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「弟子の足を洗われる主」

「弟子の足を洗われる主」
2007年10月14日
テキスト ヨハネによる福音書 第13章1-17節

「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。 」

 本日は、午後に私どもの教会の今年度の教会全体研修会を開催いたします。一年に一度の特別の集会となります。そのために、今朝は、ローマの信徒への手紙の講解説教ではなく、この日の研修会の言わば、開会の礼拝という意味を持たせるために、主題説教をすることといたしました。

昨年は、「教会のディアコニア」という主題を掲げました。私どもは、横文字を使うことは、なるべき避けるようにしてまいりました。しかし、このディアコニアという横文字は、特例です。これは、訳せば、奉仕というようになります。しかし、ただ奉仕と訳すと、ディアコニアという事柄を収めきることができない、小さな枠の中に閉じ込めてしまうような思いにかられてしまいます。あえてディアコニアという、聖書に記されているギリシャ語そのままの言葉を用いてまいりました。

 私どもは、昨年の年間の主題を「教会のディアコニア元年」としました。実は、ディアコニアを集中的に学ぶ必要があるということは、開拓伝道を開始して10年を越え、この地に教会堂を献堂させていただいたことによって、いよいよ覚えさせられてまいりました。教会の一つの転機を迎えているという意識がありました。それは、開拓時代の牧師やあるいは牧師夫妻が、教会のあらゆる必要や奉仕に関わるという状況から脱皮して行きつつあったからでした。もとより、教会の内側の奉仕についても、今なお、私どもは充実すべきその途上にあるということは、ことさら指摘するまでもありません。しかし、ただ教会の内側の奉仕についてだけ、奉仕者を募り、言わば教会を固めて行くように集中して取り組むと、ついには、私どもが最もおそれる自己中心的教会、自分たちだけのことを考える教会へと、いつのまにか足元をさらわれるのではないかという、思いがありました。

 そこで、私どもは、昨年、「教会のディアコニア元年」という主題を掲げて歩みました。昨年の研修会そして改めて、皆さんと気づいたことがあったのです。それは、聖書を読めば読むほど、そこには、ディアコニアの思想、ディアコニアの実践が記されているということでした。私どもの生き方そのものを問うことになったわけです。私どもキリスト者、そして教会とは、徹底して神と隣人を愛し、神と隣人への奉仕に生きることに他ならないという、当たり前のことを確認することができたのです。また、これまでの私どもの開拓伝道の志は、結局、ディアコニアを目指したものであるということであったということも思わされました。そのようにして、この道へと召しだされたお互いが、一歩一歩、ディアコニアの志を深められること、そして一人ひとりが遣わされた場所場所で、キリストの証人、キリストの弟子としてのあり方、生き方を深めて、善き生活をもって福音を飾ることを求めたのでした。

あれから、一年、経ちました。私どもは、この一年、教会としての地域社会へのディアコニアの実践を始めているわけではありません。その道をなお、模索し、祈っているのです。しかも、教会の状況は今、教会内部の奉仕という点でも、大きな変化を強いられています。なお、弱さを覚えている状況があります。もしかすると、私ども自身の心の中に、小さな、自給することもできない開拓教会が、外に出て行くディアコニアなど、もっともっと教会の財政基盤や人材が増えてから、考えるべきではないかという、間違って、まさに間違った、聖書からの発想ではない発想に捉えられやすい危険性があるかもしれません。牧師である私自身の誘惑でもあるのです。しかし、このような今だからこそ、改めて教会のディアコニアを学ぶことが、私どもに必要なのです。そして、本日、この集会を開くことができますことを心から感謝いたします。

さて、本日は、ヨハネによる福音書が記す、主イエスが弟子たちの足を洗われた物語を学びます。主イエスが弟子たちの足を洗い始められたのは、ヨハネによれば、過ぎ越しの夕食を祝う前夜のことです。つまり、十字架につけられる日の二日前のことです。まさに、地上における主イエスのお働きが、ついにその究極の目標に向かって完成されようとする直前のことです。十字架につけられる時、復活して、父の御許に昇るときのことです。それこそが、「この世から父のもとへ移る御自分の時」に他なりません。そのような、地上において弟子たちと共に過ごせる残りわずかの日々に、主イエスは、弟子たちのことを「この上なく」愛し抜かれました。例えば、他の翻訳では「極みまで」愛された。「残るところなく」愛された。「最後まで」愛された。いくつもの訳があります。愛するという内容のことか、あるいは時間のことなのか分かれます。しかし、もともとの言葉は二つの意味を併せ持ちますので、様々な翻訳が可能なのです。いずれにしろ、主イエスは、これまでも弟子たちを愛されました。その愛を最後の最後まで保たれたのです。愛を貫いたのです。極みまで愛する、それは、時間のことでもあり、愛の内容のことでもあるのです。

この短い言葉は、第13章から21章までの、つまり、主の十字架と復活の物語全体の序文として読まれるべきであるかと思います。しかし、やはりまた、この上ない愛をもって、この上なく愛し抜かれた主イエスがなさったことは、食事の席を立ち上がって、弟子たちの足を洗われる出来事でした。

主イエスはその夜、上着を脱いで、手ぬぐいをとって腰にまとわれました。それからたらいに水を汲んで来られました。そのとき、弟子たちは、いったい何が始まるのか、ほとんど見当もつかなかったのだと思います。すると、主イエスは、弟子たちの足を洗い始め、手ぬぐいで拭き始めてゆかれました。これは、考えられない出来事でした。洋の東西を問わず、教師や師匠が、弟子の足を洗うなどということはありえないことでしょう。何よりも、ユダヤ人にとって、他人の足を洗うということは、まさにありえないこと、決して考えられないことでした。彼らは、外から家に戻るとき、手を洗います。今なら、当たり前の衛生観念でしょう。しかし、彼らは、古から、そうしてきたのです。それは、単に衛生上の問題だけではなく、宗教的な意味がありました。異邦人や汚れたものとの接触があれば、それから清められるようにという理由があったのです。そのような伝統に生きる彼らにすれば、他人の足を洗うなどと言う行為は、およそ奴隷の行為であって、ユダヤ人には、決してそのようなことを強いることは考えられなかったと思います。そのような状況にもかかわらず、なんと、イエスさまご自身が、奴隷のようになって弟子たちの足を洗われるのです。神の御子が今や、奴隷の姿となって、弟子たちより頭を低くして、もくもくと足を洗っておられるのです。

さて、主イエスは、弟子の中でもその筆頭弟子であると自負していたペトロのところに来ます。そこで、ペトロは、言います。「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」「わたしの足など、決して洗わないでください」彼は、今、他の弟子たちに、一種の皮肉のような思いを込めたのでしょう。「他の弟子たちは、あなたさまに、足をあらわせるような不届き者ですが、この私はそのような高慢な者ではありません。謙遜の美徳、謙遜な人間としての品格を備えています。」しかし、ここでこそ、言わば、この主イエスの御業が、一般常識のような、世間の常識としての謙遜などという美徳とは無縁のものであることに気づくべきなのです。多くの人は、ここでの主イエスの行為を、謙遜の美徳として理解し、イエスさまはよくできた方、やはり、本当の、正真正銘の人格者であるという次元で解釈して、理解したつもりになるのです。しかし、この物語こそ、そのようなお手軽な聖書への理解や接し方を拒絶するのです。確かに私どもの主イエスは、全員の足を洗い上げたところで、言わばその行為の意味と結論としてこのようにお語りになられました。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」

ここにこの行為が、キリストの弟子つまりキリストを信じる者たちの模範として示されています。しかし、それは、きちんと分けて考えるべきです。この主イエスのただ一度限り弟子たちの足を洗われた行為の固有の意味についてです。それは、たた一度限り、行われました。そしてそれは、主イエスが、なさったこの行為が後で分かる、後でとはいつのことなのでしょうか。それは、十字架と復活の出来事の後です。つまり、すぐに分かるのです。それなら、分かったとき、いったい弟子たちには何が分かったのでしょうか。それこそは、十字架の意味です。

ヨハネによる福音書は、主イエスが上着を「脱いだ」「脱ぐ」という言葉に、特別の意味を持たせています。そこでは、「捨てる」(ステーミ)と言う言葉を用いています。ヨハネは、既に10章11節で、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」という主イエスの言葉をはっきりと思い出しているのです。主イエスは私どもを御自身の羊、羊の群れとしてみてくださり、そればかりか、その羊の命を救うために、御自身の命、永遠の命を捨てるとすら仰ったのであります。その捨てるという行為が、衣を「脱ぐ」という言葉の表現なのです。ですから、そこでは単に衣を脱ぎ捨てるのではなく、御自身の命を捨てることが示されているのです。御自身が神の御子の立場をお捨てになられることです。お捨てになってしまわれて父なる神の御前に、罪人、全くの罪人として立たれるという意味が込められているのです。

その意味で、主イエスの十字架の御業は、私どもにとって、単なる模範などでは決してありません。十字架につけられたもうたイエスさまを、模範として生きることが、私どももまた誰かに十字架につけられるような生き方をするということを意味したり、奨励しているわけではありません。主イエスの十字架の意味は、私どもの罪を償うための身代わりの死なのです。私どもを罪の世界に売られて奴隷とされ、罪と死とその恐怖の奴隷とされていた者を、ご自分の命という代価を支払って買い取ってくださった、買い戻してくださった、あがなってくださった行為なのです。ですから、イエスさま以外に誰一人として、あの十字架の御業を担うことのできる人間はいません。ですから、私どもは、主イエスを、そしてその救いの御業を信じるだけしかできません。そして信じるだけで、救われる、罪赦されるのです。これが、聖書のメッセージであり、救いの福音です。

そしてこの十字架を信じた人とは、イエスさまによる命がけの愛の行為を受けた人ということを意味します。つまり、十字架の主イエスを信じた人は、みな、この、極みまでの愛、この上ない愛をもって、最後まで愛されているということです。その最後とは、終わりなき最後です。永遠の愛です。確かに歴史的には、イエスさまに足を洗っていただいた幸いな人はこの弟子たちです。しかし、主イエスのあの十字架が、この私どものためであったことを知るなら、一体誰が、自分は、イエスさまに足を洗っていただいたことがない人間ですと言い張ることができるでしょうか。私どもは、このイエスさまに足を洗っていただいた人間なのです。

しかもただ一度ではありません。私どもが主イエスを礼拝するとき、この主日礼拝式で、私どもは、主イエス・キリストを崇め、そのようにして父なる神を拝んでいます。礼拝をささげているのです。しかし、そのときこそ、よく分かることがあります。今まさに、私どもはこの場所で、このときに、イエスさまに仕えていただいているということです。礼拝式こそ、実は、神の人間への奉仕であることが分かるのです。もしも、万一、主イエスが預言者として語り続け、祭司として執り成し祈り続け、王として教会を支配していてくださらなければ、いったいどうして、私どもの教会が、霊と真ととをもってこの礼拝をささげることができるでしょうか。

先週は、聖餐の礼典を祝いました。先週の聖餐の祝いにおいて、主イエスが獲得された祝福のすべてが、パンとぶどうジュースとに込められて、皆さんのところにまで運ばれました。そして私どもはそれを信仰によって受けたのです。そこでも、主イエスが私どもを、もてなしてくださったことです。主イエスの愛と、その命、その全存在をもっての「おもてなし」を受けたのです。聖餐の食卓の主人は、まさにイエスさまです。私どもはその客となって、恵みをふるまわれ、もてなされたのです。主イエスの私どもはまた、説教によって、神の御言葉を聴き、命の糧、霊の食べ物を豊かに頂いています。これもまた、徹底して神の、聖霊なる神のおもてなしです。そのようにされて、私どもは、初めて自分の尊厳、自分の価値、自分の大切さに目が開かれてゆくのです。

主なる神であり、教師であられるイエスさまにもてなされることによって、主イエスは、自ら率先して、私どもと真実のかかわりをもってくださるのです。主イエスとの、かかわり、つまり交わりを作り出してくださったのです。私どもは、このような主イエスのお働きかけにあずかって、ただその故にだけ、キリスト者とされたのです。キリストの弟子にしていただいたのです。

さて、それなら、主イエスが、足を洗い終わったところで、仰せになられたみ言葉はどのような意味を私どもに持つのでしょうか。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」ここでの模範とは、どのような意味なのでしょうか。

そこに、教会とはどのような民の集いであるかが、鮮やかに映し出されます。それは、第一に、イエスさまに命をかけてもてなされた者たち、奉仕された者たち、給仕された者たちの集いであるということです。神の御子が、当時の奴隷の仕事を自ら、私どもにためにしてくださったのです。私どもは、その給仕を受けて者たちであるということです。

そしてその奴隷、僕となってくださった王なる主、人間の真の教師であられるイエスさまが身を乗り出すようにして、わたしを模範としなさいとお命じになられるのです。まさにイエスさまがそうなさったのですから、そのように尾命じになられることは、当然のことと言わなければならないでしょう。私どもにはもはや、逃げ道がないのです。主イエスに足を洗っていただいたキリスト者、身代わりに死んでいただいた者たちは、自分もまた、この奉仕、この給仕、この奴隷としての働きに参加する以外に、別の道がないのです。それが、ディアコニアです。私どもの生き方、あり方は、主イエスが私どもに仕えてくださった限り、この世の人たちが持ち上げる事柄ではなく、むしろその反対の生き方へと召され行くことです。仕える人生、奉仕する人生へと方向付けられるのです。

渡辺信夫牧師がこのテキストで説教したなかで、このようなことを語られました。「謙遜とは平たく言うならば、キリストにあって辱めを忍ぶこと、キリストのために苦しむことであると捉えれば良い。 」つまり、ここで主イエスが示された真実の謙遜とは、この世の知恵、処世術や、徳の高い人格、品格のある人柄とは違うということです。その区別をはっきりさせるための線は、主イエスのために苦しむことを担うこととするのです。まさにその通りでありましょう。キリスト者の謙遜とは、自分の十字架を負って、主イエスにお従いすることなのです。

主イエスは、ここで、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と仰せになられました。もしも、キリスト者が主イエスに従う歩みにおいて、自分の人生における意味や自分の生活にふりかかってくる様々な課題の価値などについて、そのときには分からないということは、少なくありません。いへ、むしろ、私どもの人生とは、その多くが、そのような側面を持っているのではないでしょうか。しかしそこでこそ、主イエスの模範に倣うということは、後で分かるようにしていただけることを信じ、それをもって足れりとして、主のお命じになられる、ディアコニアの道へと進み行くことであります。

最後に、主イエスがその身をもって模範を示されたこのディアコニアは、ここではどのような目標を持っているのかを知りたいのです。それが教会のディアコニアの核、要となるからです。言わば、一般の福祉団体や福祉施設が担う社会福祉との質の違いがそこに現れると思います。

主イエスは、ここでこう仰せになっておられます。「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」主イエスは、「あなた方も」と仰せになられます。足を洗う奉仕それは、その人のもっとも弱い部分、汚い部分、乏しい部分でもありましょう。それを、先ず、教会のなかで、お互いに始めることなのです。そこからしか始まらないと言っても良いかもしれません。教会のディアコニアが先ず、主イエス・キリスト御自身の命がけのディアコニアを受けて始まるように、先ずお互いに仕えあうことから始めるのです。そして、それは何のためなのでしょうか。それを間違えたら、最初に申しました、過ちを犯すでしょう。

この後、ヨハネによる福音書が主イエスの命令、教えとして何度も記す言葉があります。ヨハネの手紙もまたこれと同じことを、何度でも飽きることなく記しています。教会の倫理の頂点、基礎となる命令であります。主イエスの最大の命令であります。13章34節以下にあります。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

実に、互いに愛し合うという命令に生きることの、一つの象徴的な振る舞いが洗足であったのです。主イエスこそ、互いに愛し合うその掟をまさに率先してくださったのです。そして、互いに愛し合うとき、それは、私どもがキリストの弟子であるということを、この世の人々に知られるために他ならないのであります。私どもがキリストの教会、神の民であることを、この世が知るため、そのようにして神が、イエス・キリストにおいて私どもに奉仕されたこと、給仕されたこと、罪によって汚れた足、その足で歩んだ人生を洗われたこと、罪を尻拭いしてくださり、贖ってくださったことをこの世に証するディアコニアなのです。そうであれば、このディアコニアは、たとい一人がそこに仕えているのであっても、それは、一人きりのものではなく、教会のディアコニアになります。教会の交わりによって支えられ、学び取り、実践し、そのようにして、教会の中へ、外へと召しだされて行くのです。それは、キリストの愛を証しし、キリストの支配を証言し、神の国の到来を、その接近を鮮やかに証する奉仕なのです。

現代の国家は、社会福祉の装置として考えられ始めています。現実には、なおほど遠いのですが、しかし、税金によって国民の福祉を担うこととされています。そうであれば、もはや、教会のディアコニアの存在価値、働き場はなくなって来たのでしょうか。違うと思うのです。世界は今こそ、教会のディアコニアを必要としているのではないでしょうか。何故、そう申し上げるかと言えば、世界は、今こそ、神が、主イエス・キリストの父なる神が、生きておられ、支配しておられ、今も、私どもの足を洗ってくださる愛のおもてなしを続けていてくださることを知りたがっているのです。それなくして世界の、人間の希望はないからです。わたしども神の民教会は、その希望を先取りしています。わたしどもは、かつてそうされたということに留まらず、まさに今、完全に人間に仕え貫いた主、この上なく愛しぬかれた主イエス・キリストの奉仕にあずかっているのです。この礼拝式の祝福、神の奉仕、主イエスの僕としての人間への奉仕、おもてなしを受けているのです。私どもは、今ここで、そして繰り返し、足を洗っていただいているのです。罪を赦され、そして日々、悔い改めに導かれて、そのようにして主イエスに清めていただいて、天国への旅路を行くのです。私どもの地上の歩みとは、主イエスに洗っていただいた、その足で歩む旅路に他なりません。ですから、私どももまた、この洗っていただいた足をもって、主イエスの模範に倣って進み行くのです。それが、教会のディアコニアの出発点、原点となるのです。

祈祷
私どもの足は、主であり師であられる主イエス・キリストに洗っていただきました。私どもは、御子なる神の命を懸けた愛によって救われました。そして今もなお、その愛をもって、私どもはもてなされています。どうぞ、そのもてなしにいよいよ深くあずからせてください。そして、私どもが主イエスを模範とし、命じられたように互いに仕えあい、祈りあい、配慮しあう交わりの姿をもって、この世界に、あなたの愛の支配、奉仕がなされていることを、大胆に見せることができますように。そのような使命を果たすことのできる教会として、私どもを御前に整えてください。アーメン。