過去の投稿2008年1月4日

12月30日

☆  本日は、本年最後の主日礼拝式でした。一年、52回の礼拝式を振り返り、毎週、毎週、これまでで最善、最高の礼拝式を捧げられるようにと祈り続けてまいりました。礼拝式前の準備祈祷のとき、いつもそのような心で祈ります。牧師としては、その説教がもっとも問われます。少なくともそのような祈りと志だけは、保持し、堅持して生きてまいりました。そして、主の支えが確実にあったのです。それは、わたしが願うことよりはるかに勝って、御言葉の主御自身が求めておられます。神の要求なのです。そこに、私どもの務めの険しさがあります。しかし、なお許されて、神が用いてくださることを素直に感謝いたします。また、皆様の祈りに感謝いたします。

★  私どもの教会は、宗教改革の伝統を堅持し、継承することを基本中の基本としてまいりました。簡単に申しますと、説教と聖礼典を徹底して重んじるということです。説教が正しく語られ、正しく聴かれる教会となるなら、私どもの教会は、神の教会であり続けることができます。先週のクリスマス説教でも、説教が「分かる」ことが神との交わり、救いであることを申しました。それをなお、    真剣に求めてまいりましょう。第一には、私自身が、御言葉を知り、これに生きることです。そして、皆様も、御言葉を聴き、これに生きることです。御言葉が育て、築く教会になること、これが、私どもの基本姿勢です。神の言葉が、そしてみことばだけが信仰者の「新しい年」をつくるのです。

☆  先週は、愛餐会でお腹を満たしすぎたせいか、午後、体調を悪くし、苦しみました。「明日の燭火礼拝式・・・」案じました。すでに、 ○○神学生が出席されると聞いて、急遽、証しを依頼し、快諾されましたが、さらに便乗して、説教も・・・などとも考えました。翌日には、復調し、キャロリングにも参加できました。証しを聞きながら、私自身が献身して、伝道者の真似事のように、教会で奉仕した経験を思い返しました。伝道者の光栄、それは、「神のみ業を目の前で見ることができる。」その通りです。今年もカードを下さったひとりの牧師は、すでに70代で開拓伝道に大きな実りを挙げておられます。その方の救いの瞬間に立ち会ったのは、三年生の夏期伝道のときでした。当時のわたしの祈りは、「卒業までに全年齢層の方を信仰へ、救いへ導かせてください。」というものでした。まさに神の御業です。いへ、昔ばなしなどよいのです。私どもの教会において、主の日のたびごとにそれは起こるのです。私どもは霊的な目を鮮明にして見ましょう。またそのような教会に働く聖霊の御業は、祈祷会で、皆で心を合わせて祈るときにこそ、分かるのです。この醍醐味!!に、新年も全員が深くあずかっていただきたいと、切に祈ります。○○神学生には、「証し」を依頼しましたが、説教者の「卵」は、やはり御言葉の解き明かしをしたくなるのでしょう・・・。最後の半年、神学生としての学びと霊的な修練が深められることを祈ります。牧師不足が深刻化しています。しかし、本当に不足しているのは、神に召され、その召しに忠誠を尽くす器です。これからの歩みに、私どもも大きな関心、祈りを注いでまいりましょう。

☆  何年前になるでしょうか。かつて朝の祈祷会で、子育て、教育についての読書会を行いました。教会は、信仰の教育を施す場所です。そしてそれは当然、人間の全人格、「統体」としての人間の教育、成長を目指します。しかしながら、教会の集会の中心は、教理教育になります。当然のことです。しかし、本日の説教で学びますが、信仰の成長は、人間の成熟へと結実するものです。その筋道のなかに、「教理だけ」ではなく、広く深い教養を身につけることも不可欠です。信仰は、神を対象としますが、神は全被造物の造り主です。わたしたちの慣れ親しんでいる言葉で言えば、「有神論的人生観」の確立です。ちなみに、婚約されたお二人から、結婚準備のための学びを求められました。これも、人間としての基本的な学びの道でしょう。今の子どもたちは、我々の子どもの時代とおかれた環境が激変しています。どのように子どもたちを「しつけ」るのか・・・。教科書はないのかもしれません。しかし、御言葉に照らして、そのふさわしい「適応」の仕方と「技術」を学び、磨くこと。しかも共同でするなら、成果は小さくないと思います。(現実的に可能かどうかは不明ですが・・・)

★  年末に○○伝道所の、ひとりの長老からお葉書を頂きました。降誕祭の礼拝式に三名の新来者が与えられたとのこと。そのひとりは、私が紹介した学生であったとのこと。このようなお礼状をいただいたのは、初めてのことです。私どもも、「一人の重さ」になお敏感でありたいと思わされました。