルの悲劇を、訴えたのです。しかし、その40年後に、神の刑罰は、イスラエルに、その都エルサレムに下ったのです。そうであれば、ここでの「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。」というパウロの言葉は、さらに強烈に迫るはずです。

しかし、パウロは、確かにこの手紙を書いている時点ではこの悲劇を知らないのです。しかし知った後でも、彼は、こうはっきり宣言したはずです。「決してそうではない。」これまで、四回もこのような激しい言い方を重ねてまいりました。そして、ついにこれが、最後です。ついにここで決着をつけるのです。使徒パウロは、信仰の問いをあやふやのまま済ませないのです。どうしても知りたいこと、知らなければならないことを、あいまいにしておかないことが、はっきり分かったかと思います。そして、この手紙を読むキリスト者、教会の責任は、ここでのパウロのメッセージに心からアーメンと応答することでしょう。そうでなければ、これを読み終えることはできないのだと思います。9章、10章そして11章まで読んで、第12章に入れないのです。

パウロは、ユダヤ人の罪が、確かに彼らへの神の刑罰を招いたことは認めます。そして、使徒パウロは、その罪の事実とその恐ろしさを、決して軽く見ていません。これは、極めて大切なことです。なぜなら、古い神の民の落とし穴はまさにそこにあったからです。つまり、自分たちは、どこまでも神に選ばれた民である、そのような民を神が見捨てられたり、滅ぼしたりなさるはずがない、しかも、自分たちは、熱心に会堂で聖書の教えを聴き、その掟を守り、そのようにして、熱心に神に仕えているのである。その熱心さによって、イエスを十字架で殺したのだし、キリスト者や教会を迫害している。そのような神に熱心な民が神に見捨てられるはずがないと、そう考えていたのです。自分たちの小さな罪、失敗を神さまは、大目に見てくださると高をくくっていたのです。ですから、彼らの罪認識は、弱いのです。頭の中では、自分たちは、人間であるから神の御前に罪深い人間であると認め、考えていたはずです。しかし、その罪認識は、結局、異邦人などより、はるかにましであって、自分たちは、自分が神の前に罪深い人間であることを自覚している点、良識派であって、まじめであって、誠実であるなどと考えていたわけです。

しかし、そうなると、ことは、古い神の民の問題、落とし穴だけで済まされないのではないでしょうか
私どもキリスト者こそ、今、このような実に、いい加減な、不真面目な、軽い罪認識で生きている、むしろ、罪に対してルーズな感覚を持つこともあるのではないかと恐れます。福音の恵みを軽んじて、イエスさまに謝れば、罪はすぐに帳消しになるから、などと甘えた思いで生活するなら、それこそ、古いイスラエルが神の刑罰を受けたこととまったく同じ落とし穴にはまることです。

使徒パウロは、ユダヤ人の罪の恐ろしさを、重さを厳しく追求したのです。第2章で、それは厳しく、ユダヤ人の罪を糾弾しました。「あなたは、他人を教えながら、自分には教えないのですか。盗むなと説きながら、盗むのですか。姦淫するなといいながら、姦淫するのですか」

しかし今、使徒パウロは、言います。彼らが罪を犯したからこそ、なんと、異邦人に神の御言葉、主イエス・キリストの福音がもたらされることになっている。もし、イスラエルが信仰によって正しく神に従っていたら、異邦人に救いが及ばなかったのであると言うのです。ここに、使徒パウロは、神の驚くべき御心と恵みを見るのです。そして、私どもは、異邦人として、ただただ、もう何を言うこともできません。ユダヤ人が罪を犯してくれて感謝するなどということは言えません。神の御心を踏みにじった、反抗した民なのです。しかし、彼らが、その不信仰によってキリストを拒絶したからこそ、今では、使徒パウロを通して、キリストの福音、新約の恵みにあふれるほどあずかっているのです。それは、ただ、まさに神にのみ感謝と栄光を帰するしかありません。神の計り知れない御計画を賛美する以外にないのです。

これは、まさに、賛美する以外にありません。使徒パウロは、ここで説明をしているわけではないのです。
ある説教者は、ここで使徒パウロは、神のご計画に感動して、詩を歌っているのだと言いました。なるほどと思いました。若者たちの間では、ラップという音楽が流行していますが、使徒パウロはまるでここでラッパーです。ここでの罪、そして失敗、皆救いにあずかる―これは、直訳ではなく意訳なのですが、この罪、失敗、満たすという言葉は、韻を踏んでいます。パラプトーマ、ヘッテーマ、プレローマ。神の恵みと御計画の偉大さを、ただ感動しているのです。33節に、「ああ」という言葉、いへ、声が発せられます。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。」まさに、この9章から11章までの結論、最後の感慨、感想なのです。

この神の民の救いの歴史を記す重要な聖句ですから、事柄に即して理解すべきことは当然です。古い神の民、ユダヤ人の失敗が、異邦人である我々、私どもキリスト者の富、計り知れない富となりました。そこに、歴史の支配者なる神の御業と御心を私どもは認めることができるのです。

そしてこの大きな神の民の歴史は、小さな、極めて小さな歴史、つまり、キリスト者であるわたし、皆さん一人ひとりの人生のなかにそれを読むことは、許されないのでしょうか。いへ、むしろ、この御言葉の中に、実に驚くしかないような不思議な神秘が言い表されているのではないでしょうか。

つまり、失敗の恵みということです。失敗の恵みと言う言葉は、おかしな言葉で、聞いたことがありません。しかし、通俗的な言葉ですが、「失敗は成功の母」ということわざは、どなたも聞いたことがあるのではないでしょうか。失敗してもそこから反省してやり直せば、成功を生み出すことができる。成功の母、成功の元です。もちろん、この御言葉はそのような人生の知恵を語っているわけではありません。ただ、このような人生の知恵は、信仰のあるなしに関わらず、まさに人間の知恵、人生経験にもとづくものですから、説得力があります。正しいことが少なくありません。

しかし、小さな失敗であれば、成功の母と、言って、笑って再挑戦できるかもしれません。しかし、事が大きくなったとき、簡単に「失敗は成功の母」と言えるでしょうか。

失敗ということは、さまざまあるでしょう。小さなものから大きなものまであるでしょう。それなら、人生そのものの失敗とは何でしょうか。それは、神との関係を失うということです。信仰がないということです。罪人のままであり続けるということです。神の御前に罪を赦されないままであり続けるということです。それは、取り返しのつかない、究極の失敗です。しかし、考えて見ますと、私どもの人生、生活は、すぐる一週間を振り返っただけでも、失敗のない日々であったかと言えば、いかがでしょうか。私どもは思いにおいて、言葉において、行いにおいて神に罪を犯し、隣人との関係を損なったのではないでしょうか。しかし、私どもは、それを罪として、失敗として認めることができるのです。そこに神の民の幸いがあります。もしも、キリスト者が、その信仰生活において、神を信じているのだから失敗することは許されないと考えて生きるのであれば、そこで、偽善的になるのではないでしょうか。あるいは、自分の罪を過小評価することが起こるのではないでしょうか。先ほども、触れましたが、イエスさまにごめんなさいと言えばすぐ、赦されるという程度の罪認識を持つことが、大きな落とし穴、誘惑なのです。

私どもは、自分が罪人であり、罪を犯し、失敗しながら、一歩一歩進んでいることを知るのです。しかし、その罪を、心から憎み、自分の犯す罪と失敗を心から悲しみ、そのようにして生きるとき、私どもは、そこで、このような壮大な神の救いの歴史のなかに生かされていることを体験し始めるのです。大きな富となる。私は、自分がどれほど、神に反抗し、救いを軽んじてきたか、未信者の時代が長いのです。また、キリスト者になっても、まっすぐ、順調に、何の壁にもぶつからずに進んできたのでは、まったくありません。むしろ、何度も、挫折を味わい、苦しみのときを過ごして来たことも少なくありません。しかし、その信仰の罪と失敗のなかで、神の恵みが常に勝利し、神の約束がまさにそこに及ぶことを味わってきたのです。しかしそれには、失敗を失敗、罪を罪と認め悲しむことが条件です。そして、神の御名、栄光の故に、信じる私を神よ、助けてください。あなたの故に、約束の故に、聖書の故に、私を救い、立たせ、用いてくださいと祈るのです。そうであれば、私ども個人の罪と失敗の経験も、神の御手のなかで、隣人の救いとなる。誰かの祝福となる、そのような不思議なことが起こる、神が起してくださるのです。

そして、神は、隣人を祝福するだけではなく、実に、本人であるこの私をも救ってくださるのです。特に牧師というのは、そのような経験を重ねる務めなのではないかと思います。わたしの個人的な経験を、ここで長く語ることはできません。しかし、その経験から、確信するのです。神は、必ず、神の民をお救いくださるのだということです。

しかも、パウロはそこで止まりません。異邦人が救われることを良しとされるのは、ユダヤ人が、彼らにねたみを起させる為であると、すでに学びました、モーセの言葉を引用して、この御言葉の成就とするのです。ねたみを起させるという言葉を、別の翻訳では、「発奮させる」と訳します。

異邦人という罪人が、イエス・キリストの恵みを受け、主イエス・キリストを信じる信仰によって義とされ、神の子とされている事実を、古い神の民ユダヤ人が、隣で見るのです。そこで、彼らは自ら問うことになるのです。「何故、彼らが拾われ、何故、もともと選ばれているはずの自分たちが捨てられているのか、何故彼らが、恵みの神を賛美し、自分たち以上に、神に熱心になり、神を愛しているのか、本来、自分たちこそが、神の律法を与えられ、救いの契約を与えられ、選ばれていたはずではないか。」そこに発奮が起こるのです。こんなことではいけない。自分たちこそ、真の神を正しく信じなければならない。正しく服従しなければならない。そのように信仰へと発奮するのです。自分の本当の姿を再発見するからです。

そして、ついに、彼らユダヤ人の罪と信仰の失敗、信仰の挫折、信仰の躓きが、異邦人である我々を救いに導き、しかも何よりもそれで終わってしまうのではなく、神がもともと定めておられた古い神の民もまた、選びの民は、全員救われるのです。そうなれば、異邦人の富はどれほどになるのでしょうと、パウロは言うのです。「どんなにかすばらしいことか」とは、もともとの言葉には書かれていませんから、補足された言葉です。異邦人の富は、どれほど多くなるのか、パウロは、異邦人の使徒として、異邦人の幸いを告げるのです。

「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」
第8章で学んだ御言葉です。そこでも、人間の知恵、「災い転じて福となす」というようなこととはまったく違うのです。人間が介入して、人間の力で万事を益にするなどということは聖書がまったくあずかり知らない世界です。聖書は、言います。神のご計画は、神の御言葉は、人間の思いをはるかに越えて、進められる。ご自身の栄光のために世界は完成され、人間は、選びの民は、救われるのです。そして、キリスト者とは、それを聖書によって知らされている故に、盲目的に生きるのでも、諦め半分で生きるのでも、運が良くなるように願うのでも、やれるだけやって後は神さまに任せるというのでもないのです。私どもは、自分たちの失敗や罪にも関わらず、ご自身の救いのご計画を最後まで責任をもって完成してくださると信じるのです。そして、信じる故に、信じるから、投げやりではなく、また、できるところまでするというのでもなく、最初から最後まで、神により頼み、神に祈り、神と共に、働くのです。最初から最後まで働くのです。足りないところを、補っていただくのではありません。最初から最後まで、神により頼み、全力を注いで励むのです。それが、歴史の支配者なる神を信じるキリスト者の姿勢です。

「決してそうではない。」パウロが繰り返し、否定した言葉は、神の真実を主張する言葉でした。神の真実は、貫かれるのです。それを妨げられるものは、宇宙のどこにもないのです。人間のいかなる罪と失敗にかも関わらずにです。この地球上で犯される罪は、いよいよ増幅しています。先週も、新しくある国が、爆弾を作ったとのことです。核爆発によらない破壊力では、最大のものであって、爆弾の父と命名されたそうです。地球環境に優しい爆弾とでも言うのでしょうか。もとより、いかなる理由であっても、そのような爆弾が投下されてはならないはずです。しかし、既にこの地球上には、そのような爆弾にはるかに強力な核兵器に満ちているのです。そこで、私どもはなお生きる。それには、まさに信仰が必要です。聖書に証されている神がおられるから、私どもは生きるのです。したたかな希望をもって、神の歴史支配に、自ら参与するように、積極的に生きるのです。

そこで、自分の罪と失敗をおそれ、それと戦います。しかし、それを隠しだて、それを打ち消して、うやむやにしてやり過ごしません。神が裁かれることを知っています。ですから、罪を犯した、神の御前に失敗したときには、直ちに罪を認め、真実に悔い改め、真剣に赦しを求めるのです。そのようにして、このような弱く小さな信仰者であっても、たとい躓き倒れながらの拙い、たどたどしい歩みであっても、私どもは、神に選ばれたことを確信し、その幸いと光栄、その使命と責任を自覚させていただくのです。今週も、神を愛する者とともに働いて、万事を益としてくださる全能の父なる神と主イエス・キリストと共に天国を目指して歩んで行くのです。そのような神のイスラエルの上に、平和と憐れみが豊かにありますように。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、旧約聖書の民、古い神の民イスラエルは、その罪と失敗の故に、あなたの激しい裁きを受けました。その目に見えるしるしが、エルサレム神殿の崩壊でした。誰もが、もはや、イスラエルは神に退けられ絶たれてしまった、倒れてしまったと考えてもおかしくない、徹底的な破滅のときを迎えました。しかし、あなたは使徒パウロを通し、決してそうではないと、彼らは罪の刑罰を受けたのではあっても、しかしそれが、異邦人の救いをもたらし、遂には、彼らも救われることを約束されたのです。人間の思いをはるかに越えて進まれる御自身の御計画を、心から賛美いたします。そして、感謝申し上げます。そうであれば、御父、私どももしばしば罪を犯し、失敗してまいりました。しかし、今日なお、あなたの恵みと幸いを受けています。どうぞ、いよいよ謙り、いよいよ従順にあなたを恐れ敬い、そして、あなたの勝利を信じ、あなたによって隣人の益と変えられ、私どもの救いとなることを信じて罪を悔い改め、罪と戦って歩む道のりを祝福してください。アーメン。